SYUGO.COMカテゴリマップ
ルーゴン・マッカール双書 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 17 18 19 20
特集 書評 講読ノートトップへ データベース

抜粋集 - 第16巻『夢』

「わたしは誰よりも彼よりも増しなんだ、さうよ! わたしの方が上なんだよ、上なんだよ、上なんだよ……わたしは何一つ他人(ひと)のものを盗んだことがないのに、みんながわたしのものを盗んで行つてしまふ……さあ盗んだものをわたしに返して下さい。」
――アンジェリック
(第1章、388ページ)

路地でユベール夫妻に発見され、孤児手帳を取りあげられたときのアンジェリック。言葉は悪くても、すでに高貴な魂がうかがえる。

こんな時、彼女の菫色の眼は更に和やかになり、ブロンドの頭髪(かみ)が幽かに輝く黄金の圓光を冠らしてゐるその長めな楕圓形の顔に、唇が少し綻んだ所から可愛らしい白歯をちらと見せる。背丈は延びたが、痩形といふではなく、頸筋や肩付には相變らず氣高い美しさを見せて、喉の邉がふくよかで、しなやかなその姿、而も快活で、壮健で、無限の魅力を持つた、稀れなる美貌で、そこには無垢の肉と純潔な魂とが咲き誇つてゐるのであつた。
(第2章、407-408ページ)

アンジェリックの容姿。

「幸福つたつて、極く何でもないことなのよ。わたし達は幸福だわ、みんな。で何故でせう? 何故つてわたし達は愛しあつてゐるのですもの。それつきりよ! ちつとも難しいことなんかありはしないぢやないの……。」
――アンジェリック
(第3章、423ページ)

世の中に対するアンジェリックの楽観的な見方。

 アンヂェリックは奇蹟を確信してゐた。さうした無知の状態で、彼女は星が空に輝き、野の菫が花咲く、さまざまな不可思議に囲まれて暮してゐた。世の中は機械みたいなもので、きちんとしたいろんな法則によつて統制されてゐるなぞと思つて見ることは、彼女に取つて狂氣の沙汰だつたのだ。
(第4章、434ページ、「さまざま」は原本では繰り返し記号を用いている)

アンジェリックの夢想。

彼女は心の底で、遺傳的悪の悪鬼の呻く聲を聞いてゐた。生れ故郷にゐたならば、彼女がどう成り果てゝゐたか、誰が知らう? 勿論風儀の悪い娘になつてゐたであらう。だのに彼女はこの祝福された一隅にあつて、季節の移り變るごとに、新しき健康を以て成長しつゝあつたのだ。(中略)彼女は天の恩寵が殉教者たちを武装してゐたやうに、生の闘争に對してはこの環境を以て武装してゐた。さうしてその環境をば、自分ではそれと氣づかずに、自ら創造もしてゐた。
(第4章、435ページ)

本作中、遺伝と環境にかかわる数少ない部分だが、その両者が同時に言及されている点で重要度は高い。ここにも、遺伝的影響を環境が修正しうるという見解が見てとれる。

「白は、何時だつていゝわ、ね? 時によつて、わたしは青や、赤や、一切の色が厭になるの。だのに白は、決して飽きることのない完全な喜びよ。白なら厭味が一寸もなく、誰にでも向くわ……。」
――アンジェリック
(第5章、447ページ)

本作のテーマカラーである白は物語の至るところに登場する。

アンヂェリックの方は、白い薄絹の衣裳を着て来た。さうして、それだけだつた。耳にも手首にも寶石類一つ嵌めず、露はな手、露はな襟首より外は何にもなく、花が咲いたやうに、軽羅(うすもの)から食み出してゐる天鵞絨みたいな肌の外は何にもなかつた。急いで差した、外へ見えてゐない櫛は、太陽のやうなブロンド色をした、環状(わなり)に反りを打つた髪の毛をぞんざいに留めてゐた。彼女は取り繕つたところのない簡素さを持つてゐて、初々しく気高く、星のやうに美しかつた。
(第8章、485ページ)

奇蹟祭に出かけるときのアンジェリックの盛装。

「(……)よしそれが一つの夢に過ぎないとして、わたしが自分の周囲に置いた夢であつて、さうしてそれがわたしの許へ戻つて来てゐるのだとして、それが何でせう! 夢はわたしを救つてくれ、見掛け倒しの世の中にあつて、穢れに染まずにわたしを運び去つてくれます……。おゝ! 我を折つて下さい。わたしのやうに服従して下さい。わたしはあなたに随いて行きたくありません。」
――アンジェリック
(第12章、549ページ)

フェリシアンの駆け落ちの誘いを断るアンジェリック。聖女たちをめぐるアンジェリックの夢想はフェリシアンにとっては一種の夢にすぎないのだが、アンジェリックにとってはそれこそが信仰の支えなのである。

彼女はかくまでに世間知らずといふ鎧で身を固めてゐて、魂も浄白なら、一切が浄白だつたのである。
(第13章、559ページ)

司教猊下が臨終間際のアンジェリックに終油の儀式をする場面。儀式は、罪に汚れた眼、耳、鼻、口、手の五感をひとつずつ清めていくのだが、アンジェリックはそのいずれもが清める必要のないほど潔白なのである。

 フェリシアンはアンヂェリックの手を執つてゐたのであつた。で、彼女の可愛らしげな他の手の中は、清浄無垢な蝋燭が、高々と捧げられてゐた。
(第13章結語、562ページ)

アンジェリックが奇跡的に蘇生する場面。白い部屋の中で、真っ白なベッドの上に起きあがり、白い蝋燭を高々と掲げるアンジェリックの姿はまさに無垢の象徴である。この作品で最も美しい場面であろう。

 フェリシアンは最早非常に甘いさうして非常に優しい、無に近いやうな或る者をしか抱いてゐなかつたのである。すべてがレースと眞珠との飾り窓で出来てゐる、この花嫁の衣裳、それは軽々とした一握の羽にも似て、小鳥のそれの如くに、まだ温りが籠つてゐた。長い前から彼は、自分が或る影法師を把握してゐるものであることを十分に覚つてゐた。眼には見えない世界から来た幻は、眼には見えぬ世界へ帰つて行つたのだ。それは一つの出現に過ぎなかつたのだ。その出現が、一つの幻影を創り出して置いて、消えてしまつたのである。一切が夢に過ぎないのだ。さうして、幸福の頂上で、アンヂェリックは接吻の小さな息吹の中に、消滅してしまつてゐたのであつた。
(第14章、結語、573ページ)

結語。けっきょく、アンジェリックの生涯は夢のようなものだったのだろうか? それとも、この物語自体が夢だったのだろうか? 謎の残る結末である。

ホーム講読ノートルーゴン・マッカール双書第16巻 [ 抜粋集 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。