1840 |
0歳 |
[4月2日]パリのサン=ジョゼフ街に生まれる。父フランソワ・ゾラ(François Zola)はヴェネチア出身の土木技師、母エミリー・オベール(Émilie Aubert)はボース地方出身。二人は1839年に結婚した。 |
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七 月 王 政 |
1841 |
1歳 |
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1842 |
2歳 |
スタンダール没(1783-)。 |
フーリエ(1772-1837)らの社会主義思想、この頃から普及(のちに『ボヌール・デ・ダーム百貨店』などに影響)。 |
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1843 |
3歳 |
ゾラ一家、南仏エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)に移住。 |
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1844 |
4歳 |
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1845 |
5歳 |
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1846 |
6歳 |
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1847 |
7歳 |
[3月27日]父フランソワ、肺炎で急死。残された家族の財政的困窮。 |
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1848 |
8歳 |
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第 二 共 和 政 |
1849 |
9歳 |
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1850 |
10歳 |
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1851 |
11歳 |
[12月]ルイ・ナポレオンのクーデター(のちに『ルーゴン家の繁栄』の題材となる)。 |
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1852 |
12歳 |
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第 二 帝 政 |
1853 |
13歳 |
エクスのブルボン中学(collège Bourbon)六年次に入る。バチスタン・バイユ、ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839-1906)と親交を結ぶ。 |
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1854 |
14歳 |
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1855 |
15歳 |
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1856 |
16歳 |
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1857 |
17歳 |
[11月]祖母フェリシテ死、一家の生活が行きづまる。母エミリー、パリへ発つ。 |
ヨーロッパ経済恐慌。 |
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1858 |
18歳 |
[2月]祖父とともに母を追ってパリへ移る。 |
[3月1日]パリのサン=ルイ高校(lycée Saint-Louis)二年次に編入。文学に熱中する。 |
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1859 |
19歳 |
[8月4日]バカロレア(理科)を受験し、記述を通るも口述で失敗。 |
[11月]マルセイユで再びバカロレアに失敗。学業を放棄して読書と詩作にふけり、ミシュレの恋愛論に傾倒。 |
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1860 |
20歳 |
港湾局(administration des docks)の書記となるも二か月で辞職。 |
長編叙事詩『愛劇』を作る。 |
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1861 |
21歳 |
前年よりボヘミアン生活。住居を転々としながら困窮の生活を続ける。 |
娼婦ベルトとの同棲(のちに『クロードの告白』の土台となる経験)。 |
[4月]上京したセザンヌと再会。 |
フランスのメキシコ出兵。 |
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1862 |
22歳 |
[3月1日]アシェット書店(librairie Hachette)に就職し、発送部、次いで広報部に所属。作家とジャーナリストの世界を知る。 |
[10月31日]フランスに正式帰化。 |
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1863 |
23歳 |
リールの「ルヴュ・デュ・モワ」にいくつかの短編小説を発表。 |
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1864 |
24歳 |
ジャーナリズムにデビュー、複数の新聞に批評・時評を寄せる。 |
[6月]アシェット書店広報部主任となる。 |
[11月]ロマン主義的な処女短編集『ニノンに与えるコント』刊行。 |
第一インターナショナル。 |
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1865 |
25歳 |
のちの妻ガブリエル=アレクサンドリーヌ・メレ(Gabrielle-Alexandrine Meley)と会う。 |
[11月]自伝的傾向をもつ最初の長編小説『クロードの告白』を刊行。 |
クロード・ベルナール『実験医学研究序説』刊行(のちに『実験小説論』に影響)。 |
『クロードの告白』 |
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1866 |
26歳 |
[1月31日]アシェット書店を辞職。以後文筆のみで生計を立てることとし、文学・絵画批評家として多くの新聞に寄稿。 |
「エヴェヌマン」紙にてマネ(Édouard Manet, 1832-1883)、クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)などを擁護し物議をかもす。 |
絵画・文芸批評集『わがサロン』『わが憎悪』を刊行。 |
[11月]「エヴェヌマン」紙に連載した小説『死女の願い』を刊行。 |
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1867 |
27歳 |
新聞への寄稿の仕事が減り、困難な年となる。マネ、ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)、モネ(Claude Monet, 1840-1926)など将来の印象派画家たちと交友。 |
『マルセイユの神秘』を新聞に連載。 |
[12月]最初の代表作『テレーズ・ラカン』刊行。 |
パリ万国博覧会。 |
ボードレール没(1821-)。 |
『テレーズ・ラカン』 |
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1868 |
28歳 |
『テレーズ・ラカン』第二版序文で自然主義(naturalisme)の理論を展開。 |
『マドレーヌ・フェラ』刊行。 |
フローベール(Gustave Flaubert, 1821-1880)と初対面。 |
帝政に対する反発を強め、批評などでさかんに攻撃。 |
サント=ブーヴ没(1804-)。ジッド生まれる。 |
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1869 |
29歳 |
フローベールの『感情教育』を称賛。 |
前年より、編集者アルベール・ラクロワ(Albert Lacroix)に対して、10巻から成る自然主義小説群『ある家族の歴史』(l'Histoire d'une famille)の構想を示す。これが『ルーゴン・マッカール双書』の最初の計画となる。 |
ゴンクール兄弟(Edmond et Jules de Goncourt, Edmond:1822-1896, Jules:1830-1870)と親交。 |
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1870 |
30歳 |
[5月31日]アレクサンドリーヌ・メレと結婚。 |
[6月28日]ルーゴン・マッカール双書第1巻『ルーゴン家の繁栄』、「シエークル」紙に連載開始。 |
[7月19日]フランス・プロシア間に戦争はじまる(普仏戦争。のちに『壊滅』の主題となる)。 |
[9月]第二帝政崩壊、第三共和政宣言。 |
[9月7日]ゾラ一家、パリからマルセイユへ発つ。 |
[12月11日]単身、臨時政府(gouvernement provisoire)が置かれているボルドーへ。知事職を望むがまもなく頓挫。 |
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1871 |
31歳 |
ボルドー、次いでヴェルサイユの国民議会記者。コミューン(la Commune)には接近する機会がなかった。 |
ラクロワ書店よりルーゴン・マッカール双書刊行開始。 |
[10月-11月]「ラ・クロッシュ」紙に『獲物の奪い合い』を連載するも検事局(le procureur de la République)の命令により中止。 |
[3月]パリ・コミューンはじまる。 |
[5月]第三共和政成立。 |
双書第1巻『ルーゴン家の繁栄』 |
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第 三 共 和 政 |
1872 |
32歳 |
自然主義作家たちの協力者となる編集者シャルパンチエ(Charpentier)と親交。フローベール、ドーデ(Alphonse Daudet, 1840-1897)、ツルゲーネフ(Tourgueniev, 1818-1883)、モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850-1893)らと交流。 |
双書の版元ラクロワ書店が倒産。版権はシャルパンチエ書店に引き継がれ、『獲物の奪い合い』を刊行。 |
双書第2巻『獲物の奪い合い』 |
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1873 |
33歳 |
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1874 |
34歳 |
『新ニノンに与えるコント』刊行。戯曲『ラブルダン家の相続者たち』を上演するも失敗におわる。 |
マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)と知り合う。 |
双書第4巻『プラッサンの征服』 |
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1875 |
35歳 |
[3月]ツルゲーネフの仲介でロシアの批評紙「ヨーロッパ通信」(Viestnik Evropy; Le Messager de l'Europe)に寄稿を開始(1880年12月まで)。 |
双書第5巻『ムーレ神父の罪』 |
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1876 |
36歳 |
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1877 |
37歳 |
『居酒屋』刊行、最初の成功作となる。自然主義一派の首領格となり、自然主義の最盛期がはじまる。 |
前年ごろより自然主義論争。 |
双書第7巻『居酒屋』 |
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1878 |
38歳 |
[4月]『愛の一ページ』刊行。 |
[5月]『居酒屋』の印税でパリ郊外ポワッシー近くのメダン(Médan)に別荘を購入。これを夏の間の住居とし、以後増改築を続ける。 |
ベルリン列国会議。 |
双書第8巻『愛の一ページ』 |
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1879 |
39歳 |
『実験小説論』を「ヴォルテール」紙、「ヨーロッパ通信」誌に発表。 |
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1880 |
40歳 |
[3月]『ナナ』刊行、たちまち大反響を呼び二度目の成功作となる。 |
[4月]自然主義文学の声明ともいうべき中編小説集『メダンの夕べ』を刊行。執筆者はゾラ、アレクシス(Alexis)、セアール(Céard)、エニック(Hennique)、ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848-1907)、モーパッサン。 |
自然主義の理論を論じた評論集『実験小説論』を刊行。 |
母エミリー死去。 |
フローベール没。 |
双書第9巻『ナナ』 |
『メダンの夕べ』 |
『実験小説論』 |
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1881 |
41歳 |
「ヨーロッパ通信」に発表したものを中心に集めた評論集『自然主義作家論』、『演劇における以前主義』、『文学記録』を刊行。 |
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1882 |
42歳 |
[1月]評論集『論戦』を刊行。 |
[4月]『ごった煮』刊行。 |
[11月]中編小説集『ビュルル大尉』刊行。 |
双書第10巻『ごった煮』 |
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1883 |
43歳 |
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1884 |
44歳 |
『ナイス・ミクラン』刊行。 |
アンザン炭鉱のストライキを見学、『ジェルミナール』連載開始。 |
アフリカ分割に関するベルリン会議。 |
双書第12巻『生きる喜び』 |
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1885 |
45歳 |
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1886 |
46歳 |
『制作』刊行。モデル問題がきっかけでセザンヌと不和になる。 |
『大地』執筆のためボース地方を取材。 |
双書第14巻『制作』 |
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1887 |
47歳 |
『大地』刊行。 |
ゴンクール兄弟とドーデの取り巻きであった五人の作家が「フィガロ」紙8月18日号に「五人の宣言」を発表、ゾラを激しく非難。 |
ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière, 1849-1906)、『自然主義の破産』を書く。 |
自然主義衰退し、象徴主義(symbolisme)が台頭。 |
双書第15巻『大地』 |
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1888 |
48歳 |
『夢』刊行。 |
妻アレクサンドリーヌが雇った20歳の女中ジャンヌ・ロズロ(Jeanne Rozerot)と愛人関係になる。 |
レジオン・ドヌール勲章受章。写真に興味を示す。 |
双書第16巻『夢』 |
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1889 |
49歳 |
ジャンヌとの間の娘ドゥニーズ(Denise)生まれる。 |
パリ万国博覧会を見学。 |
第二インターナショナル。 |
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1890 |
50歳 |
『獣人』刊行。 |
アカデミー・フランセーズに立候補、落選。 |
自然主義、本格的に頽勢に向かう。 |
双書第17巻『獣人』 |
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1891 |
51歳 |
『金銭』刊行。 |
ジャンヌとの間に長男ジャック(Jacques)誕生。 |
ジュール・ユレのアンケートにより自然主義時代の終焉が明らかとなる。 |
双書第18巻『金銭』 |
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1892 |
52歳 |
『壊滅』刊行。一部から非愛国的という非難を浴びるが、ファゲ、フランスらは激賞。 |
ジャンヌとの関係、妻アレクサンドリーヌに露見。 |
露仏軍事協定。 |
双書第19巻『壊滅』 |
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1893 |
53歳 |
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1894 |
54歳 |
イタリア旅行。 |
『ルールド』刊行。 |
[9月]ドレフュス大尉逮捕される。ドレフュス事件(L'affaire Dreyfus)の始まり。 |
『ルールド』(三都市物語第1巻) |
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1895 |
55歳 |
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1896 |
56歳 |
アカデミー・フランセーズに再度立候補、落選。 |
『ローマ』刊行。 |
エドモン・ド・ゴンクール没。 |
『ローマ』(三都市物語第2巻) |
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1897 |
57歳 |
[3月]『新論戦』刊行。 |
[年末]ドレフュス擁護の陣営に加わる。 |
ドーデ没。 |
『収穫月(メシドール)』 |
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1898 |
58歳 |
エステラジー少佐に無罪判決。 |
[1月13日]「オーロール」紙上に大統領フェリックス・フォール(Félix Faure, 1841-1899)への公開書簡『私は告発する』を発表しドレフュスの無罪を主張。 |
[2月]軍に対する名誉毀損により禁固一年の刑を宣告される。 |
[3月]『パリ』刊行。 |
[7月]懲役刑確定、イギリスへ亡命(1899年6月)。 |
『私は告発する』 |
『パリ』(三都市物語第3巻) |
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1899 |
59歳 |
『豊穣』刊行。 |
[6月]ドレフュスの再審決定、亡命先イギリスより戻る。 |
ドレフュスは再審で有罪となるが特赦を受ける。 |
『豊穣』(四福音書第1巻) |
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1900 |
60歳 |
ドレフュス事件をめぐりフランスと和解。 |
万国博覧会を見学。 |
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1901 |
61歳 |
『労働』刊行。 |
後輩アレクシス没。 |
『真実は前進する』 |
『労働』(四福音書第2巻) |
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1902 |
62歳 |
[8月]『真実』を完成(翌年死後公刊)。 |
[9月28日夜-29日]パリの自宅で暖炉の不完全燃焼による一酸化炭素中毒、29日死去(敵対派による暗殺の疑いあり)。 |
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1903 |
- |
『真実』刊行、四福音書完結編『正義』は構想のみに終わる。 |
『真実』(四福音書第3巻) |
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その後 |
1906 |
- |
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1907 |
- |
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1908 |
- |
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1914 |
- |
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1925 |
- |
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