SYUGO.COMカテゴリマップ
ルーゴン・マッカール双書 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
特集 書評 講読ノートトップへ データベース

エミール・ゾラ 生涯と年譜

エミール・ゾラ
出典
Northwestern University

 1840年4月2日、エミール・ゾラはイタリア人技師の父とフランス人の母の間に生まれた。南仏エクスで少年時代を過ごし、美術やロマン主義文学に熱中したゾラは、その後パリで貧しい学生時代を送りながら、次第にレアリスムへ傾斜していった。

 27歳のとき、人間精神の生理学的解剖と自ら称した『テレーズ・ラカン』を著し、自然主義文学論を展開。さらに化学に触れて人間に対する環境と遺伝の影響力を重要視するに至り、第二帝政下における一家族の遺伝的歴史を扱う「ルーゴン・マッカール双書」を構想する。

 双書第7巻『居酒屋』の成功により作家としての地位を確立したゾラは、メダンに構えた別荘を拠点にして、自然主義文学のリーダー格として活躍し始める。モーパッサンやゴンクール兄弟などと交流しながら、自然主義に対する賛否両論の中をひたすら突き進み、1893年、双書全20巻を完結させた。

 双書完結後は社会主義に共感を示し、理想主義的な作品を著す。フランスを二分したドレフュス事件に際してはドレフュス擁護の論陣を張り、軍部を徹底的に批判した。1902年9月29日、パリの自宅にてガス中毒死。遺骸はのちにパンテオンに移置された。

 ゾラの作品の特質は、個人の内面心理よりも、熱狂する群衆のエネルギーや外的影響に突き動かされる動物的人間を、迫力をもって描いたところにある。社会の矛盾に対する的確な問題意識と鋭い観察力が、ゾラの作品に長い生命を与えているのだと言えよう。

エミール・ゾラ年譜
1840 0
[4月2日]パリのサン=ジョゼフ街に生まれる。父フランソワ・ゾラ(François Zola)はヴェネチア出身の土木技師、母エミリー・オベール(Émilie Aubert)はボース地方出身。二人は1839年に結婚した。



1841 1
 
1842 2
スタンダール没(1783-)。
フーリエ(1772-1837)らの社会主義思想、この頃から普及(のちに『ボヌール・デ・ダーム百貨店』などに影響)。
1843 3
ゾラ一家、南仏エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)に移住。
1844 4
ノディエ没(1780-)。
1845 5
 
1846 6
全国的な大不況。
1847 7
[3月27日]父フランソワ、肺炎で急死。残された家族の財政的困窮。
1848 8
二月革命。
シャトーブリアン没(1768-)。




1849 9
 
1850 10
バルザック没(1799-)。
1851 11
[12月]ルイ・ナポレオンのクーデター(のちに『ルーゴン家の繁栄』の題材となる)。
1852 12
第二帝政始まる。



1853 13
エクスのブルボン中学(collège Bourbon)六年次に入る。バチスタン・バイユ、ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839-1906)と親交を結ぶ。
1854 14
 
1855 15
ネルヴァル没(1808-)。
1856 16
クリミア戦争終結。
1857 17
[11月]祖母フェリシテ死、一家の生活が行きづまる。母エミリー、パリへ発つ。
ヨーロッパ経済恐慌。
1858 18
[2月]祖父とともに母を追ってパリへ移る。
[3月1日]パリのサン=ルイ高校(lycée Saint-Louis)二年次に編入。文学に熱中する。
1859 19
[8月4日]バカロレア(理科)を受験し、記述を通るも口述で失敗。
[11月]マルセイユで再びバカロレアに失敗。学業を放棄して読書と詩作にふけり、ミシュレの恋愛論に傾倒。
1860 20
港湾局(administration des docks)の書記となるも二か月で辞職。
長編叙事詩『愛劇』を作る。
1861 21
前年よりボヘミアン生活。住居を転々としながら困窮の生活を続ける。
娼婦ベルトとの同棲(のちに『クロードの告白』の土台となる経験)。
[4月]上京したセザンヌと再会。
フランスのメキシコ出兵。
1862 22
[3月1日]アシェット書店(librairie Hachette)に就職し、発送部、次いで広報部に所属。作家とジャーナリストの世界を知る。
[10月31日]フランスに正式帰化。
1863 23
リールの「ルヴュ・デュ・モワ」にいくつかの短編小説を発表。
1864 24
ジャーナリズムにデビュー、複数の新聞に批評・時評を寄せる。
[6月]アシェット書店広報部主任となる。
[11月]ロマン主義的な処女短編集『ニノンに与えるコント』刊行。
第一インターナショナル。
1865 25
のちの妻ガブリエル=アレクサンドリーヌ・メレ(Gabrielle-Alexandrine Meley)と会う。
[11月]自伝的傾向をもつ最初の長編小説『クロードの告白』を刊行。
クロード・ベルナール『実験医学研究序説』刊行(のちに『実験小説論』に影響)。
『クロードの告白』
1866 26
[1月31日]アシェット書店を辞職。以後文筆のみで生計を立てることとし、文学・絵画批評家として多くの新聞に寄稿。
「エヴェヌマン」紙にてマネ(Édouard Manet, 1832-1883)クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)などを擁護し物議をかもす。
絵画・文芸批評集『わがサロン』『わが憎悪』を刊行。
[11月]「エヴェヌマン」紙に連載した小説『死女の願い』を刊行。
1867 27
新聞への寄稿の仕事が減り、困難な年となる。マネ、ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)モネ(Claude Monet, 1840-1926)など将来の印象派画家たちと交友。
『マルセイユの神秘』を新聞に連載。
[12月]最初の代表作『テレーズ・ラカン』刊行。
パリ万国博覧会。
ボードレール没(1821-)。
『テレーズ・ラカン』
1868 28
『テレーズ・ラカン』第二版序文で自然主義(naturalisme)の理論を展開。
『マドレーヌ・フェラ』刊行。
フローベール(Gustave Flaubert, 1821-1880)と初対面。
帝政に対する反発を強め、批評などでさかんに攻撃。
サント=ブーヴ没(1804-)。ジッド生まれる。
1869 29
フローベールの『感情教育』を称賛。
前年より、編集者アルベール・ラクロワ(Albert Lacroix)に対して、10巻から成る自然主義小説群『ある家族の歴史』(l'Histoire d'une famille)の構想を示す。これが『ルーゴン・マッカール双書』の最初の計画となる。
ゴンクール兄弟(Edmond et Jules de Goncourt, Edmond:1822-1896, Jules:1830-1870)と親交。
1870 30
[5月31日]アレクサンドリーヌ・メレと結婚。
[6月28日]ルーゴン・マッカール双書第1巻『ルーゴン家の繁栄』、「シエークル」紙に連載開始。
[7月19日]フランス・プロシア間に戦争はじまる(普仏戦争。のちに『壊滅』の主題となる)。
[9月]第二帝政崩壊、第三共和政宣言。
[9月7日]ゾラ一家、パリからマルセイユへ発つ。
[12月11日]単身、臨時政府(gouvernement provisoire)が置かれているボルドーへ。知事職を望むがまもなく頓挫。
1871 31
ボルドー、次いでヴェルサイユの国民議会記者。コミューン(la Commune)には接近する機会がなかった。
ラクロワ書店よりルーゴン・マッカール双書刊行開始。
[10月-11月]「ラ・クロッシュ」紙に『獲物の奪い合い』を連載するも検事局(le procureur de la République)の命令により中止。
[3月]パリ・コミューンはじまる。
[5月]第三共和政成立。
双書第1巻『ルーゴン家の繁栄』




1872 32
自然主義作家たちの協力者となる編集者シャルパンチエ(Charpentier)と親交。フローベール、ドーデ(Alphonse Daudet, 1840-1897)ツルゲーネフ(Tourgueniev, 1818-1883)モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850-1893)らと交流。
双書の版元ラクロワ書店が倒産。版権はシャルパンチエ書店に引き継がれ、『獲物の奪い合い』を刊行。
双書第2巻『獲物の奪い合い』
1873 33
双書第3巻『パリの胃袋』
1874 34
『新ニノンに与えるコント』刊行。戯曲『ラブルダン家の相続者たち』を上演するも失敗におわる。
マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)と知り合う。
双書第4巻『プラッサンの征服』
1875 35
[3月]ツルゲーネフの仲介でロシアの批評紙「ヨーロッパ通信」(Viestnik Evropy; Le Messager de l'Europe)に寄稿を開始(1880年12月まで)。
双書第5巻『ムーレ神父の罪』
1876 36
[6月]『居酒屋』連載開始。轟々たる非難のため一時中止、掲載紙変更。
双書第6巻『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』
1877 37
『居酒屋』刊行、最初の成功作となる。自然主義一派の首領格となり、自然主義の最盛期がはじまる。
前年ごろより自然主義論争。
双書第7巻『居酒屋』
1878 38
[4月]『愛の一ページ』刊行。
[5月]『居酒屋』の印税でパリ郊外ポワッシー近くのメダン(Médan)に別荘を購入。これを夏の間の住居とし、以後増改築を続ける。
ベルリン列国会議。
双書第8巻『愛の一ページ』
1879 39
『実験小説論』を「ヴォルテール」紙、「ヨーロッパ通信」誌に発表。
1880 40
[3月]『ナナ』刊行、たちまち大反響を呼び二度目の成功作となる。
[4月]自然主義文学の声明ともいうべき中編小説集『メダンの夕べ』を刊行。執筆者はゾラ、アレクシス(Alexis)セアール(Céard)エニック(Hennique)ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848-1907)、モーパッサン。
自然主義の理論を論じた評論集『実験小説論』を刊行。
母エミリー死去。
フローベール没。
双書第9巻『ナナ』
『メダンの夕べ』
『実験小説論』
1881 41
「ヨーロッパ通信」に発表したものを中心に集めた評論集『自然主義作家論』、『演劇における以前主義』、『文学記録』を刊行。
1882 42
[1月]評論集『論戦』を刊行。
[4月]『ごった煮』刊行。
[11月]中編小説集『ビュルル大尉』刊行。
双書第10巻『ごった煮』
1883 43
[3月]『ボヌール・デ・ダーム百貨店』刊行。
「ヨーロッパ通信」に発表したものを集めた中編小説集『ナイス・ミクラン』刊行。
ツルゲーネフ没。
双書第11巻『ボヌール・デ・ダーム百貨店』
1884 44
『ナイス・ミクラン』刊行。
アンザン炭鉱のストライキを見学、『ジェルミナール』連載開始。
アフリカ分割に関するベルリン会議。
双書第12巻『生きる喜び』
1885 45
[1月]『ジェルミナール』刊行、三度目の成功作となる。
ユゴー没(1802-)。
双書第13巻『ジェルミナール』
1886 46
『制作』刊行。モデル問題がきっかけでセザンヌと不和になる。
『大地』執筆のためボース地方を取材。
双書第14巻『制作』
1887 47
『大地』刊行。
ゴンクール兄弟とドーデの取り巻きであった五人の作家が「フィガロ」紙8月18日号に「五人の宣言」を発表、ゾラを激しく非難。
ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière, 1849-1906)、『自然主義の破産』を書く。
自然主義衰退し、象徴主義(symbolisme)が台頭。
双書第15巻『大地』
1888 48
『夢』刊行。
妻アレクサンドリーヌが雇った20歳の女中ジャンヌ・ロズロ(Jeanne Rozerot)と愛人関係になる。
レジオン・ドヌール勲章受章。写真に興味を示す。
双書第16巻『夢』
1889 49
ジャンヌとの間の娘ドゥニーズ(Denise)生まれる。
パリ万国博覧会を見学。
第二インターナショナル。
1890 50
『獣人』刊行。
アカデミー・フランセーズに立候補、落選。
自然主義、本格的に頽勢に向かう。
双書第17巻『獣人』
1891 51
『金銭』刊行。
ジャンヌとの間に長男ジャック(Jacques)誕生。
ジュール・ユレのアンケートにより自然主義時代の終焉が明らかとなる。
双書第18巻『金銭』
1892 52
『壊滅』刊行。一部から非愛国的という非難を浴びるが、ファゲ、フランスらは激賞。
ジャンヌとの関係、妻アレクサンドリーヌに露見。
露仏軍事協定。
双書第19巻『壊滅』
1893 53
『パスカル博士』刊行、ルーゴン・マッカール双書完結。
モーパッサン没。
双書第20巻『パスカル博士』
1894 54
イタリア旅行。
『ルールド』刊行。
[9月]ドレフュス大尉逮捕される。ドレフュス事件(L'affaire Dreyfus)の始まり。
『ルールド』(三都市物語第1巻)
1895 55
文芸家協会長を辞す。
1896 56
アカデミー・フランセーズに再度立候補、落選。
『ローマ』刊行。
エドモン・ド・ゴンクール没。
『ローマ』(三都市物語第2巻)
1897 57
[3月]『新論戦』刊行。
[年末]ドレフュス擁護の陣営に加わる。
ドーデ没。
『収穫月(メシドール)』
1898 58
エステラジー少佐に無罪判決。
[1月13日]「オーロール」紙上に大統領フェリックス・フォール(Félix Faure, 1841-1899)への公開書簡『私は告発する』を発表しドレフュスの無罪を主張。
[2月]軍に対する名誉毀損により禁固一年の刑を宣告される。
[3月]『パリ』刊行。
[7月]懲役刑確定、イギリスへ亡命(1899年6月)。
『私は告発する』
『パリ』(三都市物語第3巻)
1899 59
『豊穣』刊行。
[6月]ドレフュスの再審決定、亡命先イギリスより戻る。
ドレフュスは再審で有罪となるが特赦を受ける。
『豊穣』(四福音書第1巻)
1900 60
ドレフュス事件をめぐりフランスと和解。
万国博覧会を見学。
1901 61
『労働』刊行。
後輩アレクシス没。
『真実は前進する』
『労働』(四福音書第2巻)
1902 62
[8月]『真実』を完成(翌年死後公刊)。
[9月28日夜-29日]パリの自宅で暖炉の不完全燃焼による一酸化炭素中毒、29日死去(敵対派による暗殺の疑いあり)。
1903 -
『真実』刊行、四福音書完結編『正義』は構想のみに終わる。
『真実』(四福音書第3巻)
その後
1906 -
セザンヌ没。
ドレフュス大尉の無罪確定。
1907 -
炭鉱労働者の八時間労働法。
1908 -
遺骸、パンテオンに移される。
1914 -
愛人ジャンヌ・ロズロ死去。
1925 -
妻アレクサンドリーヌ死去。

青字=文学関係の事件赤字=社会的事件

参照文献
河内清編「ゾラ年譜」(世界文学大系41(筑摩書房、1959年)p483-487)
NOIRAY(Jacques), <<Chronologie>>, Jacques Damour / Le Capitaine Burle, Librairie Générale Française, 2001, p. 117-121

ホーム講読ノートルーゴン・マッカール双書 [ エミール・ゾラ ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。