SYUGO.COMカテゴリマップ
ルーゴン・マッカール双書 1 2 3 4 5 6 7 8 9 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
特集 書評 講読ノートトップへ データベース

抜粋集 - 第10巻『ごった煮』

ジョスラン夫人とベルト

 「(…略…)さあ、眼をふいて、わたしがお前にいいよっている男のつもりで、わたしを見てごらん。……にっこりわらって、扇子をおとすんだよ、相手の男がひろうとき、お前の手にさわれるようにね。……だめ、だめ。胸をぐっとはるんだよ、それじゃ病気の牝鶏のようじゃないか。頭をうしろへそらして、襟元をひろげる。お前は襟元がとても若々しいから、いくら見せつけたっていいんだよ」
 「じゃ、こう? ママ」
 「ああ、その方がいい……身体をかたくしないで、しなやかにしているんだよ。男たちは板みたいにこちこちしている女は好きじゃないからね。……それから、相手が少し行きすぎたことをしても、どぎまぎするんじゃないよ。行きすぎる男は燃えているんだからね」
(2章、上55ページ)

媚態の講義。

 「娘のベルトでございます。ムーレさん。どうぞよろしく。ベルトや、オクターヴ・ムーレさんよ」  夫人はこういいながら、じっと娘をみた。ベルトはその視線の意味をよく知っていた。戦闘命令だ。彼女はそこに昨夜の教訓をはっきり見てとった。そこで、すぐ、若い娘らしい相手かまわずの無関心な率直さで、その命令にしたがった。そして、自分に負わされたせりふの一部を暗誦し、もうすべての事に倦きつかれているパリジェンヌのなめらかな愛嬌をふりまき、行ったこともない南フランスのことを熱心にしゃべった。田舎の娘たちのぎごちなさに慣れていたオクターヴは、まるで古い友だちのように打ちとけた、この若い娘のおしゃべりに魅惑された。
(3章、上70ページ)

講義の成果。この媚態そのものは効果をあげるのだが、オクターヴがこの後トリュブロとの会話で「結婚なんかしない」と口走るのを聞いて、ジョスラン夫人のターゲットはオーギュストに変更になる。

 ジョスラン夫人はたちまち腹を立て、しばらく呆気にとられていた。彼女はダンブルヴィル家から出てきて以来、手がむずむずして、誰かぶちたくてたまらなかった。そこで、大きく腕をふりあげて、ベルトに横ビンタをくわせた。
(2章、上53-56ページ)

ジョスラン夫人の必殺技「横ビンタ」その1。

 若い娘は落ちついてピアノのキーをたたきはじめた。が、母親は、操典をちょっとでも間違えたらビンタをくわせようと待ちかまえている軍曹のように、もう娘から眼をはなさなかった。
(3章、上74ページ)

ジョスラン夫人の必殺技「横ビンタ」その2。まあ、ここでは実際にたたいてはいないのだけれど。

 この言葉がおわらないうちに、母親は大きく手を振りあげて、娘に横ビンタをくわせた。一撃で鑞びきの布のうえへたたきのめしたほどのはげしい横ビンタだった。ゆうべから、母親は手のなかにこの横ビンタをあたためていたのだった。遠いむかし、小さい娘が寝床のなかでそそうをした日のように、指がなぐりたくてうずうずしていた。
(16章、下209ページ)

ジョスラン夫人の必殺技「横ビンタ」その3。

「あたは一切のことについてオーギュスト・ヴァブルさんに忠実をまもると約束し、誓いますね、すべての忠実な妻は、神のご命令により、夫に対してかくあらねばならないのです」
 しかし、ベルトは、手紙のあとで、待ちもうけている平手打ちがはじまりはしないかと夢中になって、もうなにも耳にはいらず、ヴェールの隅から一心に向うをうかがっていた。そこで、気まずい沈黙が起った。が、しまいに、ベルトは自分の返事を待っているのだと気がついて、口から出まかせに、いそいで、「はい、はい」と、答えた。
(8章、上224ページ)

ベルトの結婚式。この式の途中でヴァレリー夫人の情事が夫のテオフィルに露見し、大立ち回りが演じられるため、会席者の興味は式よりもそっちに釘付けになる。結婚式の主役であるベルトまでもがこの有様である。やる気なさすぎ……。

 「ほんとは、あたしの好いてもいない男と結婚させたのがいけなかったのよ。……今じゃ、あたしはあの人を憎んでるわ。だから、ほかの男をさがしたのよ」
 彼女はしゃべりつづけた。結婚までのことが残らず、切れぎれの短い言葉になってもどってきた。夫を求めてうろついた三つの冬、母がその腕のなかへ彼女を投げこんだあらゆる毛並の男、ブルジョワの客間という公認の舗道で肉体を提供しようとした幾度かの失敗。それから、財産のない娘たちに母親が教える教訓、許された、慎ましやかな売春の講義、ダンスのあいだの接触、ドアのうしろで男にとらせる手、馬鹿な男の欲望に運命をかける無邪気な娘の破廉恥さ。さらに、ある晩、男が淫売婦によってつくられるように、こしらえあげられた夫、カーテンの下で引っかけられ、欲望の熱に興奮してわなにおちた夫。
(16章、下207ページ)

オクターヴとの情事が露見した後で。ベルトが母親に本音を洩らす数少ない場面だが、この直後、母親は横ビンタで娘を黙らせる。

中流階級の道徳

「お金がかかることも考えずに、雌鶏のように子供をうみおとすのは労働者だけです。もっとも、労働者は、子供たちを、まるでけだものの群のように、舗道に追いはらいますけどね。そういう子供を街でみつけると、わたし胸がわるくなりますわ」
――ヴィヨーム夫人
(4章、上98-99ページ)

本作におけるブルジョワ道徳の最も厳格な代弁者、ヴィヨーム夫人の言葉。……胸を悪くさせるのは、あんたじゃ。

彼女は夫をよく知っていた。外の誰かがわたしを守ってくれなければ、また夫は年中わたしの上にのしかかってくるだろう。そして、あらゆる義務を尊重しているわたしとしては、あのいまわしい苦役もことわることができまいと案じた。
(10章、上303ページ)

夫が愛人に捨てられたことを聞いたときの夫人クロチルドの落胆。彼女の悩みは、夫が愛人を持っていることではなくて、夫が愛人に捨てられたことである。というのも、彼女はもう夫を愛していないからである。

薬局へ行くためにおりてきたジュリーは、病気になると、うちうちだけで死んで行くブルジョワどもに腹を立てた。互いにスープをもっていってやったり、タオルを温めあったりするのは、労働者のすることなのだ。
(10章、上301ページ)

労働者とブルジョワの対照については、中心的な主題でないながらもしばしば本作で言及される。

「首尾よく追いだしましたよ、旦那さま!……これからは楽に息ができますよ。(中略)そうです、いやしくも体面を重んじる家には、女は禁物です。ことにああいう女工たちに足を入れさせてはいけませんよ!」
(13章、下110-111ページ)

グール、契約期間の満了を盾に出産直前の女工を追いだす。

「わたしどもの立場になって考えてください。前にも申したように、ここには年のいかない娘もいることですし」
(14章、下139ページ)

カンパルドン、夫に追われて助けを求めてきたベルトに対して、保護を拒む。なお、その「年のいかない娘」アンジェールがどうなっているかは、後記参照。

「ご存じのように、主人はとても道徳のきびしい方々のために働いておりますから、少しでも身持ちにきずがつきますと、いっさいを失ってしまうのです。」
(14章、下139-140ページ)

カンパルドン夫人ローズ、夫に追われて助けを求めてきたベルトに対して、保護を拒む。ちなみに、「道徳のきびしい方々のために働いて」いるカンパルドンは、この直前まで第二夫人と共にベッドに入っていた。

彼は最近出版されたルナンの『イエスの生涯』を、非常にはげしい言葉で非難して、「焼かなければならないのは、あの本ではなく、著者その人です」と繰り返した。
(18章、下266ページ)

カンパルドン。過激ですな。

女中たち

 「でも、あんたのパパはあいつにとてもお砂糖をつめこむのよ」と、リザが性欲的な笑い声をもらしながらいった。  「ええ、そうよ」と、アンジェールも同じように笑いながらつぶやいた。
 「あんたのパパ、あいつにどんなことをするの?……ちょっとためしにやってごらんなさいよ」
 子供は女中の頭にかじりつき、むきだしの腕で抱きしめて、口へはげしく接吻しながら、こうくりかえした。
 「ほら、こんなふうにするのよ、こんなふうにするのよ!」
(14章、下119ページ)

良家の令嬢アンジェールの教育、その1。カンパルドンとガスパリーヌの密通をネタに。道徳にうるさいカンパルドン家では、娘のアンジェールに世間を見せないよう気を遣っているのだが、家の中にいてもしっかりと女中に教育されてしまっているのである。

 「奥さんは階段をおりるときに足をくじいたのだよ。それで、うちへ助けてほしいといってこられたのさ。さあ、行ってお休み、風邪をひくといけないから」
(中略)
リザは上へあがって行くまえに、アンジェールの部屋へはいって行って、こういった。
 「あの奥さんは足をくじいたのよ。……どうやってくじいたのか、ちょっとやってごらんなさいよ」
 子供は、「よくて、こうよ!」と答えながら、女中の首にとびついて、口に接吻した。
(14章、下136-142ページ)

良家の令嬢アンジェールの教育、その2。ベルトの逢い引きをネタに。

 「あたしはしがない女中だけど、堅気だよ!」と、ラシェルはこの叫びに最後の力をこめて叫んだ。「お前たちのこのあばらやでは、奥さまでございとすましこんでいながら、みんな尻がるの淫売女で、あたしにかなうものは一人もいやしない! あたしは追出されて行くんだけど、もうお前たちにはへどが出そうだよ!」
(17章、250ページ)

かたぎの女中ラシェルがベルトにクビにされて。

 「なあに! ここの家だろうが、あすこの家だろうが、どこの家も似たりよったりだよ。きょうびは、こっちの人もあっちの人も変りはないよ。牛は牛連れ、豚は豚連れだからね!」
――ジュリー
(18章、下284ページ)

ジュヴェイリエ家をクビになったジュリーが、この家を出ていけるなんてうらやましいとリザに言われて、返した言葉。これがこの作品の結語である。

ゾラ、作中に登場?

 そこで、グール氏は、警察から、そうだ、警察から三階の男を呼びに来たと話した。あの男はとてもきたない小説を書いたので、マザの刑務所へ入れられるらしい。
 彼はさも不愉快そうな声でつづけた。
 「ひどいですよ! 立派な人々のことをくそみそにやっつけているのですからね。家主さんのことさえ書いてあるそうですよ。ジュヴェイリエさんそのひとのことをですよ! なんて厚かましい奴でしょう。(後略)」
(下247ページ)

グールのこの非難は、ゾラの小説に対する世間一般の反応を連想させる。三階に住んでいるというこの小説家については、ここ以外では詳しく述べられていない。

「さあ、あなたのバルザック、お持ちしましたわ。これ、最後まで読めなかったの。だって、あんまりかわいそうなんですもの。この本を書いた人は、ほんとにいやなことだけしか話さないんですのね」
(中略)
「いいえ、これはお返しするわ。だって毎日の暮しとあんまりそっくりなんですもの」
(11章、下19-20ページ)

これはバルザックについてだが、やはりブルジョワ階級のレアリスム文学に対する感じ方を示している。

先生たちの嘆き

 だが、彼はすぐにこうした見地をひるがえして、帝政をはげしく非難し、共和制になれば、万事がもっとうまく行くだろうといった。しかし、彼が語る平凡人の群像には、町の人々の内情を知りぬいている老巧な実際家の正しい観察がまじっていた。そして、女たちについてしゃべりたてた。あるものはお人形的な教育のために堕落したり愚鈍化したりし、他のものは遺伝的な神経症で感情や情念を腐敗させられ、いずれもが欲望も快楽もなしで、きたなく、おろかしく、非道の世界へおちる。さらに、彼は男に対しても情容赦をせずに、立派な服装の偽善のかげにかくれて、生活を台なしにする助平どもだとののしった。彼のジャコバン的な怒りのなかには、一階級の死をつげる執拗な弔鐘が鳴りひびいていた。くさった大黒柱がおのずからぎしぎし鳴って、まさに分解し崩壊しようとしているブルジョワ階級の死だ。それから、彼はふたたび話の的を失って、野蛮人のことをしゃべり、世界の幸福を予告した。
(17章、下251ページ)

ブルジョワの内情を知りつくしたジュイユラ医師の憤り。

 おお、主よ! この腐敗した世界の傷を、もう宗教のマントでかくしておいてはならない時刻が鳴ったのであろうか。わたしはもはやいたずらに信者たちの偽善を助けているべきではなく、愚行と悪徳を体裁よくつくろうために、祭式の主としての地位にとどまるべきではないのだろうか。教会そのものまでその残骸のしたについえる危険をおかして、いっさいを瓦解するにまかせるべきであろうか。そうだ、神の命令はこれであるに違いない。わしにはもはや人間の悲惨のなかへこれ以上つっこんで行く力がなく、日夜無力と嫌悪とにあえいでいるのだから。朝から彼が掻きまわしてきた卑劣さは、彼の心臓を押しつぶしてしまった。彼は両手を前へさしのべて赦しを求めた。己れが犯してきた数々の嘘と、卑怯な迎合と破廉恥な交際への赦しを求めた。神への恐怖が彼のはらわたをつかみ、彼は自分を否認する神を、これ以上己れの名の濫用をゆるさない神を、ついに罪びとの民を残らず殺戮しようとする怒りの神を見た。社交人としてのあらゆる寛容がこうした良心の不安のもとに消えさり、もはや救霊の不確信にもがく、驚愕する信者の信念だけしか残らなかった。おお、主よ! いかなる道をとるべきであったか。僧侶をさえ腐敗させる、この末期の社会において、わたしはなにをなすべきであったのか。
 こう考えて、モージュイ神父は、磔刑の丘をみつめながら、すすり泣いた。聖母マリヤのように、マグダラのマリヤのように、泣いた。死滅した真理と空虚な天のために泣いた。大理石と金銀細工の彼方では、石膏の偉大なキリストは、もはや血の一滴ももたなかった。
(17章、下254-255ページ)

ブルジョワの内情を知りつくしたモージュイ神父の嘆き。第17章結語。

演出をめぐって

しかし、だんだんと、階段の荘厳さが新しい苦悩で彼女の心をみたした。階段は真暗で、厳粛だった。誰も見るものはなかったが、金色のトタン板とまがいの大理石がいかにも物堅い雰囲気をかもしだしているなかで、そういうふうにシュミーズ一枚でいるのが、恥かしくてたまらなかった。マホガニーの高いドアのうしろから、まじめに床についている夫婦の権威が非難の気配をはきだしていた。この建物がそのときほど道徳堅固な息吹を呼吸しているように思われたことはなかった。なおそのうえ、踊り場の窓から月の光がさしこんできて、まるで教会のなかにいるような気がした。沈思黙想の雰囲気が玄関から女中部屋までみなぎりわたり、各階のブルジョワ的な美徳が残らず闇のなかに噴きだしていた。ところが、あわい月光のなかには、彼女の裸身が白々と光っていた。彼女は壁からさえ嫌悪の眼でみられているような気がし、シュミーズを引きよせて足をかくした。
(14章、下142-143ページ)

この作品にはゾラの得意とする無生物の擬人化があまり出てこないのだが、その数少ないもののひとつがこの場面である。情事の現場を夫に見つかって逃げ出したベルトの心許なさと、神秘的な月夜の建物との対照が映える。

ホーム講読ノートルーゴン・マッカール双書第10巻 [ 抜粋集 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。