「あたしの願いっていえば、地道に働くってこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりした住居をもつこと、つまり寝床が一つ、テーブルが一つ、椅子が二つ、それだけあればいいの、それ以上はいらない……。そうそう! それから子供たちを育てて、できればいい人間にしてやりたい……。」――ジェルヴェーズ(第2章)
ジェルヴェーズの当初の理想。まったくもってささやかな願いである。で、この理想がどうなったかというと……(下記参照)。
彼女は昔の理想を思い出していたのだ。心やすらかに働き、毎日パンを食べ、寝るためのこぎれいな部屋をもち、子供をちゃんと育て、ぶたれることもなく、自分のベッドで死ぬということ。(…中略…)なにもかもあべこべじゃないの! あたしはもう働きもせず、食べもしないで、ごみの上に寝ている。娘は淫売みたいなことをやり、亭主ときたらびしびしなぐりつける。のこるところは往来でくたばるだけ。(第12章)
ジェルヴェーズのこの感慨は、なぜこんなことになったのか、何がいけなかったのか、という憤りをはらんだゾラの問いでもある。
まったく一日一日はながく、そしてまたあまりに何度もくりかえされすぎるのだ。食い物をつめこんで、それを消化するまもないうちに、もう夜が明けて日は高くのぼり、人はまたまた貧困の首輪をはめなおさなければならないのだ。(第12章)
貧困は、日常を退屈で耐えがたいものにする。魂を打ちのめすような単調さの苦悩を、ゾラは経験的に知っていたのに違いない。
「あたしはできるだけお父さんに苦労をかけないようにしてきたわ……。だから、きょうは、おとなしくしてね。そして、あたしにさよならって言って、お父さん」――ユーラリー(第12章)
ユーラリー・ビジャールの最期の言葉。
「だれでも行くのさ……。押しあいへしあいの必要はないやね、席はみんなにあるんだから……。むやみに急ぐのもばからしいってことよ、急いでみたって、それだけ速く行けもしないんだから……。」――バズージュ(第13章)
葬儀人夫バズージュ、ジェルヴェーズの死に際して。
『居酒屋』の後半は、ナナの幼少時代の物語として読むこともできる。第9巻『ナナ』のよりよい理解のために、ナナの育った環境に注目することも興味深い。
父親がこの娘をなぐると母親がかばい、母親がぶつと、父親がくってかかる(…中略…)。ナナは両親が言い争うのを見て大喜びし、なにをしてもしかられないということがはじめからわかっているので、あらゆるいたずらをやってのけた。
こういう家庭に育ったんじゃ、多少はグレても仕方ありませんな。
父親が平手打ちをくわすと、ナナは憤然として、あんたみたいなぐうたらおやじがなぜ病院に残らなかったの、と口答えした。早くお金をかせいで、彼にブランデーを買ってやりたい、それを飲んでもっとさっさと、くたばってほしいと彼女は言い放った。(第11章、強調は引用者)
ナナの喧嘩、対おやじ戦。
しかしナナのほうも、しじゅうけがらわしい話を耳にしているので、言葉づかいはわるい。だから喧嘩になると、彼女はへいきで母親をあばずれとか、太っちょとか呼んだ。(第11章、強調は引用者)
ナナの喧嘩、対おふくろ戦。ほんとによく言うよ、この娘は。
ナナにはもう自分のものといえば、ぼろぼろのシーツにもぐりこむまえにかならずちょうだいするびんた以外、何ひとつなかった。(第11章)
びんたが「自分のもの」って……。
とりわけ彼女をかわいく見せたのは、白い歯のあいだから舌の先をちょろっと出すわるい癖だった。たぶん鏡に写してみて、そうすれば自分がかわいく見えるのを、彼女はとっくに承知していた。(第12章)
娼婦ナナの原型。
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