SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

生きる喜び

青春を賛美するルーゴン・マッカール双書第12巻。
Émile Zola "La Joie de vivre", 1884
『世界文学大系41 ゾラ』(筑摩書房1959年)所収(河内清訳)


【1】 ルーゴン・マッカール双書第12巻。
 双書のうちでは比較的マイナーな作品であるにもかかわらず、この巻には読みやすい翻訳が存在していた。筑摩書房の上記文献に収録されている約40年前の翻訳であるが、現在でも十分に通用する平易ですぐれた訳文である。ゾラの作品に関しては、新字体の訳であるというだけで拝み倒したいくらい有り難いことであり、本書を利用することができたのは非常に幸いなことであった。

双書における位置づけ
 本作は『ムーレ神父の罪』などと同様、双書中の「気晴らしの作品」である。厳密に言うとハッピーエンドではないが、美しい自然描写、叙情的傾向、有徳な主人公、舞台の限定、といった点で、この巻だけを楽しむこともできるものになっている。
 主人公は第3巻『パリの胃袋』のリザ・クニューの娘ポーリーヌで、リザが死んでポーリーヌが孤児となった1862年から物語は始まる。『パリの胃袋』で4歳の少女だったポーリーヌが10歳で登場しており、いわば『パリの胃袋』の後日談にあたる。ポーリーヌといえば、『パリの胃袋』では、フロランの教え子の悪ガキに意地悪されて、おしゃれな服をべとべとにされて泣いて帰ってくる場面が印象的であった。『パリの胃袋』を読んだ当時この12巻のことを知っていたら、もう少しポーリーヌに気をつけて読んでいたのに、と私は少し後悔したものである。
 ポーリーヌのほかにルーゴン・マッカール一族の人物としては、母リザと、オクターヴ・ムーレ、クロード・ランチエ、アリスティド・ルーゴン(サッカール)の三名が、ポーリーヌの親族として名前だけ登場するが、物語にはほとんど関わってこない。本作はポーリーヌの人生だけを扱う、双書中では独立性の強い作品と考えてよいだろう。
 また、もうひとつ興味深いことに、アントワーヌの長女リザと次女ジェルヴェーズは、双書中、それぞれ主人公となる一巻を割り当てられており(第3巻『パリの胃袋』・第7巻『居酒屋』)、その娘であるポーリーヌとアンナも、各一巻を担当している(本巻『生きる喜び』・第9巻『ナナ』)。このことはマッカール家系、特にアントワーヌの自堕落な傾向を受け継いだ庶民階級の生活に、ゾラが特に力を入れていたことを物語るものであるが、しかしリザの一家とジェルヴェーズの一家とでは最終的にその生き方が対照的になっている点は面白い。すなわちジェルヴェーズ、アンナという母娘が堕落と破滅の生涯を歩むのに対して、リザ、ポーリーヌの母娘は困難に遭いながらも懸命の努力で切り抜けていこうとするのである。同じ両親を持った二つの家庭がたどったこの正反対の道を比較しながら各巻を読んでみるというのも、興味をそそる課題であろう。

あらすじ
【2】 10歳で両親を失った少女ポーリーヌは、父の従兄であったシャントーの養女となり、パリから、さびれた漁村ボンヌヴィルに移り住む。雄大な海のふところで健やかに成長するポーリーヌは、やがてシャントーの息子ラザールとの間に兄妹のような愛情を育み、二人の間に婚約が交わされる。
 しかし厭世思想の影響を受けたラザールは死への恐怖に取りつかれていた。化学・医学・事業など、何をやっても長続きしないラザールを、ポーリーヌは辛抱強く励ますが、ラザールは事業家の娘ルイズと親密になってゆく。ラザールを愛するゆえに婚約を撤回してルイズと結婚させたポーリーヌはボンヌヴィルを去ろうとするが果たせない。
 いっぽう、ラザールは結婚後すぐにルイズと不和になり、ボンヌヴィルに戻ってきてはポーリーヌの世話を受けていた。この結果にポーリーヌは打ちのめされるが、それでも生きる希望を失わない。ポーリーヌはルイズの分娩に立ち合って、早産で死ぬはずだった未熟児の命を救い、この子ポールを我が子のように育ててゆくのだった。

ルイズの分娩
【3】 ゾラの小説の中には、たいてい、かれの執筆力を凝縮したような迫力にあふれる章が一つないし二つ存在し、明白な山場を形づくっているのが特徴である。本作もその例にもれず、第10章、ルイズの分娩の場面が明らかにその山場をなしている。またこの章は、血・出生・死など、ゾラの各作品に通底するモチーフがはっきりと現れる場面でもある。
 ルイズ・チボーディエはラザールの子を妊娠し、思わぬ早産のためポーリーヌの家の二階の部屋(そこはシャントー夫人が死んだ部屋でもある)で分娩を迎えることになるのだが、これが途方もない難産である。ルイズの苦しみ、赤ん坊が出てくるまでの困難、産婆の苦闘、破水、呼びにやった医者が到着するまでの人々の不安、夫ラザールの抱く恐怖、母体の衰弱、そうした出産をめぐる大騒ぎと血まみれの大混乱とが、克明に描写され、一気に読み通させるパワーをもっている。読んでいて私は、これは必ず母子のどちらが死ぬな、という確信を抱いたが、それほど凄惨な場面なのである。結果的にはポーリーヌの活躍により奇跡的に母子ともに一命をとりとめることになるが、第10章の終わりまで読み通したとき、一読者にすぎない自分までもが何か大難事をやりとげたような虚脱感に、私は襲われたものであった。このような緊迫感あふれる急展開を語る巧みさは、小説家ゾラの真骨頂を示すものである。本作は全体的には健やかな愛の物語なのだが、結末の直前に現れるこの迫力ある章の存在は、炭鉱労働者の過酷な生活と激しい争議行動とを扱った次巻『ジェルミナール』へと連続してゆくものを感じさせてならない。

厭世思想の影響
【4】 本書の表題『生きる喜び』は、当時、自然主義の青年たちの間で流行していたショーペンハウアーの厭世思想に対しての、ゾラの回答であるとみなされている。これらの青年たちの実態は、ショーペンハウアーの思想への共感というよりは、その厭世思想を生かじりにした結果としての厭世的な雰囲気にすぎなかったようであるが、これに対して、ゾラは本作をもって「生きることのよろこび」を堂々と打ち出したのである。作中、このような厭世的な態度の青年を代表しているのがラザールであり、彼がショーペンハウアーにかぶれていることが名指しで述べられている。ラザールは死への恐怖のため何をやっても中途半端に終わってしまう。だが、これに対してポーリーヌはショーペンハウアーを皮肉をこめて「大聖者」「おやじ」呼ばわりし、おおらかな親切心と健康な愛情によって周囲の人々を助けてゆく。ゾラの意図は、明らかに、厭世的な雰囲気に対する批判にある。
 ゾラの描く男のひとつの典型として、知識に中途半端にかぶれて、よくわからないまま知ったふうな口をきく、というタイプがある。『ルーゴン家の繁栄』のアントワーヌ、『パリの胃袋』のギャヴァール、『居酒屋』のランチエ、といった連中であり、たいてい飲んだくれである。ラザールは飲んだくれではないが、やはりこれと同類型に属する人物とみてよいだろう。かれは化学・医学・事業のいずれにおいても中途半端であるのだが、実はショーペンハウアーからの影響についても同じことが言える。ラザールの厭世観が確固たる思想的基礎を持つものではなく、世紀末の悲観的な風潮に流された情緒的立場に思想の外観を与えただけのものであることは、次の部分からうかがうことができる。

 彼の厭世観そのものがこの苦悩の寝台の前ではくずれた。その苦悩への彼の反抗は、彼を世界の憎悪におしこむどころか、実は健康へのはげしい欲求、生命への狂熱的な愛にほかならなかった。(第4章、319ページ)

 それは死の切迫をいつもなまなましく考えるために、行動するのがいやになり、生のむなしさを口実としてただ無意味にくらす均衡のくずれた男の倦怠だった。どうして騒ぎ立てるのか? 科学には限界がある、ひとはなにも阻止できないし、決定できるものでもない。そう考えた彼はその世代のひとびとに通ずる懐疑的な倦怠をもったのだった、それはもう昔の信仰を追慕して泣くウェルテルやルネのあのロマンチックな倦怠ではなくて、新しい懐疑派の英雄たちや、いっきょに蒸留器の底に生命をみつけなかったので腹をたてこの世界を無力と断定する若い化学者たちの倦怠だった。(第9章、397ページ)

 ショーペンハウアーの弁護のために言っておく必要があるが、ラザールの立場がショーペンハウアーの厭世思想とまったく一致しないことは明白だ。なぜなら、絶望や恐怖に基づく生の否定は実は「生きんとする意志」の裏返された肯定にほかならないことを、ショーペンハウアー自身がはっきりと述べているからである(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第4巻69節参照)。

生きる喜び
【5】 このようなラザール的な厭世観の対極に立つのがポーリーヌであり、また彼女の後見的役割を担う医師カズノーヴ先生である。パスカル博士を彷彿とさせる誠実な医者カズノーヴ先生がラザールに対して言う次の言葉は、厭世主義に対するゾラの批判の端的な要約とみなすことができよう。

「ああ! わたしはそこに今日の青年をみとめるね。彼らは科学をかじって、そのために病気になっている。つまり乳母のお乳といっしょにすった絶対の古い観念をそこで満たせなかったからさ。君たちは科学のうちに一挙に束にしてあらゆる真実をみたがっている。われわれはようやく科学がわかりはじめたばっかりで、科学はおそらくどこまでいっても果てしのない探究にすぎないだろうにね。そこで君たちは科学を否定し、もう君たちをあてにしない信仰にとびこみ、けっきょく厭世観におちこむのだ……たしかに、これは世紀末の病気だよ、君たちは裏がえしのウェルテルなのさ」――カズノーヴ(第7章、360ページ)

 また、献身と自己犠牲によってラザールを愛し続けるポーリーヌは、その善良な生き方そのものが、ラザールの厭世観に代わるひとつの代案である。

「この子の時代はたぶんもっと利口になるわ」
と彼女は突然いった、「坊やは生活をそこなうといって化学を非難することもないでしょうし、ひとはいつかは死ぬものと確信しても生きてゆけると思うでしょうよ」
(第11章、439ページ)

 彼女は小さいポールをゆすぶりながら、いっそう朗らかに笑い、従兄のおかげで大聖者ショーペンハウエルに改宗した、世界の救済につくすためにいつまでも娘でいるつもりだとふざけた。じじつ、彼女は自己放棄、他人への愛、邪悪な人間の上にひろげた親切そのものだった。太陽がはるかな海にしずみかかり、色あせた空から清爽な気配がひろがり、はてしない水、はてしない空気が、美しい日の暮れ方のあの感動的な静けさをたたえていた。小さい白帆だけがはるか遠くで、まだ一点の火となって輝いていたが、太陽が一本のまっすぐな単純な大きな水平線の下におりると、それも消えた。それからはもう薄闇がうごかない潮の上にしだいに濃くたれこめるばかりだった。ポーリーヌは夕闇に青んだテラスのまんなかで、しおれかえった従兄とぼやきつづける伯父のあいだに立って、元気よく笑いながら子供をゆすぶりつづけた。彼女はなにもかも剥ぎとられたが、その朗らかな笑い声はいかにも幸せそうだった。(第11章、439ページ)

 結末近いこの最後の描写には、美しい海の風景と相俟って、生に対する限りない肯定が感じられる。それは「生きる喜び」と名づけるにふさわしい場面である。ポーリーヌの境遇は、客観的にみれば決して恵まれたものではなかったかもしれないが、にもかかわらず、私たちは本書全体に、また特にこの結末近い描写の中に、「生きる喜び」を読み取ることができる。なぜならゾラの言おうとする「生きる喜び」とは、もろく失われやすい安泰と逸楽のことではなくて、豊かで、人間的な感情にあふれた生活、「いつかは死ぬものと確信しても生きてゆけると思う」ことのできるような、そういう生活のことであるからだ。私たちはここで、ゾラが決してロマン主義の対極にいるのではないことを確認することができよう。ゾラの青春をたどるなら、またゾラの作品を虚心に読むならば、ゾラの中には理想的社会へのロマン主義的情熱がたしかに息づいていることに、気がつくはずである。ゾラが批判したのは、「この世界を無力と断定する若い化学者たちの倦怠」、すなわち世紀末に特有の内向的なロマン主義だったのであって、そのゾラ自身のうちには、「ウェルテルやルネのあのロマンチックな倦怠」、より闘争的・外向的な初期ロマン主義の情熱が、しっかりと根をおろしていたのである。

【6】 そのほか、私の気づいた点をいくつか補足しておこう。

その他の論点
 無愛想な女中ヴェロニックは一時期、意外な正義感を見せてポーリーヌに同情するが、やがてまた無愛想になり、最後に自殺してしまう。これはシャントー夫人の死を嘆いての自殺とされているが、それにしては余りにも唐突であり、謎が残る。ヴェロニックの自殺に対するシャントーの言葉、「自殺するとは、ばかなやつだ!」(第11章、440ページ)が本作の結語をなすが、これも唐突な発言であり、厭世思想への批判の総括とみてよいのかどうか、私にはやや疑問が残る。
 ゾラの作品に共通する重要な要素のひとつである「死」が、小説を締めくくっていることも注意しておきたい。ゾラの作品には、「誕生」または「死」で終わるものが圧倒的に多い。『テレーズ・ラカン』しかり、双書第1巻『ルーゴン家の繁栄』しかり、第5巻『ムーレ神父の罪』しかり、第7巻『居酒屋』、第9巻『ナナ』、第14巻『制作』、第17巻『獣人』など、皆そうである。ゾラにおいては、死を直視することこそが、再生の希望への第一歩なのであろう。

ポーリーヌ・クニュー
 さて、本作の主人公ポーリーヌ・クニューは、比較的幸せな幼少期を送っており、そのために長じてからも親切心を失わない素朴で健康な娘になったものと考えられるが、その明るい性格は、暗い結末の多いルーゴン・マッカール双書の諸作品の中でも一つの救いになっている。

 シャントー家に引き取られてボンヌヴィルにやって来た最初の夜、ポーリーヌはラザールと隣接した一部屋を自分の寝室としてあてがわれる。だが、このとき10歳の彼女は、今まで部屋でひとりで寝たことがないため、寝るのが怖いのである。いったん部屋にこもった後、再び廊下へ出てきてしまったポーリーヌに、ラザールはどうしたのかと訊ねる。

 彼女は真っ赤になって、嘘をつこうとした、だがすぐ、正直にいってしまいたくなった。
「いいえ、ちがうの……あのね、扉に鍵をかけると恐いからなの。あたし、かけないわよ、いいわね。たたいたら、来てちょうだい……あんたがよ、よくって? 女中ではだめ!」
(第1章、267ページ)

 10歳の美少女にこんなことを言われたら、たとえ壁をたたくのが聞こえても、最初の二回までは絶対知らんぷりしてやろう、と思って男なら誰しもほくそ笑むであろう(しないか)。
 ルーゴン・マッカール双書をひととおり読み終えた後で、私は全登場人物(1200人以上いると言われる)を対象として、さまざまな種類の(独断と偏見による)ランキングを実施しようと考えているのであるが、ポーリーヌは、そのひとつに入賞することが私の中では確実になっている。
 ……からかい甲斐のある女、第一位内定

ノート
字数:6100
初稿:2001/01/14
初掲:2001/01/14
リンク
DATA:ゾラ
DATA:『生きる喜び』
ゾラ特設サイトマップ
筑摩書房
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。