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居酒屋

下層労働者の悲惨な実態を描くルーゴン・マッカール双書第7巻。
Émile Zola "L'Assommoir", 1877
ゾラ『居酒屋』(古賀照一訳新潮文庫1970年)


【1】 ルーゴン・マッカール双書第7巻。
 ルーゴン・マッカール双書全20巻のなかで最高傑作をひとつだけ選べと言われた場合に、真っ先に候補にあがるのが本作『居酒屋』であろう。個人の好みは別として、双書中の傑作を列挙するとすれば、第9巻『ナナ』、第13巻『ジェルミナール』、第15巻『大地』、第17巻『獣人』、第19巻『壊滅』などが考えられるが、少なくともこれらと並んで、候補から『居酒屋』が漏れることはまずあり得ないと思われる。日本での翻訳の多さは、おそらく双書中トップではないだろうか。

双書における重要性
 『居酒屋』が重要であるのは、それが双書中最初の成功作であり、当時の世間で賛否両論を含む激しい論議の的になったからというだけではない。『居酒屋』はその緊密な構成、叙述の迫力といった点でもそれまでの巻をはるかに凌駕し、ルーゴン・マッカール双書という連山の中の無類の高峰を、たしかになしているのである。ジェルヴェーズがヴィルジニーと洗濯場でののしり合いながら喧嘩する第1章などはゾラ以外の誰に書けただろうかという感慨を抱かせるし、ジェルヴェーズの誕生祝いのパーティー(第7章)、飢えたジェルヴェーズが冬の街をさまよってグージェに行き会う場面(第12章)などには、人間の欲望を描くにたけたゾラの力量が、遺憾なく発揮されている。
 また『居酒屋』の重要性は、双書全体をルーゴン・マッカール家の物語として把握した場合にも明らかである。『居酒屋』の主人公となるジェルヴェーズはマッカール家系第3世代、アントワーヌ・マッカールの次女である。アントワーヌの子どもには長女リザと次女ジェルヴェーズ、そして長男のジャンがいるが、リザとその娘ポーリーヌの系譜を除いては、だいたいみな下層階級に属する。ここでジェルヴェーズの子どもたち(マッカール家系第4世代)の境遇を見ると、長男クロードは世間に認められず貧窮する天才的な画家で、のちに自殺してしまう(第14巻『制作』)。次男ジャックは偏執的資質をもった機関士で、これも喧嘩がもとで死ぬ(第17巻『獣人』)。三男エチエンヌは過酷な炭鉱の労働者で、事故で恋人を失う(第13巻『ジェルミナール』)。さらに娘アンナ(ナナ)はパリの高級娼婦として一世を風靡するが、やがて天然痘にかかって身体が腐って死んでしまう(第9巻『ナナ』)。すると、ジェルヴェーズとその子どもたちの物語だけで、前掲の傑作とされる作品群をほぼカバーしてしまうことに気づくだろう。そして、残る『大地』と『壊滅』はジェルヴェーズの弟ジャンの物語であることにも注意しておきたい。
 ルーゴン・マッカール両家の人々の生涯を俯瞰すると、概してルーゴン家系(と、マッカール家との混合のムーレ家系)の人々は社会の上層で成功して幸福な人生を送っているのに対し、マッカール家系の人々は下層階級として悲惨な生涯を遂げるという傾向がある。ジェルヴェーズとその子どもたちの物語は、この悲惨さの最たるものを示しているのであり、ここに傑作が集中しているということは、ゾラがルーゴン・マッカール双書において下層階級の実態の描出に最も力を入れていたことを、如実に示すものと言えるだろう。

あらすじ
【2】 愛人のランチエと、その間に生まれた二人の息子クロード(8)、エチエンヌ(6)とともに、故郷プラッサンからパリへ出てきたジェルヴェーズ(22)は、お針子のアデールにランチエを奪われ、生活に困窮する。それでもくじけず、彼女は洗濯女をしながら懸命に生きてゆく。
 そんなジェルヴェーズに好意を寄せるブリキ職人のクーポーは、たび重なる求婚の末、姉たちの反対を押し切ってジェルヴェーズと結婚する。その後数年間、クーポーとの結婚生活は順調にはこび、ジェルヴェーズは娘アンナ(愛称ナナ)をもうける。夫婦には貯金もでき、ジェルヴェーズは雇いの洗濯女をやめて洗濯屋を開業することを考え始める。
 この時、クーポーが不慮の事故で脚を大怪我してしまう。しばらくの入院ののちクーポーの怪我は治るが、この間にクーポーには怠け癖がついていた。いちじ独立は危ぶまれたが、ジェルヴェーズは真面目な労働者のグージェ親子から大金を借りて、周囲の懸念と嫉妬をよそに、洗濯屋を開業する。
 当初は好調であった洗濯屋の営業は、しかし、ジェルヴェーズの誕生祝いのパーティーの日を境にして、転落を始める。クーポーは店の売り上げのほとんどを飲みつぶしてしまい、また、ひょっこりと戻ってきたランチエが店に居候することになる。そしてある日ジェルヴェーズはランチエの誘惑に屈し、その寝室へと連れ込まれる。その姿を、娘のナナは好奇心で眼をギラギラさせながら覗き見ていた。
 クーポーとランチエの怠惰、ジェルヴェーズの堕落はとどまるところを知らず、ついにジェルヴェーズの洗濯屋は破綻し、手放さなければならなくなる。一介の雇い女に戻ったジェルヴェーズは、クーポーともども、不良娘に成長したアンナに当たり、毎日のようにひっぱたく。ナナはやがて家出し、街で娼婦の暮らしを始める。
 働く意志を失い、貧窮の底にあえぐジェルヴェーズは、ある日、クーポーにそそのかされて、売春して稼ぐ決心を固める。だが、冬の街へ出ていったジェルヴェーズが行き当たったのは、ジェルヴェーズに想いを寄せていたグージェだった。
 生きる気力を失ったジェルヴェーズはひたすら死を待ち望む。クーポーはアルコール中毒の発作で全身が痙攣して死ぬ。その数か月後、アパートの屋根裏部屋でジェルヴェーズが誰にも知られずに死んでいるのが発見される……。

不道徳な作品?
【3】 このようにあらすじをたどると、この作品が、読んで楽しいものでも、娯楽性に富んだものでもないことは直ちに了解されるであろう。実際、ジェルヴェーズの一家が堕落し、破滅してゆくさまは陰惨で、みにくい。そこには、人間の卓越した理性や情熱といったものは見られず、ひたすら、生活との闘いに破れ、落ちぶれやせ細ってゆく家庭の姿があるばかりである。しかもこの転落において、ジェルヴェーズが単なる被害者ではないこと、つまりジェルヴェーズもまた酒に溺れ、仕事を怠け、子どもを殴りつける当人であるという点が、一家のこの転落をなおさら救いのない、絶望的なものにしている。ここには、もはやどのような希望も存在しないかのようである。
 だが、ここから、ゾラが労働者の悪徳に対して嫌悪を表明しているとみなすのは、早計である。これは「ルーゴン・マッカール」の多くの作品についても、また『テレーズ・ラカン』などについても言えることだが、人間の悪を描き出すとき、ゾラは決して、その悪を突き放し、拒絶しようとしてそうしているのではない。むろん賛美しようとしているのでもない。世間からとりわけ大きな顰蹙を買った『居酒屋』や『ナナ』においてもまた、というより、これらの作品においてこそ、そのことは強調されるべきであろう。ゾラが目指したのは、人間がいかにして堕落してゆくのかを明晰に描写すること、そのメカニズムを徹底的に暴露することだった。そしてこれらの作品を注意深く読むならば、私たちは、ゾラのその執拗なまでの暴き出しの果てに、暴き出された醜悪さを直視することを通じてしか到達することのできない、ある倫理性と希望とが、たしかに立ち上がってくるのを見るであろう。「『居酒屋』は、わたしの書物のなかでもっとも道徳的な作品なのである。」(5ページ)という、序文でのゾラの弁明は、こんにちの私たちにとっては、作者の釈明を必要としないほど明白なことであると私には思われる。

悪徳のイデア
【4】 『実験小説論』において主張しているように、ゾラにとっての自然主義文学とは、人間の精神活動のメカニズムを明らかにするために登場人物を特定の社会的文脈の中に置いてその資質を展開させようとする、「実験としての小説」を志向するものであった。この主張が科学と文学の粗雑な同一視に基づいていること、またゾラの作品自体が、『実験小説論』の設定した方針を大幅に逸脱していることは、すでに幾度も指摘されてきた。たしかにジェルヴェーズにしてもナナにしても、19世紀後半のパリに実際に存在した労働者、娼婦の姿そのものではないのであろう。そこにはまぎれもなくゾラによる誇張と強調とが施されていると考えられ、その意味において実験小説論ないし自然主義文学は、ある程度までは、ゾラ自身によって裏切られているとさえ言えるかもしれない。しかしこのとき、まさにその逸脱ないし裏切りによって、ゾラの作品のほうこそが普遍性を獲得しているのだという点を見落としてはならないだろう。ゾラの描く人間は、たしかに文字通りの意味で「ありのまま」ではない。だが第一に、ゾラが人間を誇張して取り上げるその扱い方においてこそ、ゾラの叙事詩人的な個性が見事に発揮され、ゾラの作品を「実験小説」といった自己規定よりはるかに高いところへ引き上げていることを忘れてはならない。そして第二に、人間性の図式化と誇張を、人間性の悪徳や堕落の方面において行ったところに、ゾラの作品の重要な側面が存するのだという点に、注意を払うべきである。
 実際のところ、ゾラの描く人間が現実に存在するかどうかは、さして問題ではないのである。なぜなら、ゾラの作中の人物は、それでも圧倒的な迫力をもって私たちを納得させるからだ。私たちはジェルヴェーズのような典型的な転落の人生をたどった人間を現実には知らないかもしれない。しかしそれにもかかわらず、『居酒屋』はたしかに私たちを説得する。おそらくそれは、ゾラが極端な形で描いてみせたジェルヴェーズの生涯が、どこかで、何らかの形で、私たち自身の経験と共鳴するからに違いない。そのような意味で、『居酒屋』はたしかに、明晰な、またジャーナリスティックな作品なのである。酒に溺れて堕落してゆくランチエやクーポーの姿、また両親に殴られて育ってやがて家出するナナの姿は、こんにち、アルコール中毒やドメスティック・バイオレンスとして提起されてきた問題の、あたかも典型的な事例報告として書かれたかのようではないか。

結論
【5】 つまり、ゾラが描き出したのは、たしかに一つの「理念」であった。だがそれは、甘美なロマン主義的理想ではなく、人間の持つ腐敗と堕落と醜悪さとのイデアだったのである。それは、資本主義の矛盾を露呈し始めた19世紀後半フランスという社会にあっては、適切な問題意識であったと私は思う。と同時に、人間の苦悩が社会環境の影響の下で形成されるときには、ロマン主義的夢想への逃避よりも、人間の悪徳のこうしたあからさまな暴露こそが、その克服のために避けて通ることのできない要件となる。乗り越えるためには、きちんと見なければならない――ここにおいて、「はっきりと見ること」「正確に理解すること」の倫理性が立ち現れてくる。『居酒屋』の登場人物たちの悲惨な生涯の中に、それでもなおひとすじの光が立ち昇ってくるのに、私たちは気がつくだろう。たとえば生真面目な労働者グージェの中に。たとえば父親に殴り殺されてしまう少女ラリーの中に。二人の人生はたしかに不幸なものではあったが、その不幸は、ついに二人の徳性を押しつぶすことはなかったのである。すべての感情を喪失しつつあったかのようなジェルヴェーズでさえ、ラリーの死に心動かされ、グージェとの関係の破局を深く嘆いた。人間の悲惨と堕落とを描写したゾラは、しかしどのような意味においても、ペシミストやニヒリストではない。『居酒屋』は、ジェルヴェーズという一人の女の堕落を描きながら、それを余儀なくさせるような都市生活の現実への告発を含み、同時にまた、(双書の後の巻で次第に前面に出てくるような、)その堕落の底からの人間の再生の希望をも、たしかに隠し持った作品なのである。

ノート
字数:4800
初稿:2001/01/12
初掲:2001/01/12
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