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ナナ

高級娼婦の世界を舞台にパリの腐敗した性を描く双書第9巻。
Émile Zola "Nana", 1880
『新集世界の文学22 ゾラ』(中央公論社1968年)所収(平岡篤頼訳)


【1】 ルーゴン・マッカール双書第9巻。高級娼婦の世界を描いて大きな反響を呼んだ、ゾラの代表作のひとつである。すでに『居酒屋』において成功を収め、自然主義作家としての地歩を固めるいっぽう、不道徳な作家として激しい攻撃にもさらされていた時期にゾラが発表した本作は、「ヴォルテール」紙に連載されるや否や轟々たる非難を浴びた。しかし1880年に出版されるとたちまち五万部以上を売り切り、フローベールによる絶賛をも受ける。

I 序論

双書における位置づけ
【2】 本作は双書を代表する重要な作品のひとつであり、特に双書のほぼ真ん中に位置して独特の意義を持っているため、この点については詳述する必要があるが、まずは通例に従って、ごく基礎的な位置づけだけを行っておこう。
 本書の主人公アンナ・クーポーは第7巻『居酒屋』の主人公ジェルヴェーズ・クーポーの娘である。アデライードに端を発する三家系五世代のうち、ゾラがもっとも力を入れて描いたマッカール家系第四世代に属し、クロード(第14巻『制作』)、ジャック(第17巻『獣人』)、エチエンヌ(第13巻『ジェルミナール』)の異父妹、ポーリーヌ(第12巻『生きる喜び』)の従妹、そしてジャン(第15巻『大地』・第19巻『壊滅』)やリザ(第3巻『パリの胃袋』)の姪ということになる。パリで生まれパリで育った下層階級の娘であり、系譜・出身・素性のすべての点で、双書に登場する人物の一典型をなすものと言える。
 ナナの若年期については、母ジェルヴェーズの生涯を描いた『居酒屋』でも扱われており、本作はその意味で『居酒屋』の続編と位置づけることができる。また、本作の結末をなす普仏戦争の勃発は第二帝政の終焉を描いた第19巻『壊滅』に接続するものと見なすこともでき、その前編をなすと考えてもよい。とりわけ『居酒屋』はナナの幼少期が描かれている点で本作と関連が深く、ナナという娘のより深い理解のために、本作と合わせて読む価値はおおいにあるだろう。
【3】 ところで、双書20巻を執筆順に並べたうえで、前期と後期に分類して考察することには一定の意義があると思われるが、このような分類法をとる場合、本作『ナナ』は微妙な位置を占める。ごく形式的に巻数を基準にして、1巻から10巻が前期とすれば、本作は前期に属する。この分類は作品内容の面からもある程度支持できる。ルーゴン・マッカール双書20巻を「崩壊から再生へ」という流れのもとに把握し、破壊と死を描くのが前期、再生と復興への希望を描くのが後期とすると、その転換は第10巻と第11巻の間にあると考えられるからだ。しかし他方、本作をもって後期の始まりとする観点も採用可能であるように私には思われる。というのは、後期ルーゴン・マッカールに共通する顕著な特徴として「生き生きとした群衆描写」というものがあり、これは『ナナ』において初めて明確な形で姿を見せるからである。そして9巻を後期の始まりとするこの観点にも形式的な根拠があり、それは刊行の際、作品に付せられた系図の存在である。ゾラは最終巻『パスカル博士』の末尾にルーゴン・マッカール家の系図を付して両家系の歴史を総括しているが、これと同じような、しかし不完全な系図が、第8巻『愛の一ページ』の末尾にも収録されている。つまりこうした系図の掲載によって、ゾラはそれまでの作品を整理し、一つの区切りをつけようとしているかに見えるのである。
 従って本作は、視点の取り方により双書の前期にも後期にも属すると見うる位置にあり、あえて言えば、その両方に半分ずつ属するものと評することができる。この中間的性質が本作の非常に興味深いところであり、『ナナ』論のひとつの焦点になるものと私は考えているが、この点については後述することにする。
【4】 また作中の年代について付言すると、本作においても作者ゾラの年代設定には混乱が見られる。本作の結末は普仏戦争開戦の日であり、これは歴史的に不動な1870年7月である。そして私の計算では作中で最低でもまる三年が経過しているので、物語の開始は1867年になるはずである。ところが、1852年生まれとされているナナは物語開始時にすでにルイ坊やを生んでおり、しかもこの子どもは「ナナが16歳の時に生んだ子ども」と説明されているのである。これはおそらく、連載小説の性質上、ゾラが年代設定の一貫性をとり損ねたものと理解すべきであろう。他の設定とのつじつまを合わせるためには、作中の経過時間を二年以内に圧縮して理解するのがいちばん好都合ではないかと私は思う。
 なお、本稿における表記の準則について補足しておく。本作の題名『ナナ』はそのまま主人公の名前であるので、混同を避けるため、以下の記述では作品としての『ナナ』をナカカッコ付きで表記し、主人公を指すときにはそのままナナと表記することにする。

あらすじ
【5】 パリのヴァリエテ座、『金髪のヴィーナス』の初公演で、全裸に近い姿で舞台に登場した新人女優ナナ(アンナ・クーポー)は、観客の大喝采を浴び、居並ぶ紳士たちをたちまち魅了する。この成功をきっかけとして銀行家や貴族との交際が始まり、もともと貧しい洗濯屋の娘でありながら、ナナは高級娼婦として上・下層階級の接点となっていく。
 娼婦として上流社会からは半ば軽蔑されながら、それでも有力者の後援を得ているために、ナナの生活は貴族並みの贅沢を極める。高級娼婦たちの存在は貴族の交際関係に絡み合い、次第にその道徳を腐敗させていった。ナナの肉体的魅力と放縦な振る舞いは、皇后の侍従ミュファー伯爵を虜にしたばかりでなく、社交界の貴婦人たちにもじわじわと浸透し、貞淑で名高かったミュファー伯爵夫人サビーヌを新聞記者との密通にはしらせる。
 その一方で、ナナには娼婦としての不幸も待っていた。同僚の男優フォンタンとの同棲と暴力を振るわれる毎日、お金に困り街娼となって過ごす日々、娼婦の摘発に怯える夜、そして女優への復帰、ライバルとの役の奪い合いなど、ナナの人生は迷走を続ける。
 やがてミュファー伯爵の愛人となったナナは、目を瞠るばかりの途方もない濫費と逸楽により、ミュファー伯爵をはじめ、パトロンの男たちを次々と破滅させてゆく。自殺、政略結婚、横領、破産、駆け落ち……。ナナの悪徳は紳士たちを破滅させ、貴婦人たちを堕落させていくのだった。
 ミュファー家の破滅ののち、ナナは突如屋敷を売り払ってパリから姿を消す。あるいはカイロで、あるいはロシアでナナに会ったという者があり、やがてその名が伝説となろうとする頃、ナナがパリに戻って死にかけていることが伝わる。天然痘にかかって見る影もなく醜くなったナナは、普仏戦争開戦の報に接して熱狂する群衆のどよめきを遠くに聞きながら、ホテルの一室で数人の娼婦に見守られて息をひきとる。

特質
【6】 『ナナ』の特質がどこにあるかを簡潔に説明するのは難しい。いったい『ナナ』は、どのような物語であると言えばいいのだろうか? 『ナナ』はナナという女の物語である、というのは一見ばかげたトートロジーである。しかしこのトートロジーは、本作においては文字通り以上の含蓄を持っているように思われる。
 本作は、パリの下層労働者と上層貴族との接点となる高級娼婦の世界を描くことを通じて、それぞれの階級のそれぞれの腐敗のありさまに焦点を合わせ、その描出の過程で、パリの生活・風俗の実態を記録する。同時に、人間が集団を形成した時に生み出される集合的エネルギーとでもいうべきものに着目して、群衆を群衆として生き生きと描いてみせる。ここでは人間を決定する要因としての遺伝は後景に退き、代わって環境決定論への傾斜が見られる。そしてこれらの雑多で多面的な諸要素の中心にあって、物語を結末へ向けて収束させていくのは、ナナという一人の女である。
 本作がなんらかの形で関連する主題は多い。あたかも、パリという都市での生活の雑多さを、ゾラはそのまま作品中に持ち込んだかのようである。ナナは高級娼婦である、という規定はもちろん正しいが、しかし十分な規定ではない。ナナは高級娼婦であると同時に女優であり、労働者の娘であり、パリのお転婆であり、うぶな少女であり、母であり、殴られる女なのだ。ゾラは本作で、人間の生と性の猥雑さをそのまま切り取って作品の中へ写してみせている。というよりも、ゾラはその叙事詩人的想像力でもって、人間の生活の猥雑さそのものという主題を作品に結実させている。それゆえ、主題の面から言えば、本作はほとんど全貌を把握しがたいほどに複合的・多面的である。
【7】 しかし主人公ナナの眼を通して見るときには事情は違う。私たちがナナに共感して本書を読むなら、これら雑多な問題群は、そのとき一つの全体、一つの生として把握されうる。貴族・庶民・性と風俗・群衆・社会環境。それらを貫いて一本のまっすぐな芯、すなわちナナという名の芯が通っている。ナナというひとりの女の生涯を媒介として、この複雑怪奇な諸世界は一つに結びついているのだ。本作の主題はナナである、と言いたくなるのはこのためである。
 この混沌とした世界に、主題の次元であえて分析の光を導入するとすれば、次の三つの視点を中心にして本作を照らし出すことが有効ではないかと私は考える。すなわち「群衆の登場」・「遺伝から環境へ」・「反抗心の目覚め」がそれである。
 この三つを挙げることは伝統的な『ナナ』理解に即したものであり、独創的なものではないが、そのぶん大きな見落としをせずに本作の全体像を把握するのに適している。これら三つはそれぞれ密接に関わり合いながら本作を貫く大きな流れになっているのであり、私が本稿に与えた任務、すなわち、独自の新説を打ち出すよりも、論点を適切に要約し整理することによって本作の理解に貢献したいという役割を果たす上では、便利な方法であると思われる。

論旨概観
【8】 ここで、以下の論旨展開をあらかじめ瞥見しておきたい。
 本作の中心をなす大きな主題は、「群衆の登場」、「遺伝から環境へ」、「反抗心の目覚め」の三点である。これらの主題がどのような形で作中に現れているかを、まず、ゾラの文章から直接読み取れる限りで指摘したい。とりわけ群衆の描写は、双書中本作において初めて明確な形で現れ、小説としての本作の出来映えにも大きく寄与している。
 ところで、これら三つの主題はそれぞれ関連することなく別個並行して現れるのではなく、相互に緊密に結びついている。また双書の流れからいっても、第9巻にあたる『ナナ』は、『ナナ』以前の諸作と『ナナ』以後の諸作との混合的性格を示して、独特な位置を占める。そこで次に、上記三つの主題を総合しつつ、前後の作品との関係をも視野に入れて、本作の意義と位置づけを、私なりの視点から提示する。これは『ナナ』の意義を包括的に把握しようとする試みであり、本稿の核心をなすものとなるはずである。
 以上を要約すると、私が本稿において『ナナ』の特質として主張したいのは次の四点である。

  1. 群衆の登場:集団的人間の発見
  2. 遺伝から環境へ:集団的人間はどのようにして可能になったのか
  3. 反抗心の目覚め:これほどの腐乱と懶惰の果てに、再生はなぜ可能なのか
  4. 双書における独特の位置:前期から後期への転回点

II 群衆の登場

【9】 この物語のもっとも力強く魅力的な点は作中に現れる群衆の描写である、という見方には多くの読者の同意を得られるであろう。純粋に小説として『ナナ』を読むとき、まず真っ先に私たちの心を捉えるのは、ひしめき合い、叫び、興奮する群衆のエネルギーの力強さである。多数の人間が同時に一箇所に集まり、皆がひとしく同じ事柄に関心を注ぐとき、個々人のエネルギーの総和を超えた、なにか巨大な集合意志のようなものが発生する。それはあたかもリヴァイアサンのように、個人の意志とは別の目的・別の動機をもち、不気味な巨大なうねりとなって蠢動する。この怪物を構成しつつその中に呑み込まれた人々の、混雑、熱狂、そして強い一体感。このような群衆の姿こそ、ゾラが本作においてそのジャーナリスト的・叙事詩人的才能でもって見事に描き出して見せたものである。それは小説家としてのゾラの特質をよく反映しつつ、本作のなかでもっとも読者の興奮を誘う場面をなしている。
 本作において、こうした力強い群衆描写は三回にわたって登場する。

  1. 劇場の観客たち(第1章)
  2. 競馬場の観衆(第11章)
  3. 開戦の報に熱狂する民衆(第14章)

 この三つの群衆のうち、1.と2.は明らかにナナに関わり、直接・間接にナナを求心力としている。つまりナナが造り出した、あるいはナナのための群衆である。これに対して3.はナナ個人に関連するものではないが、ナナの孤独な死と対比をなし、その背景として描かれる。戦争というカタストロフへ向かって突き進むこの群衆の熱狂は、死にゆくナナに殉じ、ナナに捧げられたものであるかのようだ。本作の全体を貫く共通項としてのナナの存在は、この群衆描写という主題において極めて明白である。
 本作で最も魅力的な、最も迫力あふれるこの群衆描写の場面をひとつずつ紹介するところから始めよう。

(1)劇場の観客たち
【10】 冒頭第一章において描き出される劇場の観衆の熱狂と興奮が、本作の中の最初の群衆描写である。これは同時に、ヴァリエテ座の『金髪のヴィーナス』初回公演においてヴィーナス役として舞台にのぼったナナの、初登場紹介場面でもあり、ナナの強烈な性的魅力の描写によって読者を一気に物語に引き込む役割を果たしている。
 舞台に登場したナナは、その演技のまずさによってはじめは観客の失望をかう。しかし、それにもかかわらず、ナナはその露骨なエロティックな踊りによって次第に観客の注目を集める。男たちはもちろん、眉をひそめる貴婦人たちでさえ、その関心はナナの上を離れることがない。やがてナナがほとんど全裸に近い格好で再び登場したとき、ナナの破滅的なまでの魅力が観客の上に炸裂する。

一枚の薄布が彼女を包んでいるだけだった。その丸みをおびた肩、ばら色の乳首が上を向いて、槍の穂先みたいに突き立っている堂々とした乳房、肉感的な振動につれてゆらめく大きな腰、むっちりふとった金髪女の大腿などといった、彼女のからだ全体が、泡のように白く軽やかな布ごしに推察され、透けて見えるのだった。まさしく髪の毛以外に身をおおうものもない、波間から生まれ出たヴィーナスそのままだった。ナナが腕を持ち上げると、フットライトの光で、脇の下の金色の毛が見えた。拍手する者はなかった。だれももう笑わず、男たちの顔は真剣な表情で張りつめ、鼻をすぼめ、口はからからに乾いてつばも出なくなっていた。陰にこもった脅威をはらむ一陣の風が、音もなく吹き過ぎたかのようだった。突然この無邪気な娘のなかから、《女》が不気味な姿を現わし、女ならではの狂気の発作をたたきつけ、欲望の未知の世界を開いた。ナナは依然として笑っていたが、それは男を食い殺そうとする女のすさまじい微笑だった。
「すごい!」とだけ、フォシュリーはラ・ファロワーズに言った。
(第1章、33-34ページ)

 そして舞台の幕が下りたとき、「ナナ! ナナ!」という喚声が観客の間に轟きわたる。劇場の廊下は、ナナという一つの名前を取り沙汰する人々の群れであふれかえる。人々はこのナナという名前をめぐって興奮し、輪を作り、語り合う。ナナの圧倒的な魅力が、人々を一つの集団へとまとめあげたのだ。魅惑する女・ナナの、これが最初の輝かしい勝利の瞬間であった。
 この集団的熱狂こそ、『ナナ』に強烈なインパクトを与えている要素であり、二巻前の『居酒屋』にはほとんど見られなかったものである。ジェルヴェーズの生涯は、良かれ悪しかれ、一貫して悲惨さのドラマであり、彼女の破滅は、真綿で首を絞めるようにじわじわと彼女に訪れたのだった。しかしナナにあっては、栄光も破滅も含めて、その生活のほとんどすべての局面が、こうした劇的要素に彩られている。物語のこの幕開けが示しているように、ナナの生涯は、派手で猥雑で混沌としており、つねに一つのスペクタクルの様相を呈しているのである。

(2)競馬場の群衆
【11】 ナナを求心力とする群衆が次に現れるのは、物語の終わりに近い第11章である。ここでは、直接にはナナ自身ではなく、彼女から名前をとった競走馬ナナの、パリ大賞レースにおける予想外の勝利に対して人々が一体となって熱狂する。しかし、勝ち馬ナナに対する歓呼の絶叫「ナナ! ナナ! ナナ!」が平野をとどろかせ、「いまやみんなの心を占めているのが、馬なのか女なのか、わからなくなっていった」(384ページ)ような無我夢中の興奮状態に陥っている観衆の中で、青いドレスをまとい金髪をなびかせて、馬車の上に立ちつくすナナの姿は、まさに群衆の上に君臨する女王のごとくである。
 レースが半ばを過ぎ、誰もあまり期待していなかったナナが先頭争いに加わりながら、競走馬の一団がゴールに近づいてくるあたりから、人々の熱狂は激しく高まってくる。

 いまでは先頭の一団は、雷のような地響きを立てながら、猛然とこちらへ向かってきた。その接近と、いわばその息づかいとが、一秒ごとに大きくなってゆく、はるかなどよもしのうちに感じられた。群衆がこぞって、猛烈な勢いで、柵ぎわへかけつけていた。そして馬に先がけて、底ふかいどよめきが人々の胸からほとばしり出、打ち寄せる潮騒に似た響きとともに、だんだんと近くへ伝わってきた。十万の観衆が執念に憑かれて度を失い、何百万という大金をさらってゆくこの馬たちのギャロップを追って、偶然を願うおなじ一つの気持ちに燃えあがっているという、巨大な勝負のいわばどたん場の熱狂がそこにあった。押し合いへし合いし、踏んづけあい、拳を握りしめ、ぽかんと口をあけて、めいめい自分のことだけしか考えず、めいめいが声や身振りで自分の馬に鞭をあてていた。そしてこの群衆全体の叫び声、フロックコートの下から顔を出した野獣の叫び声が、ますますはっきりと鳴りどよもした。
(381ページ)

 そして騎手プライスのラストスパートの鞭打ちが功を奏して、ナナはイギリス馬スピリットに一馬首の差をつけてゴールインする。

 それはまるで、満ちてくる潮のどよめきのようだった。ナナ! ナナ! ナナ! 叫びは嵐のような勢いで大きくなり、ブーローニュの森の奥からモン=ヴァレリアンへ、ロンシャンの牧草地からブーローニュの平野へと、しだいに地平にみなぎっていった。中央の芝生では、気違いじみた熱狂の渦が爆発していた。
(中略)
 ナナ! ナナ! ナナ! その叫びが燦々と輝く太陽の光のなかに立ちのぼり、金色の雨が群衆の目まいの上に降り注いでいた。
 そこでナナは、ランダウ馬車の御者台の上に、ひときわ高く突っ立って、みんなが拍手喝采しているのは自分なのだという錯覚を起こした。
(中略)
 ナナは、平野全体がこだまして彼女に送り返す、自分の名前に相変わらず聞き入っていた。彼女の臣民が彼女に喝采を送っているのであり、それにたいして彼女は、日射しのなかに直立して、太陽の色の髪をなびかせ、空の色、白と青のドレスをまとって君臨しているのだ。
(382-383ページ)

 情景としては、この場面がおそらく本作で最も美しい場面であると言えるだろう。この熱狂の記述の力強さと人々のほとばしるエネルギー、金・青・白という色のコントラストが、ナナの勝ち得た勝利と栄光とを輝かしく引き立てている。自分の名を呼ぶ群衆を見下ろしてナナが馬車の上に直立するという構図は、あまりにも型にはまりすぎているという意見もあるようだが、私は単純に、この場面の力強さに圧倒された。ここにあるのは、もはや統制のきかない盲目的なエネルギーなのであり、それゆえに、技巧や文体を超えて読者に迫ってくるものがあるように思われるのである。

(3)求心力としてのナナ
【12】 以上の二つの場面において、ナナは、人々を熱狂の渦に巻き込む求心力となり、かつそのエネルギーの中心ともなっている。しかし、いったいどのような原因によって、ナナはそのような特別な地位を獲得し得たのであろうか。ナナの中の何が、ナナをかかる絢爛たる高みへと押し上げたのであろうか。このように問うとき、私たちはいっけん困惑させるようなひとつの事実に直面する。というのは、ナナという女には、とりたてて秀でたところ、人並みはずれたところ、つまり強烈な個性というものが、備わってはいないように思えるからだ。
 たしかに、ナナの肉体的魅力は強い。それが人々をナナに引き寄せる大きな引力になっていることは間違いない。しかしそれだけなら、ナナはひとりの売れっ子の娼婦以上のものではなかったはずである。いかに肉体的な魅力があるといっても、ナナは結局のところ、パリの下町で育った洗濯屋の娘であり、気立てのいい無邪気な女にすぎない。格別な教養も信仰も持っているわけではない。それがなぜ、人々の賞賛の絶叫を勝ち取り、皇帝の侍従を迷わせることができたのか。ナナがかくも壮大な熱狂と破滅との原因になりえたことを説明するには、その肉体的魅力だけでは十分ではないのである。
 私の考えでは、この点にこそ、ナナという女の重要な特質が存在する。単なる肉体的魅力を超えた「あるもの」、それがナナという個性の核心をなし、その実像に迫るためのキーポイントとなっている。同時に、これは本作の第二の特質である「遺伝から環境へ」という問題にも関連している。そこで、あと一つ残った群衆描写の紹介は最後にまわし、この第二の特質の考察に移ることにしよう。

III 遺伝から環境へ

【13】 今さら言うまでもなく、遺伝と環境により人間がいかにして形成されるかを描き出すことを「ルーゴン・マッカール双書」は当初の目標としており、その第9巻である本作もそうした観点から分析されうる。この点について、双書各巻に対してゾラの姿勢は必ずしも固定的ではなく、遺伝と環境のどちらに比重を置くか、またそれらの影響力にどれだけの大きさを与えるかに関して、巻ごとにかなりの相違が見られる。一般に、比重の置き方は巻がすすむにつれて遺伝重視から環境重視へと移行し、かつその影響力の大きさも少しずつ相対化されていく傾向があることを指摘できるが、本作『ナナ』において特徴的なのは、明らかに遺伝的要素が後退していることである。
 ナナはその性格と肉体的魅力によって華々しい成功を収め、そして破滅してゆくが、ナナのその性質に対する遺伝的形成の寄与は決して大きくはない。マッカール家の第四世代、アデライード→アントワーヌ→ジェルヴェーズという系譜の末にナナという娘が生まれる必然性は、遺伝の観点からは、必ずしも存在しないのである。これはとりわけ、ネガティブなほうの性質に関してあてはまる。ナナもまた母や祖父と同じように悲惨な末路をたどるが、その経緯にはそれほど強い遺伝的共通性はない。ナナはアントワーヌやジェルヴェーズのように飲んだくれではなく、酒に溺れることはないし、曾祖母アデライードが持っている神経症的なところも少ない。ゾラが残した設定資料(第20巻末尾に付された家系図)によれば、ナナの性格は父クーポーの気質が優勢な接合性混合遺伝で、精神的肉体的頽廃に転じるアルコール中毒の遺伝とされているが、このような影響は、『ナナ』を読んでみてもそれほど明瞭に意識されないし、おそらく作者のゾラ自身が、あまり力を入れて扱ってはいない。むろん、これら先行の人々との共通点を探せば、見つからないことはないであろうが、それはもはや「子は親に似ている」という程度の常識的な性質ばかりであって、遺伝によって「決定される」というほどの影響力を持ってはいないのである。
 これに対して、ナナの性格に大きな影響を及ぼしているのは、彼女の置かれた社会環境、そして生育環境である。ナナが「ジェルヴェーズの娘」としてマッカール家に属する人間らしくあるのは、まさに彼女が置かれた社会環境に照らしてなのだ。社会環境によって影響されたナナ、というこの側面が、本作の第二の特質であり、またナナの本質をなす。別言すれば、ナナは「環境によって作られた娼婦」なのであり、ここにこそ彼女の魅力の特質が存するのである。
【14】 本作を読むうちに、読者は、ナナという娘の意外な一面を発見して当惑することが少なくないであろう。たとえば、ナナが息子のルイ坊やをひきとるためにお金をはたくときや、ラ・ミニョットの別荘でジョルジュとの真剣な恋に落ちるとき。またフォンタンと同棲して殴られるままになっているとき。破滅的なまでの魅力で男を惹きつけるこの女が、突如として、愛情深い母親に、無邪気な娘に、黙って殴られる無気力な女に変貌する。このような多種多様な性質が一人の女の中に代わる代わる現れることが、どうして可能なのであろうか。ナナにとって、こうした相互にかけ離れた属性を自分のものとして受け入れることは、矛盾や葛藤を引き起こさないのであろうか。
 おそらくは、引き起こさないのである。というわけは、ナナの感情や振る舞いは、それぞれの場面ではたしかに真実の感情であり、真実の振る舞いだからだ。ナナはいつも、状況が要求するとおりに自己の考えや行為を形成するのであり、その点では常に一貫している。強い性的魅力を発散する娼婦としてのナナの側面でさえ、実は、その例外ではないのである。
 ナナは14歳で家出をし、そのままなしくずし的に娼婦になっていった娘だが、そもそも、こうした経緯じたい彼女の自由意思に基づく選択ではなかった。『居酒屋』の後半で描かれているように、ナナが思春期を迎えたのは母ジェルヴェーズの身代が急速に傾いていく時期にあたっている。かつての愛人ランチエが舞い戻ってジェルヴェーズを誘惑し、父クーポーは怠け癖がついて居酒屋に通いつめる。ナナは、不倫する母と酔いつぶれる父を見ながら暮らし、父の愛人に性の知識を授けられ、父に、のちには母にも、理由もなく殴られながら成長したのである。こうした環境にある娘が家出をするのには何の不思議もないし、そして家出をした娘が、都市で生きていくための手段として娼婦になるのもごくありふれたことである。ナナが14歳で家出したという事実は、ナナの図抜けた非行性を示すのではなく、ナナが置かれていた環境の厳しさを示すものである。
 そうだとすれば、ナナの娼婦としての一面は、その強い魅力にもかかわらず、ナナの個性の開花というよりは、ナナがその環境に適応した結果と見ることができる。それは、売れっ子の娼婦・人気女優という外見に似つかわしくないかような、無邪気で、善良で、受身なナナという側面と矛盾しないばかりでなく、むしろその延長線上にあるものである。ジョルジュとの甘美な恋、財産を築いたもと娼婦の婦人イルマ・ダングラールへの畏怖、男優フォンタンへの思慕と、殴られる生活への順応、こういったものは、よく考えてみればナナの年齢の娘には年相応の態度と言えよう。誰とも知れぬ男によってたった16歳で子を産んでしまうことでさえ、ナナの境遇を考えれば特に珍しいことではない。それは、ナナのような環境に置かれた娘がたどる、少なくともありがちな、ありふれた運命のひとつにすぎない。
 貴族の男たちを悩殺する娼婦としてのナナの側面も、実は、これと同じことなのだ。ナナは決して「天性の娼婦」といったものではない。男たちを次々と破滅させていく彼女は、企んでそうしているのではないのである。彼女は弱く、影響を受けやすい、気立てのいい一人の娘にすぎない。彼女の娼婦としての成功はただ、自分に与えられた環境に見事に適応してみせた結果である。娼婦ナナを作ったのはナナの個性ではなく、環境なのだ。
 環境とはここで、一対一の人間関係をも含めた、社会環境のことを言っている。このような環境は、その社会における強者によって設定され、弱者に対して適用される。強者とは、すなわち、女に対する男であり、庶民に対する貴族だ。「貴族」の「男」という社会の最上層の強者が設定した「魅力的な女」のイメージを誰よりも忠実に体現してみせたこと、それがナナの成功の最大要因であった。
【15】 だから女優としての成功、娼婦としての栄華は、ナナの栄誉の絶頂であったかもしれないが、それらが貴族の男たちの欲望に忠実に応答するという意味においての成功であった限りで、ナナは依然として環境の産物である。ナナが「環境によって作られた娼婦」であるというのはこのような意味である。愛人の男たちから巨額の金銭を搾り取って贅沢の限りを尽くしながら、それでもナナをいわゆる「悪女」とみなすことができないのは、彼女自身のほうが、より深いところでこれらの男たちの欲望に規定されていたからだ。ナナ自身が、物語の終末ちかくで、この被規定感を吐露している箇所がある。

「ええ、そりゃあ、わかってるわよ! どうせみんなは、やっぱりあたしのことを悪い女だって言うに決まってるわ……(中略)……そうよ、ナナをやっつけろ! あの獣をやっつけろってね……(中略)……あのけがらわしい女は、だれかれの見境なしに寝て、男たちをすっからかんにしたり、死なせたりするんだ、ずいぶん大勢の人間を苦しませるんだってね……」
(中略)
「まったくよ! これじゃ公平じゃないわ! 社会の出来方が悪いんだわ。いろんなことを要求するのは男のくせして、女ばかりが攻撃されるのよ……そうよ、いまだからあんたに言うわ。彼らと付き合ってるときだって、わかる? ほんとはあたし、楽しくなんかなかったのよ、全然といっていいくらい。ただ、うるさかっただけよ、誓ってもいいけど!」
(461-462ページ)

 一読すればわかるように、ここは本作の第三の特質、「反抗心の目覚め」にも関わる箇所であるが、今は環境の影響力という点だけに注目しよう。この重要な箇所において、「いろんなことを要求するのは男」、つまり男によって作られた環境がナナの行為を規定していたことを、ナナ自身が認めているのである。ナナの言い分を100パーセント受け入れることはできないにしても、ここにはたしかに、ひとかけら以上の真理が含まれている。ナナがナナのようであることを望んだり、そう仕向けたりしたのは、たしかに貴族たちであり、男たちであり、彼らが作り出したパリの現実であった。そのような意味で、どれほどの男を破滅させてみても、ナナは依然としてこれらの外的環境に規定されている。この環境の影響力の強さと理不尽さが本作の大きな特質のひとつをなしているのであり、これこそナナが、そしてまたナナの口を借りてゾラが、言いたかったことなのである。
【16】 こうして、本作においては、ナナの性格に対し環境の影響力が大きな役割を果たしていることが確認できる。とすれば、ナナが何故これほどの魅力を持ち得たのか、その求心力の秘密も、これに即して理解することができるだろう。
 すなわちナナは、男たちの欲望のままに自己を変貌させることによって、この男たちの欲望の受け皿になる。ナナのこの受動性と可塑性とが、男たちをして各人の「理想の女」をナナの内に見出させるのだ。ナナがあれほどの求心力を発揮しえたのは、逆説的だが、ナナが明確な自我や強烈な個性を持っていなかったからである。ナナは典型的な娼婦であった。そして、あまりに見事に典型的であったがゆえに、ナナは凡庸な娼婦であることを超え、一つの範型ないし象徴としての地位を勝ち得たのだ。多種多様な男たちの欲望はナナに流れ込み、ナナに受け入れられ、ナナの中で結びつく。そこに、人々を熱狂へと駆りたてるナナの求心力の秘密があった。本作の第一の特質、ナナを中心点とする熱狂的群衆の成立は、このようにして説明可能である。
 他方、こうした環境要因の重視は、この環境を設定し押しつける強者との接触へと眼を開かせるがゆえに、本作の第三の特質、すなわち「反抗心の目覚め」にも関わっていく。環境に規定されるだけでなく、その環境に反作用し、環境に復讐したり環境を変えたりしようとする可能性が広がるのだ。次に、この点について考察しよう。

IV 反抗心の目覚め

【17】 本作を読むとき、読者は本作のある特徴に気づくかもしれない。それは、本作『ナナ』が、二つの世界を扱っている、ということだ。すなわち、ナナが育ち、また多くの娼婦たちがもともとそこに属していた、下層庶民の世界と、ミュファーやサビーヌが属する、上層貴族の世界とである。ゾラは本作までにすでに双書を8冊書き終えているわけだが、それらは、上層階級を扱うことも(第6巻『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』)、下層階級を扱うことも(第7巻『居酒屋』)あったにせよ、少なくともそのどちらかの世界をもっぱら主題にするものであった。しかし『ナナ』においては、上流社会と庶民の社会とが、後者にやや重点があるとはいえ、かなりの程度まで同等の比重で扱われているのである。ひとつの作品の中で上層階級と下層階級の双方を取り上げた作品は、双書のこれまでの巻にはなかった特徴だと言っていい。
 この特徴は、高級娼婦という設定、すなわち庶民の出身でありながら貴族を相手に快楽を売る、両階層の接点となる職業を、ナナに与えた結果だと一応見なしてもよいだろう。しかしそのような指摘だけで説明を終わらせることはできない。高級娼婦が両階層を媒介するものとしても、問題は、そもそもそれは何故かということ、そしてまた、なぜナナが高級娼婦であるのかということにあるからである。
【18】 ミュファー伯爵の属する上層貴族とナナの属する下層庶民、この二つの世界は、あるときは並行し、あるときは絡み合いながら、本作において対照的に描き出される。この二つをゾラが一対のものとして提示しようと考えていたことは、本作の物語の展開と構成を調べてみると明らかである。
 そもそも冒頭の劇場のシーンが、ナナの登場を描くとともに、その観客としての貴族たちの交際関係をも紹介するものとして、上流階級と高級娼婦たちの交流の場を設定するものになっている。そして、続く第2章がナナが開いた娼婦たちのパーティーのばか騒ぎを扱うと、第3章ではサビーヌの家の堅苦しい社交生活が描かれてこれと対照をなす。また、第6章では、貴族たちと娼婦たちが、それぞれパリを離れて別荘へ移り、馬車に乗った両者が互いに軽蔑を隠してすれ違う場面がある。
 こうした両階層の対立的側面が強調されるいっぽうで、その接触関係に対してもゾラの追究は及ぶ。高級娼婦たちと貴族の男たちの愛情関係は本作の中で目まぐるしく流動するが、入り乱れるこれら愛人関係は、第4章、第6章などで追跡されている。一例を挙げると、ナナの愛人はスタイネール(上層)、ミュファー(上層)、ジョルジュ(上層)、シュワール(上層)などであるが、スタイネールのかつての愛人はナナのライバル女優のローズ・ミニョン(下層)であり、愛人を奪われたローズは新たにフォシュリー(上層)と関係を結ぶ。フォシュリーのかつての愛人は女優のリュシー(下層)であるが、彼は新たにサビーヌ(上層)を誘惑しようとする。そのサビーヌの娘エステル(上層)を、ナナの以前の愛人であったダグネ(下層)が結婚しようと狙っており、またフォシュリーの友人であるエクトール(上層)は女優クラリス(下層)からガガ(上層)へと愛人をくら替えしようとする。そのガガの娘アメリー(上層)に欲望を抱くのはシュワールである。
 こうして、対立・混合の双方の観点から二つの階層の接触が描かれるわけだが、このことの明瞭な帰結は、本作においては階層間の関係が扱われるに至っている、ということである。本作において、ゾラは、貴族の世界と娼婦の世界のそれぞれの実情を暴き出しているにとどまらない。その二つの階層の接触と相互作用、そして関係性をも追究しているのである。この関係性とは、すでに明らかなように、決して仲睦まじいものとは限らない。性的関係、放蕩、濫費といった性向において両者は一致する反面、基本的には庶民階層に属する娼婦たちと、内心では彼女たちを軽蔑している貴族たちとの間には、たしかに緊張関係が含まれている。一方が肉体で欲望をそそると、他方は金銭で性を買う。両者の関係がそのようなものである限り、そこにあるのは、たしかに一種の敵対関係なのである。
【19】 そして、本作の第三の特質、「反抗心の目覚め」が現れてくるのはまさにこの点においてなのだ。本作の記述の中に「復讐」という語が何度か現れることが私の注意をひく。ナナは、貧困に押しつぶされて衰弱死したジェルヴェーズの娘であった。しかし彼女は、母のように無抵抗には社会に押しつぶされはしない。ジェルヴェーズが死んだその同じパリで奢侈と浪費の限りを尽くす貴族たち、その貴族たちから、ナナは財産を巻き上げる。そこに復讐の要素が現れるのだ。それは庶民から貴族への復讐、パンを買う金がなくて死んでゆく階層から、ベッドの装飾のために大金を費やす階層への復讐なのである。

 彼女は社会なんか、その程度にしか考えていないのだ! それが彼女の復讐、血とともに彼女に伝えられた、父祖伝来の無意識的な怨みだ。
(452ページ)

 ナナに関わった貴族の男たちは、その気まぐれと濫費癖に翻弄されて、次々と破産してゆく。また、貴族社会の堅苦しい規範に閉じ込められた貴婦人たちも、男たちの不義やナナの奔放な振る舞いに毒されたかのように、ゆっくりと堕落の道を進む。貞淑な貴婦人サビーヌの不倫と駆け落ち、ミュファー伯爵のマゾヒズム性欲の開花、そして名門ミュファー家の没落。それはナナがその肉体ひとつでもって引き起こした、巨大なカタストロフである。

 場末の酔っぱらいたちの世界では、腐敗した家族は、陰惨な貧乏、パンのない食器戸棚、財布を空っぽにするアルコール中毒といった形で滅びてゆく。ところがここでは、一挙に積みあげられ火をつけられた財宝のがらがらと崩れ落ちる上に、ワルツが由緒ある名門を惜しむ弔鐘を鳴りひびかせるのであり、その間も目に見えぬナナの幻が、そのしなやかな肢態で舞踏会の上にひろがり、音楽の下卑たリズムに乗って、この人間たちを解体させ、暑い空気のなかに漂う彼女の匂いという酵素をしみこませてゆくのだ。
(413ページ)

 だれもがばかにするちょっとしたばかばかしいもの、つまりすべすべした裸体をちらつかせただけだったが、そんな恥ずべき、だが世界をも持ち上げるほどの強力な力を持ったつまらぬものだけで、彼女はたったひとりで、人夫も使わず、技師たちの考案した機械の助けもかりずに、パリを震撼させ、何人もの男の亡骸の眠るこのすばらしい財産を築いた。
(460ページ)

 ここで「庶民から貴族への復讐」と並行するようにして、必ずしも明示的でないもう一つの復讐がなし遂げられていることを見落としてはならない。それは「女から男への復讐」である。女なしではやっていけないくせに、女を低い地位に貶めたり、娼婦と呼んで軽蔑したりする「男の社会」に対する復讐が、男のうち最も地位の高い者たちを破滅させることで、このとき成就されているのだ。さきの引用(461-462ページ)でのナナのセリフは、直接には、まさに女から男へのこの反抗の目覚めを叫んでいるのである。ゾラはその作品のなかで女性問題を正面から取り上げることは少なかったが、注意深く読むならば、ゾラが決してこの問題を黙殺しようとしていたのでないことが理解できるであろう。
【20】 こうしてナナは、貧困と無気力が淀むパリの下町から飛び立って絢爛豪華な貴族の世界に入り込み、毒を振りまいて、かれらを破滅させる。ナナ自身はけっして自覚していないとはいえ、それは彼女を娼婦として決定づけた現実の環境に対する、最初の反抗の兆しなのである。ここには明らかに、のちに『ジェルミナール』などで中心主題を占めることになる階級対立の暴露が、萌芽的にではあるが、見え始めている。人間を決定しようとする社会環境の圧力への反抗と、その環境のもとで安眠をむさぼる階層への反逆と復讐。「金蠅」ナナが体現したのはその大きなうねりの最初の一歩である。快楽を振りまきながら貴族と庶民の間を飛び回り、触れたものすべてに腐敗をもたらす「破壊の女神」ナナの、これこそが本領にほかならなかった。第13章末尾の迫力あふれる記述は、あたかもナナのこの本性を要約するかのようである。

 彼女はただひとりで、この屋敷の山と積まれた財宝の真ん中に突っ立っていたが、その足もとには、無数の打ち倒された男たちが横たわっていたのだ。骸骨で埋まったおそろしい領地に住んでいたという、その昔の怪物たちと同じように、彼女の足は髑髏を踏みすえていた。そしてさまざまの悲惨な結末がそのまわりを取り巻いていたのだ。(中略)彼女の破壊と死の事業は達成されたのだ。場末の汚物から飛び立った蠅が、社会を腐敗させる菌を運んで、ただその上にちょっととまるだけで、こうした男たちを毒したのだった。それでいいのだ、正当なことなのだ、彼女は乞食や見捨てられた人たち、自分の世界の人間たちのために復讐してやったのだ。そして殺戮の野を照らす朝日のように、彼女の女の業が栄光に包まれて立ちのぼり、累々として横たわる犠牲たちの屍を照らすときにも、彼女はおのれのなせる業を知らず、依然として気立てのいい、美しい野獣としての闊達さを保っていた。(中略)そして、サタンに最後の接吻をしに行くために、盛装して出かけたが、その姿は清楚で、頑健で、いかにもみずみずしく、まるで一度もからだを使ったことなど、ないかのようなのだった。
(第13章結語、463-464ページ)

 しかしこの反抗も、最終的な勝利を収めることはない。なぜならそれは、自らの腐敗をもって上流階級を腐敗させる、いわば捨て身の戦いにほかならないからだ。ナナはかれらを破滅させることはできても、いつかは自分自身もまたその放蕩に蝕まれ、破滅してゆかねばならない。それがナナの悲劇であり、限界であった。第二帝政の不正義に対するほんとうの戦いの始まりは、第13巻『ジェルミナール』を待たねばならない。しかし、その最初の一歩は、『ナナ』においてたしかに踏み出されたのだ。本作の迫力ある最終章は、もはや止めることのできない、このカタストロフへの巨大なうねりを暗示しているのである。

V 詳論・『ナナ』の特質

混合的性格
【21】 以上、本作の特質として三点を挙げた。ところで、「群衆の登場」「遺伝から環境へ」「反抗心の目覚め」というこの三つの特質は、本作の全体に随所で現れるある共通の傾向に関わっている。それは、本作の混合的性格、ないし相互作用性の重視という傾向である。
 ナナという娼婦を決定するのに遺伝よりも環境が重視されていることについてはすでに触れた。しかし、これは遺伝的要素がまったく無視されていることを意味しない。ナナの気立てのよさ、信じやすさ、自堕落な性格といったものは、母ジェルヴェーズや父クーポーからの遺伝によるものとも、ゾラは見なしているのである。重点は移動したが、完全にとって替わられたわけではないのだ(「遺伝とともに環境」)。
 また、群衆の登場に関連して、ナナの求心力の本質についても考察した。すなわちそれは、娼婦の代表ないし典型としての個性、限りなく受身で可塑的であるがゆえに多くの人々を惹きつけるという逆説的な個性であった。ここにもまた、個への志向と集団形成へ向かうエネルギーとが、奇妙に混淆しているのを窺うことができる(「個性的な娼婦でありながら娼婦の代表」)。
 さらに本作は、貴族と庶民の双方を登場させることによって二つの世界の接触を描き出している。その接点にあたるナナの日常には、貧困にあえぎながら、パトロンを得たときには一挙に贅沢をきわめるという二面性がひそんでおり、またこうした贅沢の限りを尽くすことで、ナナは男たちに養われながらその男たちを破滅させるのである。ここには、環境に規定されながら環境に影響を及ぼすという相互性の契機が見られる(決定論とそれへの反抗)。
 これらの混合的性格は、本作が双書において占める独特の位置を指し示す。すなわち、この混合性は、双書全体を通じて見たときに、本作『ナナ』をひとつの転回点として大きな転換がなされようとしていることを意味するように思われるのである。双書における本作の位置づけが、双書全体の理解と関わって特に重要な意義を持つと思われるのは、このためである。そこで以下に、双書における『ナナ』の位置と、前期ルーゴン・マッカールから後期ルーゴン・マッカールへの発展という問題について、考察することにしよう。

「双書における『ナナ』」論
【22】 双書を前期と後期に区分する問題については、すでに本稿の冒頭で簡単に言及した。双書の前半と後半は、連続しつつも相互に異なる対照的な傾向を有しており、それは前期の代表作『居酒屋』(第7巻)と後期の代表作『ジェルミナール』(第13巻)とを比較対照すれば明瞭である。すなわち、前期諸作品の共通の特徴が「遺伝的影響力・個人的不幸・崩壊と絶望」といった点にあるとすれば、後期の諸作品は「環境の影響・社会的問題・再生と希望」という傾向を(ゆるやかにではあるが)共有しているのである。
 このうち「崩壊から再生へ」という重点移動は、従来、ゾラの文学的立場の変節を意味すると理解されることが少なくなかった。とくにゾラが双書完結後になおいっそう理想主義的傾向を強めたことから、この移動を自然主義小説の敗退として意味づけるものが散見される。しかしながら、私はそうは思わない。この変化は、ゾラの変節ではなく、むしろその立場の発展なのである。というのは、ゾラが晩年に到達したような現世的理想主義や、ドレフュス事件での活躍に見られるような真理と正義との現実的実現への努力は、自然主義の放棄によってではなく、人間の醜悪さを直視し、かつ、そこから生ずるペシミズムを克服した経験に立脚するのでなければ、到達し得ないものだからである。現実がどれほど理想に遠いかを欺瞞を伴わずに理解できたとき、初めて理想が語られうるのだ。それは現実への絶望に自閉するシニックなリアリズムや、それと盾の両面であるところの、現実への甘美な無関心に基づく超越的理想主義とは、明らかに異なる。その意味でこの転換はゾラの立場の合理的な発展にほかならない(注)。ゾラにとって、また双書にとって、『ナナ』はこの発展における最初の転換点として理解することができる。『ナナ』に関して双書中の位置づけが特に重要な意味をもち、また双書全体にとっても『ナナ』が特殊な意義を有しているのは、こうした理由に基づく。

(注)この点について、河内清氏が次のように述べている。「しかしその終末頃から漸次明るさを増し、次いでものされた『三都市』叢書や『四福音書』では人類愛的な空想社会主義的な思想や感情を露わに描くようになる。こうした発展は彼としては一連のもので、格別転回とは思えないが、一八九〇年前後の反動的情勢と共に、晩年にいたって知った若々しい情熱や子供たちへの愛情が一つの力となったと思える。」(河内清『世界文学はんどぶっく エミール・ゾラ』(世界評論社、1949年)41ページ、いくつかの旧漢字を新字体に置き換えた。)

 もういちど整理しておこう。私の考えでは、ルーゴン・マッカール双書において、前期と後期を対照させる変化は次の三点に要約される。

  • 遺伝から環境へ
  • 個人から社会へ
  • 崩壊から再生へ

 この三つの変化のうち前二者は、『ナナ』の中に明らかに見出すことができる。従ってこの意味では『ナナ』をもって後期ルーゴン・マッカールの始まりと考えてもよいと思う。これに対して「崩壊から再生へ」の変化は『ナナ』ではいまだ顕在化しておらず、環境に対するナナの反抗心としてかすかに現れているにすぎない。むしろこの点では『ナナ』を特徴づけるのはその壮大な崩壊のドラマのほうである。そこでこの第三の変化に関しては『ナナ』はまだ前期に属するとも見うる。(ついでに言うと、この点で再生の始まりと考えられるのは第11巻『ボヌール・デ・ダーム百貨店』であろう。)
 こうして『ナナ』は、前期と後期の橋渡し的位置に存在し、その結節点として、前期・後期双方の特徴を併せ持っていることになる。これが『ナナ』の位置づけの本質であり、私が『ナナ』の特質として環境への重点移動、群衆の登場、反抗心の目覚めの三つを掲げたのは、このことに対応しているわけである。
【23】 しかし前期と後期を特徴づけるこの三つの変化は、それぞれ独立に、並行してなされるわけではない。この三種の変化は相互に密接な関係にあり、これらが『ナナ』あたりから同時進行で起こりはじめること、さらには第三の変化だけがやや遅れることでさえも、理由のないことではないのである。これらの関連性については、すでに『ナナ』の特質を論じた各箇所で示唆しておいたが、ここで系統的にまとめておくことにしよう。
 ナナの母ジェルヴェーズの生涯を扱った第7巻『居酒屋』と本作『ナナ』とは、いずれもパリの貧しい女の破滅を描いている点で共通するとはいえ、ここには一見して明らかな差がある。ジェルヴェーズの場合、その不幸と没落はそれ自体としては個人的・特殊的事情であった。彼女の不幸の最大の要因は愛人ランチエの不誠実と夫クーポーの暴力にあり、この男との巡り合わせの悪さがジェルヴェーズの不幸を決定的にしている。もし別の男と連れ合っていれば、彼女の境遇はもう少しまともだったかもしれないという反実仮想を許す余地が、ここにはある。このような境遇にある女が決して珍しくはなかったとはいえ、それはあくまで理想からの一つの逸脱であり、ジェルヴェーズが夢みた幸福の挫折という意義を持っていた。彼女の不幸は決定されていたかもしれないが、それは彼女の「夢に反して」決定されていたのである。
 これに対して、『ナナ』においては熱狂的群衆の登場が明白な特徴をなしていることはすでに見た。ナナは、こうした熱狂の中心にして集約点であって、その魅力によってこのような求心力を勝ち得たのである。そして女優としての成功であれ、自分にちなんだ名前の競走馬の勝利であれ、これが女にとってひとつの栄光であることは論を俟たないであろう。この限りでナナは勝者であり、成功者であって、その発揮し得た力の大きさは母ジェルヴェーズの比ではない。ところで、ナナの不幸は、こうした成功からの逸脱によって起こるのではない。むしろナナの破滅は、この華々しい栄誉と懶惰との延長線上、その行き着く果てに、運命づけられたものなのである。ナナは人々を魅惑して熱狂させ、迷わせて破産させていったが、彼女自身は、自分のこの破壊的な魅力が自分をどこに運んでゆくのかを、ついに最後まで知らなかった。彼女はただ徹底して無邪気な娼婦であったにすぎず、だからこそ(貴族と男がつくった)環境が突きつける要求に限りなく自分を適応させることによって、その成功を築くことができたのだ。しかしこうした生活はついに何ものをも生み出すことはなく、結局は彼女自身の破滅をもたらすほかはない。娼婦としての最上の成功の果てに、ふいに破滅がふりかかるのだ。
 このとき、彼女の破滅はもはや個人的な不幸や失敗に還元することはできない。貴族と男の要求に限りなく応え、かつそれに成功してきた結果がこの破滅だとすれば、そもそも何がいけなかったのだろう? 彼女には理解できない。ナナ自身の言葉を借りれば「社会の出来方が悪い」のだ。ここにおいて、社会に不可欠なものとして社会から要請されながら、成功すればするほど軽蔑され貶められていく、娼婦という職業の不条理が現れている。ナナの不幸は、まさに、この娼婦としての構造的不幸を意味しているのである。
【24】 『居酒屋』から『ナナ』へ、個人的不幸から構造的不幸へのこの視野の拡大は、双書において、どのように可能になったのだろうか。この転換を可能にした前提とは何なのか。実はそれが、ゾラの決定論における遺伝から環境への重点移動であった。
 決定論における遺伝の役割を考えるとき、そのひとつの特徴はそれが通時的であるということである。遺伝は親から子へ、子から孫へと伝えられていくのであり、いわば過去から未来への影響力である。従って人間の人生が遺伝によって規定されているという観点のもとでは、その影響力の解明は、もっぱらその人物の家系上の位置に注目することによってなされうるだろう。この影響力は、影響を受ける者にあっては、多くのばあい個人的に受容される。遺伝は、血のつながった先祖から受け取るものであり、同一の遺伝を継承する兄弟姉妹がいたとしても、せいぜい数人にとどまるからだ。もちろん親もまたその親からの遺伝を受けている。しかし親はその配偶者からは遺伝を受けていない点で子と異なる。またそれ以上に、親と子と孫ではそれぞれ生きている時代が異なる。遺伝が人間に影響を及ぼすのは、あくまで個人的にである。
 これに対して、環境の影響は共時性をその特徴とする。環境は、同一の時、同一の場所において、同一の条件に置かれたすべての人々に影響を及ぼす。時間的・空間的に特定されたある社会が、その構成員に対して影響するのであり、そこでは親族関係よりも社会関係上の位置(職業、住んでいる場所、階層)が重要な役割を果たす。このような影響力が、多数の人々に対してかなり均等に働いていくことは明白だ。環境の力は、遺伝よりもはるかに集団的な作用をもたらすのであり、これは都会のように人口の多い場所であるほどいっそう顕著になる。
 そしてここから、集団の形成が可能になる。同質の影響力を社会から均等に受容することによって、人々はその遺伝的出自を超えて、相当程度に似通った境遇を共有するようになる。この似通った境遇が仲間意識を生み、求心力となるなんらかの要因の発見をきっかけとして、人々は一挙に群衆へと一体化するのである。環境を遺伝よりも重視することは、こうして、集団形成の前提条件となる。
 いっぽう、環境の影響力が集団形成の前提条件をなすと同時に、その促進要因にもなっていることを見落としてはならない。環境が作用するから集団ができると同時に、つくられた集団がまた新たな環境を形成し、個人に作用していくのだ。パリの現実が人々を群衆にしたばかりでなく、このようにして集まった人々が熱狂を生み、その構成員を再規定していく。このことは人々を集合的熱狂へと駆りたてる求心力となったナナが、同時に集団によって作られた典型的娼婦としての側面を併せ持つことをも説明するだろう。ナナはその魅力によって人々を一つの集団へとまとめあげたが、それは群衆に外在する魅力ではなく、群衆の内において、群衆がナナに熱狂している限りで彼女に与えられたものなのである。ナナと群衆との関係は相互的なのだ。
【25】 このようにして、本作では、環境決定論への傾斜によって受動的熱狂的な群衆が登場するに至った。しかしながら、このことは環境決定論への傾斜の成果ではあっても、その唯一必然の成果ではない。ここに、もう一つの可能性、すなわち積極的反抗的群衆の形成という方向がありうるのである。
 もういちど遺伝と環境の比較に戻ろう。遺伝の影響が通時的であること、そしてその受容が個人的にしかなされ得ないことはすでに触れた。ところで、遺伝要因のもうひとつの特徴は、それが一回完結的であるということである。遺伝の影響はその人間の人生に先立って、出生の時におこなわれ、しかもその瞬間に完結する。ここから、どのような人間も、遺伝的に継受された形質は所与のものとして受諾するほかはない。たとえ遺伝の影響力が好ましくないと当人が考えたとしても、この影響力を抹消することは難しい。それは「すでになされてしまったこと」だからだ。加えて、遺伝の影響力は個人的に受容されるがゆえに、これに抵抗しようとする闘いもまた個人的なものにならざるを得ない。共闘できる仲間、つまり自分とまったく同様の遺伝を受けている人間は少ない。自分の親はたしかに一部分とはいえ自分と共通の遺伝を受け継いでいるが、これは共闘できる相手ではない。というのは、もしひとが遺伝の影響力に抵抗したいと思うのなら、そのときは親こそが、遺伝の伝達者として、闘うべき敵になってしまうからである。
 しかし、環境の場合にはこれらすべての事情が反転する。環境の影響は、共時的・集団受容的であるとともに、継続的である。それは「今、ここで」自分を不幸にしようと待ち構えている圧力であり、現在進行中の過程である。だからこそ、人間が自身の未来のためにそれを変えようと試みることができるのも、環境においてなのである。環境に対する人間の反抗が可能になる理由は、ここにある。同時に、この反抗の闘いは孤独なものではなくありうる。環境の影響力が集団的に受容されるなら、その影響力への反抗もまた、集団的に可能であるからだ。同じような境遇に苦しむ人々は、その置かれた環境に対して、力を合わせて立ち向かうことができるのである。
 再生へと向かう可能性がここから広がる。人間は、自分が何によって影響を受けてきたのかを、自分の過去に向かって理解することができる。このことは遺伝の場合でも環境の場合でも変わらない。しかし、その影響力が自分を苦しめていると知ったとき、人間がそれを防御し除去するために、未来へ向けて働きかけていけるのは、環境の場合だけである。遺伝から環境への重点移動は、熱狂する盲目的な群衆をいっぽうで生みだしはしたが、それは唯一の可能性ではなく、この圧倒的な影響力に立ち向かう手段をも、人間に与えた。その手段とは、社会環境が人間を形成すると同時に、人間もまた社会環境に働きかけることができるのだという認識である。この重点移動は利害を共有する群衆の成立を可能にし、しかもその群衆は、最初は社会に規定される受動的存在でありながら、やがて社会に働きかける能動的主体へと変貌していく可能性を秘めている。群衆とナナの関係が相互的であるだけでなく、社会環境と群衆との関係もまた相互的なのだ。
 たしかに本作では、この可能性は未だ明瞭には現れていない。しかし娼婦としてのナナの反抗心の目覚めは、まぎれもなくこの可能性を暗示している。群衆との関係において、ナナがマッカール家の典型から娼婦の典型、群衆の一員の典型となり、典型であるがゆえに群衆的エネルギーの集約点となったことを思い出してほしい。ナナの反抗心は、ナナの感慨であるとともに、娼婦全体を代表する憤りでもある。ナナが貴族たちに対してなした復讐は、ナナ個人の事業であるとともに、虐げられた人々の復讐でもあるのだ。私たちは、第9巻において播かれたこの小さな可能性が、やがて大きく開花していくのを、第13巻『ジェルミナール』において目の当たりにするだろう。本作第8章、警察の摘発にあって逃げまどう娼婦たちの群れは、いまだもろく弱々しい。だが、ここから、労働条件の改善を求めて株主の屋敷へ殺到する炭鉱の女たち(『ジェルミナール』)までの距離は、それほど遠くはないのである。

小括
【26】 以上、本作の三つの特質の相互関係を、本作の双書中の位置に関連させながら論じてきた。要約すると、本作のこの三つの特質のうち最も基本的なのは遺伝決定論から環境決定論への傾斜であり、これが他の二つの特質を連鎖的にもたらしている。同時にこれは、双書に起こったひとつの大きな転回でもあり、本作『ナナ』を境目にして、「遺伝的影響力・個人的不幸・崩壊と絶望」を特徴とする前期ルーゴン・マッカールから、「環境の影響・社会的問題・再生と希望」を特徴とする後期ルーゴン・マッカールへの移行が始まるのである。
 むろんこの転換によっても、遺伝の影響力は後退したにすぎず、解消したわけではない。双書後半においても、遺伝の影響はしばしばルーゴン・マッカール家の人々に力を及ぼす。少々先取りして言ってしまえば、双書後半においてはこの遺伝の影響力の扱いもまた、防御・阻止から肯定的受容へとゆるやかに変貌していく。すなわち「一生娘でいる」ことを選んだポーリーヌ(第12巻『生きる喜び』)から、結婚式の直後に死亡するアンジェリック(第16巻『夢』)を経て、ついには赤ん坊を祝福して受け入れる最終巻のクロチルド(第20巻『パスカル博士』)へと。……だが、それはまだ、先の話だ。
 いずれにせよ、双書の9冊目に位置する『ナナ』は、ルーゴン・マッカール双書のひとつの節目をなす重要な作品である。『ナナ』は主題の統一という点では『居酒屋』や『ジェルミナール』に劣るかもしれないが、むしろその混合的性格によって、双書の発展を跡づける明確なしるしになるとともに、動物的人間、群衆の熱狂、社会記録など、ゾラが得意とする主題のほとんどを一作のうちに含んでおり、初めてゾラを読む読者のためには格好の作品となっている。少なくとも、本作は双書の代表作のひとつであるとともに、最もゾラらしい作品のひとつである、そう断言して差し支えないであろう。

VI 最終章――『ナナ』の到達点

【27】 最後に本作で最も迫力にあふれる第14章を紹介して、この書評を閉じることにしよう。
 実質的に本作の結論をなす第13章末尾(さきに引用)から一転して、この最終章ではナナ自身は生きて登場することはない。語られるのは、ナナの伝説、ナナの遺体、そして開戦の報に熱狂する群衆だけである。
 「彼女の破壊と死の事業」(464ページ)を達成したナナはフランスを去り、パリの人々には彼女の噂だけが、一種の伝説として語り継がれていく。数か月後、ナナは突如として再びパリに戻るが、ルラ夫人に預けておいたルイ坊やを天然痘で失い、彼女自身もまた同じ病気に蝕まれる。人々がナナの帰還を初めて知るのは、彼女が死んだという知らせによってである。ホテルで息をひきとったナナの部屋に、かつての娼婦仲間たちが集まってナナをしのぶが、かつてナナと寝た男たちは天然痘に感染することを怖れてナナの部屋には近づこうとせず、ホテルの前でたむろする。男と女のこの対照的な態度が、虐げる側と虐げられる側との違いを暗示している。
 しかしナナはただの娼婦として死んだのではない。1870年7月。まもなくこの腐敗した第二帝政に引導を渡すことになる普仏戦争の、開戦の報に熱狂する群衆が、ナナの眠るホテルを取り巻いてひしめいているのだ。「ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!」という叫びが、大気を震わせている。死してなお、ナナは一大スペクタクルの中心にいる。それはまるで、ナナがその魅力の最後のひとかけらでもって引き寄せた熱狂であるかのようだ。ナナはたしかに、その放恣な生涯の必然的な結末として死んだ。しかし彼女は、自分の死に第二帝政を道連れにし、この熱狂する群衆を彼女に殉じさせたのである。破滅へと向かう大きなうねりが人々を駆りたて、この堕落した時代、「フランスを淫売屋に変えた第二帝政」の終焉へと導いてゆくのだ。
 がらんとしたホテルの室内に、天然痘で醜く変わり果てた顔のナナの遺体が無言で横たわる。その死の静寂の中に、遠くから、群衆の叫びが聞こえてくる。その見事な対比は、まるで荘重な交響楽のように、この美しくもおぞましい、美と腐乱の物語の最後を飾っているのである。

 そしてこの虚無をおおう、おそろしくもグロテスクな仮面の上に、髪の毛だけが、あの美しい髪の毛だけが、太陽の輝きを失わず、黄金の川となって流れていた。ヴィーナスが腐爛してゆくのだ。まるで彼女自身が、溝泥のなかに放り出されている屍肉から拾ってきたあの病菌、それで大勢の男たちに毒をふりまいてきたあの腐敗菌が、彼女の顔にまでのぼってきて、腐らせてしまったとでもいうみたいに。
 部屋のなかはがらんとしていた。がむしゃらな絶叫の息吹きが大通りから沸き起こって、カーテンをふくらませた。
「ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!」
(結語、483ページ)

ノート
字数:26000
初稿:2001/06/02
初掲:2001/06/03
補注:2002/02/12
リンク
DATA:ゾラ
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中央公論社
参考文献・関連事項
コメント
 
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参考文献

  1. 河内清『世界文学はんどぶっく エミール・ゾラ』(世界評論社、1949年)

関連事項

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