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エミーリア・ガロッティ

美少女エミーリアの清純さが魅力的なレッシングの名作悲劇。
Gotthold Ephraim Lessing "Emilia Galotti", 1772
有川貫太郎ほか訳『レッシング名作集』(白水社1972年)所収(南大路振一訳)


【1】 18世紀ドイツの啓蒙思想家・劇作家、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)の悲劇。

あらすじ
 貪欲で好色な公爵ヘットーレ・ゴンザーガはかつての愛人オルシーナに愛想をつかし、清純な少女エミーリアに欲望を抱く。ある朝、その日エミーリアの婚礼が行われることを知った公爵は嫉妬にかられ、婚礼を阻止するよう侍従のマリネルリに命じる。
 マリネルリは婚礼を延期させるため、マッサの大公のもとへ遣わす使者にアッピアーニ伯(エミーリアの婚約者)を指名し、即日出立させようとする。一方、恋情を抑えがたい公爵は教会でエミーリアにつきまとい、警戒心を抱かせる。アッピアーニ伯は使者の役目を辞退し、マリネルリと物別れに終わる。
 マリネルリは手下の盗賊アンジェロ一味を使って結婚式に向かう馬車を襲わせてアッピアーニ伯を殺害させ、盗賊から救出するかに見せかけてエミーリアを公爵の用邸へ連れこむ。エミーリアの母クラウディアは公爵の館にのりこみ、その企みに感づく。
 間諜によって公爵の行動を探っていたオルシーナは公爵の企みを見抜き、館を訪れるが、マリネルリにはぐらかされる。折しも急を聞いて駆けつけたエミーリアの父オドアルドに、オルシーナは公爵の陰謀を暴露し、毒のついた短剣を彼に手渡す。
 オドアルドは公爵と対面しエミーリアの引渡しを求めるが、体よく拒まれる。ようやく娘に面会したオドアルドは、エミーリアの貞操を守るため、彼女の望みにこたえて娘を短剣で刺す。エミーリアの死を知って呆然とする公爵に向かって、オドアルドは反逆の言葉を吐く。「私はこれから行って自分で牢獄にはいります。……(中略)……そしてそれからあそこで――私どもすべてをお裁きになるかたのまえで、あなたさまをお待ちいたします」(262ページ)

【2】 本作から受ける印象をごく感覚的に言ってしまうと「すがすがしい」のひと言に尽きるように思う。公爵やマリネルリの卑劣さが際立つ一方で、対するエミーリアやアッピアーニ伯、オドアルドらの態度は常に純真で高潔であり、曇りがない。それでいてなおかつ、いわゆる嫌味な「高潔気取り」や、心の頑なさに陥ってはいない。本作の結末が悲劇に終わるのにもかかわらず、読者がこのような浄化された感じを受けるのは、この悲劇のもととなった公爵の私欲の醜さと、これに毅然として立ち向かい、権威に屈することなく自分の理性で善悪を判断しようとするその他の人々の高貴な精神とが、見事な対比をなして描き分けられているからである。
 本作の舞台をイタリアにとりつつも、作者レッシングは、当時のドイツの専制的支配に対する批判と反逆を、本作によって意図したのだとされている。それはエミーリアの父オドアルドの最後の科白に端的に現れているが、これに限らず、エミーリア側の人々はみな、その振る舞いによって人格の高潔さと、精神の独立性を体現している。高潔さとは、卑劣な懐柔や誘惑に対する反逆であり、身分や伝統を無批判に受容することの拒否である。つまりこれらの人々の内には、相対的視点や自前の価値判断を基礎づける、力強い理性が目覚め始めているのであり、言い換えれば、近代的自我の確立が宣言されているのである。
 本作は戯曲それ自体としても、緊密な構成により読者を惹きつけ、一気に最後まで読ませる力を持っている。才気煥発と評したくなるような生き生きとしたせりふまわしは、劇作家としてのレッシングの才能を鮮やかに示してあまりある。

 なお、本作は森鴎外により『折薔薇』という題名で翻訳されている。

ノート
字数:1500
初稿:2001/05/21
初掲:2001/05/22
補正:2012/08/27
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