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カラス事件

狂信的カトリシズムが生んだ冤罪を告発する哲学者ヴォルテールの奮闘。
Voltaire "L'Affaire Calas", 1763
ヴォルテール『カラス事件』(中川信訳冨山房百科文庫1978年)


学生時代に書いた記事につき、文中いろいろと不備や逸脱があります。カラス事件についての詳細を知るには、最近の公刊された文献・研究にあたってください。

梗概

【1】 カラス事件は、18世紀フランスで起こった冤罪事件である。
 カトリック・プロテスタント間にいまだ宗教的な対立感情が激しかった南仏トゥールーズで、一人のプロテスタントの青年が謎の死を遂げる。自殺か他殺かは不明。しかし、狂信的カトリシズムに毒されたトゥールーズの人々はこれを、改宗を認めなかった父による息子殺しであると信じ込み、この一家を激しく糾弾する。トゥールーズの裁判所はこの世論に流されるように確かな根拠もないまま父を拷問・死刑にし、一家の財産を没収、遺族を離散させてしまった。
 しかし、最後まで無実を訴え続けた父の無念と、残された未亡人と息子たちの誠実さに心打たれ、やがて当代最高の文学者の一人が立ち上がる。フェルネーの賢人ヴォルテール。彼はカラス未亡人を支援するための秘密委員会を結成し、カラス事件再審のための運動を展開するとともに、事件の詳細を明らかにし宗教的寛容を訴える文章を次々と発表していった。そして三年後、ついに原判決の破棄と再審無罪を勝ち取るに至る。
 『カラス事件』は、この運動に関連してヴォルテールが発表した『寛容論』を中心に、その他のパンフレット、遺族に代わって書いた国王への請願書などを集めた文集である。それは、迷妄と狂信に対する理性と寛容の勝利を跡づける、18世紀フランス文学史のなかでもひときわ輝かしい作品のひとつである。
 『寛容論』そのものは25章から成るが、そのなかでも現在興味深いのは第1章と最後の第25章、そして「カラス一家の無罪最終判決報告のため新たに加筆された一章」と題する部分であろう。それ以外の大部分の章は、不寛容をめぐる一般的な宗教的議論であって、直接カラス事件を扱ったものではない。
 事件に関する以下の概説は、ヴォルテール自身の文章のほか、上掲翻訳書に収録の解題(中川信氏)によりつつ、私がまとめたものである。

1.事件

発端

【2】 事件の舞台は18世紀、南仏の町トゥールーズである。トゥールーズでは当時プロテスタントの勢力が強く、カトリックとの対立紛争が絶えなかった。カトリックはフォンテーヌブローの勅令を盾にとって、プロテスタントを迫害していたからである(フォンテーヌブローの勅令は1685年ルイ14世によって発布され、ナントの勅令を実質的に廃止した)。
 1761年、この町に、布地商人のジャン・カラスというプロテスタントが家族とともに住んでいた。カラスには妻アンヌ=ローズとの間に四人の息子と二人の娘があった。息子のうち三男ルイはカトリックに改宗し、家を出て独立生活を営んでおり、四男のドナはニームで徒弟奉公中のため同居していなかった。また一家には、ジャンヌ・ヴィギエールというカトリックの女中が30年前から雇われていた。
 10月13日、一家の友人で弁護士の息子であるゴベール・ラヴェスという青年がたまたま当地を訪れ、カラス家の夕食に招かれる。いっぽう、カラス家の二人の娘、アンヌ=ローズアンヌとは、この日、郊外の知人に呼ばれて家を空けていた。従って、父ジャン、母アンヌ=ローズ、長男マルク=アントワーヌ、次男ピエール、客のラヴェス、そして女中のジャンヌの六人が、この夜の食事に居合わせることになった。

カラス家・関係人物

 夕食は7時から、カラス家の二階の食堂で始まったが、デザートの時になって、長男マルク=アントワーヌが、「ほてってしょうがない」と言い残して階下へ降りていった。残る五人はサロンに席を移して談話を続けたが、10時まで、この五人のうち席をはずした者はひとりもいない
 10時になってラヴェスが帰ることになり、ピエールがラヴェスとともに階下へ降りていった。しかしその直後、二人のおそろしい叫び声が聞こえた。一同が駆けつけてみると、店のかたわらに、首をくくって死んでいるマルク=アントワーヌの姿があった。両開きの扉を垂直に開き、二枚の戸の上に棒をかけわたして、首を吊っていたのである。
 フランスの歴史に残る「カラス事件」の発端となった、マルク=アントワーヌ・カラス怪死事件の、これが顛末である。

トゥールーズ市における処分の経緯

【3】 死体発見ののち、ラヴェスとピエールは直ちに外科医と警察を呼びに出かけた。いっぽう、叫び声を聞きつけた町の人々が、野次馬となってカラス家の周囲に集まった。やがて、プロテスタントに対して敵意を抱いていた群衆の一人が、「マルク=アントワーヌは翌日カトリックに改宗しようとしていたので、これを阻止するために父が息子を絞殺したのだ」と叫んだ。この叫びはたちまち人々の間に広がっていった。
 ところで、トゥールーズの市参事で、ダヴィッド・ド・ボードリグという名の、どちらかというと無能な男がいた。彼は気が短く、法的手続を軽んずる性格で、重大犯罪を扱った経験がなかったようである。彼は人々の騒ぎに気を引かれて現場へやって来たが、すでに真夜中を過ぎていたので、現場で調書を作るという手続を守らず、野次馬の言っていることを信じて、カラス家の三人とラヴェス、ジャンヌを投獄してしまった。
 父による息子の殺害という偏見が瞬時に行きわたると、白色苦行会を中心とするトゥールーズのカトリックたちの熱狂が始まる。マルク=アントワーヌは死ぬまでプロテスタントであったにもかかわらず、カトリックの殉教者として盛大に埋葬された。彼は聖者として崇められ、祈りを捧げられた。
 こうした情勢のもとで、捜査は当初から、カラス一家の内部の者によるマルク=アントワーヌ殺害という筋書きを前提としてすすめられた。投獄された五名に対する処置は、約一か月後の11月18日に決まる。市役所の判事は、カラス夫妻とピエールを拷問にかけ、ラヴェスとジャンヌをこれに立ち会わせるべき旨を判決した。しかしこの判決は市役所の権限を越えた不適法なものであったので、事件はトゥールーズ高等法院に移されることとなる。

1762年3月9日高等法院判決

【4】 トゥールーズ高等法院の判事たちの間では意見が分かれた。判事のうちのひとりド・ラ・サル氏は、事実経過から見てカラス一家が無実であることを確信し、訴えを退けるよう強く主張した。別のひとり、ラボルド氏は反対にカラス一家の有罪を断定し、激しく糾弾した。しかしこの二人の判事はあまりに強く自説に固執したので、審理に偏見を持ち込む可能性を自ら認めて、二人とも審理からはずれることに同意した。
 審理の結果、残る判事たちの意見は次のように分かれた。

  • 拷問ののち死刑……6名
  • 拷問のみ……3名
  • 自殺の可能性を現場検証するべき……2名
  • 訴訟却下……1名

 当時の規定によると、死刑のためには最低でも8名の判事の賛成が必要であったので、死刑派(6名)と慎重派(6名)との間でさらに審理が続けられた。とうとう、慎重派のひとりが死刑派に転じる。さらに、さきに審理からはずれていたラボルド判事が、どういうわけか、ちゃっかり戻ってきて死刑派に一票を投じ、結局、8対5という票決で、死刑の判決が成立する。1762年3月9日のことであった。

 判決。共犯者を自白させるため、ジャン・カラスを普通拷問(注1)および特別拷問(注2)にかけ、手足を砕き、二時間後に絞殺して死体を火中に投ずる。他の4名の罪状はジャンの自白によって明らかにし、その処分を決するものとする。

(注1)普通拷問…滑車を使った責め道具で手足を引っ張る。
(注2)特別拷問…口を布で覆って水を注ぎ込み、呼吸困難にさせる。

ジャン・カラスの拷問と死刑

【5】 翌3月10日、ジャン・カラスの拷問が執行される。しかし、彼は最後まで罪を自白しようとはせず、自分は潔白だと主張し続けた。そればかりではなく、妻子と客の運命を気遣い、誤った判決をした裁判官たちに神の許しがあるようにとまで祈ったのである。

「私は無実の身で死にます。……(中略)……かわいそうなのは妻と息子です。しかし事件に関わりがないのに気の毒なことをしたあのラヴェスさんの御子息のことを思うと、よかれと思って夕飯にお誘いしたのでしたが、何とも心残りでなりません。」(67-68ページ)

 ところで、気が短くて法的手続を軽んじる性格の重大犯罪を扱った経験がなかったと思われるどちらかというと無能な市参事のダヴィッド・ド・ボードリグが、死刑執行官でもないのに、なぜかここに出しゃばってくる。

 カラスがこう語っている最中に、この惨事の張本人の市参事は刑執行官に任命されてもいないのに、彼の拷問と死を見ようと彼に近づき、こう叫んだのである。「ろくでなしめ、そこの薪の山でお前の体は灰となってしまうのだ、本当のことを申せ。」これに対してカラス氏はかすかに顔をそむけただけであった。そしてそれと同時に刑吏はその務めを果し、止めを刺した。(68ページ)

 おまえ帰れ。

その他の被告人に対する判決

【6】 ジャン・カラスは最後まで拷問に屈することなく刑死を遂げた。この最期の様子を伝え聞いた高等法院の厳罰派裁判官たちの間に、動揺が走る。彼らは完全にジャンの自白を期待していたからである。うろたえた彼らは3月18日、まったく不可解な判決を残る4名の被告人に対して下した。
 カラス未亡人、女中ジャンヌ、客ラヴェスの3名は無罪。(だが、この3名が無罪ならば、死体発見までずっとかれらと同席していたジャン・カラスがなぜ殺人犯なのであろうか。)
 次男ピエール・カラスは追放刑。(だが、仮にピエールが殺人の共犯ならばこれは軽すぎる刑罰であり、逆に無罪ならば不当な刑罰である。しかもこの判決に先立ち、ピエールに対して、カトリックに改宗しなければ父親と同じ死に方をするぞという脅迫がなされており、ピエールが恐怖のあまりこれを受諾したという経緯がある。)
 いずれにせよ4名の被告人は死刑を免れた。ところが、追放刑に処されたピエールはトゥールーズの市門まで連行され、形式的に町の外へ追放されたが、そこで待ち受けていた修道士により身柄を拘束され、別の門から再び市内へ連れ込まれて、(カトリックに改宗したのだからという理由で)トゥールーズの修道院に監禁される。実際には、ピエールの口から裁判の不正が語られるのを恐れたのではないかと思われる。いっぽう、カラス未亡人の財産は没収され、事件にまったく関係ないはずの二人の娘は母から引き離されて、別々の修道院に監禁される。

一旦の落着

【7】 こうして、トゥールーズに住むプロテスタントの布地商ジャン・カラスの一家は、父と長男を失い、残る家族は離散して窮乏の憂き目を見ることとなった。トゥールーズに住む敬虔なカトリックの人々は、狂信的なプロテスタント(どっちが?)の父による息子殺しという前代未聞の事件(だから、どっちが?)に怯え、ますますプロテスタントを憎み、殉教者マルク=アントワーヌに熱烈な信仰を捧げるのだった。
 そして一家の悲運を告げる知らせが、ニームで徒弟奉公中の四男ドナのもとへと送られた……。

2.検証

【8】 ジャン・カラスの非業の死をもたらしたマルク=アントワーヌ怪死の真相については、現在なお完全には明らかにされていない。マルク=アントワーヌの自殺と見る説が最も有力であるが、外部の者による犯行の可能性も否定できない。しかし少なくとも、ジャンを含め内部の者による殺人と考えることは不可能である。多くの証拠が、ジャン・カラスとその一家の無実を示唆しているのである。これに対して、カラス一家の有罪を告発する隣人らの証言には、多くの難点がある。

カラス無実の証拠

(1)死の状況
【9】 マルク=アントワーヌは店のかたわらで、シャツ姿で首をくくっていた。上着はたたんで帳場の上に置かれ、彼の着ているシャツにはなんら変わった点はなかった。髪もきちんと整っており、後の鑑定によっても、彼の遺体には、遺体を運搬した際についた擦り傷を除いては、外傷・打撲の類はひとつもなかった

(2)動機の不存在
【10】 ジャン・カラスには息子を殺す動機がない。マルク=アントワーヌのカトリックへの改宗を阻止するために殺害したというのが群衆の確信するところであったが、調べてみたところ、マルク=アントワーヌが改宗の手続をとろうとした形跡は存在しない。
 仮にマルク=アントワーヌがカトリックに改宗しようとしていたとしても、ジャンが彼を殺そうと考えたとは思われない。なぜなら、以前、三男ルイがカトリックへの改宗を望んだときジャンはこれを許し、独立生活を送っているルイに現在も年金を与えているのである。しかも、ルイに改宗のきっかけを与えたのはカラス家の女中で信心深いカトリックのジャンヌ・ヴィギエールであったが、カラス家は30年にわたって彼女を雇い続けている。ジャンが狂信的な振る舞いを見せたことは一度もない。

(3)マルク=アントワーヌの性格
【11】 マルク=アントワーヌは落ち着かない、激しい気性の持ち主であった。弁護士の職を望んでいたが、職に就くのに必要なカトリックの信仰証明書が得られないため断念せざるを得ず、最近、うち沈んでいた。

(4)犯行の物理的困難さ
【12】 被害者マルク=アントワーヌは死亡当時28歳の健康な若者であり、これに対し父ジャンは63歳で、リューマチに悩まされていた。体の弱った父が、いったいどうやって被害者に抵抗もさせずに首を絞めたというのであろうか。

(5)犯行の時間的不可能性
【13】 事件の当夜、マルク=アントワーヌは全員が居合わせた二階の食堂から一人だけ退席して階下へ降りた。残る人々は、死体発見の直前まで、だれ一人として席をはずさなかった。それゆえ、きわめて明瞭に、内部の誰にも犯行は不可能である。
 誰も席をはずさなかった点については全員の証言が一致している。従って、内部の者の犯行とすればこの全員の共犯による以外はない。しかしこの中には、カトリックの女中やその日たまたま訪れた客も含まれているのである。

カラス一家を告発する証言

(1)事件当夜に関するもの

【14】証言「事件当夜、マルク=アントワーヌの悲鳴が聞こえた。」(ポピスとかいう飾紐屋の小僧)
 それは死体を発見したピエールの叫び声であった。

証言「ピエールが「泥棒(au voleur, オ・ヴォルール)」と叫ぶのが聞こえた。」(ある女中)
 ピエールは死体を発見して「ああ、何ということだ!(Ah, mon Dieu!, ア・モンディウ!)」と叫んだのである。

証言「ピエールが事件当夜、兄が剣で刺されたと言いながら通りを駆け抜けていった。」(ペイロネ嬢)
 ピエールはそんなことは言っていない。通りを駆け抜けていったのは事実である。外科医と警察を呼びに行ったからである。

(2)その他の事実に関するもの

【15】証言「事件の数週間前、ジャンがマルク=アントワーヌを叱っていた。信仰を改めるなら死んでしまうぞ、と脅していたのであった。」
 ジャンは息子が遊び歩いているのを心配し、父親として叱っていたにすぎない。行いを改めないなら、お前を罰しなければならん、さもなければ、家から追い出されるか、そうでもなければ身を持崩して死んでしまうぞ、と言っていたのである。

証言「マルク=アントワーヌは事件の翌日に白色苦行会に入会予定だった。また、ある教会で彼の姿を見たことがある。」
 白色苦行会には彼が入会を申請した記録は残っていない。彼は高名な説教師が説教に来るときには教会へ聞きに行くのが好きだった。

証言「ピエールはカトリックに悪口雑言していた(だから狂信的プロテスタントだ)。」
 ちなみに、この証人は証言に先立って次のように述べている。「私はプロテスタントをことごとく蛇蝎のごとく忌み嫌う者でございます」。こういうのは悪口雑言とは言わないのであろうか。

証言「『もし兄弟が宗旨変えしようとしたら、ぐさりとやってしまいますよ』と、洋服屋のブー嬢に対してピエールが発言していた。」(ブー家の元小僧)
 弁護側がブー嬢に問い合わせたところ、彼女はそんなことは知らないと言っている。しかしブー嬢を証人喚問することは認められなかった。

検死結果「マルク=アントワーヌは死のちょうど四時間前に食事をとっている(ゆえに叫び声の聞こえた時刻に殺害されたのである)。」(外科医ラマルク氏)
 当時の医学では、死亡時刻はそんなにきっちりと特定できない。ちなみにこの医師は証言の際、死体の右眼と左眼を取り違えて発言し、その間違いをピエールに指摘されている。要するにヤブ

ジャンの供述に矛盾点がある。「第一に、死体発見後、マルク=アントワーヌが吊られていた綱を自分が切ったと証言したが、実際にはひとりでにずり落ちていた。第二に、事件当夜の経緯を説明する際、マルク=アントワーヌが席をはずした事実を隠した。」
 第一の点は、息子の死体に直面して動転していたため思い違いをしたのである。第二の点は、単純な言い忘れであって、同席していたピエールにその場で訂正されて同意している。いずれにせよ、こんなことで嘘をついてジャンが何か得をするのであろうか。

 しかしこれらの明らかな事実も、裁判官たちの理性(あったとすれば)に訴えかけることはなかったのである。

3.再審

【16】 ジャン・カラスが処刑された数日後、マルセイユの商人でドミニック・オディベールという名のプロテスタントが、トゥールーズを訪れてカラス一家の事件を知った。彼はその足でジュネーヴへ行き、その近郊のフェルネーに住んでいた知人にこの事件を語った。その知人こそ、「フェルネーの賢人」ヴォルテールその人であった。

再審運動の始まり

【17】 事件の概要を聞いたヴォルテールは、最初これを狂信的プロテスタントが起こした凶悪犯罪だと考えたようである。しかし詳細を知るにつれ、彼の理性は警告を発し始める。豊かな知識と広い見聞を持ち最初の実証的歴史家とも呼ばれたヴォルテールの、事実に立脚することを旨とする精神は、カラス処刑の経緯のほうに少なからぬ疑念を抱くのである。
 ヴォルテールは1762年4月、徒弟奉公先のニームから脱出してきたジャンの四男ドナをジュネーヴに訪ねる。その口から事件の詳細を聞くに至って、彼はカラス一家の無実を確信し、翌5月、再審運動のための秘密委員会を結成。同7月、監禁されていた修道院を脱出してきた次男ピエールとも会見しさらに確信を強めたヴォルテールは、委員会のメンバーとともに活発な運動を開始するのであった。
 カラス再審運動のための秘密委員会には、ヴォルテールのほか、弁護士ヴェゴーブル、商人フィリップ・ドブリュ、牧師ムルトゥ、銀行家カタラ、法律家トロンシャンといった人々が名を連ねた。彼らは寂しく暮らしているカラス未亡人に接触して、再審を国王へ請願することを勧めるとともに、再審のための資金集め、有能な弁護士への依頼、未亡人をパリへ上京させ有力者を歴訪させる準備、二人の娘を母親のもとに戻すための工作などに取り組んでいった。
 再審運動はパリで展開される。パリ高等法院の弁護士ド・ボーモンによる意見書、ロワゾー氏の手になる訴訟趣意書、そして国王顧問会議の弁護士マリエット氏による再審請願書などが、相次いで国王(ルイ15世)に提出された。パリの人々はおおむねカラス未亡人に好意的で、こうした情勢のもと、修道院に監禁されていた二人の娘は母のもとへ戻ることを許されることになる。
【18】 いっぽう、こうした運動と並行して、ヴォルテールはもう一つの作戦を展開する。言論による戦いである。彼は知り合いの有力者たちに書簡を通じてこの事件を知らせ、カラス一家の名誉回復の必要性を説いた。その相手にはプロイセンのフリードリヒ大王やロシアのエカテリーナ女帝も含まれていたという。また新約聖書を参照しながら宗教的寛容の必要性を説いた『寛容論』を執筆、1763年11月に匿名で出版して世論を喚起する。こうして、パリではカラス一家に同情する声が次第に高まっていった。

決着

【19】 パリはトゥールーズの高等法院に対し、判決に至る訴訟手続の記録を提出するように要求。トゥールーズの高等法院はこれに抵抗し、資料の運搬費用として莫大な額を支払うよう、カラス未亡人に要求したりする(この費用はヴォルテールらが調達)。しかしついに1764年6月4日、国王顧問会議は原判決を破棄、事件を国王直属の請願委員による審理に付することを決定。請願委員による審理にはさらに一年近くを要するが、1765年3月9日、奇しくもジャン・カラス死刑判決のちょうど3年後、請願委員会の判決が下る。

 判決。すべての被告人は無罪(全会一致)。ジャン・カラスの名誉を回復する。トゥールーズの裁判官に対する訴訟費用および損害賠償の請求を認め、判事を告発する上訴を許可する。

【20】 マルク=アントワーヌの死から約三年半、理性と寛容が迷妄と狂信に勝利した、記念すべき日であった。ここにカラス一家の濡れ衣は晴れ、国王は一家に対して、3万6000リーヴルの下賜金を与えた。これ以降、フォンテーヌブローの勅令は実質的に効力を失い、革命に至るまで、宗教的非寛容は後退の一途をたどる。そしてカラス事件は、18世紀フランスに影を落とす冤罪事件の一つとして、またヴォルテールの輝かしい活躍の一部をなすものとして、その名を歴史に刻まれることとなったのである。
 だが、マルク=アントワーヌ・カラスの死は自殺だったのか、それとも外部の者による他殺なのか。また自殺ならばその動機はなにか、他殺とすれば誰が殺したのか。これらの点については、現在もなお、真相は明らかにされていない。

カラス事件 関連年表
1761/10/13マルク=アントワーヌ怪死。
1761/10/14ジャン・カラスら五名、投獄。
1761/11/18市役所判事、カラス夫妻らを拷問する判決(→破棄・高等法院へ)
1762/03/09トゥールーズ高等法院、ジャン・カラスの死刑判決。
1762/03/10ジャン・カラス拷問・処刑。
1762/03/18他の四名の被告人に判決(ピエール追放、他は無罪)。
1762/04ヴォルテール、ドナ・カラスと会見。
1762/05再審運動のための秘密委員会結成。
1762/07ヴォルテール、ピエール・カラスと会見。
1763/11『寛容論』、匿名で出版。
1764/06/04国王顧問会議、トゥールーズの原判決を破棄(→国王直属の請願委員会へ)
1765/03/09請願委員会の判決(被告人全員無罪)。カラス一家の名誉回復。
ノート
字数:9400
初稿:2001/06/12
初掲:2001/06/14
補正:2013/05/11
リンク
DATA:ヴォルテール
DATA:『寛容論』
冨山房
参考文献・関連事項
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参考文献

  1. 小林善彦『ルソーとその時代』(大修館書店、1973年)
    「カラス事件」「ヴォルテールとカラス事件」を収録。
  2. 石井三記『18世紀フランスの法と正義』(名古屋大学出版会)

関連事項

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