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ボヌール・デ・ダーム百貨店

デパートの発展を描いたルーゴン・マッカール双書第11巻。
Émile Zola "Au Bonheur des dames", 1883
ゾラ『エミール・ゾラ選集 「ルーゴン=マッカール叢書」セレクション6 貴女の楽園』(三上於莵吉訳本の友社1999年)


【1】 ルーゴン・マッカール双書第11巻。デパートの発展を主題とする商業小説である。

 本作の翻訳としてはおそらく大正11年の三上於莵吉訳があるのみであり、私もこれを使った(上掲書はその復刻版)。非常に古い訳文で600ページ以上もあったので、読むのにはたいへん苦労した。しかしこの作品については論ずべきことが多いので、文献に関する愚痴は後まわしにしよう。

双書における位置づけ
 本作はルーゴン・マッカール双書中でも異色の作品である。一般に自然主義の作品群とされる「双書」にあっては、自然主義を逸脱するものが異色ということになろうが、この観点からすると、最も特異なのが第16巻『夢』、次が本作『ボヌール・デ・ダーム百貨店』ということになるのではなかろうか。本作は、『居酒屋』や『ナナ』を書いてきたゾラとも思えぬ現実離れした楽観主義や、メロドラマ風の物語展開、また時代設定が明らかに第二帝政期ではない点など、他の巻に比べていっぷう変わった特徴をもつが、何より、完全なハッピーエンドで終わるのは双書中この巻だけだという点が強調されてしかるべきである。この巻のハッピーエンドが特殊というより20巻中19巻がハッピーでないような双書全体の暗さのほうを何とかできんのか、というような指摘はさておくとして、この例外はやはり目をひく。このことは、どのような事情によるのであろうか。
【2】 ゾラは双書の第16巻を書き終わった頃(1888年)から執筆に疲れを見せ始め、双書の完結を急いでいたと言われる。その背景には、ゾラ自身が『実験小説論』で展開した自然主義小説観からの逸脱を自覚しはじめ、より理想主義的な傾向へすすもうと望んでいたということや、フランスにおける自然主義文学そのものが退潮に向かいはじめていたという事情があり、事実、ゾラが双書完結後に手がけたシリーズ「三都市物語」や「四福音書」では、理想主義的な傾向がはっきりと現れることになる。そうした流れを念頭に置くと、理想主義的な傾向の作品が双書の終盤に出てくるのであれば、理解するのにそう困難はない。しかし本作はいまだ双書の折り返し点であり、このあとに、第13巻『ジェルミナール』、第15巻『大地』など、壮絶な作品が次々と現れてくるのである。その意味では、後期ルーゴン・マッカールの冒頭を飾る第11巻にこのような理想主義的な作品が登場したことは、やはりひとつの謎であると言わねばならない。
 考えられる解釈としては、双書後半(11巻から20巻)は全体として「崩壊から再生へ」というゆるやかな共通テーマを持っており、11巻はその幕開けとしてのちの理想主義を先取りしているのだ、という見方があり得るが、やや強引な観を免れない。けっきょく、本作をあまり狭い型にはめ込んで無理に解釈するのは適切でないのかもしれない。本作の特異点を強調するよりは、むしろ本作の中にもゾラの特質を積極的に読み取るように努めたほうが実りは多いように思われる。たとえば、デパートの大売り出しに殺到する貴婦人たちの雑然とした熱気は、双書後半に特徴的な群衆描写の先駆けと見て間違いない。つまり「ゾラ=自然主義」という旧来の図式を放棄して、「ゾラ=パワーあふれる小説」と素直に考えれば、『ボヌール・デ・ダーム』はむしろ典型的なゾラ作品のひとつと言ってもよいのである。(なお巻数ではなく内容で見た場合、双書の前・後半は1〜8巻と9〜20巻に分けるのがいいと私は思っている。)

あらすじ
【3】 両親を失った後、叔父を頼ってヴァローニュから二人の弟を連れてパリへ出てきた少女ドニーズ・ボーデュは、周囲の小さな老舗を押しのけて華々しく発展しているデパート「ボヌール・デ・ダーム(淑女の幸福)」に圧倒される。叔父の店への就職を断られたドニーズは「ボヌール・デ・ダーム」の女店員となり、つつましく働き始める。
 ドニーズは、求職の日に偶然出会ったボヌール・デ・ダームの支配人、オクターヴ・ムーレに対して言いしれぬ畏れを抱く。オクターヴは打算にたけた世俗的な男で、その才能によってボヌール・デ・ダームを大商店に発展させたのだった。オクターヴは銀行家に人脈のある貴婦人アンリエット・デフォルジュの愛人となり、事業拡大資金の調達を画策していた。
 垢抜けないドニーズは、はじめ女店員たちの間でいびられて苦しむが、友人ポーリーヌに支えられて懸命に働く。同郷の青年アンリ、ドニーズが密かにあこがれるユータン、ドニーズを敵視する女店員クララたちとの関わりを交えながら、ドニーズの生活は続いていった。しかし、彼女によこしまな欲望を抱く守衛のジョーブを拒んでその反感をかったドニーズは、ジョーブの密告がもとで解雇されてしまう。
 解雇されたドニーズは洋傘商ブーラの店で働きながら、廉価多売型のデパートの登場によって経営を圧迫され、破産に追い込まれてゆく小商店の実態について知る。これらの小規模経営者の間ではボヌール・デ・ダームに対する反感が高まり、形勢逆転のための廉価競争をしかけることが目論まれていた。
 やがてオクターヴのはからいでドニーズは新装したボヌール・デ・ダームに復帰する。次第に都会に慣れ、女店員としても力量を発揮しはじめたドニーズをオクターヴは軽い気持ちで誘惑しようとするが、貞淑観念の持ち主であるドニーズはこれを拒む。オクターヴの心に、巨万の富をもってしても言うなりにならない女への戸惑いが生じ、オクターヴはドニーズに本気で恋するようになった。
 オクターヴに裏切られたアンリエットはドニーズに敵意を抱き、さらにオクターヴを恨む。アンリエットは、ボヌール・デ・ダームの重役で独立して競合店を建てようと企んでいるブーテマンと結託し、新しいデパート「四季」のほうに出資するようアルトマン男爵を説き伏せようとする。
 ボヌール・デ・ダームでのドニーズの地位は順調に向上し、やがてライバルの店員たちを差し置いて子供服売場の主任にまで昇進する。ボヌール・デ・ダームはオクターヴの廉価多売の戦略で小商店との価格競争に勝ち、ライバル店「四季」の火災事故も幸いして驚異的な売上げを達成する。しかしデパートの経営がどれほど成功しても、オクターヴのドニーズへの恋は一向に報われず、オクターヴはドニーズが別に愛人を持っているのだろうと誤解する。オクターヴに対して大きな発言力を持つようになったドニーズは、ボヌール・デ・ダームの店員たちの待遇に同情し、オクターヴに提案して労働環境の改善を実現させる。同時に彼女は、オクターヴへの畏れが、オクターヴへの愛情であったことに気づく。
 ボヌール・デ・ダームは第二次の拡張工事を迎える。オクターヴの求愛をしのぎきれないと感じたドニーズは新装開店大売り出しの日を最後に退職する決意を固める。貴婦人たちの欲望をあまねく刺激した大売り出しは大成功に終わり、ボヌール・デ・ダームは未曾有の売上高を計上するが、オクターヴはドニーズとの別れを思って打ちひしがれる。その姿に打たれたドニーズはついに屈し、オクターヴへの愛を告白して結婚を承諾するのだった。

第一の側面:恋愛ドラマ
【4】 本作の主題を、三つの側面に大別して論じることにしよう。その第一は恋愛ドラマとしての『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の側面である。(以下「ボヌール・デ・ダーム」を「B.D.」と略記することがある。)
 この作品において物語の展開の骨格をなしているのはドニーズとオクターヴの恋愛であって、この二人が出会ってから紆余曲折を経て結婚に至るまでの過程が、小説としての本作の中心主題となっていることは否定できない。ところがこの骨格は、ほとんど肉付けされることなく、最小限の骨格のまま本作の中に埋め込まれているように見える。というのも、二人の間の恋愛は、実際には、物語の始まりと終わりを画するのと、あとは他のいくつかの場面で事件を展開させるための一つのきっかけとして利用されているにすぎないからである。二人の恋愛そのものがどのようにして生じ、発展し、成就するのか、またその過程で二人の内面に起こった葛藤などといったことがらには、本作の長さに鑑みると、実にわずかな量の記述しかあてられていない。本作は恋愛小説としては明らかに展開不足なのであり、私たちは、ドニーズとオクターヴの間に愛情が芽生えるという結末に、あまりにも唐突なものを感じずにはいられないであろう。ドニーズとオクターヴの恋愛とは、要約してしまえば、「社会的に成功した男が金で思い通りにならない女に振り回されて苦しめられる」というものであり、また「女が愛の力によって傲慢な男の性格を変えていく」ということである。性格改善というモチーフは、後述の空想的社会主義との関係につながるものと言えなくもないが、それにしてさえ余りにも粗雑な扱い方であろう。ドニーズという娘は結局、成功した男を魅惑することで高い地位を手に入れた計算高い女にほからないという評価(ジュール・ルメートル)さえあるくらいなのである。本作がメロドラマと評される一因も、この辺りに存在するのであろう。
 本作は90名を超える多様な人物が登場する活気にあふれる小説であり、その意味では、恋愛小説として発展させるための資源は十分に持っているはずなのである。たとえば、ドニーズをめぐって恋愛に関与してくる男としては、オクターヴの他に、ユータン、アンリ、ジョーブの三人がいるし、ドニーズの周辺でも、ジャン、コロンバン、ポーリーヌなどはそれぞれ自分の恋愛問題を抱えている。またオクターヴは一時期、売場におけるドニーズのライバル、クララと愛人関係になったりするし、オクターヴの打算を知りながらその接近を許したアンリエットはやがて本当にオクターヴを愛するようになってしまい、ドニーズに心を奪われたオクターヴに復讐するため、ライバル店の開業を目論む。その経営者になろうとするのは、オクターヴの部下であるブーテマンである。
 このような具合に、登場人物の間で三角関係・四角関係が入り乱れているのであり、メロドラマならメロドラマなりに、盛り上げるための道具立てはじゅうぶん揃っているのである。しかしながらゾラは、これらのいずれも、大きな比重をかけて叙述しようとはしていない。恋愛関係で唯一、劇的な場面としてはアンリエットとドニーズの対決場面(第11章)があるが、これすらも、物語全体からみればそれほど重要な事件ではない。
【5】 つまり本作においてはゾラは、物語を進めてゆくための要所要所の駆動力として登場人物の恋愛感情というものを活用したにすぎないのであって、ゾラの本当に描きたかったのは、次に述べるデパートの活気あふれる発展過程のほうだったのだと見ることができそうである。題名からしてもすでに明らかであるが、本作の本当の主人公とは、躍動するデパート「ボヌール・デ・ダーム」そのものなのである。
 ただ、ハッピーエンドの小説である本作にはゾラの楽観や期待が随所に盛り込まれており、本作の恋愛ドラマとしての側面も、ゾラの理想として読めばそれなりに興味深い。とりわけヒロインのドニーズの中に、ゾラが理想の女性像を見ていたことは確かなようであり、後年、愛人ジャンヌ・ロズロとの間にできた長女にゾラがドニーズと名付けていることが注目される。

アンリエット・デフォルジュ
【6】 なお、後でふれる機会はないと思うのでここで言っておくと、本作で私のいちばん好きな人物はオクターヴの愛人、アンリエット・デフォルジュである。アンリエットは財界に人脈のある貴婦人で、オクターヴは銀行家アルトマン男爵とのコネを作るためにアンリエットの愛人となる。アンリエットのほうもオクターヴを利用する策略家的な側面を当初は見せる。
 しかしアンリエットはやがて打算抜きでオクターヴを愛するようになってしまい、オクターヴが自分の店の女店員に「手を出している」のを知って非常に嫉妬するのである。嫉妬するのではあるが、しかしそこは貴婦人なものだから、あまり露骨に怒ることができなくて煩悶する。そして煩悶しながらも結局感情を露わにしてしまうところが実に人間的なのである。たとえば次の場面。
 オクターヴが女店員を愛人にしているという噂を聞いたアンリエットは居ても居られず、真相を確かめるためわざわざボヌール・デ・ダームに出向く。彼女ははじめドニーズを愛人だと思っているので、ドニーズの担当売場にオクターヴがやって来ないかどうかを見張っているのであるが、たまたま通りかかった知人の貴婦人が別の女店員(クララ)を指して「支配人の愛人」と呼んだので、どちらが正しいのかわからなくなってしまう。そして叫ぶのには、

『多分、両方でせう!』(386ページ)

 ……もう、理屈もなにもありませんな。
 ちなみに正解は、クララがオクターヴの愛人であり、ドニーズに対してはオクターヴの片思いである。

第二の側面:大商店の発達
【7】 本作の主題の第二の側面は、高度化する資本主義下におけるデパート発展の記録文学としてのそれである。物語の展開にとってはひとつの背景の役割を果たすものでありながら、実はこの新興の大デパートこそが、本作の中心主題である。ボヌール・デ・ダームという、一種の巨人にも擬せられる存在こそ、おそらくゾラの最も描きたかったものなのであり、たとえばゾラはボヌール・デ・ダームの大売出し日の様子を、本作において、じつに三度も取り上げているのである(第4章、第9章、第14章)。
 こうした社会事象の描出において、ゾラのジャーナリスト的な力量は遺憾なく発揮される。ボヌール・デ・ダームの販売戦略や業務遂行に関わる具体的描写は、その背後にゾラの綿密な取材と執筆準備があったことを窺わせて興味深い。たとえばB.D.の売出し日の売上げ高は、三回ともきちんと数字をあげて報告される(80742フラン10サンチーム、58万7210フラン13サンチーム、100万247フラン90スー)し、資本金の増加(50万フラン→400万フラン)や広告費(30万フラン→60万フラン)なども同様である。当初19の売場と403人の店員を擁していたB.D.は四年後には50の売場と3045人の従業員を有するようになることもわかる。そのほかに作中に現れる数字をいくつか抜き出すと、

  • 開店:朝8時
  • 店員の一日の労働時間:13時間
  • 第9章の売出し日:入場客7万人
  • 出納係:70人(第9章)
  • 食堂付:32人(第9章)
  • 消防夫:24人(第9章)
  • 第14章の売出し日:入場客10万人
  • 発送した商品目録:40万部(第14章)
  • 商品見本の切地の費用:10万フラン以上(第14章)

といった具合である。このような具体的な数字によって、私たちはB.D.の発展のいかに急速であったかを実感することができるのであり、それはたしかに、すぐれたルポルタージュが持っている衝撃力に近い。ゾラは、事実それ自体の重みを文学として提示することにかけては、フランス文学史上希有の作家である。
【8】 しかしゾラの鋭い観察の成果は、単なる数字の挙示だけにとどまるわけではない。伝統的な小売販売とはまったく異なるデパートの新しい販売法の本質をゾラは的確に見抜き、作中で支配人オクターヴに語らせている。たとえば、たびたび行われるバーゲンセール、チラシによる宣伝広告、デパートによる配送の請負い、返品の制度(一種のクーリング・オフ)などであり、これらのことは、現在私たちがデパートとしてイメージするものの大枠がこの時代に確立しつつあったことを教えてくれる。
 さらに興味深いことにはゾラの認識は経営戦略の部面にも及び、拙いとはいえ先駆的な企業経営論の様相をも呈しているのである。接待した客が買った金額に応じて店員にマージンを支払う制度により、店員にやる気を起こさせるアイデア。関連商品の店内配置をわざと散り散りにすることで客が店内をあちこち移動することを促し、より多くの商品を客の眼にさらすとともに、店を混雑させて活気にあふれているように演出する案。そして、特定ブランドに限定した大値下げを行うことにより客をとにかく店に集め、値下げしていないブランドも安くなっているかのような印象を与えようとする策略。

『成程、その品では幾銭かの損になるかも知れん。然し、若し其の變りに女と言ふ女を此の店へ集め、その同情を得、眼を迷わすやうな店の商品を見せて、否や應なしに財布をはたかせる事が出来たら何んでも無いぢやないか。』――オクターヴ(2章、52-53ページ)

彼は女と云ふものは廣告に對して全く無力であり、雑沓の中に其の心を奪はれるに違ひない者だと断言するのであつた。且つ又、彼は偉大なる倫理學者の如く、女の心理を解剖しながら、益々女に對して蠱惑的な罠を設けるのであつた。かくして彼は、女が大安賣に對して全く反抗することが出来ないと云ふことを発見した。即ち女が、廉い物を見たと考へた時はいつでも、必要もないのに夫れを買ふものであると発見したのだ。(346ページ)

 私たちはここでほとんど、現代の高度化した商業の原型を見出すと言ってもよい。勿論それは本作が書かれたのが、ちょうど現代資本主義の基盤形成の歴史的時期にあたっていたという事情にもよるものだが、それを的確に切り出し、当時としては最先端のテーマであったデパートの実態を文学として提示しえたところに、ゾラの功績があるのだと言えよう。
 そればかりではない。ゾラはデパートの発展という「光」の部分を描きながら、同時にそれに伴う影の部分をも十分に理解している。たとえば大商店の登場による旧来の小売商たちの没落。店舗拡張のための強引な資金調達や敷地の地上げ。多数の従業員を雇用するいっぽうで、不景気になると大規模な解雇をして労働者の地位を不安定にしている側面。『居酒屋』をはじめとして社会の暗部に鋭い観察を向けてきたゾラの本領は、ここでもしっかりと発揮されているのである。

第三の側面:空想的社会主義小説
【9】 とはいえ、ここでふたたび本作の特殊な面を強調することになるが、『ボヌール・デ・ダーム百貨店』ではやはりデパート発展の「光」の部分のほうが理想化して描かれていることは否定できない。次の引用に見るように、大商店の登場による小売商の没落も、商業の発展上やむを得ないこととして比較的簡単に片づけられてしまっており、その点『居酒屋』の読者にはやや物足りない感じがすることは確かである。

新らしい制度によつて、仲買人がなくなつた。そしてこの事は非常に商品を安くした。尚ほその上製造業者は大商店が無くてはやつて行かれなかつた。それは彼等の中の一人が顧客を失ふや否やきつと失敗するからである。結局これは自然的商業上の進化である。(311ページ)

 このような事情は、ゾラが当時のフランスの空想的社会主義(特にフーリエの思想)に影響を受け、デパートの発展のなかに理想的共同社会への歩みを重ねて見ていたらしいことで説明できる。ゾラの後期作品が社会主義的傾向をもっていることは明白だが、この作品では特にそれがストレートに現れていると言ってもよい。物語後半、オクターヴに対して絶大な影響力を持つようになったドニーズは、彼に提案してボヌール・デ・ダームの従業員の労働環境を大幅に改善することを求める。オクターヴは折れてこれらの改革は次々と実現するわけだが、その内容はまさに空想的社会主義の標準的政策と言えるものである。

  • 契約により従業員の身分を保障し、不景気の時は解雇でなく休暇で対応する。
  • 組合を組織して恩給を支給する。
  • 従業員の娯楽のためボヌール・デ・ダーム音楽隊を結成(120名)。
  • 球突室・休養室を開設。
  • 夜の店内で従業員のための学課を開く(英語・独語・文法・数学・地理)。
  • 図書室(一万冊)。
  • 派出医師による無料診察。
  • すべての女店員は必要に応じていつでもB.D.の費用で産婆の手当てを受けられる。

【10】 これら福利厚生の施策は、作中では大商店の発達がもたらす弊害を抑制・緩和するために導入されており、作者ゾラの立場もまたこれと一致するように思われる。つまり資本主義の発展を認めつつ、その弊害はこれらの施策を通じて除去することで、基本的には商業を擁護しようという意図に沿っているのである。これは空想的社会主義の歴史的役割そのものであり、そのことが、本作に空想的社会主義小説という第三の側面を与えている。それゆえ、「実験小説」の方法論をとり、少なくとも双書完結までは作品の中で直接政治に関与する姿勢をとらなかったゾラにしては、やはり本作は異例の特徴をもつものと言うべきであろう。
 そしてこの特徴は、結論としては、作品の迫力をやや弱めているように見える。空想的社会主義そのものが抱える難点は別として、空想的社会主義の見地から見ても、『ボヌール・デ・ダーム』には問題がないとは言えないからである。
 たとえばゾラは、小売商の没落や従業員の福利厚生への配慮は見せながらも、産業の発展それ自体には無邪気なまでの肯定を示している。しかし当時はもはや、現実はそれほど単純ではなかったのではなかろうか。実際には19世紀末の高度資本主義は、アフリカ・アジアへと拡張を続ける帝国主義フランスの財政基盤となっていたのであるから。また商業の暴力を抑制する諸施策にしても、社会制度として人々の求めに応じて打ち立てられるのではなく、支配人に影響力を持っているドニーズが優しい女性だったので従業員のためを思って改革をさせたというのであって、社会改革の論理としてはまことに心もとない。事実を冷酷に描き出すことだけを自らに課していたはずのゾラは、やはり、本作ではいささか前に進みすぎているという印象を拭えないのである。

年代の不明確さ
【11】 このような諸側面をもつ『ボヌール・デ・ダーム百貨店』は、従って、これをルーゴン・マッカール双書の中の一巻に加えようとすると、ある重大な難点をもたらすことは明らかである。というのも、「第二帝政下における一家族の自然的・社会的歴史」という副題をゾラは双書に与えているからである。
 恋愛ドラマはともかくとしても、第二の側面すなわち大デパートの発展は、実際には第二帝政下ではなく、ゾラが本巻を執筆した第三共和政下での現象であった。さらに第三の社会主義的改革は、執筆時においてさえ未だ実現していない将来の理想である。これらの要素を含む小説を、ゾラはいつの時代の物語として描くのだろうか。一方において双書はルーゴン・マッカール家の歴史でもあり、本作の主人公としてオクターヴ・ムーレ(ムーレ家第4世代)を採用した以上、他の巻・他の人物との関係上、年代を大幅にずらすわけにはいかない。かといって第二帝政下の物語としてデパートの発展を描くことは、事実にそぐわないことになる。ここに、ゾラを苦心させた事情が存在していたことは疑いを容れないであろう。
 ゾラもこの点はじゅうぶん意識していたらしく、本作の中では、舞台となる時代を徹底して不明確にしている。私が読んだ限りでは、本作の中に西暦が登場するのはただ一度、ボヌール・デ・ダームの創業が1822年であるという箇所だけであり、これは本作の時代特定にはまったく役に立たない。双書の他の巻では直接の記述や登場人物の年齢の記述などから比較的容易に舞台の年を特定することができるのに対し、『ボヌール・デ・ダーム百貨店』では、おそらくどうやってみても年代の算出は不可能である。わかっていることは小説の最初の時点でドニーズが20歳であること、結末までに4年が経過していることくらいしかない。主人公であるオクターヴの正確な年齢が一度も言及されないことが、ゾラの意図を決定的に示している。
【12】 結局、本作の時代特定は、ゾラ自身が残した設定資料によらなければならないようである。第20巻『パスカル博士』の巻末に、ルーゴン・マッカール家の人々の系譜が家系樹の形で掲載され、各人物に簡単な説明が付してある。これをゾラによる公式かつ最終の設定資料と考えて信頼すれば、オクターヴは1840年生まれ、1865年に第一の妻エドゥアン夫人をなくし、1869年にドニーズ・ボーデュと結婚した、となっている。ここから、『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の背景は、いちおう1865年から1869年までと考えることができる。もっとも、こうなると系譜上のつじつまは合うものの、第二帝政期を舞台にデパートの発展を描いたことになり、第二帝政期の記録としては問題が出てくることになる。要するにゾラは双書の一巻として百貨店の華々しい発展を描きたかったのであり、その限りで、双書のコンセプトとの関係である程度の矛盾が生じることにも妥協を肯んじたのであろう。主題について異色な設定を採用した時点で、本作にとってこれは必然的な運命だったのである。

【13】 そのほか本作に関する小さな論点は枚挙にいとまがないので、それぞれ簡単に論じておくことにする。

遺伝的要素の後退
 主人公オクターヴ・ムーレはムーレ家系第4世代に属し、フランソワ・ムーレとマルト・ルーゴンの長男にあたる。第5巻『ムーレ神父の罪』に登場したセルジュとデジレの兄である。とはいえ、これは双書の後半になるほど顕著な傾向であるが、本作ではもはや遺伝の要素は後景に退いて、オクターヴの性格は物語の推進力としての役割をほとんど果たしていない。オクターヴの世俗的な出世欲や女性一般に対する節操のない態度のなかに、わずかにムーレ家の特質である狂信的傾向を認めうる程度なのであり、これも、心身ともに健康なドニーズと結ばれることによって抑えられていく。

 それを聴いてムーレーはすつかり陽氣になつて其の慾情的な性質を現した。肩を聳しながら、彼は彼女等が自分が財産を造るのに用が無くなりさへすれば空つぽの袋のやうにいくらでも投げ棄てて顧ないと公言するのであつた。
(2章、44ページ)

『(……)勿論金儲けばかりが全部ぢやないが、生知りの學問で自由職業と言ふ奴に閉じ籠つて飢えるか飢えないの境をうろついて居る哀れな者と、商賣と言ふ奴を心得て奮闘して居る實際的の人間がある。僕は躊躇はずに前者より後者を撰ぶよ(……)』(3章、92ページ)

『心配はして呉れるな。何に一寸した串談だよ。僕を虜にするやうな女は未だ生れてないよ、えゝ君。』――オクターヴ(353ページ)

『私は彼女を愛す、而して私は彼女に打ち勝つ!』と彼は云つた。『然し若し彼女が私を逃げたら、君はどんな位置に僕が自分を癒すために置くか分るだらう! 活動し、創造し、運命に對して戦ひ、彼等を征服したり、彼等に襲はれたりする、總て人類の健康と喜びはその中に在る!』――オクターヴ(457ページ)

 なお、本作において「遺伝」の語が一度だけ登場するが、それはB.D.の女店員と駆け落ちしてしまったコロンバンを評するボーデュのセリフの中でである。

『夫は彼の血統の中にある遺傅に違ひない。彼奴の親は放蕩の揚句先年死んでしまつた。』――ボーデュ(515ページ)

擬人化されるボヌール・デ・ダーム
【14】 これと対照的に、人間に外在する社会環境・群衆・巨大な施設といったものの影響力が、本作では生彩を帯びてくる。自然現象や巨大な機械・構築物が蠢動する様子ををあたかも生き物のように擬人化して描くのをゾラが好んでいたのは周知の事実であり、双書の中でも、たとえば以下のものを直ちに列挙できる。

  • 第7巻『居酒屋』のブランデー蒸留器
  • 第8巻『愛の一ページ』の大都会パリ
  • 第9巻『ナナ』の劇場ヴァリエテ座
  • 第12巻『生きる喜び』の海
  • 第13巻『ジェルミナール』の炭鉱
  • 第17巻『獣人』の機関車

 そして本作では、そのような役割を果たしているのは大デパート「ボヌール・デ・ダーム」そのものである。無数の客と店員と商品と資本とを呑み込んで咀嚼し、循環させる一有機体としての「ボヌール・デ・ダーム」の姿が、三度におよぶ売出し日の記述の中で余すところなく描写される。

売場のがあがあ云ふ響以外に、頭に残るものは、たゞ巨大なる巴里――間断なく顧客を供給する偉大なる巴里の無際限がずつとその周りに押し廣がつてゐるのだと云ふ意識ばかりであつた。重苦しい淀んだ空気の中で、暖房装置の蒸気に蒸された織物の匂が高く鼻を突いた。そこには凡ての音響――絶えず床を踏む音、何百囘となく勘定臺の周囲にくりかへされる話し聲、間断なく地下室に吸ひ込まれる商品を積んで運搬車の軋り――是等凡ての音響は、互に相錯雑し、相合成して一つの不思議なオーケストラを奏してゐた。(160ページ)

 ここではまぎれもなく生きて躍動するデパート「ボヌール・デ・ダーム」自体が主役なのであって、人間は、客にせよ店員にせよ、その巨大な生き物を活動させる血液にすぎないのである。ここにおいて消費者心理という形をとった集団的意識が現れ、人々は個人としてよりも消費者集団の一員として、外在的要因の大きな影響下に置かれることになる。このような状況を前提にするからこそ、ボーブ夫人のようにほんらい富裕な貴婦人でも、商品の魔力に魅せられて万引きを常習するに至るわけである。
 このような見方はまさに社会学の方法論そのものである。実証的な社会学的方法論を確立したデュルケームの『社会学的方法の規準』が本書の12年後(1895年)であったことを思えば、ゾラの大衆を観察する眼の鋭さ、正確さには驚くべきものがある。そしてこの集団的意識への注目が、のちの巻で顕著になってくるような、ストライキや戦争における群衆描写へと直結していることはいうまでもない。
 本稿では双書における『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の特異点を主に強調してきたが、以上のように考えれば、本作はやはり同時に、「ルーゴン・マッカール双書」を構成する典型的な小説のひとつでもあるのだ。

翻訳に関して
【15】 『ボヌール・デ・ダーム百貨店』は長さの点では『居酒屋』や『ナナ』に匹敵する大作であり(双書中第5位)、本国フランスではゾラの作品として相応に知られている部類に入るようである。しかし日本での知名度は、明らかに、格段に落ちる。ゾラに『ボヌール・デ・ダーム百貨店』という作品のあること自体、『居酒屋』や『ナナ』を読んだことのある人でもあまり知らないのではないだろうか(私もそうだった)。
 そのことの結果か原因かはわからないが(「多分、両方でせう!」)、本作の翻訳は非常に少ない。私の知り得た限りでは大正11年の訳しかない。しかもこの翻訳にはいろいろ問題が多く、読むのはたいへん難儀である。
 1922年の翻訳であるから、文体が古いとか活字がかすれて読めないとかいうのは我慢しよう。というか我慢するしかないところまで追いつめられているので、まあ我慢する。しかし、いちおう西欧のデパートを扱った小説なのであるから、店員のことを「番頭」とか「手代」とか「売子娘」とか訳すのはなんとかしてくれないだろうか。「大百貨店の一番番頭」とか言われても、イメージがさっぱり……。それと、固有名詞(特に人名)をカタカナで表記する仕方が旧式なのはいいとしても、なぜ一冊の本の中で、同一の固有名詞を、場所により違ったふうに表記するのであろうか。たとえばドニーズの親友でポーリーヌ・クノーという女店員がいるが、最初「クーノー」という名で出てきたあと、「ポーラン・キユニヨー」、「ポーリーヌ・キュノー」などと表記が変遷する。ほかにも「デロッシュ」と「ドローシュ」と「ドローシエ」、「マギュリター」と「マーギュリット」と「マルグリット」と「マルゲリト」など、例にはことかかない。とくに「ミグノー」と「ミニョー」が同一人物のことだとは、フランス語のつづりと発音をある程度知っている読者でなければ気がつくこともできないのではなかろうか。
 フランス文学の先生、新訳だしてください、お願いします……。

(後注)本作は2002年に論創社から新訳が出た。

ノート
字数:13000
初稿:2001/04/01
初掲:2001/04/02
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DATA:ゾラ
DATA:『ボヌール・デ・ダーム百貨店』
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参考文献

  1. 鹿島茂『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、1991年)
    デパート「ボン・マルシェ」を創業したブシコー夫妻についての研究。『ボヌール・デ・ダーム百貨店』にも言及している。

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