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市場主義の終焉

変容したリベラリズムの立場から日本経済再生の展望を探る好著。
佐和隆光『市場主義の終焉 ―日本経済をどうするのか―』(岩波新書2000年)


【1】 市場主義やリベラリズムといった20世紀の主流をなした理念が相対化するなかで、新しい時代のための理念と政策指針とを模索し、新世紀の最初の十年の展望を示そうと試みた、すぐれた論考である。
 一般に、新書として刊行される原稿には、ものにより、内容の充実度の点で相当なばらつきがあるものだが、本書は新書としてはかなり詳細な論点にまで立ち入っており、高く評価できる。専門書というほどではないにせよ、じっくりと腰をすえて読むに値する本であろう。
 「日本経済をどうするのか」という副題が示すように、本書は、最近20年ほどの日本経済の動向を分析したうえで、この先日本がとるべき進路についての展望を示す。とはいえ本書は、グローバリゼーションとかIT革命とかいったかけ声に歩調を合わせて高度経済成長の夢を再現しようとするかのような一部の論調とは、明らかに一線を画している。そのことは、市場主義の「終焉」という題にも端的に表れているといえよう。本書の主題は、理念の喪失ゆえに失速した日本の経済と社会に対し、21世紀の多様な変化に対応できるための新しい理念を提示することであり、冒頭ちかくに現れる次の一文が、自説に対する著者の強い自信を示してあまりある。

 次の点をあらかじめ断っておかねばなるまい。私が本書でこれから提示する解答は、昨今のわが国経済論壇の通説にさからっており、それゆえ数多の反論を招くであろうことは必至である。(22-23ページ)

相対化の時代
【2】 著者はまず、こんにちの日本社会を覆う閉塞感を指摘し、その背景にある「相対化の時代」としての現在を定式化する。
 果てしなく進歩を続けると思われていた人間の理性は、1970年代以降、限界に直面し、同時に、これに根ざしたさまざまな価値・制度・思想が絶対性を失った。この動きは経済学の分野では、福祉国家におけるケインズ流の計画経済の行きづまりとして現れ、そのため、市場主義の称揚とそれへの回帰が叫ばれるようになる。その政治的帰結がイギリスのサッチャリズムやアメリカのレーガノミクスであった。しかしこれらの主張は、相対化の時代たる現在においては市場主義もまた相対化していることを見落としていた。たとえば市場主義が拠り所とするパレート最適の定理にしても、その前提となる仮定、すなわち「累進所得税制は人びとの勤労意欲を減退させる」との仮定は未検証のままなのである。
 サッチャリズム、レーガノミクスの市場主義が、万能でないばかりでなく、社会の不公正を拡大していくことにも気づいた欧米諸国は、20世紀の最後の10年を通じて方向転換をはかってきたのであり、その一つの帰結は、ヨーロッパにおける相次ぐ中道左派政権の誕生であった。そうした趨勢からすると、昨今の日本の経済論壇における市場主義賛美の傾向は、「20年おくれのサッチャリズム」と言うほかはない。
 実際には日本も含め、先進国の現実はこみ入った状況を呈しており、市場主義対反市場主義、保守対リベラルというような単純な二項対立で理解できるものではなくなっているのである。たとえば保守−市場主義という従来の結びつきは明らかに弱まってきているが、その理由はグローバル経済を可能にするIT革新が、同時に国民国家の弱体化を促すからである。
 他方、これに対する伝統的なリベラリズムも限界に直面し、変容を迫られている。伝統的なリベラリズムとは効率性と公正とのトレード・オフを前提として公正(な所得)をより重視する立場のことであるが、人々の価値観の変化に伴ってこのトレード・オフの関係が混乱しているばかりでなく、公正を所得を基準にして測ることにも問題があることが認識されてきたからである。
 さらに社会全般に眼を向けるならば、こんにちでは、社会主義・産業文明・科学技術なども含めて、従来絶対的と考えられてきたものの多くが、相対化に直面しているのである。
 このような状況にある日本の閉塞感を打開するために著者が提示する処方箋は、要約すると、

  1. リベラリズムの変容とポスト・マテリアリズムへの移行を前提として、
  2. 市場主義の利点を取り込みつつ日本型システムの再建をはかり、
  3. 市場主義と反市場主義を止揚した「第三の道」へ進む。

ということになる。

リベラリズムの変容
【3】 近年、リベラリズムは大きくその内容を変えてきた。従来のリベラリズムは、物質的な富に価値をおくという前提をあくまでも共有しつつ、その富の公平な分配や物質によるの社会保障・社会福祉の充実を目指すものであり、そこでは人々の福祉水準を示す指標としては依然として「所得」が圧倒的な重要性をもっていた。しかし先進諸国では、人々の価値観がより精神的・内面的な充足を重視するポスト・マテリアリズムへと移行しており、リベラリズムも、こうした変化への適切な対応を迫られている。これまでリベラリズムが依拠してきた社会主義も、その点では、資本主義と同様にひとつのマテリアリズムにほかならなかった。
 この変化は大量消費がもたらした地球環境問題の登場によってさらに加速されており、決して一時的な流行ではない。日本のバブル経済期にネオ・マテリアリズムとでも言うべき新種の物質主義が興隆したことは、従って日本社会の特異な側面であり、これが今日の日本社会の機能不全の一因をなしている。

日本型システムの改革
【4】 終身雇用・年功序列・企業系列・複雑な流通システムなどを特徴とする、いわゆる「日本型システム」の改革が、日本社会の再生のためには不可欠である。なぜなら、これらのシステムを機能させていた前提条件がことごとく変容しつつあるからである。すなわち日本は工業化社会からポスト工業化社会へと転換しつつあり、同時に、将来においては経済の持続的拡大の見込みはない。さらに、これらのシステムの不公正さがより目立つようになってきている。今後数十年の世界は、東西冷戦の終結・グローバリゼーション・IT革新の進展・環境問題の深刻化といった文脈で理解されるものであり、社会システムもこれに対応して変化していく必要がある。しかしその変化とは、単純な市場主義改革だけでは不十分である。効率性の代償としての社会的コストをどう管理するかが問題なのであり、これを放置すれば、社会的な結束の弱まりや犯罪の増加、所得格差の拡大、競争における一人勝ち、といった弊害を避けることができないであろう。

第三の道
【5】 このような状況を前提として、この先採られるべき方向は、市場主義と反市場主義を止揚する「第三の道」である。これは米クリントン政権、英ブレア政権の理念と一致する。この立場は、能力主義の主張に基づいた安易な民営化論を排し、その一方で、従来の福祉国家が莫大な社会保障費を要求してきたことへの反省に立って、ポジティブな福祉国家を目指すものである。
 まず、能力のある者を優遇しようとする能力主義は、自己矛盾を内包している。というのも、能力主義のもとで財の高い配分を受けたものは必ずその特権を子どもに贈与しようと考えるので、これによって第二世代以降の能力主義は途絶する運命にあるからである。また、新しいリベラリズムに従って、不平等とは所得格差よりもあるサービスからの「排除」のことであると考えれば、大学や医療の民営化は排除を拡大することになるであろう。もっとも、だからといって従来の福祉国家が負担してきた社会保障の莫大なコストをこれからも負担し続けることはできない。「第三の道」は、これに対し、福祉を「リスクの共同管理」と理解することにより、人々の活力や意欲を損なうことなく福祉を達成しようとするものである。

【6】 本書における著者のこのような主張には、じゅうぶんな説得力があると私は思う。同時にこれはまた、ギデンズ(英ブレア首相に影響を与えたイギリスの社会学者)、セン(98年ノーベル経済学賞受賞者)といった人々の考えに沿うものでもあり、本来、決して特異な主張ではないのである。著者の立場が「わが国経済論壇の通説にさからって」いるという認識はおそらく正しいが、同時にそれは一種の皮肉であって、むしろ「わが国経済論壇」の側の存在証明のほうを、鋭く問いかけている結果になっているのである。

ノート
字数:3400
初稿:2001/04/20
初掲:2001/04/21
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本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

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