不敵な無神論者「彼」の発言をとおしてフランス革命を予言したかのような謎の作品。
"Le Neveu de Rameau", 1762
『ラモーの甥』(本田喜代治・平岡昇訳、岩波文庫、1940年)
【1】 『ラモーの甥』は、百科全書の編集責任者であったドニ・ディドロの代表作である。 【2】 旧体制に寄生しつつ旧体制を裏切り、そしてまた、当代の道徳を嘲笑いながら、嘲笑う自分をもまた嘲笑う「彼」、すなわちラモーの甥は、哲学者である「私」とことごとく意見を異にする。「私」がいちおうディドロの分身と見られうる以上、本書は「彼」のような人物に対する批判であると言えなくもない。だが、そうした単純な構図を容易に受け容れられないような、粗野で磊落な魅力を「彼」がたしかに持っていることが、本書の理解を著しく微妙なものにしているのである。 なりたければけちん坊にもなれ、だがけちん坊みたいな口の利き方をしないように用心しろよ。(87ページ) 何か一芸に秀でることが大切だとしたら、そりゃとりわけ悪についてそうですな。(104ページ) と言い放つ「彼」の奔放な態度は、すべての上品ぶったもの、勿体ぶったものを笑いとばし打ちのめすという点において、「私」の穏健な道徳論などよりもはるかに、旧体制に対する破壊的・暴力的エネルギーを発揮しうるし、その意味で、明らかに、やがて来るであろう革命を予感させる。しかし同時に、旧体制への依存によって日々の暮らしを立てなければならない「彼」は、そういう自分自身の境遇をも笑い飛ばし、皮肉で偽悪的な態度に陥らざるを得ないのである。 【3】 『ラモーの甥』があまりに不可解だったので、私はディドロの他の作品(『ダランベールの夢』など)も読んでみたが、やはり、「彼」と同じような道化的な人物に、ディドロ自身が投影されているという感想を持った(たとえば『肖像奇談』)。 万事につけて、われわれのほんとうの意見というものはわれわれが決して動揺しなかった意見ではなく、しょっちゅう立ち返っていった意見なのだ……(『ダランベールとディドロとの対談』より) という発言も、そのことを裏付けているように思える。私は、急にディドロに対する興味が湧いてきてしまった。 彼――どうです、わしはいつだって変らないでしょう? これは、『ラモーの甥』の有名な結末の会話である。「彼」が最後に吐いた不敵なせりふは、来るべき革命を予感させる。そしてなにより、「彼」のいう「四十年」という一言が、不気味なまでに予言的である。 |
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