SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

大地

農村の因習と農民の土地所有欲を暴露する双書第15巻。
Émile Zola "La Terre", 1887
ゾラ『大地(上・中・下)』(田辺貞之助・河内清訳岩波文庫1953年)


書評要旨

露骨な性描写により激しい非難を浴びた本書は、実際には広大な展望と深い含意とに貫かれた重厚な物語である。「大地」は人間を支配する圧倒的な力であるとともに、新しい生命をはぐくむ母胎として現れている。その底に脈打つのは生命への信頼であり、ルーゴン・マッカール双書がその結末へ向けて大きく旋回していることを証している。

目次

  • 序説
    • あらすじ
    • 本稿の論旨概要
  • 大地:その含意と展望
    • 「人間を支配する環境」としての大地
    • 大地への愛
    • 母胎としての大地――性と耕作との類推
    • 生命の源
    • 『ジェルミナール』との関連
    • 『大地』の展望
  • 補論・『大地』におけるゾラのユーモア
    • イヤサントとトゥルイユ
    • 結論


序説

【1】 ルーゴン・マッカール双書第15巻『大地』は、世紀前半のバルザック『農民』とならび、19世紀フランス農村文学の傑作とされる作品である。「双書」の中においては、あまたの大作を打ちたててきた双書が、いよいよ終盤へと向かうことを示す里程標ともいうべき、重要な位置を占めている。
 1887年5月28日から同年9月15日まで「ジル・ブラース」紙上に連載されたこの作品は、当初から低俗、反倫理的などと轟々たる非難を浴びた。かつてのゾラの同志であった五人の作家が1887年8月18日「フィガロ」紙に「五人の宣言」を発表して、自然主義文学からの訣別を宣言したのは有名な事件である。一時はアナトール・フランスでさえもがこの小説を批判し、これらの出来事がきっかけとなって自然主義は一気に退潮に向かった。
 しかしながら、連載されたものを細切れに読んだだけではこの作品の真価は理解できなかったにすぎず、やがて本作はその実質にふさわしい評価を獲得するに至る。こんにちでは、『大地』がルーゴン・マッカール双書の代表作のひとつであり、19世紀後半フランスの農村生活を描き出した傑作であることに異論はないと言える。

あらすじ
【2】 小麦を産するボース平野では古くから農業が営まれ、ローニュ村の人々が代々土地を受けついできた。イタリア遠征から戻った29歳の兵士ジャン・マッカールは、ローニュの大地主ウールドカンの農場で働き、平和な生活と大地への愛を育てていた。そのころ、ローニュの農民フーアンは体が衰えたため隠退することにし、その農地を三人の子どもたちに譲るが、土地分割をめぐって兄弟の間に争いが生じ、各自の取り分をめぐってしこりを残すことになる。なかでも最も貪欲な末弟ビュトーは分割に満足せず、さらに農地を拡大する欲望に駆られていた。いっぽう、相続による農地の細分化は小麦価格の高騰を呼び、アメリカからの輸入小麦に対抗するため保護関税を課するかどうかが、農民たちの関心事となっていた。
 隠退後に妻を失ったフーアンは、子どもたちが約束の年金を支払わないので次第に窮乏し始める。一時は娘の家に引き取られたものの居心地が悪くて飛び出し、フーアンは子どもたちの家を転々と居候することになる。ジャンはフーアンの姪にあたる15歳年下のフランソワーズと結婚したい望みをもっていたが、フランソワーズの姉リーズと結婚したビュトーは結婚によって姉妹の土地が分割されることを厭って、この結婚を妨害しようとする。
 子どもたちに邪魔者扱いされるフーアンは自分の最後のへそくりが狙われていることを知って、誰にも気を許すことができないまま老いぼれやつれていく。やがて卒中を起こしたフーアンは、へそくりの証券もビュトーに取り上げられて痴呆同然となる。ビュトー家に同居しているフランソワーズは姉夫婦と不和になり、自分の土地の分け前を確保したいためにジャンの求婚を受け入れるが、彼女の愛もまた土地に対して向けられていたため、ジャンにとって結婚は幸福なものではなかった。
 リーズとフランソワーズはいがみ合いを続け、ある日リーズはフランソワーズと揉み合っているうちに過失で彼女に重傷を負わせ、死なせてしまう。その現場をフーアンに見られていたビュトー夫婦は、真相の発覚を怖れて間もなくフーアンをも焼死に見せかけて殺す。妻も土地も失ったジャンは、農民たちの貪欲に絶望しながら、折しも近づいてきたプロシアとの戦争に参加するべく、ボース平野を去る。

本稿の論旨概要
【3】 『壊滅』、『ジェルミナール』に次いで双書中第三位の分量を誇るこの作品は、農村の人々の性格と欲望、農家の風習、農作業の実態、農民の日々の生活といった地域的なことから、農業の実状、都市労働者との利害の対立、農産物貿易政策といった広範な社会問題、さらに毎年の収穫を生み出す広大なボース平野の自然描写に至るまで、多様な主題を包含した大作である。ゾラ自身は、『ジェルミナール』で労働者のためにしたことを、『大地』で農民のためにするつもりだと述べており、たしかに双書における位置づけ、舞台設定、登場人物など多くの点で、『ジェルミナール』と一対をなす傑作であると言いうる。
 本作が描写する事実は多岐におよぶ。農民たちの習慣や土地の風習は民俗学的な考察の対象になりうるであろうし、対立する代議士同士の間に交わされる議論は当時のフランスの貿易政策と農村経済についての素材を提供するだろう。これらのすべてについて網羅的に検証することは本稿にとってはあまりにも過大な作業になってしまうので、以下では、この作品の中心テーマであり表題にもなっている「大地」の意味づけをめぐって、『大地』の双書中の位置づけに留意しながら、若干の考察を展開することにしたい。そのうえで、『大地』の別の側面として、この作品におけるゾラのユーモアを補論の形で紹介することにする。

大地:その含意と展望

【4】 ルーゴン・マッカール双書の、とりわけ後期諸作品には、『制作』や『夢』、『金銭』など、短く簡潔なタイトルをもつものが多い。本作『大地(La Terre)』もまたそのような題名をもつもののひとつである。このような簡潔で力強い響きをもったタイトルからは読者は多くの含意を読みとることが可能であり、従ってその解釈も、人によって異なることになる。そして、このゆえにまた、これは論じ甲斐のあるテーマでもあるのである。
 ここまでゾラを読み継いできた私としては、このテーマを避けて通ることはできないだろう。そこで私は、本稿の中心的な論点をここに設定することにしたい。表題となっている「大地」は、本作においてどのような性質のものとして現れ、またどういった意味を持っているのであろうか。

「人間を支配する環境」としての大地
【5】 まず第一に、いうまでもなくそれは農民たちの欲望の対象であり、彼らが、不正や犯罪によってでも手に入れようとする財産にほかならない。それは彼らにとって最大の財産であり、結婚によって増え、遺産分割によって減ることが大きな関心事であるような、そういう対象である。ビュトーがリーズと結婚する気を起こしたのは彼女の相続した土地を手に入れたかったからであり、フーアンが落ちぶれていくのは自分の土地を手放したからであった。またフランソワーズは、自分を強姦し死なせた男の手に渡ると知りつつ、自分の所有地を夫に遺贈することを肯じようとはしない。よそ者であるジャンに土地を渡すことは一族が築いてきた土地を細分化することになってしまうからだ。
 農民たちにとって、土地はすべてなのである。土地に対する彼らの欲望はときに、作物を売って生計を立てるために必要なものという理由づけを超えて、自己目的化してさえいる。それは彼らの自尊心の拠り所であり、信仰の対象だ。たとえ耕せなくなっても自分の土地は手放すまいとするグランド婆さんの言葉が、このような態度を端的に示している。

 「阿呆奴! 意見などとっくに聞かせた筈だ! 脚がたつ限り、財産をうっちゃるなどとは、頓馬か意気地なしのすることよ。わしなら、たとえ短刀で斬られたって、否と言ったにちがいない。……自分のものが他人にわたるのを見るなんて、餓鬼共のために自分から裸になるなんて、ああ、否だ! 否なこった!」しかし、フーアンは反對した。
 「でも、畑仕事が出来なくなっちゃ、土地にしたところで歎くだろうよ……」
 「歎くなら歎かしとくさ! 一スチエだって手放すよりは、薊の生えるのを毎朝見に行った方がましだよ!」
(第1部第3章、上51ページ)

 もう耕せなくなったからという理由で子どもたちに土地を譲り渡そうとしてグランド婆さんになじられているフーアンの言い分は、それ自体としては理性的で納得のいくもののはずである。しかし皮肉なことに、結果的に正しいのはグランド婆さんの予言のほうである。この農村の現状では土地を失うことは、誇りの根源を失い、周囲からの尊敬を失って、まったく無力な存在に陥ることに等しい。親子の情も、年金の約束も、土地がもたらしてくれていたものの替わりにはならないのだ。年金で暮らすことを期待していたフーアンは土地を手放すや否やその約束を反故にされ、もはや子どもたちに顧みられることもなく、ホームレス同然の生活の末に、最後のへそくりを狙っていた実子ビュトーに殺害される。自分のわずかな土地を営々と耕し、それを少しでも拡大することに気を揉んできた男の最期が、生前に土地を手放したばかりに、これなのである。そしてそれは、彼と同じように土地に執着し、それを広げようと企んでいるビュトーの欲望のゆえであり、ビュトーの中に遺伝と環境を通じてその欲望を植えつけたのは、父親である彼自身だったのだ。
 農民たちのこうした欲望のなかでは「大地」の存在は、人間を狂わせ、破滅させる魅力をもった不気味で神秘的なものとして扱われている。それは『居酒屋』におけるブランデー蒸留器と同じように、人間を虜にして愚昧・悲惨・破滅へと突進させる不可避のエネルギーであり、人々の運命を支配するおぞましい超人格である。私たちはこのような視点から、擬人化された「大地」の存在をみとめ、ルーゴン・マッカール双書の一巻としての『大地』を理解することが、たしかに可能であるだろう。あるときはブランデー蒸留器に(『居酒屋』)、またあるときは劇場に(『ナナ』)、そしてデパートに(『ボヌール・デ・ダーム百貨店』)、海に(『生きる喜び』)、炭鉱に(『ジェルミナール』)と姿を変え、双書全体を貫いて存在している不可解で盲目的な力、環境や遺伝の名のもとに人間を支配する圧倒的なエネルギーの存在が、ここでは欲望の対象としての「土地」に化体して、またもや現れ出ている、そう見ることができそうである。

大地への愛
【6】 しかしながら、実のところそれは物事の一面にすぎない。ゾラは本作において「大地」について、明らかに、そうした単純な規定性を超える側面をも見出しているのである。大地は、人間を滅ぼす力であるとともに、また別の「何か」でもあるのだ。作品を駆動する擬人化された無生物に対して、双書のこれまでの巻には見られなかった二面的な理解が本作ではなされていることに、注意しなければならない。
 そもそも、農民たちがこれほどまでに土地に執着し、その拡大に努めるのはなぜだろう? たしかに、すでに見たように、代々の農民としての偏執狂的な執着が、もはや理由すら意識されない、自己目的的な土地所有欲へと高められている側面はある。だが、それは一種の病的な過剰とは呼び得ても、倒錯とは言い得ないように思われる。つまり情念の「程度が行き過ぎている」のであって、情念の「方向が間違っている」のではないのである。というのも、もともと人間が土地を愛することには、まっとうな理由があったはずだからである。
 グランド婆さんと並んで作中隋一の土地所有欲の権化であるビュトーでさえ、ときには、土地をそのような眼で眺めることもあるのだ。

初めは、大きな四角い赤土畑のつづく中に、地面すれすれに、緑がかったほのかな影がひろがっているばかりだった。この柔らかいみどりがどぎつくなり、同じような調子をおびた、幾枚もの緑のビロードの端切れとなった。やがて苗が伸びしげり、植物がそれぞれの調子をもって、とき色のうまごやしが赤々とひろがる間に、あらゆる方角に果てしなく延びた小麦の黄色っぽい緑、燕麦の青っぽい緑、さては裸麦の灰色がかった緑などが、遠くからでもそれと分った。それはボースが、単調のうちにも、一律に新鮮な春の衣装をまとって、若さに輝く季節だった。
(第3部第1章、中7ページ)

 生長する小麦を敷きつめた、さまざまなニュアンスの緑色のじゅうたんが延々と伸びてゆく春のボースの光景は、芽生え(ジェルミナシオン)と成長とを象徴するかのような、すがすがしい魅力にあふれている。このような光景を眺めることは、そこに働き、己の手でこの絨毯を敷き詰めてきた農民にとっては純粋な喜びであるだろう。ビュトーでさえもその例外ではない。ここには、大地を耕し収穫を得て生きる人間の、本来の率直な喜びが、生き生きと表現されている。ボースの野が美しいとすれば、それは、眺める者の心中の満足を反映しているからなのである。
 このとき、作物を育む広大な平野にただ感嘆して立ちすくむ者の前では、大地はもはや人間を喰らい尽くす不条理な力ではない。それは人間のささやかな営為を受け止めその実りを返してくれる寛大な存在であり、人間の欲望も悪徳もすべてを受け入れて悠久の時の中へと呑み込んでしまう広大な地盤である。なるほどそれは依然として圧倒的で力強い存在であるかもしれないが、しかしもはや人間に敵対する力ではない。大地が荒れたり不作を起こしたりしても、それは人間を苦しめるためではなく、単に大地が「そういうもの」だからなのだ。大地はそのとき、人々が抱く卑小な野心や欲望をすべて超越し、ひたすら無関心に、ただそこにあるだけの存在となる。その泰然たる姿は、もし卑俗な欲望を抱かずにそれを見る者があれば、より心地よく穏やかな畏怖の念だけを抱かせるに違いない。
【7】 だから、土地所有に執着を持っていないよそ者のジャンの前では、神のごとき平穏な無関心を持ってそこに存在しつづけるこの大地の姿はもっと明確に現れるのだ。

 ジャンは二人を家の入口までとどけておいて、ただひとり平原を横切って歩いて行った。雪は止んでいた。空は明るく冴えわたって、無数の星をちりばめ、廣大な凍った空から、水晶のような透明な青い光が落ちていた。そしてボースの野は、果てもなくひろがり、氷の海のように眞白く、平らかに、じっと静まりかえっていた。遠い地平の方からはそよとの風もわたって来ず、聞えてくるものといったら、堅くなった地面をふむ自分の大きな靴の音ばかりだった。それは森とした冬の静けさであり、崇高な平和だった。
(第1部第5章、上128ページ)

このなごやかな光の下に、冬の寒さにいじけたボースの平原は、まるで寝坊の女がすっかり眼をさましていながら、ひとときの怠惰を愉しむために瞬きもしまいとするように、ひたすら睡りを追うかのように見えた。遠くは茫と霞んでいて、そのためにいっそう廣くなったように見え、秋に蒔いた小麦や燕麦や裸麦の、既に緑を吹く畑を連ねていた。それに反して、裸のままの畑では、春の種蒔きがはじまっていた。到るところで、粘っこい土塊の中に、人々は、空へ飛び立とうとするような播種の身振を、絶え間なく繰りかえしながら歩いていた。一番近くにいる男の手から蒔き散らされる種は、生きた埃のように金色に光りながら、はっきりと見てとることが出来た。種を蒔く人々の姿は遠くへ行くほど小さく、果ては無限の彼方に消えていたが、種は波のように彼等を包み、遙か遠くはなれては、ただ光のきらめくようにしか見えなかった。果しもないこの平原の隅々まで、何里四方にわたって、来るべき夏の命が、太陽の下に雨と降っていたのである。
(第5部第6章、下154ページ)

 崇高な平和の中に沈む冬のボースと、来るべき夏の命を受け止めながら太陽の下にたたずむ寝坊の女のようなボース、この二つの場面は、大地の広さと深さ、清冽な冷たさとおおらかな陽気さとを称えて、あたかも見事な一対の叙景詩のようにこの作品を飾っている。自然の広大さを描写するゾラのペンは、しばしば、このような神聖な自然の姿を見事にとらえてきた。『ムーレ神父の罪』や『生きる喜び』にも共通するこの自然描写は、本作のもうひとつの特徴である生々しい性描写と鋭いコントラストをなしている。『大地』は決して単調な作品ではないのだ。このような自然に対する叙情は、彼のいう、写実という意味の「自然主義」とはむしろ遠いもののようにも思われるが、そのような叙情が抑えようもなく溢れ出すところにこそ、作家としてのゾラの真価があったのであり、そのことがまた、破壊と絶望に彩られたルーゴン・マッカール双書を、再生と希望の歌へと転じてゆく原動力にもなっていたのである。

母胎としての大地――性と耕作との類推
【8】 これらの場面では、眺望するジャンにとって、またその背後にいるゾラとって、「大地」が瑞々しい肯定の感情をもって受容されていることは疑いようがあるまい。そして『ジェルミナール』においてすでに「芽生え」が「誕生」に類比されていたように、ここでも、植物の芽生えを育む土壌としての大地が、生命を生み出す母胎に比せられているということは明らかである。大地と性、収穫と生殖は、本作においてどこまでも一対のものとして対比されているのだ。そして、この類推を通じて本作もまた、ルーゴン・マッカール後期諸作品に通底するメイン・テーマ――生命(la vie)――へと、合流しているのである。
 じっさい、本作のなかで生命、性、生殖といったことがらに関わるエピソードの多さは、双書中でも比類のないものがあり、むしろ表題の「大地」に関わる描写よりも多いくらいである。その中には人間に関わるものと動物に関わるもの、好感を抱かせるものとそうでないものなど、様々なものがあるが、単純に羅列してみるだけでも以下のものがある。

  • 冒頭、フランソワーズが牝牛のコリッシュに種付けをする場面
  • 奔放な少女トゥルイユのふるまい
  • パルミールとイラリオンの姉弟の近親相姦
  • 同時に進行するリーズとコリッシュの出産
  • パルミールの死後、グランド婆さんを襲おうとして殺されるイラリオン
  • 小麦の中でのジャンとフランソワーズの最初の情交
  • ビュトーによるフランソワーズの強姦

 これらのエピソードを読むと、まぎれもなく、妊娠は種蒔きに、出産は収穫に比せられていることがわかる。ゾラは人間を動物に類比するばかりでなく、人間を含めた動物全体を、大地に生える植物に比して、流転する生命の流れの中へと合流させる。いくつかの場面では、この類推はきわめて直接的に表現されている。

彼は耕地の中を大股に調子をつけて往き来した。種入れの麦がなくなるにつれて、彼の背後では大地が種を身ごもるのであった。
(第1部第1章、上23ページ)

 「子供はいや……もうよして……」
 彼はだしぬけに飛びのいた。こうして、横にまぎらせ棄てられた人間の種は、地上の熟れ切った小麦の中にとび散った。地は永遠に豊沃で、あらゆる種に胸をひらいて、決してこばまないのである。
(第3部第4章、中79ページ)

 こうした描写は、露骨な猥褻な性描写として、本作連載当時、世の非難攻撃を喚起する最大の要因となったものであった。だが、「小麦の種」と「人間の種」、「畑の種蒔き」と「人間の種を仕込む」などの、いっけん卑猥な類推をとらえてこの作品の下品さをなじるようなことは、本作に対しておよそ誠実な読み方とは思われない。ゾラがこうした類推を単なる猥褻趣味で作品に盛り込んだのではないことくらい、全編を通読すれば一目瞭然のはずだからである。
 本作に登場する人物の性的欲望、性行動そのものは、たしかに陰惨で生々しい。たとえば80歳の老婆に挑みかかる白痴のイラリオンや、ビュトーがフランソワーズを強姦する場面などは、その最たるものであろう。しかしこれらの描写をもって、ゾラが性道徳について肯であれ否であれ何かを言おうとしていたと考えるなら、それはあまりにもピントのずれた見方というものだ。すでに論じたように、大地を描き出すにあたってゾラの本当の関心は、土地所有への人間の欲望や、その是非よりも、その欲望から超越して存在しつづける大地という存在への信仰にあった。同様にして、かくも生々しく人間の生と性にまつわる苦悩と愚行とを描いてみせるとき、ゾラの眼は、そうした人間の愚かしさをもすべて呑み込んで果てしなく続いてゆく、「生命」そのものの偉大さを見つめていたのである。大地をめぐる営みが、性と生殖の営みに類比させられているとは、そういうことである。

生命の源
【9】 こうして本作は、みじめな人間たちの飽くなき所有欲と性欲の背後に、その愚かしさを超越して脈打っている「大地」と「生命」との存在を見出すに至った。わずかな土地のために人間が奪い合い殺し合っても大地は常にそこにあり、人々が生きることにどれほど苦しんでも、それでもまた新しい命は生まれ出ずる。「大地」も「生命」も人間の悪徳には無関心なままに存続しつづけ、そうだからこそ、人間の弱さ、醜さ、愚かしさによって汚されることもない。たとえ他人の悪意に傷つき、自分を支配する環境と遺伝の力に苦しんだとしても、黙々と収穫を生み出しつづけるこの大地、この生命の存在を想えば、きっと、このかよわい人間の生をも生きていくことができるだろう――。
 挫折してボースを去るジャンのこのような心情を集約的に表現しているのが、物語の最後の場面だ。フランソワーズの墓の前でボースの野を見晴らして、ジャンの乱雑な思考がさまよう。人間の苦悩から農村を取りまく社会的状況へ、さらに永遠に存続する自然の偉大さへと、ジャンの想像のなかで順々に視点が拡大していくこの名場面を締めくくるようにして、ルーゴン・マッカール双書の最終結論を暗示するジャンの想念が宣言される。それは未だ希望と呼べるものではないかもしれない。しかし、一種の諦念を伴った苦渋に満ちた意志、とでもいうべきものがそこにはある。少なくともそれは、新しい人生へ向けてジャンを歩き出させるのに十分なものだ。

しかし、構ったことはない! 家は焼けても、地面まで焼くわけにはいかない。土地は、人間の養い親は、後に残って、種を蒔く者をはぐくむだろう。土地は空間と時間とをわが物とし、人間がより以上のものを引き出す方法を知るまで、とにかく小麦を提供してくれる。
(中略)
われわれは惨憺たる、毎日の決闘をやって、ようやくパンを得るにすぎない。しかも、土地だけが、われわれがそこから生れ、且つ死んでから再びそこに還る母だけが、永久不滅である。われわれが罪を犯すまでに愛するこの大地、これはうかがい知るべからざる目的のために、われわれ人類の卑劣と悲惨とを以て、絶えずその生命を更新して行くのである。
(中略)
 彼は立ち去り際に、もう一度、眼をめぐらして、いまだ草も生えない二つの塚から種蒔きの群れが絶え間ない動作を繰りかえしているボース平野のひろびろとした畑を見渡した。屍骸と種子、そしてパンは大地から生れでるのだ。
(第5部第6章、結語、下176ページ)

 『大地』と名づけられたこの長大な小説の結語が、まさに「大地(la terre)」である(Des morts, des semences, et le pain poussait de la terre.)。本作の表題・主題・そして結語は、ここで完全に一致する。それは、たえず更新されてゆく大地への、またその大地から芽生え生み出される生命への、主人公ジャンの信仰告白なのだ。同時にそれは、大地への信仰を通じた、人間の悲惨と愚昧とに対する反抗の証でもある。私たちはここで、『居酒屋』、『ナナ』など双書前半の諸作品が描き続けてきた、救いようのない貧困と悲惨のことを思い出そう。また同時に、ゾラ自身が本作と一対のものと考えていた第13巻『ジェルミナール』が、本作と多くの共通点を持っていることをも思い出そう。そうすることによって、私たちは『大地』が、また後期ルーゴン・マッカール双書が目ざそうとしていたところを、次第に明確に、把握できるようになるだろう。

『ジェルミナール』との関連
【10】 『ジェルミナール』と『大地』は、労働者と農民という二つの貧困階級を題材にとった点で対をなし、彼らの悲惨さを如実に描き出しながら共感を寄せるという作者の態度の点でも共通するが、より具体的な物語の進行の面でも、両作品には多くの類似点を見出すことができる。たとえば、

  • よそ者である主人公が、舞台に登場するところから物語が始まる
  • 主人公は自分の理想のために苦闘するが、けっきょく挫折する
  • 新たな意志を胸に主人公が舞台を去るところで物語が終わる

といった点がそれである。そして『ジェルミナール』と『大地』が双書前期の諸作品と比べて際だっている点は、主人公の破滅と死に終わることの多かった双書のなかで、この両作品がいずれも「新しい生」へと開かれた暗示的な作品であるということである。

 エチエンヌもジャンも、それぞれの理想を持って苦闘し、そして挫折する。彼らの理想を阻むのは、彼らの中に流れる遺伝の血であり、また彼らを押しひしぐ社会の環境である。現実に破れていく点では、彼らもまた一族の他の人々と変わらない。だが、エチエンヌやジャンが、ジェルヴェーズやナナと異なるのはそのあとである。エチエンヌとジャンはそれでも生き続ける。彼らの挫折は、死をもって終わることはないのだ。
 ここに重要な含意がある。これほどの悲惨に直面しても、それでも人間は生きる、という事実の確認がそれだ。人間の悲惨は幾度となく繰り返しても、そこを生き延びた者は、また新たな生の営みを始めるだろう。それが再び失敗に終わっても、やはり誰かがまた生き延びるに違いない。個人の破滅と死を包み込んで、それでも命は続く。……そうして、幾度も幾度も挫折と失敗とを繰り返した果てに、いつか人間はこの愚昧と悲惨とを脱することがあるのだろうか? それはきっと誰にも断言できず、人間の悲惨はなお長年月にわたって続くのだろう。けれども、漠然とした予感の中からひとかけらの意思を紡ぎ出すためには、ひとつの信頼があればいい。――人間の営みを超えた深いところで存続し続ける何か、大地と、大地の中から芽生える生命への信頼が。『ジェルミナール』と『大地』を前期ルーゴン・マッカールの諸作品から大きく隔てているのは、この信頼の存在である。
【11】 ここで『ジェルミナール』の結語もまた本作と同じ「大地」であったことには注目しておいていいだろう。名高い『ジェルミナール』結語、「その芽生えでこの大地はやがて張り裂けようとしていた。(et dont la germination allait faire bientôt éclater la terre.):河内清訳」は、四月の光の下にざわめく大地と、その底にうごめく解放を求めるエネルギーとを象徴的に描き出して、まるでこの第15巻を予言していたかのようである。そもそも「ジェルミナシオン(芽生え)」と「大地」がきわめて関連の深い語であることは言うをまたない。思えば両作品は互いに呼応し合うかのように、大地と、そこからの何物かの芽生えとを、繰り返し暗示していたとも言えるのである。読者は意識して読めば、『ジェルミナール』の中に大地のモチーフを、また『大地』の中に芽生えのモチーフを、容易に見出すことができるだろう。

そこで新しい土地がたぶんふたたび芽ばえる日までは、もうなにひとつなく、財産の一かけらも、獲得する地位の一つの称号すらもなくなることだろう。
(『ジェルミナール』第5部、強調は引用者)

 『居酒屋』や『ナナ』が描き出したような救いのない堕落と退廃、『ごった煮』が暴き出した中流階級の道徳の欺瞞性、これら人間の醜悪な側面を正面から眼にした後で、なおも私たちは人間の将来を信じて歩き出すことができるのか? この両作品は、それに対するゾラの肯定回答を暗示しているかのようだ。双書はこののちもなお、16巻、17巻、18巻と、悲惨と破壊と貪欲の物語を紡ぎ出していかねばならない。しかし『ジェルミナール』と『大地』が蒔いた種は、少しずつ生長し、いつか収穫の時を迎えるだろう。そして人間はいつか、この汚穢のなかから飛び立とうとすることだろう。ルーゴン・マッカール双書にとっての「大地(la terre)」は、その飛翔のために必要な跳躍台にほかならなかったのだ。

『大地』の展望
【12】 こうして、ルーゴン・マッカール双書は第15巻『大地』に至って、広大な展望を獲得することになる。人間の悲惨と愚昧、その行動を支配し、成功や失敗へと導いてゆく血と遺伝の法則。また人々をつき動かす様々な野心と、それらの野心を燃え上がらせ、拡がらせ、挫折させる社会環境の圧力。だが、そうしたこまごまとした人間の営みをすべて包容して、大地と、大地から生まれ出る生命とがある。土地に執着する人間の欲望を包み込むようにして貿易や戦争の影響が支配し、それをもさらに包み込むようにして大地のいとなみがつづく。『大地』が到達したこの視野の広さに比べたら、『居酒屋』や『ナナ』の世界はまるで取るに足りないことのようにも思われようし、『ジェルミナール』でさえ、これほどの視野の広がりを持ってはいなかったと言ってもいいだろう。『大地』に至って、ルーゴン・マッカール双書はにわかに予言的性格を強め、現代の黙示録という方向へ傾きはじめたかのようだ。
 本作の最後の場面を構成する要素を数え上げてみよう。フランソワーズとフーアンの墓・ボルドリー農場の火事・そして消防組が吹き鳴らすラッパの音。ここに象徴されているものが何であるのか、もはや疑問の余地はない。死と火、そして進軍のラッパ――すなわち、それはまぎれもなく戦争の暗示なのである。堕落と貪欲の果ての無残な死を繰り返し描き出してきた双書は、この終盤にかかって、破壊と死の極致である戦争の予感を、いよいよ見せはじめた。じっさい、ジャンはこののち再び兵士として対プロシア戦争に従軍することになる。それを扱うのは、双書の実質的完結編とも言うべき第19巻『壊滅』である。その戦争はナナの死(『ナナ』)、ジャックの死(『獣人』)の後にくる戦争、第二帝政の終焉を画する戦争であり、また双書がたどり着く地点を決定する戦争になることだろう。第二帝政とともに死んでいったナナやジャックとは違って、ジャンはこの苛烈な戦いへと赴き、そして生きる。その戦いの果てに何が生まれ、ジャンが何を手に入れるのかは、もはや本作のテーマではない。しかし本作が到達した結末は、そのときにもやはり、双書の底を流れる根源的な思想として生きているはずである。
 ――人間がどれほどの死と破壊とを繰り返しても、大地がある限り、いつか、そこからはきっとまた何か新しいものが芽生えるに違いない。いつでも「パンは大地から生れでる」からだ。そして人々は、この悲惨を生き延び、いつか来る収穫の時のために、大地の上で暮らしていくのだろう。まるで「空へ飛び立とうとするような播種の身振を、絶え間なく繰りかえしながら」(第5部第6章)

補論・『大地』におけるゾラのユーモア

【13】 以上の本論では、本作のメイン・テーマともいうべき「大地」がもつ二重の含意と、双書中におけるその意義を中心に論じてきた。この遠大な広がりをもつ作品を理解するうえで、物語の舞台でもあり農民を突き動かす原動力でもある「大地」の意義づけを無視することはできなかったからである。本作において大地は「人間を動かす超越的な力」であるとともに「生命を生み出す母胎」であるという二重性を獲得しており、それゆえに本作は双書の結論「生命への讃歌」へと連なる重要な通過点をなしている。それがこの点に関する私の結論である。
【14】 しかしながら、「大地」をめぐるこのような思想は、伏流として作中のいたるところに脈打っているとはいえ、『大地』の唯一の主題ではないし、また小説の展開を導く主旋律となっているわけでもない。一つの物語としてみれば、『大地』は実に雑多な素材を盛り込んだ多面的な作品であり、農村ルポルタージュ的な傾向を強く持った、力強く雑然とした小説である。実際には小説の展開の中で目立つのは、もっと生々しいもの、たとえば農民たちの欲望や野心、苛酷な労働、開けっぴろげな性の習慣、といったものであり、こうしたものの描写から、私たちはボースの農村生活の生き生きとした印象を受け取ることができるのである。この多様な素材を扱っている大作『大地』をその細部にまでわたって詳細に考証することは非常に困難であり、それゆえある特定の視点からこの作品を考察することは、たしかに意義のないことではなかった。しかし忘れてはならないのは、その場合、その考察は『大地』の一面をしか切り取っていないということである。ゾラの傑作のひとつである本作は、もはや単純な図式では包括しきれないような視野の広がりと主題の輻輳とを獲得するに至っており、その全貌を把握するには、結局のところ作品そのものを熟読する以外に方法はないのである。
 その意味で、連載当時本作に向けられた非難・誹謗の類は、およそ妥当でないように私には思える。本作に対してはかつての自然主義の同志たちからさえも激しい非難が浴びせられ、「淫乱の田園詩」、「破倫の書」などと散々な評価が下されたという。だが、猥文学で何がわるいのか、という議論以前に、本作を猥文学と位置づけるところに、すでに度し難いまでの理解不足が存するのではないだろうか。じっさいに読めばわかるように、『大地』は性描写だけで構成されているわけではないし、その性描写も、べつだん猥褻趣味で扱われているわけではない。「そもそも『大地』を卑猥一色の作品のごとく言うのは全篇を精読してない証拠」(山下武)(注1)なのである。

(注1)山下武『「ルーゴン・マッカール叢書」完成の偉業』(エミール・ゾラ選集 「ルーゴン・マッカール叢書」セレクション(第八〜十四巻) 別冊解説、2000年)15ページ。

 それゆえ、ここで『大地』の多様な側面のうちから、もうひとつの論点として「ゾラのユーモア」を取りあげて概観し、『大地』の多面性の例証としておきたい。ゾラのユーモア感覚は、以前の巻ではあまり顕在化しておらず、そのためか、ゾラは真面目でユーモアがないかのような言われかたをすることもあった。だが、ふたたび山下武氏の言葉を借りれば「ゾラの作品にユーモアがないと思ったらとんでもない間違いだ」(注2)。本作は、ゾラがそのユーモアセンスを発揮している点でも、特徴的な作品なのである。

(注2)上掲書、同ページ。

イヤサントとトゥルイユ
【15】 土地に対する陰鬱な貪欲が全編を彩るこの作品のなかにも、ユーモアに満ちた、というよりほとんどばかばかしいような傑作なエピソードがいくつか存在するのだが、それらを一身に担っているのがイヤサントとトゥルイユの親子である。土地に対して執着を持たず、まともに働く気もないこの密猟者の父と盗掘者の娘は、物語の随所で、呆れはてた笑劇を演ずる。かれらの磊落で屈託のない生き方とさばけた開放的な感情表現とは、土地所有欲に取り憑かれた人々に対する痛烈な皮肉として、この小説に明るい田園的な雰囲気を与えているのである。
 まず、父親のイヤサントはあだ名をイエス・キリストというのだが、そもそもこのあだ名からして人を喰っている。もともと彼のひげ面がイエスに似ているというのでこのあだ名がついたとされているが、作中では彼はほとんど本名では呼ばれず、イエス・キリストで通っている。作者ゾラが地の文を書くときも彼の呼称はイエス・キリストである。ところが、この男がイエスに似ているのは顔だけであって、その振るまいはというと、自分の父親にたかったり、他人の家畜を密猟したりと、まったくもって褒められたものではないから、結果的に、やることなすことがあだ名と不釣り合いなわけである。そういうむちゃくちゃな行動がすべて「イエス・キリスト」を主語にして真面目に書いてあるため、そこにはどうしても痛烈なアイロニーの空気が醸成されることになる。

【16】 特に、第4部第3章の冒頭は強烈だ。なんの前触れもなしにいきなり、

「イエス・キリストは非常な屁っぴりだった。」(中185ページ)

ときたのには私も爆笑してしまった。章の冒頭にいきなり簡潔な文章で断定的な結論をもってくるのは、叙述にインパクトを与えるための常套手段であって、この点はたしかにゾラのジャーナリスト的才能のなせるわざであろう。しかしそれにしても、文脈から切り離して、あだ名のことなど知らずにこの文章だけを読むと、途方もないことを言っているわけである。ゾラはこの一文の効果のために、わざわざイエス・キリストというあだ名をイヤサントに与えたのではないかと考えたくなるくらいである。(もっとも、本物のイエスが屁っぴりだったとしても私はそれで構わないと思うし、それがキリスト教を侮辱しているとはぜんぜん思わないが。)
 この第4部第3章は終始イエス・キリストの屁をめぐって展開する。おそらく、この作品で二番目に愉快な章である。

彼の屁は常に大砲のような強さと廣さとをもち、遠慮会釈のない音を響かせた。彼はその度に、ゆったりと自信に満ちた動作で片尻をもたげ、厳しい顔付をして、号令でもかけるような遽しい声で娘を呼んだ。
 「トゥルイユ、早く来い、畜生め!」
 彼女が何事かと駆けてくると、その途端に、砲弾を空に放つような鳴りひびくばかりの音をさせて、一発ぶっぱなす。娘が驚いて跳び上がる。
(中略)
全く、この快漢はまるで腹の中に蓄音機でもかかえこんでいるように、思うままの音をひり出すのだった。従って、クロワの居酒屋『ボン・ラブールール』軒で、人はよく「六発やったら、一杯おごるぞ」と賭をしたが、彼は見事に六発やってのけて、何時でも勝ちをしめるのだった。
(中184-186ページ)

 イエス・キリストが流れ者の女に生ませたとされる娘のトゥルイユのほうも、父におとらず奔放な人物である。トゥルイユ(太っちょ)というのもあだ名であって、彼女の本名はオランプというのだが、やはりまったくと言っていいほど本名では呼ばれない。彼女は父親譲りの無頓着な楽観主義でもって遊びあるき、手下の鵞鳥たちを引き連れてほうぼうの畑を荒らしてまわる。そしていつも村の男と戯れていて、なぜか娘の操行にはうるさい父親との間で、ドタバタのコントを繰り広げるのである。
【17】 第3部第3章、サン・アンリ祭の日の一連の事件は、この親子をめぐって、この小説で最も明るく開放的なエピソードが連続する章だ。この章をそのまま映像にすることができたら、どれほど傑作なひと幕ができ上がるだろうかと思わせるところである。あまりに面白いので、かなり長文になるが引用しておこう。

 前夜、イエス・キリストはすっかり悦に入って、四枚の五フラン金貨をうっかりトゥルイユに見せびらかすというへまをやってから、手にしっかりと握り込んで眠った。というのは、この前このいたずら娘は彼の長枕の下から一枚ちょろまかして、彼が酔払って帰って来たのを口実に、自分で失くしたにちがいないと言い張ったからだった。
(中略)
朝の中、トゥルイユはさんざん彼の機嫌をとって、一枚頂戴、ほんのちっちゃいのでいいから、と頼んでみたが、駄目だった。彼は彼女を押しのけた。彼女はちょろまかしてきた卵をオムレツにして、出してやったが、彼は感謝さえしなかった。駄目だ! お父っつぁんをちやほやしたって仕方がねえ。金というものは男のために出来てるもんだ。そこで、彼女はふくれてしまい、飲めや唄えと景気のよい時買ってもらった青いポプリンの服をきて、あたしも遊びに行くと言った。そして、戸口から二十メートルも行かない中にふりかえって、叫んだ。
 「お父っつぁん! お父っつぁん! 見てみなよ!」
 彼女は手をあげて、細っこい指の先に、太陽のようにきらきら光る一枚の美しい五フラン金貨を撮みあげて見せた。
 親爺はくすねられたと思い込んで、青くなってポケットをさぐった。だが、二十フランはたしかにポケットに入っていた。この乞食娘め、自分の鵞鳥で商売をしたにちがいない。しかもその仕草が彼にはおかしかった。彼は娘の逃げて行くのを見送りながら、父親らしく苦笑した。
(中41-42ページ、強調は引用者)

 イエス・キリストはただ一つのことについてだけ厳格だった。つまり品行である。そこで半時間ばかりたってからだが、ひどく腹を立てることになった。彼もまた出かけようとして、戸口を閉めにかかっていた。その時、晴着をきた一人の百姓が、下の街道を通りかかって、彼を呼びとめた。
 「イエス・キリスト! おーい、イエス・キリスト!」
 「何だい」
 「お前の娘が、ひっくりかえってるぜ
 「何だって」
 「男が一人のっかってるよ
 「どこで」
 「あのギヨームの畑の隅の溝ん中だ」
 イエス・キリストはかんかんに怒って、両手の拳骨を空に振りあげた。
 「そうか! ありがとう! 鞭を持ってくる! ……ああ! 面汚しの女(あま)っちょめ!」
 彼は家にかけ込んで、戸口の裏の左手から、こんな場合だけに使う、馬車挽きの大きな鞭をはずした。それからその鞭を小脇にはさんで、体をかがめ、灌木の林に沿って駆け出した。見つからないよう、淫奔者(いたずらもの)をおさえるために、まるで狩りにでも行くようだった。
(中42-43ページ)

 だが、彼が街道の曲り角にかかると、石堆(いしやま)の上から見張っていたネネスが見つけた。トゥルイユにのっかっていたのはデルファンだった。順々に代り合うはずで、一人が戯れている時には、一人が歩哨にたったのだった。
 「用心しろ! イエス・キリストがきた!
 とネネスが叫んだ。
 彼は鞭に眼をつけて、兎のように畑を抜けてつっ走った。
 雑草のおい茂った溝の中では、トゥルイユが一ゆすりして、デルファンを横に投げ出した。ああ! 困った、お父さんだわ! だが彼女には腕白小僧に五フラン金貨を渡すだけの余裕があった。
 「シャツの中に隠しておいてよ、後でかえしてね……早く、足をどけてよ、のろまだね!」
 イエス・キリストは大きな鞭をふりまわし、鉄砲玉のような烈しい音を響かせながら、どしんどしん大地を踏みゆるがせ、嵐のように殺到した。
 「この糞女(くそあま)! この売女! やあ、お前が此女(こいつ)を踊らせようとしたんだな!」
(中43-44ページ)

 この後、青年二人は逃げおおせ、イエス・キリストとトゥルイユの追いかけっこが始まる。父親の鞭を逃れようとするトゥルイユは、村のブルジョワのシャルル氏とその娘のエロディーに行き会い、貞淑を気取っているこの二人のまわりをぐるぐる回りながら逃げまわる。イエス・キリストはとうとうトゥルイユをつかまえ、罰として家に閉じ込めて自分ひとりで祭りに行くが、彼女はそれからすぐに鍵をはずして逃げ出す。そしてその後……

 一方、イエス・キリストはランゲーニュの店にやって来た。すると、新調の仕事着にぴかぴか光る名札をつけたベキューに出遇った。彼は勢いこんでその男に話しかけた。
 「おい、気取って歩いていやがって! ……お前んとこのデルファンがどこにいるか知ってるか
 「何処だ」
 「俺んとこの娘の上だ……県知事に手紙を出して、お前なぞ首にしてやろう、畜生の親爺は、やっぱり畜生にちがいねえ!」
 とたんにベキューが怒り出した。
 「お前の娘ときたら、いつだって空に脚を跳ねあげてるじゃねえか……ああ! 彼奴がデルファンをたぶらかしたんだ。きっと憲兵にいって牢屋へ放りこませてやる!」
 「やれるもんならやって見ろ、山賊め!」
 二人は鼻を突き合せて睨み合った。それからだしぬけに緊張を緩めて、仲直りをした。
 「一杯やって、とっくり話し合おうじゃねえか」
 とイエス・キリストが言った。
 「文なしだ
 とベキューがこたえた。
(中47ページ)

 この第3部第3章は終始この調子で、イエス・キリストとトゥルイユのあけすけな行動がたてつづけに描かれる。ゾラの作品にはある特定の章に特に力が入っている傾向が顕著であるが、この『大地』の第三部第三章もまた、ゾラのユーモアセンスを凝縮しているという意味で、双書中屈指の名場面と言っていいであろう。ゾラの作品があまり好きでない、またはわからない、という向きには、この章だけでもいいから読め、と私は勧めることにしたい。

結論
【18】 こうしたゾラのユーモアが顕著になってくるのは、双書のうちでも、特に第14巻以降のことであるように思える。第14巻『制作』は、全体としては暗い話であるが、その前半部分、クロードとサンドーズが青春時代を回想する場面では、ここと同じように、農村での開放的な放浪生活が描写されていた。このような底抜けの明るさを伴ったエピソードは、たしかに、第13巻までには見られなかったものであり、注目に値しよう。
 環境と遺伝に支配される人間の悲惨を描き続けてきたゾラにとって、その陰鬱な描写を続けることは、おそらく、この環境と遺伝の呪いを中和し克服するために不可欠な苦行だったのではなかろうか(注3)。しかしこの陰惨な旅を続けてきたゾラは、その頂点ともいえる大作『ジェルミナール』を書き上げたことで、なにか大きな荷をひとつ降ろしたかのようである。14巻も15巻も、小説の雰囲気は、全体としてはなお暗い。けれども、そこにはたしかに、再生の予感を秘めた新しい気分が芽生え始めている。笑いが――決してニヒルなそれでなく、明るく開放的な笑いがゾラの小説に姿を見せはじめたことは、この再生への道すじを示しているのではないだろうか。

(注3)この点に関し朝比奈弘治氏は、書くという行為はゾラにとって「苦悩と祈りのないまぜになった悪魔祓いの荒業」だったと述べている。朝比奈弘治「家系樹の彼方へ」(明治學院論叢462号19-51頁)49頁。

 そしてもしそうとすれば、私はたちは再び、さきに確認した「大地」の含意、すなわち生命を生み出す母胎への信頼が、ここにもまた息づいているのに気がつくだろう。本作の扱う様々な素材は、このようにして通底しているのである。いっけん卑猥で、雑然として、生々しい性と貪欲の息吹に満ち満ちたかのようなこの小説は、遠大な構想と堅い芯に貫かれた類まれな農村小説であり、また小説家ゾラの魅力を凝縮した、たくましく躍動的な物語なのである。

(後注)引用文中、いくつかの旧漢字は新字体に置き換えた。

ノート
字数:19000
初稿:2001/12/21
初掲:2001/12/22
リンク
DATA:ゾラ
DATA:『大地』
ゾラ特設サイトマップ
岩波書店
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

  1. 山下武『「ルーゴン・マッカール叢書」完成の偉業』(エミール・ゾラ選集 「ルーゴン・マッカール叢書」セレクション(第八〜十四巻) 別冊解説、2000年)
  2. 朝比奈弘治「家系樹の彼方へ」(明治學院論叢462号19-51頁)

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。