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感情教育

青年のロマン主義的理想とその挫折を描いたフローベールの自伝的作品。
Gustave Flaubert "L'Education sentimentale", 1869
『新集世界の文学14 フロベール』(中央公論社1972年)所収(山田【じゃく】訳)


いろいろと粗が目立つため改訂中。

あらすじ
【1】 七月王政下、身を立てるためパリに出てきた法科の学生フレデリックは、出版社社長アルヌーの夫人と知り合って恋心を抱く。アルヌー夫人はフレデリックの好意に気づきながらも、単なる知り合いとして以上の親交を許そうとしない。彼は年金を持ち、前途を有望視されながらも、この恋のために出世のチャンスを逃してばかりいた。
 やがて二月革命が起こり、フレデリックと友人たちは混乱のパリであてのない遍歴を続ける。娼婦ロザネットとの関係、ダンブルーズ夫人との交際、フレデリックの帰郷を待つ故郷のルイーズへの拒絶。アルヌーの没落がすすむうち、フレデリックはとうとうアルヌー夫人と二人で会う約束を取りつけるが、夫人の息子の急病のためこの約束は破られる。
 20年ののち、依然として無為の生活を送るフレデリックは、すでに老境に入ったアルヌー夫人と再会する。互いへの愛情を持ちつづけた二人は情熱的な告白を交わし、そのまま別れる。そしてしばらく後のある冬の日、フレデリックと友人のデローリエは、成功しなかった自分の半生を振り返り、青春時代をなつかしむのだった。

【2】 『ボヴァリー夫人』と並び、フローベールの代表作とされる作品。
 本作のあらすじは上に記したとおりであるが、これをさらに簡略化すると、要するに次のようになるであろう。「理想を抱いていた青年が恋にも仕事にも挫折して結局は平凡な人生を送る」。そんな要約があるかという気もするが、少なくとも表面的なあらすじはそうなのであり、こう言ったからといってイチャモンをつけられるいわれはない。しかしながら、単にあらすじを要約しただけでは作品を評したことにはならないわけであり、その次に「だからどうなんだ」という点、すなわち主題やら文体やらが問題になってこなければならないことになる。
 しかし実を言うと、こういうことをくどくど述べたてているのは、私がその問いに対する適切な答を持っていないからにほかならない。はっきり言ってしまえば、私は読了後も、この作品に対する適切な把握と意義づけができないでいるのである。

退屈な作品?
【3】 この作品について、フローベールは作者としてかなりの自信をもっていたようであるが、当時一般には退屈な作品と評され、そのときはただひとりバンヴィルのみが高く評価したと言われる。バンヴィルの評価について、またこんにちのこの作品に対する評価について、私は多くを知らないが、「退屈な作品」という見方が、少なくとも表層的には当てはまることは事実であろう。というのも、本作には少しばかり読み進むのがしんどいところがあり、純粋に物語の展開を楽しみたくて小説を読む私のような読者にとっては、確かにやや精彩を欠くかのような印象を与えかねないからである。(ただしあらかじめ言っておくと、それはあくまで皮相な理解である。)
 私の感想として言えば、本作の全編を貫いている雰囲気は「倦怠感」である。ブルジョワ社会のけだるい日常、情熱と呼べるほど激しくならない曖昧な感情、定まった方向をもたずに浮遊する意志、そうしたものが小説全体の基調をなしており、退廃的とも言える独特な空気を作中に作り出している。そのけだるさと、王政復古期のフランス社会を克明に捉えた精細な文章とが本作の大きな特徴となっているのである。
 さらにこの特徴をいっそう際だたせているのは、『感情教育』という題名と小説の内容との落差の大きさであろう。「感情」を冠したその題名の割には、本作の登場人物たちの感情の起伏はあまりにも微妙で、潜在している。主人公である肝心のフレデリックの感情が、なにより終始明確でなく、そのために恋愛感情は激しい行動へと結びつかないし、政治的理想は明確な政治行動として結実しない。客観的に大きな事件が起こっても、それは主人公の人生を支えるに足るだけの一貫性と強度とを主人公の主観において持つことはなく、フレデリックの自我や自意識は、この一貫性を欠いた生活のなかで限りなく拡散し希薄化しつつ、あてどのない浮薄の遍歴をたどるのである。

 小説の最大の山場は、フレデリックがついにアルヌー夫人と密会の約束をとりつけ、しかしその密会が運命のいたずらで実現しなかった場面であろう。このあたりでは私も夢中になって読んで、いよいよ佳境に入ったかと思ったのであるが、その後ふたたび倦怠感モードに戻ってしまい、そのまま最後までなだれ込んでしまうという印象がある。
 思うに、フレデリックが何らかの感情を抱いていることはわかるのだが、それはあまりにも微妙な、曖昧模糊としたものなので、いったいどんな意味があるのかと疑わせるほどのものである。しかし逆に言えば、全体があまりにも倦怠感のムードで覆われているために、人物たちのごく微妙な感情がかえって浮き彫りになってくるという仕組みを、この小説はもっているのだと言ってもいい。フレデリックが極端な感情的揺さぶりを経験しないためにむしろ、彼の情緒的な成熟のゆっくりとした過程が、知らず知らずのうちに読者に浸透してゆくのである。
 私は、早く面白くならないかと思って倦怠感を我慢しながら一気に読み通してしまったのだが、本当はこの作品は、この漫然とした成り行きに身をまかせつつ、ゆっくりと読みすすめるほうがいいのかもしれない。

補足
【4】 なお、以下の点が私の興味をひいたので付言しておきたい。
 フレデリックの人生に関わる四人の女性(アルヌー夫人、ロザネット、ダンブルーズ夫人、ルイーズ)を比較しながら読んでみるのは、面白い課題であるかもしれない。わたし個人としては、出番が少ないものの、ルイーズの心理の動きに惹かれるものがある。また、七月王政下の倦怠感に満ちた雰囲気や二月革命のパリの興奮などの描写は優れている。これらは本作から実に生き生きと伝わってきた。この点はたしかにこの小説のすごいところであり、本作が歴史的資料としての価値をも認められているというのも頷けるところである。

ノート
字数:2400
初稿:2001/10/26
初掲:2001/10/27
リンク
DATA:フローベール
DATA:『感情教育』
中央公論社
参考文献・関連事項
コメント
 本書の初読当時は大学の聴講生としてフランス文学史を学んでいた。それから十余年、その時の師である太田浩一先生によって新訳が刊行されたのには感慨もひとしおである。このページも、いずれは作り直したいものである。(2015年3月)
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

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