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第二の性

「女の神話」の欺瞞を暴き女性の解放を訴える古典的評論。
Simone de Beauvoir "Le Deuxième Sexe", 1949
ボーヴォワール『決定版 第二の性(I・II(上・下))』(『第二の性』を原文で読み直す会訳新潮文庫2001年)


【1】 戦後フランスの実存主義を担った代表的論者のひとりボーヴォワールによる、女性論の古典。
 私が利用した訳書は、1997年に刊行された新訳を文庫化したものである。まず、この訳書について高く評価しておきたい。注や用語解説が充実しているのももちろんだが、何よりも訳文がいいのである。非常によく練られた平明な文章なので、論じている内容が高度なのにもかかわらず、スムーズに読み進めることができる。実際の翻訳は十名の訳者による分担作業のようであるが、訳文に不統一を感じることはまったくなかった。「決定版」の名に恥じない名訳である。
 また、内容に関してあらかじめ結論めいたことを言っておくと、本書はたしかに古典であるが、同時にもっとも「現代的」な古典のひとつである。それは、単に戦後の作品だからという意味ではなく、現代社会のもっとも先鋭的な論点のひとつに関わっているという意味においてである。本書はいまだ厳密な意味で歴史的なものとみなすことのできない著作であり、またその主張に対して、一人ひとりの読者が支持か不支持かを明確に問われるような、そういう著作である。私としては、基本的な考え方に関する限り本書をほぼ全面的に支持したい。半世紀前の著作であるから、こんにちの実状に照らせば細かい点でいろいろと問題があるだろうが、議論の大筋は現在もなお重要な論点をなしており、しかも、ボーヴォワールの結論は十分に妥当性をもつと思う。

第一巻 事実と神話(Les faits et les mythes)

【2】 本書の第一巻は、女が置かれた状況についての実証的・歴史的検証と、文学作品に現れた女の性質をめぐる分析にあてられている。
 まず第一部「運命」において、ボーヴォワールは、女の本性を根拠づけると考えられてきた三つのもの、すなわち生物学的条件・精神分析・史的唯物論を順に検証しつつ、そのいずれも決定的な根拠にはなりえないことを明らかにする。さらに第二部「歴史」では、家父長制の成立がいかにして「女の神話」(女とは〜なものである、という決めつけ)と不可分に結びついてきたかを、歴史的に考察していく。この二部は本書のうちでボーヴォワールの博識が最も際だっている部分であり、非常に読み応えがある。
 たとえば次のような文章にはジェンダー論の基本的思想が明確に表現されており、こんにちでも(というより今後ますます)説得力を持つものと言えよう。

 妻を夫に従属させるのは、妻が本質的に無能力であると判断されるからではない。財産管理に何の差しさわりもない場合には、女の能力は十分に認められているのだ。封建時代から現代にいたるまで、結婚した女は意図的に私有財産の犠牲にされてきた。この隷属状態は夫の所有する財産が莫大であればあるほど苛酷であるのは注目に値する。いつでも女の従属がいちばんはっきりしているのは有産階級である。今日でも、富裕な土地所有者層には家父長制家族が存続している。
(I・204ページ)

 こうしたすべての国で、「貞淑な妻」が家族に隷属した結果の一つが、売春の存在である。売春婦は偽善的に社会の周縁に押しやられながら、最も重要な役割の一つを社会で果たしている。キリスト教は彼女たちに軽蔑のことばを浴びせかけるが、彼女たちを必要悪として認めているのだ。
(I・208ページ)

 どうでもいいときには男が女を立てて一等席を譲るべきなのはおきまりのことだ。原始社会のように女に重い荷物を背負わせる代わりに、つらい仕事や心配事の一切を急いで女から取り除く。それは同時に、女を一切の責任から解放することである。こうして女は自分の立場の安易さにだまされ、心をそそられて、男が女を閉じ込めたがっている母や主婦の役割を受け入れるよう期待されるのだ。
(I・240ページ)

 誰もが今でも若い娘に、「すてきな王子さま」に幸運と幸福を期待する方が、一人でそれを手に入れようと困難で不確かな試みをするよりもいいとすすめている。とくに、娘は王子によって自分のカーストより上のカーストに上昇することも期待できる。それは彼女が一生働いても与えられない奇跡である。しかし、そういう望みは彼女の努力と利益を分離させてしまうので有害である。女にとって最も大きいハンディキャップは、おそらくこの分裂である。両親はいまでも娘を、その個性をのばすよりも、結婚させるために育てる。娘もその方が有利だと思って、自分からそれを望むほどだ。その結果、娘の大部分はその兄弟ほど専門技術を身につけず、しっかりした教育も受けず、自分の職業に全身全霊で打ち込むこともしない。そのためにいつまでも低い地位にあまんじることになる。そして悪循環が始まる。この劣等意識が夫を見つけたいという願望を強めるのだ。
(I・289ページ)

 もっとも、ここには色々と細かい知識が出てくるので、読者によっては最初にこの部分を読まされると退屈に感じるかもしれない。本書の真骨頂は第二巻であり、第二巻を読まずに挫折してしまうのはあまりに不幸であるから、そういう読者はこの第一巻第一部・第二部をとばして先を読むほうがいいかもしれない。
【3】 第一巻のなかで私にとって最も興味深かったのは第三部「神話」であった。ここでは、男が作りだした女の神話を、近代以降のフランス文学を題材にとって分析している。特に大きく扱われている作家は、モンテルラン、D・H・ロレンス、クローデル、ブルトン、スタンダールの五人であるが、それ以外にも、随所にフランス作家と作品についての言及があり、フランス文学史をひととおり学んだ後に読むと、ボーヴォワールの言わんとすることが逐一わかって実に興味深い。
 重点的に論じられた上記の五人のうちでは、まずモンテルランがけちょんけちょんにやっつけられている。これに対して最も高く評価されているのがスタンダールである。ボーヴォワールはスタンダールの作品に登場する情熱的な女性たちを深く慈しむ。(これだけでも、ボーヴォワールの思想が教条的な男女同質論でないことくらい、わかりそうなものだが。)たとえば『リュシアン・ルーヴェン』のシャステレル夫人や『赤と黒』のマチルドについての分析には、私は深く納得してしまった。

 高貴な魂はいつも自分自身にふさわしくありたいと願うのである。他人にほめられるより自分自身で納得するほうを重視し、それによって自己を一つの絶対として実現する。反響のないこうした孤独な問答は、政変より重大である。シャステレル夫人がリュシアン・ルーヴェンの愛に応えるべきかどうか自問するとき、彼女は自分自身のこと、世界のことを決めるのだ。他人を信頼してもいいだろうか。自分自身の心をあてにできるだろうか。恋愛の価値、人間の誓いの価値とは何だろう。信じたり、愛したりするのは馬鹿なのか、寛大なのか。こうした疑問は、人生の意味、一人ひとりの人生、そして万人の人生の意味そのものを問題にする。
 いわゆる謹厳な男は、人生について出来合いの説明を受け入れているにすぎないから、実際は浅薄である。しかし情熱的で、深く考える女は、一瞬一瞬、既成の価値観を再検討し、支えのない自由の不断の緊張を味わう。そうしてわが身が危険にさらされているのをつねに感じている。
(I・488-489ページ)

 破滅するよりわが身を守るほうが、あるいは愛する人に抵抗するより屈服するほうが、高慢だろうか、偉大だろうか。彼女〔マチルド=引用者注〕もまた疑念のただなかにたった一人で、命より大切なプライドを賭ける。無知、偏見、欺瞞の闇をつきぬけ、ゆらめく熱い情熱の光のなかに本当の生きる理由を熱烈に探求すること、幸福か死か、栄誉か屈辱かという果てしない賭けに身をさらすこと、それこそが、女の生涯にロマネスクな栄光を授けるのである。
(中略)
マチルド・ド・ラ・モルが魅力的なのは、演じているうちに訳がわからなくなり、自分の心を制御しているつもりが、たいていはその餌食になっているからである。
(I・490ページ)

第二巻 体験(L'expérience vécue)

【4】 第一巻において女の神話が作られ維持されてきた過程に焦点をあてたボーヴォワールは、第二巻では、この神話が実際にどのように女のあり方を規定しているのかを、女の人生に沿って明らかにしてゆく。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(II・12ページ)という有名な言葉はこの第二巻の第一部冒頭に掲げられたものであり、第一部「女はどう育てられるか」、第二部「女が生きる状況」において、いかにして女が「作られて」いるかが明らかにされる。合わせると第二巻の三分の二以上の分量となるこの二つの部では、女性作家の文学作品(特にコレット)と精神医療の文献から例をひきつつ、女の成長過程の各段階と、成人した後の女の置かれる状況のそれぞれに応じて、この影響力の仕組みが解き明かされる。叙述・引例ともに豊富なため読みごたえがあり、女の同性愛や高級娼婦、さらに老年期の女についてなど、女の置かれるあらゆる個別の状況に関してボーヴォワールが深い洞察をおこなっていたことを思い知らされる。男の読者にとっては、女の中で展開している問題が、いかに複雑で、男の単純な想像からかけ離れているかを再認識させられるものと言えよう。
 さて、ここまでの分量は圧巻であるが、まだそれほど各主題が不可分に扱われてはいないので、興味のある章だけを読むのでもいいかもしれない。これに対して、第二部末尾の第十章と、第三部「自分を正当化する女たち」、第四部「解放に向かって」は、いわば本書の総括をなす部分であり、ぜひともまとめて読む必要がある。ボーヴォワールはここまでにも、本書の理論的要約めいた記述を各所に残してきているが、この最後の部分で、それらを包括的に再提示しているからである。
【5】 ボーヴォワールの論旨展開の概略はこうである。まず、「女の神話」に支えられた社会的状況がどのようにして女を内在性=非本質性に閉じこめているかを、これまでの章を受ける形で一般的に述べる(第二部第十章)。そしてこの状況に対する女自身の加担、すなわち内在の中で超越を達成しようとする悲壮な努力の姿を、「ナルシシストの女」(第三部第十一章)、「恋する女」(第十二章)、「神秘的信仰に生きる女」(第十三章)、として描き出す。ボーヴォワールの主張の核心は、これらが、女を内在性に閉じこめる「罠」になっているという点にある。母性や女らしさを否定しているのではなく、それらの概念が女を騙すために利用されていると言っているのである。いっぽう、男に対して女の解放を要求し、あれこれの理屈をつけて不平等を正当化しようとする主張に対抗する基本的な考え方は、「私たちの存在の正当性を証明しろと要求する前に、まず私たちを存在させてください」ということである(これは「野蛮なアメリカ」を非難するヨーロッパ人に、合衆国第三代大統領ジェファーソンが答えた論理であった)。つまり、結婚するほうが女にとって幸福かどうかといった「結果」を論じているのではなく、女が自分の可能性を開花させることを阻む状況そのものを問題にしているのである。
 誠実に読み込めば、ボーヴォワールの論理はきわめて明快かつ強靱であり、強い説得力を持つことがわかる。ボーヴォワールの主張を誤解した上で、その誤解された考え方をおおいに否定することは可能であろうが(しかしその場合ボーヴォワールを論破したことには全然ならない)、そうでない限り、彼女の主張の基本部分を退けることは難しいだろう。私自身は特に第二巻第三部において、よく非難される女の夢想的・非現実的傾向について、ボーヴォワールが冷静に分析し、結果として女を見事に擁護していることに驚嘆した。表面的には女に対してかなり手厳しいことを言っているこの部分の存在することこそが、ボーヴォワールの主張に論理的一貫性を持たせ、女の状況改善を訴える本書に、恐るべき説得力を与えることになっているのである。
 本書第二巻の第三部・第四部におけるボーヴォワールの主張を、以下に私自身の言葉で敷衍しておきたい。

考察
【6】 ボーヴォワールは「謹厳な男たち」の社会とその社会が支えてきた「女の神話」を批判し、女を「第二の性」の立場から解放しようとしているわけであるが、その主張には、注意を払うべきいくつかの要点がある。その第一は、価値の反転によって女を復権させようとしているのではないという点である。すなわち、「『男らしさ』に対立するものとしての『女らしさ』の価値を称揚することによって男の実権を相対化ないし否定する」という論法をとっていない、ということである。こうした論法、すなわち価値基準を反転させることによって劣者を優者へ、優者を劣者へと入れ替えようとするロジックは、たとえば「心貧しき者は幸いなるかな」といったふうにして、神秘的宗教がしばしば用いてきたものだ。こういう一発逆転式のロジックを救済と考えるか欺瞞と考えるかはともかく(私は欺瞞だと思うが)、これはボーヴォワールのとるところではない。ボーヴォワールは男たちの世界になにか生き生きしたものがあることを認める。それは本書で「本来性」とか「超越」とか呼ばれているものだ。本書の基本的態度は、こうした「本来性」に大きな価値を認めつつ、それに対する女のアクセス権が制限されていることへの抗議ということになる。
【7】 この点は本書でも繰り返し述べられており、そもそもフェミニズムの出発点ともいうべき認識であるから、誤解の余地はあまりないだろう。ところが、ボーヴォワールの主張のもうひとつの要点は、しばしば理解されていないのではないかと思われる。それはボーヴォワールが、女を男に似せる、ないし近づけることによって男女の平等を達成しようとしているのでもない、という点である。
 たしかにボーヴォワールは、世界に同意し、他者との関わりによって本来性へと超越しようとする男の立場の価値を認める。そして一方で、恋愛のような個人的な手段で自己を正当化しようとする女たちの悲壮で滑稽な努力を戒める。しかしそのことは、女が男のように振る舞ったり、恋愛にまったく価値を置かないような生き方を賛美することを意味してはいない。スタンダールへの積極的評価や「恋愛ぎらい」のモンテルランへの辛辣な批判を展開した第一巻第三部からも、そのことは十分に裏付けられる。ボーヴォワールは、恋愛そのものの価値を否定しているのではなく、恋愛が女にとって罠になっていることを問題にしているのである。すなわち、望むと望まざるとに関わらず女が恋愛の中に閉じこめられていること、女が輝こうと思うと恋愛くらいしか道がないこと、そういう状況の不当性を問うているのだ。この状況が、女における恋愛や信仰を現実逃避的なものにし、そこから真の情熱を奪っているのであって、第三部でナルシシズムや恋愛や神秘的信仰に生きる女について言われていることは、こういう状況に対する批判なのである。

【8】 世界へ働きかける機会や手段の面で、女は全般的に男より不利な状況に置かれているため、男と同等の成果をあげるためにも、男より多くの努力をしなければならない。自分を個別化する(「世界でただひとりの私」を実現する)ためには、男にしても努力と訓練が不可欠なのだが、不公正な状況によってもともと道を閉ざされている女たちの多くは、報われないことがわかっているので、じきに努力しようという意思そのものを放棄してしまう。

 自由な主体だけが時間を超えて自己を確立し、いっさいの破滅を妨げることができる。この最高にして最後の手段が女には禁じられている。女が解放を信じないのは、何よりも、女がただの一度も自由を経験したことがないからである。
(II下・236ページ)

 しかし人間である以上、個別化をあきらめることなどできないので、女たちは代わりに特殊で魔術的なやり方で、つまり辛い努力なしに、自己の個別化を達成することを試みる。その方法が、ナルシシズム、恋愛と結婚、神秘的信仰である。社会が作り出した「女らしさの神話」は、女がこれらの道を歩むことを推奨する。

 習慣が禁じて以来、男は泣くことをやめてしまったのに、ディドロやバンジャマン・コンスタンはぼろぼろ涙を流して泣いた。しかし、女はとくに、世界に対していつも失敗の振る舞いをする傾向がある。世界を率直に受けとめたことがないからだ。男は世界に同意する。不幸にあってもその態度を変えない。男は世界に立ち向かい、「打ち負かされるままになってはいない」。ところが、女は一つ障害が生じるたびに、世界に敵意をいだき、自分の運命を不当だと思う。そんなときは急いでより安全な隠れ家、すなわち自分自身のなかに駆け込む。
(II下・245ページ)

 だが、強いられて(騙されて)恋愛に押しやられた女たちにとっては、恋愛は自由で主体的な選択ではなく、ぜひともそこで成功しなければならない一つの牢獄となる。だからこそこの結果、女は自己欺瞞的で、他人の評価ばかり気にし、おしゃべりに明け暮れ、何かを「する」よりも何かで「ある」ことにのみ関心を抱くようになる。つまるところ、本当に無能になってしまう。このような「状況によって作られた無能さ」が、女を劣った性とみなす立場を正当化し、また女を男に依存させて、女同士の真の団結も、男と女の協力関係をも妨害するのである。ボーヴォワールの言う悪循環とはこのことであり、これこそが、社会が女に対して仕掛けた罠のからくりである。

 大多数の女にとって、超越への道は阻まれている。なぜなら、彼女たちは何もしようとせず、何かになろうともしないからである。彼女たちは、自分が何になりえたかと際限なく自問したあげくに、自分が何であるか自問するにいたる。これは虚しい問いかけである。男が女の秘められた本質を発見するのに失敗するのは、ただ単に、それが存在しないからだ。世界の周縁にとどめ置かれている女は、この世界を通じて客観的に自分を定義することができず、その神秘の中味は空っぽである。
 そのうえ、すべての被抑圧者と同じように、女は自分の客観的な姿をわざと隠すこともある。奴隷、召使い、原住民など、主人の気まぐれに左右される者はみな、主人に対して、いつも変わらぬ微笑や謎めいた平静さで応じる習慣が身についている。自分の本心、自分のほんとうの行動は、用心深く隠しておくのだ。女もまた、思春期の頃から、男に嘘をつくこと、術策を弄すること、遠回しの手段をとることを教えこまれる。女は借りものの顔で男に接する。女は用心深く、偽善者で、役者である。
(I・512-513ページ、強調部分は訳文では傍点)

 行動だけが多様な時間を統一する。若い娘はほんとうの意志ではなく、ただ欲望を抱き、脈絡もなくあちらからこちらへと飛び移る。この脈絡のなさがときに危険になるのは、夢想のなかで参加しているだけなのに、瞬間ごとに、自分のすべてをかけて参加するからだ。娘は非妥協的で要求の多い立場をとる。決定的なもの、絶対的なものを好む。未来を自由にできないので、永遠なるものを手に入れようとするのだ。
(中略)
夢は時間と障害物を消滅させるが、現実性の乏しさを補うために過激になる必要がある。ほんとうの計画をもつ人はみな有限性を知っているが、これはその人に具体的な力がある証拠なのだ。若い娘は自分に属するものが何もないからすべてを受け取りたがる。このために、大人、とくに男の前で、「恐るべき子ども」の性格が出るのだ。
(II上・185-186ページ、強調部分は訳文では傍点)

【9】 そこで、ボーヴォワールが問題にしているのは、女を罠におとすこの構造を解体することにほかならない。ナルシシズムや恋愛や神秘的信仰のすべてが悪いのではなく、それらが女を劣った状況に置くことの代償として提示され、超越の放棄や自己欺瞞へと女を仕向けていることが問題なのだ。フェミニズムを攻撃するために好んで例示される教条的な男女同質論の類(もっともこれをフェミニズムに帰すること自体、呆れ果てた曲解だという気もするが)などより、ボーヴォワールの観察はずっと鋭く、柔軟である。たとえば、高等師範学校の女子学生の間に漂う息詰まるような閉塞感についてのボーヴォワールの観察や、男と対等にわたりあう「猛々しい女」への評価には、単純な図式に依拠して現実を曲解したりすることのない明晰さが溢れている。男女の平等というような、論者が激しがちな問題においても、微妙に入り組んだ事態をなんとか丁寧に解きほぐして理解しようとするこの知的な誠実さこそが、結局のところ、読者の強い共感と信頼を引き出しているのだ。
 もちろん、解放をめざす女たちが陥っている矛盾や困難を指摘することは、これらの女たちをけなす意図によるものではない。女を内在性に閉じこめようとする状況のもとでは、それに抗しつつ人間として輝くことには非常な困難が伴うという事実を指摘しているにすぎない。この困難が、女に、ナルシシズムや恋愛や神秘的信仰への逃避の誘惑をもたらす。しかし誘惑に屈するなら、もともと内在性に閉じこめられたことの不当性は放置されたままだ。この不当性に立ち向かわない限り、女の選択には常に欺瞞がつきまとうだろう。実際のところ、女をナルシシズムや恋愛や信仰に向かわせるように強いる状況があるなら、自身を愛する女のその愛、恋する女のその情熱、信仰に生きる女のその信仰が、どこまで本物であるのか、男には判断するすべがない。だから男が、しばしば女の気まぐれ・演技・根気のなさを非難したくなるのも、その限りでは理由のないことではないのだ。ボーヴォワールの洞察はそこまで達している。
 そして、そうだからこそ、女の解放は女にとっても男にとっても必須なのである。――全き自己肯定、情熱的な恋愛、自由で崇高な信仰をこそ、打ち立てるためにも。それがボーヴォワールの結論である。

 抑圧することによって、ひとは抑圧されるようになる。男はまさに自分の支配権によって束縛されている。男だけが金をかせいでいるからこそ、妻が小切手を要求するのだ。男だけが職業に従事しているからこそ、妻が彼に成功するよう強いるのだ。
(II上・470-471ページ)

 女は男社会にうまく適応できないため、しばしば自分で自分の行動を考え出さなければならない。女は既成のやり方や紋切型には男ほど満足できないのだ。やる気のある女なら、夫の偉そうな確信より、もっと本来性に近い不安をもっているものだ。
 しかし女が男に対してこうした優越性をもつには、女に差し出されている欺瞞を押しのけるという条件が必要である。上層階級の女は主人が確保してくれる利益を利用することに執着しているので、すでに見たように、大ブルジョア階級の女や貴族の女はいつも夫よりずっと頑固に階級の利益を守ってきた。人間であることの自律性をすべて夫のために犠牲にするのもためらわないほどだ。彼女たちは自分のすべての考え、批判力、自発的な心の躍動を抑えつけてしまう。正しいと認められた意見をオウムのように繰り返し、男の法典がおしつけてくる理想と一体化し、心や顔にも、誠実さはことごとく死んでしまっている。家事をする女は、自分の仕事や子どもの世話のなかに自立を見出す。そこから、限られてはいるが、具体的な経験を汲み取る。「奉仕されている」女はもはや世界になんの手がかりももたず、夢と抽象のなかに、空虚のなかに生きている。そうした女は自分でひけらかしている考えがどんな程度のものなのかがわからない。でまかせに言う言葉は、すでに口のなかでまったく意味を失ってしまっている。金融家、実業家、時には将軍でさえも、疲れ仕事や心配事を引き受け、危険を冒す。彼らは自分たちの特権を不公正な取引で買っているのだが、少なくとも体をはって支払っている。妻たちは受け取るだけ受け取って、何も与えず、何もせず、それだけに盲目的な信念で時効にかかることのない自分の権利を信じている。そうした女たちの空虚な傲慢さ、徹底的な無能、頑固な無知が、彼女たちを、人類がこれまでに生み出した最も無益で、無価値な存在にしているのだ。
(II下・275-276ページ)

 女を象徴に扮装させるのをあきらめても、男は何も失いはしないだろう。むしろ逆である。夢想にしても、集団的で、方向づけられたもの、型にはまったものは、生きた現実に比べ、いかにも貧弱で単調である。真の夢想者や詩人にとっては、生きた現実の方が古びた驚異よりもずっと豊かな源泉となる。女を本当に心から慈しんだ時代、それは騎士道的な封建時代でも、優雅な十九世紀でもない。それは――たとえば十八世紀のように――男が女を同類と見なしていた時代である。そうした時代には、女たちは実にロマネスクな姿で現われている。『危険な関係』、『赤と黒』、『武器よさらば』を読みさえすれば、それがわかる。ラクロ、スタンダール、ヘミングウェイの小説の女主人公たちは神秘的なところはないが、それでもやはり魅力的である。女を人間として認めても、男の経験を貧弱にすることにはならない。経験が相互主観性においてなされるならば、男の経験は多様さ、豊かさ、強さを少しも失いはしないだろう。神話を拒否することは、男女間の劇的な関係すべてを壊してしまうことではないし、女の現実を通じて男の目に真に明らかになるであろう諸々の意義を否定することでもない。詩、愛、冒険、幸福、夢を消し去ることでもない。それはただ、行為、感情、情熱が真実に立脚したものであるように求めることなのである。
(I・516-517ページ)

 私たちはここで、フェミニズムの思想的拡がりとその適用可能性が、決してふつうの意味の「女性問題」に限定されないことに気がつくだろう。ボーヴォワールは女を論ずることを通じて、人間全体について、人類について論じたのだ。それは、基本的な人間関係の構造を理解しようとする重要な視角の体系であり、おそらく現代ますます影響力を強めていくであろう、ひとつの社会理論にほかならないのである。

補足―ゾラに言及している部分についてのコメント
【10】 なお、本書においてボーヴォワールは、女の状況を分析するためフランス文学作品からの豊富な引用をおこなっており、そのなかには、ゾラからの引用もいくつかある。これらについて簡単にコメントしておきたい。
 ゾラについて言及した最初の部分は、第二巻の第一部第一章「子ども時代」にある。ゾラの直接の引用ではなく、ゾラについてコレットが書いた部分の引用である。

 コレットは、ゾラの本の出産を描いた場面を読み、気を失っていたところを母親に見つけられたと語っている。

 作者は出産の場面を「露骨で生々しい多くの細部描写と、解剖学的正確さをもって、またその色彩、姿勢、悲鳴を得々と」描いていて、田舎の少女のおとなしい知識ではとうてい及びもつかないことでした。私は幼い雌としての自分の運命を信じ込み、それにたじろぎ、おびえました……また、他の文章は、私の目の前に、引き裂かれた肉体や排泄物、汚れた血などを描き出しました……私はまるで密猟者が台所にもってきた殺したばかりの子ウサギのなかの一匹のようにぐったりとなって芝生に倒れていました。

(II上・69ページ)

 コレットがゾラのどこを呼んでいたのかは明示されていない。出産の苦しみというと『生きる喜び』の第10章を真っ先に思い出すが、ゾラはあちこちで出産場面を描いているから、そうと断言はできない。調べてみたいのだが、このコレットの引用じたい、どこからのものか明示していないので、探索が行き詰まってしまった。
 ここはもちろん、コレットの感受性の強さにまず驚くべきところであろうが、それにしても、小説で読者を気絶させるゾラの筆力というのもまた呆れたものではある。

 第二の箇所は、第二巻第二部第五章「結婚した女」の中で、結婚と娘をめぐるブルジョワ階級の実態を指摘するのに、ゾラの『ごった煮』から引用している。

 結婚は若い娘が社会集団に組み込まれる唯一の手段であり、「売れ残った」娘は社会的に落ちこぼれになる。だからこそ母親たちはいつもあれほど血眼になって娘をかたづけようとするのだ。十九世紀のブルジョア階級においては、本人への相談などないも同然だった。娘は、あらかじめ手はずの整えられた「見合い」でたまたま出てくる求婚者に提供されたのである。ゾラはこの慣習を『ごった煮』の中で描いている。
(II上・314ページ)

 以下、訳書で3ページほどにわたって『ごった煮』の第2章後半部分が引用されている。虚栄心の権化ジョスラン夫人が娘のベルトに媚態の講義をするところで、『ごった煮』のなかでも最も滑稽な場面のひとつである。

 第三の箇所は第二巻第二部第八章「売春婦と高級娼婦」で、ここでボーヴォワールは高級娼婦を論じるためにナナを何度か引きあいに出している。ナナの性格についてのボーヴォワールの分析は本書の高級娼婦論に照応しており、『ナナ』の再読後まもなかった私はとても興味深く読むことができた。

ノート
字数:12000
初稿:2001/08/25
初掲:2001/09/07
補訂:2001/11/27
リンク
DATA:ボーヴォワール
DATA:『第二の性』
新潮社
参考文献・関連事項
コメント
 『ごった煮』の引用箇所に関して補訂(2001/11/27)。
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

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