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現代の貧困

リベラリズムに立脚しつつ批判的民主主義と対話型社会の構想を描く論考。
井上達夫『現代の貧困』(岩波書店2001年)


【1】 法学部の教育では憲法の授業を一年次と四年次で二度履修させる必要がある、という議論が存在する。すなわち、一年で教養としての憲法の基礎知識を学び、四年で基本法たる憲法の原理を探求する高度な授業が必要だというのである。仮にこの主張を受け容れるとすると、本書はまさに「法学部四年生のための憲法」の参考書にふさわしいものと言えよう。
 とりあえず引用と要約のみ掲載しておく。

 新しい千年紀の到来をことほぐ気分に私はなれない。はなばなしく未来を語る書物は山とあるのに、わざわざこんな陰気な本の扉を開いたあなたも、パレードに背を向けて佇立する人なのだろう。祝祭の多幸感(ユーフォリア)に酔えないのはなぜか。西暦の偶発的な節目にすぎぬものに、時代の大転換を見る欧米中心主義的歴史認識の軽薄さから距離をとりたいという気持ちも一因ではある。しかし、それだけではない。輝かしい未来を語るには、私たちの現実はあまりに貧困ではないか。そんな思いが私を捕らえている。(序・冒頭、Vページ)

第I部 関係の貧困

【2】 戦後日本社会における豊かさと民主主義、そして天皇制との関係をめぐっては、これまで、二つの異なる見方=物語が対峙してきた。
 第一の物語。戦後の日本は驚異的な経済発展を遂げ、豊かな社会を実現した。これは日本に民主主義が十分に定着したことを意味する。そして象徴天皇制は、日本国民を統合する精神的支柱として民主主義の成熟に寄与してきた。従って象徴天皇制は民主主義に適合し、民主主義との「幸福な結婚」が可能なのであるから、支持されうる。これが「幸福なる結婚論」である。
 第二の物語。戦後日本の豊かさは「量の豊かさ」であって「質の豊かさ」ではない。「質の豊かさ」を問題にするなら、日本は依然として貧しいのである。この貧しさは、日本の民主主義が未成熟であることに由来する。象徴天皇制は、日本人の精神的統合力として作用することによって人々の市民的自覚の発達を妨げ、国民を、天皇の統合力への依存症に陥れてきた。すなわち象徴天皇制は民主主義を阻害するのであり、支持できない。これが「未成熟依存症論」である。
 鋭く対立するように見えるこの二つの見方は、しかしながら、次の三つの前提を共有しており、その点では共通の基盤に立っている。

  • 政治前提:民主主義の貫徹が豊かな社会を実現する。
  • 基準前提:天皇制の価値は民主主義に照らして判断される。
  • 憲法前提:日本国憲法は民主主義を根本理念としている。

 だが、そもそもこの前提を疑う必要はないのであろうか。著者はリベラリズムの立場からこのような問いを発する。もし、天皇制の価値が民主主義への寄与に照らして判断されるならば、「日本村」の事例や元号法制化の経緯等にみるように、天皇制は民主主義と親和的でありうる。それゆえこの限りで、幸福な結婚論には一定の根拠があることになる。しかしながら、こうした民主主義と天皇制の幸福な結婚のもとでは、ある重要なものが犠牲にされてしまう。これは天皇制が民主主義に照らして正当化されるのではなく、天皇制を批判する原理として民主主義に限界があることを示しているのである。すなわち、基準前提は正しくない。民主主義を正当化するとともに批判・制約できるより根源的な原理が存在するのであり、その原理は政治前提と憲法前提の再吟味により明らかになるだろう。
【3】 豊かさとはそもそも何であろうか。著者は豊かさを「量の豊かさ」でも「質の豊かさ」でもなく、「関係の豊かさ」すなわち「多様な生の諸形式が交錯し、衝突し、刺激しあい、誘惑しあうことにより、互いの根を深め、地平を広げあうような豊かさ」(60ページ)だと考える。とすれば、民主主義は豊かな社会の必要条件ではあるが十分条件ではない。むしろそれは同質化圧力を内包している点で「関係の豊かさ」を損なう恐れがある。豊かさと民主主義は予定調和の関係にはないのである。このような「関係の豊かさ」を基礎づけるのは、民主主義の正当化根拠であるとともに批判制約根拠でもあるリベラリズムにほかならない(政治前提の再検討)。
 リベラリズムによる民主主義の制約は、日本国憲法と矛盾しないばかりか、むしろリベラリズムこそが日本国憲法の根本理念である。民主主義は「誰が統治するのか」に関わるが、リベラリズムは「統治権力は何をなしうるのか」に関わる。誰が統治するのかにかかわらず、統治権力の限界を画するのがリベラリズムであり、この限界こそ、基本的人権である。民主的手続によって制定された法律を否定してでも個人権を救済することを可能にする違憲審査権(81条)の存在がリベラリズムの一つの根拠であり、基本的人権の本質を損なうような改正は憲法改正権力(96条)の射程外にあると考えるべきである(憲法前提の再検討)。
 従って天皇制は、民主主義とは共存しうるとしても、リベラリズムとは明確に矛盾する。その理念が「みやび」であれ何であれ、象徴天皇制は少数者を不可視化し、同質社会的統合を推進する機能をもつからである。必要なのは多様なものを隠蔽し一元化しようとすることではなく、それら多様なものの自由対等な共生の可能性を開くことなのである。

 政治社会が、かかる公共の原理〔人権原理=引用者注〕の存在に真摯にコミットし、それを共同探求する論争的営為の伝統を培ったとき、そして、この伝統が、社会の現実による原理の裏切りを前にして、原理を嘲笑する現実主義やシニシズムを超えて、現実の批判によって原理をさらに発展させてゆけるだけの強さをもったとき、その社会の公正さに対する、人々の深い信頼が生まれる。多様な生の諸形式を求める人々が、この信頼の共有によって連帯し、自らの社会を守るに値するものと信じることが可能になる。原理による統合とは、このような連帯と同一化である。(82ページ)

第II部 共同性の貧困

【4】 アメリカでは、過剰な権利主張による共同体の劣化・崩壊を懸念する立場から、近年、共同体論と総称しうる思想潮流が力を得てきている。ウォルツァー、マッキンタイヤー、タイラーなどの主張がそれであり、これらは以下のような傾向を共有している。

  • メタ倫理学におけるコンヴェンショナリズム(倫理的・政治的価値は、それぞれの政治共同体に固有な歴史的共通了解に由来する)
  • 反原子的人間観(人間のアイデンティティはその属する共同体に依存する)
  • 共通善の政治(法と政治は個人権の保障よりも共同体の共通利益を目的とする)
  • 公民的共和主義(公共の事柄に積極的に関与する責任感の陶冶のため、団体自治の活性化をめざす)

 そしてこのような潮流は、発達心理学におけるギリガンの「配慮の倫理」の倫理観や、実定法学におけるグレンドンの「「権利語法」批判」と並行するものである。
【5】 アメリカにおける個人権から共同体論への傾斜傾向とは対照的に、日本ではもともと、いわゆる会社主義にみられるような共同体的結合の強さが目立つ。しかしこれをもってアメリカが日本に見習うべき点とみなすことはできない。会社主義に代表される日本型中間共同体の影響力の強さは、個人のアイデンティティを特定の共同体に全的に統合することによって、個人権を侵犯する性質を持っているからである。生の多様な諸次元で個人が責任を果たしていくことを妨げ、会社という一共同体のために死に至るまでの過剰労働を要求した結果としての過労死過労自殺が、そのような「中間共同体の専制」の範例である。
 このような現状を省みれば、共同体論による個人権の批判が一面的な真理にすぎないことがわかる。個人権の尊重こそが、むしろ開いた共同性の前提をなすのである。特定の中間共同体への全人格的統合は、個人権を貧困化するばかりでなく、多様な次元へのバランスのとれた参与という、開かれた共同性をも貧困化する。日本社会の課題は、個人権の自覚を通じてこのような開いた共同性への道をひらくことにほかならない。

 個人権の基礎には個の尊厳の感覚があるが、自己自身の存在に尊厳を見出せない者は他者の尊厳を感じることもできない。また自分という一個の人間をかけがえのない存在として尊重することを知っている者こそが、他者をかけがえのない存在として尊重できるのである。会社に全身全霊をもって献身する企業戦士ほど他者にも同様な犠牲を課すことを当然とみなし、かかる犠牲を拒否する同僚を「我がまま」、「甘い」、「負け犬」等々と糾弾して恥じない。自分の個人権を放棄する者は他者の個人権も無視し、人間が他の人間をいたわるという本来の共同性を忘却してしまう。自己の個人権の集団的圧迫に抵抗することは、他者を人格として尊重するという基本的な共同性を保持するための責務ですらある。(172ページ、強調は引用者)

第III部 合意の貧困

【6】 人々の「合意」をめぐる哲学的な問題意識のひとつの側面は「なぜ合意が可能なのか」というところにあるが、他方、合意がこれほどまでに困難であるにもかかわらず社会が成立し得ているという事実は、「合意はどこまで必要なのか」という問いをももたらす。

真理と合意
【7】 合意は、真理とどのような関係にあるのだろうか。真理と合意との関係、すなわち合意が知的探求の過程において果たしている役割の問題をめぐっては、大別して二つの立場が存在してきた。
 真理は一つであるから合理的議論によっていつかは合意に到達できると考える収斂説(convergence theory)が、その一つである。収斂説の前提には素朴実在論と理性能力楽観論があり、約言すれば、合意を真理の認識根拠と考えるのがこの立場であると言える。これに対して、収斂説が前提としている命題を否定することを通じて、もう一つの立場すなわち非収斂説が成立する。たとえばトーマス・クーンのパラダイム論は以上の両前提の双方を否定し、真理とはその時代における支配的パラダイムのことにすぎないと考える。他方、素朴実在論のみを否定しつつ、理想的な状況下での仮設的合意に真理を還元する、いわゆる合意説もあり、ロールズの社会契約説モデルはこの傾向に属する。いずれにせよ、これら非収斂説は、合意を真理の存在根拠とみなすものである。
 しかしながら、ここで、真理と合意を一致させようとする考え方に留保を付し、対立=不合意の存在こそが真理探求の条件であるとする観点を採用することは不可能であろうか。すなわち存在や真理は、「人の数だけ真理がある」といったような極端な相対性を持つものではないとしても、多面性・多重性を有しているのであり、これを理解し説明しようとする様々なパラダイムの競合と複生こそが、この豊穣な「存在」へ向けて認識を拡大するための条件であると考えるのである。このような立場にたつならば、合意とは真理の可能根拠であるということになるであろう。

正統性と合意
【8】 従来の立場、特に合意をもって真理の存在根拠とみなす非収斂説は、法や政治の実践的問題領域において強い伝統を保ってきており、それは治者と被治者の同一性を本質とする民主制の理解にも適合するものであった。しかし、前述の第三の立場を視野に入れると、民主制と非収斂説とのこのような親和は、必ずしも当然のことではないことが理解されてくる。
 そもそも、民主制において治者と被治者が同一であるという認識は一つのフィクションであり、実際にはそれは「多数者の支配」にほかならない。そこでは、多数者の見解があたかも全体の見解であるかのように擬制されることによって、異質な少数者の存在を隠蔽し、それらの少数者を同質化圧力にさらしていくという危険が存在する。これは民主制の内在的危険ではあるが、この危険により自覚的になることによって、伝統的な民主制理解とは異なった、新しい民主制モデルを構想することが可能なはずである。そのモデルとは、従来の民主制を反映的民主主義(Reflectional Democracy)と呼ぶとすれば、批判的民主主義(Critical Democracy)とでも言うべきものである。
 反映的民主主義が「人民の欲求を実現せよ」を象徴的命法とするのに対し、批判的民主主義のそれは「悪しき為政者の首を切れ」というところにある。すなわち政治的決定への民意反映の最大化ではなく、自由な批判を通じた悪政の修正を可能にするところに、民主制の存在理由を見出すのである。そこでは政治過程の本質とは公共的価値の共同探求にほかならず、「やってみせる、やらせてみる」というキーワードに示されるように、整合性のある一連の政策方針を持った主体により試行錯誤的な社会改良が追求されることを通じて、効果的な政策実践が可能になる。為政者の選出のためには、諸利益の包摂をめざすコンセンサス原理に代わって、充実した討議を前提とする多数決原理を採用し、そのぶん責任の明確化と事後的な統制を充実させる。そして多数者の専制に対する少数者の保護要求には、政治過程での拒否権付与ではなく、司法による人権保障をもって応えようとするのである。

コンセンサス社会の危機と変革
【9】 五五年体制崩壊後の日本の政治の混迷を見渡すとき、その真の病因は、「足して二で割る」式のコンセンサス型意志決定システムが依然として採用されつづけていることにある。日本の政治を変えるために必要なことは表面的な政治勢力の変動ではなく、この意志決定システムを、コンセンサス型から、熟議に基づき少数者保護に配慮した多数者支配型のそれへと転換することである。
 そしてこのような転換は、政治にとどまらず、社会の諸領域におけるコミュニケーション構造の転換を伴うものになる。成熟志向と成長志向、個人主義と集団主義の対立に見られるような、特定の価値観の統合力の喪失や、世代間ギャップや「仕切られたコミュニケーション」が示しているコミュニケーションの亀裂は、従来のコンセンサス型のコミュニケーション構造が破綻に瀕していることを意味している。いま求められているのは「融合」から「会話」へとコミュニケーション構造を転換することであり、それが批判的民主主義の確立にとっての前提でありまた促進要因でもあるのである。

 インターネットなど情報通信技術の飛躍的進歩は、人々のコミュニケーションの輪を開放し拡大する強力な手段を提供している。しかし、それはあくまで道具に過ぎず、使い方によっては、特定の趣味、価値観、信仰、ライフスタイル等を共有する人々が自分たちの内部でだけ濃密に交流することにより特異で独善的な世界解釈に自閉し、自分たちとは異なる他者への関心・配慮を失い、他者からの批判に耳をふさぐという、仕切られたコミュニケーションを促進する危険もある。(235ページ)

ノート
字数:6100
初稿:2001/06/14
初掲:2001/06/15
リンク
岩波書店
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

  1. ウォルツァー『正義の領分』(而立書房、1998年)
    アメリカの共同体論。
  2. 川人博『過労自殺』(岩波新書、1998年)
    本書第II部で言及している。

関連事項

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