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正義の領分

特定主義の立場から配分的正義の理論を基礎づけようとした労作。
Michael Walzer "Spheres of Justice - A Defence of Pluralism and Equality", 1953
マイケル・ウォルツァー『正義の領分 多元性と平等の擁護』(山口晃訳而立書房1999年)


目次

  1. 紹介
  2. 問題
  3. 総論
  4. 各論
  5. 特質
  6. 小括
  7. 考察


1.紹介

【1】 本書はユダヤ人政治学者マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer,1935-)が、配分的正義の理論に関してその主張を包括的に展開したものである。1970年から1971年にかけて、ハーヴァード大学においてロバート・ノージックと共にウォルツァーが担当した講義がその内容をなす。
 本書は配分的正義の問題を扱う。これは西洋哲学の伝統の中で、多くの哲学者・政治思想家によって追究されてきた、政治思想・法哲学上の重要問題である。平等とは何かという哲学的問いに関わりながら、その一方でこの議論は、財の配分を正当化しまたは批判することを通じて人間の現実の生活に関与してくるため、しばしば鋭い対立の焦点になってきた。ウォルツァーは本書において、もっぱら歴史学と人類学に依拠しながら、この問題の解決を目指している。

2.問題

【2】 「人間の社会は配分をめぐる一つの共同体である」(19ページ)。これが、配分的正義の理論の前提条件である。配分されるものとは、(goods)である。私たちは財を着想し、創出し、分配し、交換するために社会(共同体)をつくる。財とは、人々が一般に自分において所有する(存在する・行う)ことを望み、または所有しない(存在しない・行わない)ことを望むような、物質的または精神的な対象のことをいう。それは、日常的な意味での「財産(貨幣と商品)」よりも広い範囲を指し示す。第一に、財は物質的なものに限られない。教育、愛情、自己尊重といったものは、いずれも私たちが欲する財である。第二に、財は所有されるものばかりではない。安全であること(being)、仕事をすること(doing)もまた、配分されるべき財の一部である。第三に、望まれるものだけでなく、望まれないものもまた(負の)財である。たとえば、危険な仕事や汚れる仕事は誰に割り当てるのか? これはたしかに配分的正義の問題である。
 社会は、むろん様々な目的のために運営されるが、財の配分というこの役割は社会の最も重要な機能のひとつである。ひとりひとりの個人が、その属する社会の中で、適正な(just)財の配分を受けることができるとき、言い換えれば「カエサルのものがカエサルに、神のものが神に」適切に割り当てられているとき、それが正義(justice)である。これに対して、各人にふさわしいものが各人に適切に与えられないとき、または不適切に(unjust)与えられるとき、そこには不正義(injustice)が存在する。ここにいう「適切さ」とは、各人が各人の受け取るにふさわしいだけのものを受け取り、それ以上もそれ以下も受け取っていない状態のことであり、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第五巻において「配分的平等」と呼んだものに相当する。それゆえ正しい社会とは、このような意味で平等な社会のことである。
 有限な資源(resource)を、社会構成員の間でどのように配分するのか。ひとことで言えば、それが、配分的正義の問題である。アリストテレスによって提起されたこの問いは、その後ホッブズ、ロック、ルソー、スミス、カント、マルクス、ベンサム、ミルといった人々によって、それぞれの仕方で取り組まれてきた。またそれは1970年代以降に、ジョン・ロールズ、ロバート・ノージック、アマルティア・センといった人々によって論じられてきた問題でもある。それはこんにちにおいてもなお重要な社会的争点であり、本書の扱うのもまた、この問題にほかならない。

3.総論

財の理論
【3】 本書におけるウォルツァーの正義論の特色を理解するうえで決定的に重要な地位を占めるのが、第一章「複合的平等」である。のちに触れるように、実際にウォルツァーの正義論の血肉となるのは第二章以下の各論なのであるが、それらの各論が総論の単なる適用ではないことは、この第一章を通じて明らかになる。
 ウォルツァーの正義論の最も基本となるエッセンスは、第一章の「財の理論」と題する節に六つの命題として要約されている。

  1. 配分的正義が関係する財はすべて社会的財である。
  2. 人々が引き受けるのは具体的なアイデンティティである。
  3. 道徳的・物質的世界すべてを包含できるような、第一のあるいは基本の財からなる単一のセットというものはない。
  4. 財の動きを決定するのは、財の意味である。
  5. 社会的な意味というとき、その性質は歴史的なものである。
  6. 意味が別個のものであるのなら、配分は自律していなくてはならない。

特定主義
【4】 社会において、(1)人々は、(2)財を、分配する。(3)その分配の適正さを目指すのが、正義の理論である。ところで「人々」とは何であろうか。また「財」とは何であろうか。この二つの問いに対してウォルツァーがとる態度が、(3)に対する解答を導き出す。
 まず、ウォルツァーの正義論にとって、人々とは具体的なアイデンティティを保有した生きた現実の人である(第2命題)。言い換えれば、「そもそも人間とは……」といった文脈で語られるような、抽象的な「人そのもの」をウォルツァーは持ち出さない。快苦の感覚や善悪の選好の担い手としての人間自体へと考察を還元していこうとする哲学的立場を採用しないわけである。人々とは、特定の時代の特定の社会(たとえば「20世紀アメリカ」のような)において現に生きている人々を意味し、配分の適正さは、これらの人々の常識として共有されている理解に基づいて判断される。配分的正義の要求において求められているのは、普通人には理解困難な「人間の本質」についての哲学的議論に適合するような晦渋な原理ではなく、平均的な社会構成員にとって納得のいく財の分配の指針であるからである。
 次に、分配されるべき財もまた、多様かつ個別的なものである(第1・第3・第5命題)。この最も端的な表現は、第3命題に見出される。すなわち人間にとっての財とは、人間に対して選好を促す性質のある抽象的な単一の因子のようなものを共有しているわけではない、ということである。このようなものを突き止めようとして哲学は議論を重ね、それを快と呼んだり、真、善、美などと呼んだりしてきた。しかし財の配分に際して、このような探求の必要性をウォルツァーは拒絶する。その場合でも、具体的なアイデンティティを保有した特定の人々が財とみなすもの(たとえば安全・貨幣・公職・教育・愛情・政治権力など)を列挙することは可能だからである。このことの能動的な表現が、第1および第5命題である。すなわち、各々の財を財たらしめるのは、各々の財の、歴史的に変遷可能な社会的意味である。財の意味は、その財が分配される特定の社会に対して相関的(relative)である。そしてその社会的意味は、当該社会の歴史的変化に伴ってもまた変化しうる。ある社会では皆が欲しがる物が、他の社会では見向きもされないことがある。また、ある時代には非常に重宝されたのに、その同じ社会で、後の時代には価値がないとみなされるようになる物もある。

 人々と財とについてのウォルツァーのこのような立場は、特定主義(particularism)である。それは財の配分が問題となっている「いま・ここ(here and now)」での人々と財とに焦点を合わせる。このことが、ウォルツァーの正義論において各論が重要となることのひとつの前提である(しかしすべてではない)。このような前提のもとでは、自分たちの社会で展開されている不平等についての議論に、私たちはただちに取りかかることができるであろう。ウォルツァーの議論の非常に魅力的な一面がここにある。

社会的意味に応じた配分
【5】 しかしながら、もし適正な財の配分が、具体的な人々、具体的な財について個別的であるならば、そうした適正さとは、結局、その特定の状況にのみ適合する一回限りの分配基準でしかあり得ないのではなかろうか。そしてその個別的な適正さが具体的な人々と財の具体的意味によって規定されるならば、もはや、その場その場での一回ごとの配分が適正になされるべきであるという以上に、平等に関しての原則をたてることはできなくなってしまうのではなかろうか。如上の命題からだけでは、このような疑問が生じてくるのを避けることはできないであろう。
 だが、ウォルツァーの議論はこうした極端な決疑論へ至るものではない。人々と財についての特定主義が、分配の場面ごとの、孤立した議論へと陥ることを防いでいるのが、残りの二つの命題である。すなわち、財の社会的意味が配分を規律すべきこと(第4命題)、および、各財の配分が自律的であること(第6命題)。
 各々の財には、その社会的意味がある(第1命題)。そしてウォルツァーによれば、財の配分を規律するのはその財の社会的意味である(第4命題)。たとえば貨幣は、私たち(現代先進資本主義国家の人々)が市場において物を交換する際の媒体であり、商品とは貨幣を通じて交換される物を意味する。それゆえ、貨幣および商品は、自由交換によって私たちの間に分配されるとき、適正に分配されていることになる。強盗(物理力による貨幣と商品の奪取)が不正であるのは、この配分原理(自由交換)に反しているからである。また恋愛における愛情は、私たちの時代にあっては、男女間(とは限らないが)における親愛の表現としての意味を持つ。それゆえ愛情の配分原理は当事者の自由選択である。これとは異なる理由によって愛情が分配されるならば(たとえば強いられた政略結婚)、それは正義に反する。
【6】 ウォルツァーのこの議論は、個々の具体的な財についての私たちの共有認識に訴えてくるので、私たちはそれを容易に理解し、受け容れることができる。しかしここには、理解の容易さということのほかに、実行の容易さという、もう一つ重要な意義がある。すなわちここでは、正義の名の下に財の分配を人為的にコントロールしようとする方向性への、ウォルツァーの警戒心が表明されているのである。財の配分原理が抽象的で、普通人には理解困難であればあるほど、その原理に従った適切な配分を執行するには、その作業を担当する権限を預けられた専門的事務管理者(政治家と官僚)の存在を必要とする。しかし複雑な社会において、財の配分の政治的コントロールがどれだけ成功しうるかはおぼつかない。またそれ以上に、これらの事務管理者が、彼らの職務をどれだけ誠実にこなすかが疑わしい。というのは、配分の調整を担当するこの権限自体がひとつの財であるので、彼らは公共的でない動機でこの権限を手に入れようとするかもしれないからである。

多元的平等
【7】 さて、財が、それぞれの財の有する社会的意味に従って配分されるべき(第4命題)なのであるとすると、このとき平等(適正な配分)は保証されるのであろうか? 換言すれば、社会的意味に応じた財の分配は「各人に各人のものを」分配する結果をもたらすであろうか? この点が、ウォルツァーのいう平等、すなわち複合的平等の概念に至る重要な分岐点である。実は、平等(適正な配分)を、独占(monopoly)の対義語と考えるならば、社会的意味に従った財の配分は、平等をもたらさないであろう。これはウォルツァー自身が認めていることでもある。貨幣と商品が自由交換によって分配されるなら、それらは取引の巧みな者のところへ集中するであろう。また愛情がロマンティック・ラブと自由選択によって分配されるなら、それはより大きな精神的または肉体的魅力を備えた少数の者たちによって独占されるかもしれない。いずれにせよ、これらの財を各人が受け取る量は、均等ではありえないであろう。
 もともと平等を求める議論とは、このような財の独占の排除を目指して行われてきたものであった。歴史上、その独占が激しい攻撃にさらされてきた財として、私たちはいくつかのものを挙げることができる。身分と政治権力の独占に対する戦いの結果が、近代市民革命であった。またブルジョワジーによる貨幣と生産手段の独占を打破しようとする試みが社会主義であった。これらの運動のなかでは、独占の排除こそが平等であると考えられていたわけである。
【8】 ところが、この独占の排除をいま「単一平等」と呼ぶとすると、ウォルツァーは単一平等の試みを放棄する。すなわち、ある個別の財に関する限り、その独占そのものは(無限定にではないが)許容するのである。単一平等を採用しない理由としてウォルツァーは二つのものを挙げる。第一に、仮にある財を人々に等量分割したとしても、その財の使いみちが人それぞれであるならば、一週間後には、もはや財の保有量は均等ではないであろう。そしてこの不均等は、やがて各人の使いみちの相違に帰することのできないほどの不均等の拡大を招くであろう(近代における貨幣がそうであったように)。第二に、この再度の不均等を是正しようとすれば、強力な政治権力による統制が不可避のものとなるであろう。しかしこのような統制が含んでいる難点については、政治家と官僚についてさきに触れたとおりである。
 だが、単一平等の試みを放棄するのであれば、そこにどのような意味で平等が実現しうるのであろうか? 財の独占を許容するところで、なお平等を論じることのできるどのような余地が存在するだろうか? この問いによって、私たちはウォルツァーの正義論の核心に到達する。ウォルツァーは言う、文字通りの平等(単一平等)ではない平等が存在する、と。すなわちそれが、かれの言う「複合的平等」である。この複合的平等の概念の導出において、ウォルツァーがさきに財の抽象化を拒んだことの重要な意味、そしてウォルツァーの正義論において各論が固有の重要性を持ってくることの第二の、かつ中心的な意義が現れてくるのである。
【9】 各々の財はそれぞれ異なる社会的意味と、それに従った配分原理を持つ(第1・第4命題)。それゆえ「意味が別個のものであるのなら、配分は自律していなくてはならない」(第6命題)。ところがある種の財は、容易に他の財に転換される(たとえば貨幣)。これを優越的な財と呼ぶとすると、他の財は、それぞれの固有の配分原理によってではなく、この優越的な財の保有量に応じて分配されかねない。もしもある財の配分が、他の優越的な財の配分のパターンをそのまま反映するならば、ここでその財の自律性は破れる。これを財の支配・優越(domination)と呼ぶ。この財の優越を認め、利用することは、専制である。この専制こそが不正であり、これを排除して財の配分の自律性を守ることが、複合的平等である。
 すなわちウォルツァーにあっては、財の不当な転換を阻止することこそが、(複合的)平等の実質なのである。それぞれの財を、その固有の配分原理に従って分配すること。それは財の配分の領分の相対的自律性を守ることにほかならない。もし何もかもが貨幣で買えるのでなければ、私たちは貨幣の独占に対してそれほど憤らないであろう。優越的財から他の財への転換が阻止され、すべての財の配分の領分の自律性が維持されるならば、特定財についての独占の許容にもかかわらず、複合的な平等は守られる。というのは、「概して、最も成功した政治家、起業家、科学者、軍人、恋人は別の人々であるだろう。彼らの所有する財が他の財をひきずってくるのでない限り、その成功を恐れる理由はない」(45ページ)からである。

 こうして、ウォルツァーの正義論は各論へと接続される。そして各論において、以上の議論はその実質を与えられるのである。なぜなら各論こそが、それぞれの財について社会的意味と配分原理とを個別に明らかにし、その財が他の財に優越していないか、またその財が他の財から優越されていないかを、具体的に追究してゆく作業だからである。ウォルツァーは第二章以下において、多様な財についてそれぞれの配分原理を明らかにし、その配分の領分に対してなされる侵略を批判する。かれの主張は現代社会の正当化の論理でもあるが、それ以上に現代社会の批判の原理である。財の優越の排除、とりわけ、現代社会における最も優越的な財としての貨幣による優越を排除し、多様な財をそれぞれの社会的意味に応じた自律的な配分へと導くこと、それが本書におけるウォルツァーの主たる論旨なのである。

4.各論

【10】 第二章以下で扱われるのは、個々の財である。各章の題名をリストにすることによって、私たちはウォルツァーの議論の全体を俯瞰することができよう。

  • 第二章・成員資格。
  • 第三章・安全と福祉。
  • 第四章・貨幣と商品。
  • 第五章・公職。
  • 第六章・辛い仕事。
  • 第七章・自由時間。
  • 第八章・教育。
  • 第九章・親族関係と愛情。
  • 第十章・神の恵み。
  • 第十一章・承認。
  • 第十二章・政治権力。
  • 第十三章・専制と正しい社会。

 これらの財の社会的意味の考察を通じて、ウォルツァーは多様な社会的問題の解決の方向を示そうと試みる。このリストには、アメリカという国家が20世紀に直面しなければならなかった社会的財の配分問題がほとんどすべて含まれている。たとえば、合衆国への移民受け入れ政策(2章)。黒人の公民権問題(5・6章)。非アングロ・サクソン民族のための積極的差別是正措置(affirmative action)の正当性(5・8章)。巨大企業による貨幣の独占への抑制(4章)。そして外国人労働者問題、医療看護制度、市場経済の正当性、政治家の選出、専門職のための資格試験、兵役の義務、危険な職場、休暇、義務教育、大学入試、恋愛の自由、社会的地位と縁者びいき、政教分離原則、美人コンテスト、ノーベル賞、投票権の平等。私たちはウォルツァーの議論を通じて、これらの問題を統一的に扱うことを可能にする、導きとなる観念を得ることができるだろう。本書は20世紀アメリカという未曾有の多民族国家・超大国が直面しなければならなかった鋭い利害対立に、なんとか納得のいく解決を見出そうとする、ウォルツァーの渾身の努力なのである。

5.特質

【11】 財の優越を排除しようとするウォルツァーのこのような議論がどのような社会を正義にかなうものとして目指そうとしているのかは、第13章「専制と正しい社会」において概略的に見出される。しかしウォルツァーの思考の特徴的な部分は、実は結論をなすこの第13章以外にも随所に現れているのである。私の読み取った限りで、いま、それらのいくつかを指摘してみよう。
 第一の特徴は、複合的平等を担保する前提条件としての、人間の非万能性への信頼である。平等がウォルツァーの言うように複合的なそれであり、各々の財はその領分を守って配分されるべきならば、たしかにあらゆる財の独占は容易ではないであろう。しかしなかには、ありとあらゆる財の領域で成功を収める英雄的な人物がいるのではないだろうか? そのとき、このような人物にあらゆる財の受け取りを許すことは、認められるのだろうか? ウォルツァーは肯と答える。と同時に否とも答える。社会には、そのように万能に見える人もいるだろう、だが実際にそうであるとは信じられない、と。「私たちがこの優越化の状態を破ることができれば、これまで受動的で、人好きがしなくて、目につくことさえなかった、新しい人々が、予期しない仕方で不意に長所を現してきて、前に進むのをまのあたりにするであろう。それは本書で私のした賭けである。私は、今でもそれに賭ける覚悟は変わらない」(日本語版へのあとがき、517ページ)
 第二の特徴として私が指摘したいのは、財の自律的配分の執行方法に関してである。財の優越の排除と自律的配分、とは言っても、そのための執行機関がまったく不要とはむろんウォルツァーも考えてはいない。そして政治権力を行使する政府がその執行機関であるべきことは、ウォルツァーにおいても否定されてはいない。しかしウォルツァーはしばしば、これとは別の方法に着目する。すなわち配分を受ける人々の自治的な組織という発想がそれである。たとえば労働組合について論じた箇所や、辛い仕事の配分について論じた箇所。また、休暇に関するholidayへの注目。人々の自律性に期待するこのような志向は、財の配分の自律を平等の中心に据えるウォルツァーの正義論によく適合したものとなっている。
 第三は、人間の平等を基礎づける人格的特性として、いくつかの財にウォルツァーが特別な比重を置いている点である。ウォルツァーはこれを必ずしも明示的に述べていないが、私のみたところ、それは成員資格であり、自己尊重であり、そして政治への参加の可能性である。これらの比重の置き方は、ウォルツァーが考える正しい社会がどのようなものかについて私たちに十分な示唆を与えるだろう。つまりそれらは、社会民主主義における「市民性」の構成要素にほかならないからである。

6.小括

【12】 ウォルツァーの議論は多岐にわたる論点に目配りが行き届き、説得力に富む。財の独占よりも優越を排除すべきだとするその基本的な考え方も、私には非常に魅力的に思える。しかし、配分的正義を論ずる他の論者、たとえばロールズやノージックとの比較においてウォルツァーをどう位置づけ、評価するのか。またかれらと結論が相異する部分について、ウォルツァーを支持できるのか否か。そういった点については、なお考察を要するところであろう。
 しかしひとつだけ、確かに認めておいてよいと思うことがある。それは本書が、専門の論文としての静かな語り口にもかかわらず、ウォルツァーのある感情を行間の至るところにのぞかせている、ということだ。
 その感情とは、「怒り」にほかならない。配分的正義について論じる人々には多かれ少なかれ共通のことかもしれないが、ウォルツァーもまた、社会的不正に対する憤りをたしかに共有している。かれが財の優越を明晰な文章によって指摘してゆくときでも、その背後にあるのは、不正に対する感情的中立ではない。各所でウォルツァーが到達する一つひとつの結論の中に、人間社会の生みだした不正に対する静かな怒りと、この不平等を正したいという強い願いを、私は読み取ることができるように思う。3時間で20ページしか読み進まないというような相当な苦労をしながらも私が本書の読解を放棄する気に決してならなかったのは、本書の抑制された文章のあちこちから、注意深く読むときには、このような感情を察知することができたからであった。財の優越という不正から「正義の諸領分」(Spheres of Justice)を守り、人々の個性の多様な展開を通じて多元的・複合的な平等を実現しようとすること――それが、ウォルツァーがこの短く力強い書名によって本書に託した意図だったのだと、私は、いま深く納得するのである。

7.考察

【13】 このようなウォルツァーの洞察は、現代社会の多様な事象の正当性を私たちが評価しようとするときに、大きな助けとなるだろう。おそらく、私たちにまず必要なのは、私たち相互の間に存在する財の不均等な配分のうち、どれが何ゆえに正当化され、あるいは正当化されないのかを明示することを可能にする基準なのだ。それは社会的不正のありかを正確に指摘し、しかも「能力主義」の名を借りた粗雑な反駁や、宿命論などによって簡単に撃ち殺されることのない明晰さと包括性をもった理論でなければならない。そのとき、財の転換の場面における特定財の優越を、批判のための原則的な基準として採用するウォルツァーの立場は、非常に有効な方法となるように思われる。
 私たちが往々にして金持ちに対して憤るのは、彼らが多くの貨幣を所有しているからではなく、彼らが、貨幣で買ってはならないものまでをも貨幣で買おうとするからだ。貨幣で売買してはならないもの――すなわち、政治権力、刑事裁判、言論の自由、結婚と出産の権利、共同体を去る権利、公共の義務からの免除、公職と地位、基本的な福祉、「絶望的な交換」における財、賞と名誉、神の恵み、愛と友情、犯罪行為、……そして人間。貧乏人は、金持ちを嫉んでいるのではなく、金持ちが、貨幣という財の優越性を濫用して、貨幣で買ってはならないものを買おうとするからこそ、怒る。この点を明確にすることこそ、不平等の甘受という無力さから私たちを救い、同時に、私たちが嫉妬にかられて傲慢な不平を洩らしているのではないということを証だてるのを可能にするだろう。
 もとより、人間的な幸福や価値をどのように理解するかは、個人の決断の問題である。金銭に対して貪欲であることを浅ましいと考える価値観をある人が採用するのを妨げる理由は、どこにもない。だがこの場合でも、不平等な財貨の分配が社会的に不正であるということには、依然として何の変わりもない。ところが、人間的幸福と社会的正義とは、こうした価値観を採用する人々によって、往々にして混同されてきた。この初歩的な混同、つまり社会批判の主張を、人間の幸福の実質についての一元的確定の要求であると勝手に誤解し、拒否したことが、たとえばキリスト教的清貧思想を自由放任主義経済の補完原理として反改革的に作用させてきたメカニズムの正体だったのだと、私は思う。

【14】 平等をもとめる主張とは、能力のない者のひがみと妬みに基づく人間の均質化と画一化の主張にほかならない、という批判は、従って、議論の核心には到底届きえていない。なぜならここで排除されるべきだと考えられているのは、財の独占よりも、財の優越であるからだ。オリンピックのメダリスト、天才的な芸術家、卓越した学者、英雄的将軍、大富豪、こうした人々に対して、私たちは嫉妬するだろうか? おそらく、かれらと同じ分野で闘っている人々は、これらの成功者に対してある種の嫉妬心をもつだろう。芸術家が他の芸術家の功績について、学者が他の学者の功績について、より敏感で、よりよく理解するという限りにおいて。だが同時にこの場合、嫉妬する人は、その人自身が相手と競う機会を与えられ、力を尽くして闘ったのであれば、相手の優れたところを承認するにやぶさかではないであろう。その人も、相手も、同じものをめざして闘ったのに違いはないからだ。
 しかし、これとは異なるタイプの、破滅的で醜い嫉妬心というものが、たしかに存在するだろう。成功者を妬み、憎み、成功者をその栄光の座から引きずり降ろすことを願い、成功者の失敗を見ることに陰険な喜びを感じ、そうしてこの暗い感情によって自分自身の品格をも貶めてゆく、そういう嫉妬心が。この嫉妬心は、平等の理念を盾にしながら、他人を引きずり降ろすことに執念を燃やす。なにが、このような執念を生んだのか? ショーペンハウアーやオスカー・ワイルドは、これが能力のない大衆の生得の悪徳と考え、大衆への嫌悪を表明したり、背を向けたりした。だがここには、ひとつの見落としがあるように思われる。ここでの用語を使うならそれは、財の独占に財の優越が加わるときにはじめて、破滅的な嫉妬心が生ずるのだ、という点である。
 これほどまでに人々の自意識が敏感さを増してきた現代にあっても、人々は、自分に能力がないというただそれだけのことで他人を破滅的に嫉むのではない、と私は信じたい。もしそうでないなら、私たちはいつでも、世界中を憎み抜いていなければならないはずではないか? だが、特定の種類の能力が低く生まれつくことはその人の責任ではないこと、またその能力が高く生まれついたことが、その人の功績ではないことは、私たちは理解しているはずである。にもかかわらず私たちが破壊的な嫉妬に襲われるなら、その時には、こうした能力差以上の何かが、プラスされているからなのである。

【15】 ある財の領分において、ある種の能力を有する人々に、他の人々よりも多くの財が分配されることを、ひとまず正当なものとして受け容れよう。たとえばオリンピックのメダルは、競技で高い成績を挙げた人々に対して与えられ、他の人々には与えられない。このことは問題なく正当であるように思われる。ところが今、このメダリストが本国に戻り、与党の推薦を受けて参議院議員に当選するとしたら、どうであろうか。むろん、選挙法には違反していない。またそのメダリストは政治家としても卓越した能力をもしかしたら持っているのかもしれない。しかし、私たちの理性は、警告を発する。どのようなすぐれた人間も、それほど何もかもについて万能ではないことを、私たちは経験的に知っている。政治家という職業が、政治家にふさわしい資質に応じてではなく、オリンピックのメダリストとしての名声を持っている者に対して連鎖的に与えられたことを疑う合理的な理由が、私たちにはある。もしそうとすれば、公職という財の配分の領分は、名声という財の配分パターンによって侵害されていることになる。これは不正であり、従って、公職にふさわしい資質を持ちながら落選した者が抱くであろう不満や嫉妬は、正当なものであり得る。
 思えばショーペンハウアーにせよワイルドにせよ、かれらの業績に対して生前は多かれ少なかれ不当に小さい評価しか与えられなかった人物であった。業績に応じた承認と尊敬とが、時代を下るにつれてますます財としての重要性を増していることを考え合わせれば、かれらのおかれた境遇は一つの不正として、現代の私たちには理解できる。しかし19世紀は、いまだこのような正義の理論を持たなかった。加えてショーペンハウアーやワイルドには、かれらの自信を裏付ける一流の実力が実際にあった。そのためかれらは、自分の経験を社会的な不正として理解するよりも、「天才が必然的に被る受難」を自分が経験しているのだ(ゆえに自分は天才だ)、と論理構成する方を選んだのだと思う。そうしてその論理を防衛するためには、自分と「愚かな大衆」との差異を強調する必要があった。だがこれは、かれらが実際に天才だったからこそ、かろうじて成立し得た特殊な解決策だ。ショーペンハウアーがヘーゲル一派に対して投げつけたあの激烈な罵倒、それはショーペンハウアーの哲学的功績がもう少し低かったなら、まったく惨めな遠吠えにしかならなかったことだろう。

【16】 しかし、現代を生きる私たちにとって肝心なことは、天才でない者もまた社会的不正に苦しめられることに変わりはない、という点なのだ。不正義が行われるとき、その不正義の被害者が天才であるか否かは、正義の観点からは、どうでもよいことである。不正は明瞭に指摘され、正されなければならない。「差別された怒りをバネにして大成した」といった個人的美談の論理は、現在または未来の社会運営のポリシーとしては適用することができない。不正が不正として指摘されることさえないなら、不正の被害を受けることで「自己尊厳を欠いた市民は専制的報復の夢想にふける」(468ページ)だろう。その専制的報復に実際に成功する者が現れるとき、社会は崩壊する。
 取引の巧みな者が多くの貨幣を所有すること、関心と能力のある者が高い教育を受けること、説得能力に長けた者が政治権力を行使すること、賞賛されるべき行為をなした者が名誉を受けること。これらのことを嫉妬せずに認めるだけの覚悟は、私たちにはあるはずである。貨幣が取引能力に応じて、教育が関心と学習能力に応じて、権力が説得能力に応じて、名誉が功績に応じて、それぞれ別個に分配されるならば、私たちは少なくとも、破壊的な復讐感情をもたらすような嫉妬心に悩まされることはないであろう。
 だがこれに反して、もしも誰かがお金で学歴を買ったり、学歴で権力を買ったり、権力で名誉を買ったりするなら、また肉体労働を売る者が、同時に自尊心や最低水準の福祉まで売ることを強いられるなら、――そのときこそ憤慨の叫びがあがる。これは正義を求める叫びだ。もしこの叫びが顧みられないなら、そのとき、破滅的な嫉妬心と復讐心の芽は大きく成長するだろう。
 ウォルツァーの平等の訴え、つまり「財の優越の排除」とは、財のこの連鎖的な転換(お金→学歴→権力→名誉、肉体労働→自尊心の低下)を断ち切ろうとする主張にほかならない。それは人間の画一化ではなく、多元的社会のプランである。人々がそれぞれの得意分野で個性を発揮できるような社会枠組みの構想である。それは、私たちのすべてがそれぞれ自分の選んだフィールドで、他人と(そして昨日の自分と)競争したり協力したりしながら自分の価値を高めてゆくことのできる、そういう社会の提案なのである。

ノート
字数:13000
初稿:2000/11/14
初掲:2000/11/14
追補:2001/01/15
リンク
而立書房
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

  1. セン『不平等の再検討』(岩波書店、1999年)
    潜在能力アプローチの立場から、本書と同じ配分的正義の問題を議論する。
  2. 井上達夫『現代の貧困』(岩波書店、2001年)
    本書が代表する共同体論の批判的検討。

関連事項

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