「呪われた作家」が独特の文体でつづる虚無と幻滅の文学。
"Voyage au bout de la nuit", 1932
『夜の果ての旅(上・下)』(生田耕作訳、中公文庫、1978年)
【1】 20世紀フランスの医師でもあり、ナチス協力のかどで追及され不遇な生涯を送った「呪われた作家」セリーヌの、最初の長編小説。かれの自伝的要素の濃い独特の作品である。 あらすじ あらすじをなんとかまとめれば以上の如くだが、実際には本書は一貫したあらすじを持たない、破れかぶれのストーリーの小説である。ここに記録されているのは、混乱し、明確な目的を見失ったバルダミュという魂の彷徨であり、大戦という陰鬱な現実にひしがれて無力と倦怠の中をさまよう不安定な人間性が、本書のテーマとなっている。 【3】 本書は、全編を通じての退廃的な雰囲気と、俗語を散りばめたその独特の語り口とが特徴的である。本文から、「夜」や「夜の果て」をめぐる印象的な部分を引用しておこう。 こんなふうに夜の中へ追い出されてばかりいれば、それでもいつかはどっかへたどりつくにちがいないさ、と僕は考えるのだった。そいつがせめてもの慰めだ。(勇気を出すんだ、フェルディナン)気持を支えるために、僕はくりかえし自分に言って聞かせた。(いたるところでつまみ出されているうちに、おまえはきっと最後には奴らを、こういうろくでなしどもを一人残らず震え上がらせるこつを見つけるだろうぜ、この連中はすでに夜の果てにたどりついたのにちがいない。連中がそこへ、夜の果てへ出かけて行かないのは、そのためなんだ!)(上巻310-311ページ) 僕にはわかった。もしモリーがいなくなるようなことになれば、僕もまた夜の仕事に雇われに出かけねばならないだろう。 彼もまた行き着く果てまで来てしまったのだ。もう何も言うべき言葉もなかった。わが身に起こりうる一切の事柄の果てに到達したときに完全に孤独になる瞬間があるものだ。この世の果てだ。悲しみまでが、自分の悲しみまでが、もはや何ひとつ自分に答えてはくれない、そうなればもう一度、引っ返さなくちゃならない、だれでもいい、人間たちの中へ。そのときは気むずかしいことは言っちゃおれない、なぜなら、泣くためにも、もう一度、振り出しに、人間たちのあいだにもどらねばならないからだ。(下巻129-130ページ) 自分の生活に二度と直面せぬために、姿をくらます努力を試みてみたが、無駄だった、いたるところでたやすくそいつに出くわすのだ。自分に戻るのだ。僕の放浪(さすらい)、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ! 果てまで来ちまったのだ、僕たちは! 縁日といっしょだ!(下巻365ページ) 【4】 その他、印象に残った記述。 完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ、そして人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。(上巻33ページ) 軍人というものは人殺し以外のことにかけては、赤子も同然だ。軍人をまるめ込むぐらいわけはない。ものを考える習慣がないから、相手に話されると、それを理解するのにとてつもない努力を強いられるのだ。(上巻171ページ) 僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。(上巻334ページ) |
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