SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

ムーレ神父の罪

敬虔な神父の愛と信仰の葛藤。ルーゴン・マッカール双書第5巻。
Émile Zola "La Faute de l'abbé Mouret", 1875
ゾラ『エミール・ゾラ選集 「ルーゴン=マッカール叢書」セレクション3 アベ・ムウレの罪』(松本泰訳本の友社1999年)


【1】 ルーゴン・マッカール双書第5巻。
 ゾラは、社会的事象をダイナミックに扱った代表的な作品群とは異なって、時も場所も登場人物も狭く限定されたなかで繰り広げられる叙情的な小作品を「ルーゴン・マッカール」全20巻のうちにいくつか含ませている。ゾラ自身、これらを「休息と気晴らしの作品」と読んでおり、第5巻『ムーレ神父の罪』、第8巻『愛の一ページ』、第12巻『生きる喜び』、第16巻『夢』の四編がそれにあたる。
 本作『ムーレ神父の罪』は、ルーゴン・マッカール両家の混交によってできたムーレ家系に属する神父セルジュを主人公にとり、その悲劇的な恋を描く。プラッサン近郊の小村レザルトウとその隣村パラドウだけを舞台とし、セルジュの恋だけに焦点を絞った全三部48章の短い作品となっている。ルーゴン・マッカール家系に属する者のうち本作に登場するのは、セルジュ・ムーレ、デジレ・ムーレ、そしてパスカル博士だけである。
 大作家であるにもかかわらず日本では翻訳が極端に少ないゾラのことであるので、私は『ルーゴン家の繁栄』を読んだ時と同じく、本作にもまた戦前の翻訳を用いなければならなかった。上掲文献は、昭和5年の改造社版の復刻である。しかも、主人公のSergeをサーヂと訳しているところなどから推して、英訳版からの転訳ではないかとも思われる。

あらすじ
第一部
【2】 プラッサン近郊の小村レザルトウで神父の任についているセルジュ・ムーレ(26)は、聖母への信仰を胸に抱きながら、敬虔な毎日を、知恵遅れの妹デジレ(22)とともに送っていた。村の娘ロザリーの妊娠と結婚問題、パスカル叔父との交流、無神論者ジョンバルナーとその姪アルビーヌ(16)との接触といったささやかな事件を経ながら、平穏な毎日が過ぎていった。

第二部
 ある日、あまりに熱心に祈りを捧げていたセルジュは熱病に倒れ、記憶を失ってしまう。パスカル叔父のはからいで隣村パラドウに移されたセルジュは、野性的な少女アルビーヌのもとで介抱を受ける。エデンの園を思わせる原始的なパラドウの庭園での共同生活を送るうち、やがて二人の間には自然で素朴な愛情が芽生える。
 アルビーヌはセルジュに、パラドウの庭園の中で最も美しいという「秘密の木陰」を探そうともちかける。セルジュは怖れを抱くが、ある日アルビーヌはついにその木陰を発見する。その木陰を訪れた二人は、パラドウの周囲を囲む石垣をも発見してしまう。このとき、セルジュに神父としての記憶が戻り、パラドウでの歓楽的な生活に罪の意識を覚えたセルジュはアルビーヌを捨ててレザルトウへ戻る。

第三部
 罪の意識に苛まれるセルジュは以前よりもいっそう禁欲的な生活に戻り、アルビーヌが病気になったとの知らせやパスカル叔父の説得にも応じない。アルビーヌはみずから教会堂を訪れてセルジュの心を取り戻そうと懇願する。セルジュはアルビーヌを愛することができると信じて再びパラドウに戻るが、自然で素朴な愛情はもう彼の心には戻ってこなかった。絶望したアルビーヌは、庭園中から集めた花の中に横たわり、自ら窒息死する。アルビーヌはセルジュの子を妊娠していた……。

「罪=愛」?
【3】 ゾラ自身が「気晴らし」と言っているように、本作はこれだけで田園の一悲恋物語として読むこともでき、それで十分に楽しめるものになっている。だが、本作の中にあえて問題を見出そうとするならば、それはおそらく、表題にもなっているムーレ神父の「罪」とは何か、という点にあるだろう。
 主人公セルジュの罪悪感に基準を置くならば、その罪とは、いうまでもなく信仰を忘れて肉体的な愛に溺れていたことを意味するのであろう。第4巻『プラッサンの征服』においてセルジュの両親は悪徳神父により狂死に追い込まれている。その反動のためセルジュが強い信仰心を胸に抱いていたであろうことは容易に推察できる。セルジュにとって、人間的な情愛は両親の死を想起させる悪のイメージと結びついていたのであろうか。

「罪=信仰」?
【4】 しかし明らかに、本作にはこれと正反対の解釈も可能である。パラドウの庭園でのセルジュとアルビーヌの奔放な生活を描いた第二部は、作品の中央に位置して物語の大きな山場をなす。ゾラの抒情詩人的側面が発揮された美しい風景描写であるが、読者は直ちに、ここから「アダムとイヴの物語」を見て取るであろう。記憶喪失=無垢な状態での自然な愛情、アルビーヌ=イヴによる「秘密の木陰」への誘惑、その発見による外界=石垣との接触と知識の獲得(記憶の回復)、そして幸福の終わり……。またパラドウという村の名は、paradisの音を連想させる。このように考えると、本作は、ゾラ流の失楽園の物語とも見ることができるのである。
 とすれば、セルジュが神父としての記憶を取り戻し、アルビーヌの楽園を捨てて禁欲の生活にもどったことこそが、彼の「罪」なのだ、と理解することも可能ではないだろうか。少なくとも、そのような二重の理解を可能にする側面を、本作は持っている。しかしおそらく、ゾラが最後にたどり着くのは後者の理解なのだと考えてよいだろう。ゾラの分身とも見えるパスカル博士の次のような言葉が、ゾラの本心を表現しているように、私には思われる。

 パスカルは荒々しく鞭を振り廻しながら、馬車から體躯を乗出して、
「何、日課経を読んでゐるつて…………いやゝ呼んでこなくてもいゝ。あれの顔を見たら俺は絞殺して了ふかも知れない。俺はあれにアルビンの死んだ事を知らせにきたのだ。」(352-353ページ)

その他の論点
【5】 なお本作については、その構成の単純な力強さも指摘しなければなるまい。神父セルジュの敬虔な毎日を描いた第一部・第三部が、記憶を失ったセルジュの伸びやかで生命力にあふれる生活と恋を描いた第二部を挟むように配置されている。これにより、禁欲と放縦、信仰と情愛のコントラストが鮮やかに浮かび上がってくるのである。知恵遅れの妹デジレの無邪気さがセルジュの「罪」と対照をなして際立っている点、いやみな信心家アルシャンジエと、その耳を平然とナイフで切り落としてしまう無神論者ジョンバルナーのふてぶてしさとの対比も、このような構成に深みを与えている。

 さて、本作の結末をなすのは、アルビーヌの埋葬の場面である。もう一つのエピソードを構成していたロザリーの子もまた出産直後に死亡しており、その葬儀も同時に行われる。破滅と死をもって物語の幕が閉じるのは「ルーゴン・マッカール」各作品に共通のことといえようが、その一方で、ゾラの本心であった生命肯定と再生への願いが、本作の結末にも姿を見せていることにも、直ちに気がつかずにはいられない。
 アルビーヌの棺が墓の底に降ろされるその時、教会堂の裏庭から、デジレの歓声があがる。限りない生命肯定を思わせる彼女の無邪気なセリフをもって、物語は幕を閉じる。

その騒動の中から、デシレの高笑ひが聞えてきた。デシレは著物の袖を二の腕まで捲りあげて、美しい頭髪を風に靡かせながら垣根の上に半身を乗り出すやうにして、
「サーヂ、サーヂ」と叫んだ。
 その時アルビンの柩は墓の底に達して、柩を下した綱が手繰上げられた。農夫の一人は鋤を取上げて、墓穴の上に土壌をかけ始めた。デシレは一層聲を張上げて、
「サーヂ、サーヂ、牛が子を産んだのよ。」と手を叩きながら叫ぶのであつた。(366ページ)

ノート
字数:3000
初稿:2000/11/30
初掲:2000/11/30
リンク
DATA:ゾラ
DATA:『ムーレ神父の罪』
ゾラ特設サイトマップ
本の友社
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。