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だれが石を投げたのか?

崩壊しかかった家族の再生の姿を描いて生きることの意味を問う名作童話。
Mirijam Pressler "Stolperschritte", 1981
ミリアム・プレスラー『だれが石を投げたのか?』(松沢あさか訳さえら書房1993年)


【1】 この物語(原題『つまずき歩き』)は、有名な建築家の一家に起こった事件を通じて、人がひとりぼっちでいることや、他の人々と関わっていくことの意味を問い直す。私たちはそこに、現代に生きることが抱えている重く深い問題が提起されていることを見出すだろう。しかし同時に、物語の結末から、心地よい痛みを伴った感動をも受け取るであろう。
 ミリアム・プレスラーはドイツの童話作家であり、本書も、いちおう童話に分類される。しかしこれは子どものためだけの本ではない。むしろ、本書は大人のために書かれた童話である。それは、子どもであることの意味、成熟することの意味をもう一度思い出しましょう、という、現代社会を生きる大人たちへのメッセージなのである。

あらすじ
【2】 有名な建築家であるカール・ジーバーの一家は、両親と5人の子どもを含み、しゃれた一軒家に暮らしている。しかし、一見して幸福そうなこの家庭は、その内に多くの病理を抱え込んでいた。
 パパの成功のおかげで一家はお金に困ることはないが、パパは多忙でめったに家には帰ってこないばかりか、職場のインテリア・デザイナーの女性と浮気をしている。パパの不在に寂しさをつのらせるママは、足の不自由な15歳の長男トーマスの世話を見ることを心の支えにする余り、トーマスの日記を勝手に盗み見たりする。ママのおせっかいにいらつくトーマスは、かたわに生まれたことをママに八つ当たりする。長女のエリーザベトは18歳で、トーマスの立場にも理解があるが、家庭内の不穏な空気に嫌気がさしており、家を出ることを考え始めている。花を育てるのが好きなおとなしい次男のフリーダーは学校の成績が極端に悪く、世間体を気にするママはフリーダーをきつく叱るため、フリーダーは怯えてますます内気になる。甘やかされて育ったいちばん下のわがままな双子。頭がおかしいと言われているために一家から遠ざけられているベティー叔母さん。パパはママの相談にも耳を貸さず、都合が悪いことがあると怒鳴ってママを黙らせる。

【3】 この家族病理の集大成とでもいうべき関係のなかで、「ぼく」(トーマス)が精神的な成長を遂げ、同時にこの破綻した家族関係が回復に向かってゆく、その過程を描くのが物語の大略である。そのきっかけとなる事件が、次男フリーダーの死だ。
 学期末、学校で6(最低の成績)をとって落第が確実になったフリーダーは、家へ帰らない。家族と警察の必死の捜索もむなしく、数日後、フリーダーが森の中で首を吊っているのが発見される……。

 フリーダーの自殺の直接の原因は、落第したことによる絶望であり、ママにそれを責められることへの怖れだった。しかしその背景には、フリーダーが抱えていた孤独と絶望を共感し共有する人が身近にいなかったことがある。トーマスと一緒に、ひとり暮らしをしている「ビルクナーおじいちゃん」(トーマスやフリーダーの曾祖父)を訪問したとき、フリーダーは尋ねる。

「おじいちゃんはいつも独りぼっち?」とフリーダーが聞く。「独りぼっちが好きなの?」
「好きかって? 別に好きってわけじゃないが、何となくいつもこうだ」(77ページ)

 「僕には友だちは一人もいない」「休み時間も、いつも独りぼっちだ」とフリーダーは言っていた。けれどもその孤独の痛みを分け合うべき相手は、フリーダーにはいなかった。

「トーマス」と彼が言う。「この家でも、みんな、独りぼっちなのかなあ」(78ページ)

 フリーダーの孤独に手を差しのばすことの出来る者が、いないわけではなかった。ビルクナーおじいちゃんなら、気がつくことができただろう。だがおじいちゃんは家族と離れてひとり暮らしだった。フリーダーの草花の知識を尊敬する少女(アンナ)とは、結局、一度きりの出会いだった。そしていちばん身近にいるはずの家族は、お互いに険悪な感情を抱き、一緒に暮らしていながら「みんな、独りぼっち」だ。家庭が抱えるその病は、最も弱く孤独だったフリーダーに集中していった。誰もが、フリーダーを傷つけ、あるいはそれが見えていながら自分も傷つくのを怖れて目を反らしていた――トーマスやエリーザベトさえ。同じ家に暮らす人々のこの無関心の中で、フリーダーの命はあまりにもあっけなく、抜け落ちていってしまう。行方不明のフリーダーを捜索するその時が、この物語の中で、家族全員が一致協力する最初の場面だが、その時には実はフリーダーはもう死んでいるのである。

【4】 フリーダーの死は、一家に大きな打撃を与えた。だが、この打撃を受けとめ、乗り越えようとして必死の模索を始めるところから、家族の関係が作り直されてゆく。その作業は読者にとってさえつらく痛ましいものだが、同時に、痛みを伴った不思議な快さ、とでも言うべき感情を、喚起せずにはおかない。それはおそらく、一家の誰もが、自分のしたこと(またはしなかったこと)を、たとえ恥ずべきことであってもきちんと直視し始めたからだ。人間は間違いを犯す。だが、間違えたことを認める強さを持つことができるのも、人間というものなのだ。トーマスにも変化が訪れる。それをもたらすもう一つのきっかけとなるのが、スージーという「外部の視点」の導入だった。
 トーマスはフリーダーの死による喪失感から、同じクラスの落第が決まった少女スージーに勉強を教えようかと申し出る。スージーはトーマスの申し出をを喜び、その助力によって成績を上げていく。同時にトーマスはスージーを通じて、足の不自由さを言い訳にしていつも被害者ぶっていた自分にも気がつかせられる。
 そして、トーマスがフリーダーの死について心中ではママを責め続けているのを見て、スージーはある日、トーマスに忠告する。フリーダーの死の責任はあなたにもある、でも本当は誰の責任かなんてわからない、と。

 トーマスはフリーダーの死後、その椅子を自分の部屋に持ち込み、フリーダーの写真をその上に載せた。それは、自分がとても大きな不幸を背負ったという考えにひたるためだった。パパを責め、ママを責め、喪失感の虜になることで、自分が何をしたのか、そして自分にこれから何ができるか、の問題から目を背けてようとしていたのである。だからトーマスは、ママに冷たく当たることで、ママを傷つけ続けた。スージーは小さな勇気で、そのことをトーマスに気づかせようとしたのだ。トーマスははじめ憤慨する。しかしスージーが悲しむのを見て、トーマスは次第に、自分の痛みの正体に目を開いてゆく。
 人に傷つけられることは大きな不幸ではなく、人を傷つけてしまったことや、傷ついている人に手を差し伸べなかったことこそが本当に耐えがたい不幸なのだということ。自分が傷つくことを怖れて問題から目を反らそうとするとき、往々にして人を傷つけてしまうのだということ。そして人を傷つけないためには、時として、自分が傷つく危険を冒してでも言わねばならないことがあること(スージーがしたように!)。そうするのに必要なのはほんの小さな勇気だということ……。

 もし大勢の人が、同時に一つずつ石を投げれば、それは石打ち。昔そういう刑罰があった。誰が石を投げた? おまえに当たった、その石を投げたのは誰なのだ、フリーダー? いちばん大きな石を投げた人ではなく、おまえに当たった石を投げたのは?
 誰かが石打ちの死刑を宣告されれば、刑を執行する石投げ人はかならず大勢で、殺したのが誰の石かは、誰にもわからないようになっていた。
『聖書』には、罪なき者まず石を打て、とある。僕も石を打ったのか? 罪なき者と信じて?
 しかしまた、私は弟の番人でしょうか、ともある。
 僕は弟の番人ではなかった。それが僕の罪なのか?
(146ページ)

【5】 いちばん大きな石を投げた者(ママ)が、いちばん悪かったのだとは限らない。相手に当たったのは、小さな石だったかもしれないのだ。だが同時に、起こってしまったことの責任を、誰かひとりに背負わせれば済むのでもない。誰も、番人のように相手に気を配っていなかったからといって責められるのではないからだ。人にできるのは、他人を打つ石を投げないこと――。
 スージーを喜ばせるのも、傷つけるのも、自分次第なのだ――不自由な足や、スージーの落第のためではなく。罪の痛みに耐える強さを持たないとき、人は自分が傷つくことを怖れ、罪なき者と信じて、または信じたくて、石を投げる。もしも人が、自分の痛みを直視する勇気や、心を開く勇気を持つならば、人は誰かを打つ石を投げはしない。そのときには、人と人との間に交わされるものは、傷つける石ではなく、なにか別のものであるだろう。

「……僕みたいな子は、友だちをつくるのがむずかしいんだ。ほんとうを言うと、友だちをつくろうと考えたこともなかった。まともに歩けないような人間を好きになってくれる人など、いるはずがないもの」
 スージーは目を丸くしてたずねる。「本気でそう思ってるの?」
 僕はうなずく。
 すると、彼女は腕を僕の首にまわして、僕の口にすばやくキスした。
 僕はとても変な気分で、心臓がどきどきした。
(131ページ)

【6】 こうしてトーマスは、フリーダーの死を受けとめ、そして乗り越える。スージーの忠告の直前に、その場面はさりげなく、それでいて象徴的に挿入される。本当に大切なことは、いつもさりげなく起こるように。部屋でスージーに勉強を教えているとき、ママが持ってきてくれるケーキの置き場のために、トーマスは筆記用具をどかそうとする。

ノートとボールペンをどこへ置こうかと迷って、そうだと思いつく。フリーダーの写真を椅子から取り上げて、本だなの、草花の本の前に立てる。そして椅子の上に筆記用具をのせる。今までとちがって見えるが、この方が自然だ。この方が正しいという気がする。なぜか、むずかしくて大事な仕事をすませたあとのように、ほっとする。(142ページ)

 フリーダーはトーマスの中で、罪悪感の源やママを責める材料であることをやめ、悲しい、しかし大切な思い出に変わったのだ。それはとても「むずかしくて大事な仕事」だった。だが、その仕事をやりおおせたトーマスは、もう誰かを傷つけることはないだろう。
 やがて、パパは愛人と別れる。クリスマス・イブにはビルクナーおじいちゃんを家に招き、パーティーを開く。トーマスはスージーと一緒にコンサートに出かけたり、チェスクラブに出入りするようになる。エリーザベトも家を出るのを延期し、双子も少しおとなしくなった。一家は、ゆっくりと、回復に向かってゆく。そしてクリスマスの日、トーマスとママが連れ立ってフリーダーの墓参りから帰る新雪の風景が、物語の幕を閉じる。クリスマスの飾りで飾られ、白く雪をかぶった墓地の情景は、フリーダーの死という高い犠牲を払いながら、それを受けとめて立ち直っていこうとする一家に対する、控え目な祝福であるように、私には思われるのである。

ノート
字数:4400
初稿:2000/12/05
初掲:2000/12/05
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