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【1】 ヨーロッパの近代精神と科学の方法論を確立したとされる、あまりにも有名な古典。
デカルトの『方法序説』は複数の出版社から訳書が出ているが、私が今回利用したのは上記の岩波文庫版の1997年新訳である。かつて私は19歳の時に、同じ岩波文庫の旧訳でこの作品を読んでいる。しかし当時は集中力と理解力の欠如のため、十分に理解することができなかった。こんど使った新しい訳書は、文章も平易であり、何よりも活字が鮮明なので、その点は読みやすかった。が、字が読みやすいからといってそれだけ理解しやすくなるわけではないのが、この種の本のつらいところである。翻訳で130ページたらずであるが、やはり、けっこう頭も時間も使って読まねばならなかった。
要約
第一部:探求に至る経過
【2】 理性はすべての人に備わっており、その用い方さえ正しければ、真理に到達することができる。しかし既存の学問(スコラ哲学)は「真らしく見えるにすぎないもの」を扱うだけであり、前例と習慣に拘束された思考にすぎず、わたしを満足させることはなかった。そこでわたしは、「世界という大きな書物」の探求にのりだした。
第二部:理性を用いるための規則
【3】 真理について哲学者たちの見解は対立し、同一の事項に関し地域によっても意見が異なる。これはこれらの見解が習慣や実例による偏見に基づいている、不確実な知識だからである。「賛成の数が多いといっても何ひとつ価値ある証拠にはならない」(26ページ)。そこで既存の諸見解を一旦は放棄し、理性の導きに従って探求をすすめる必要がある。ただし、この懐疑は自分の思想の範囲内において行い、国家・社会の改革の問題には立ち入らないものとする。
理性を正しく用いるための規則として、わたしは次の四つを確立した。
(1)明証性の規則(「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」)。
(2)分析の規則(「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」)。
(3)総合の規則(「わたしの思考を順序にしたがって導くこと」)。
(4)枚挙の規則(「すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること」)。
この規則を数学に適用しようとする試みは、数的な順序と量を線として想定すること、およびこれらを記号で示すことを通じて、成功した。そこで次に、哲学に適用する番である。
第三部:探求している間の当座の格率
【4】 しかしその前に、「理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、……当座に備えて、一つの道徳を定めた」(34ページ)。わたしは、第一に「わたしの国の法律と慣習に従う」。第二に「どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、……一貫して従う」。第三に「わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させる」。これらは真理の探求を継続するための一時的な方針であり、行為についての懐疑論を回避するための方策である。
第四部:魂と神の存在証明
【5】 理性を正しく用いて世界を探求するにあたって、まず、少しでも疑わしい考えはすべて廃棄し、あたかもそれらが偽であるかのように取り扱わなければならない。感覚・幾何学・目覚めているときの思考といったものもその例外ではない。しかしながら、「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」(46ページ)。従って「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(同)。わたしの本性は考えることであり、その際、考えているわたしとは身体・物体に依存しない魂(精神)である。すなわち、考えるということが、わたしが存在するということの意味である。
ところで、わたしが考える魂として存在することが真であるならば、ある命題についてわたしが明晰かつ判明に捉えるとき、その命題は真であると言える。わたしは感覚的対象たる物体について真なる考えをもつこともあり、偽なる考えをもつこともあるが、前者は私の精神に由来し、後者は無に由来する。ところが、わたしはまた完全性について考えるとき、わたしの持っている完全性についての考えをもつこともあり、わたしの持っていない完全性(全知・不死など)についての考えをもつこともある。このうち後者はわたしが持っていないのであるからわたしに由来していないし、ましてや無にも由来しない。それゆえ、わたしの考えるこれらの完全性の観念は、実際にこうした完全性をすべて所有している何ものかによって与えられ、わたしの精神において不完全に分有されているということになる。この完全性を有する存在が、神である。以上のことをわたしは明晰かつ判明に理解する、ゆえに神は存在する(命題A)。
神が存在することによって、わたしの精神が明晰かつ判明に捉えたことが真であるというさきの条件が保証される(命題B)(*1)。
*1…命題Aと命題Bは相互に依存関係にあって循環論法に陥っている。これがいわゆるデカルトの循環である。
第五部:自然学概論
【6】 世界の生成について、わたしたちの住む世界とそっくりな想像の空間を舞台として仮説を展開する(*2)。次に人体について、特に心臓の働きと血液の循環に関する説明。人間を精密な機械から区別するものは、言語と理性の使用である。
*2…これは、スコラ哲学者との対立と宗教的な迫害を懸念してのものであろう。
第六部:本書の刊行にいたる事情
【7】 わたしはかつて、自分の研究を公表することでその成果を他人に伝達し、共有できる利益があると思っていた。しかしその後、わたしはこの考えを翻すに至った。というのもわたしの経験は、他人の反論はわたしの利益にならないこと、わたしの研究もまた、他人に曲解されてその利益にならないことを示したからだ。わたしは反論に応えることによって平穏を乱されたくはない。
それにもかかわらず、このたび本書(方法序説)を刊行するに至ったのは、もっぱら以下の理由による。第一に、自分の研究を隠している、という悪評を防ぐため。第二に、平穏な研究の時間を与えてくれるよう他人に知らしめるため。
【8】 このように要約してみると、なぜ本書を理解することが難しいか、その理由の一端がわかってくるように思う。デカルトは本書で、近代的科学の方法論的基礎づけを行おうとしているわけであるが、そこにいう科学とは、数学・倫理学・形而上学・物理学・解剖学など多岐にわたる学問分野を含んでいる。しかし現代人である私たちは、多かれ少なかれ自分の専門分野に知識が偏在している傾向にあるため、デカルトが論じていることの一部は理解できても、他の部分についてはまったく門外漢たらざるを得ない場合が多い。そのため、ともするとなじみのない用語に困惑させられ、デカルトが論じようとしていることの本筋をつかみ損ねるのではないだろうか。たとえば私にとっては、第三部の道徳の問題は非常になじみがあるし、第四部の形而上学、第二部の数学も、なんとかついてゆける。しかし、第五部の心臓と血液の循環についての記述はちんぷんかんぷんであった。高校までに習った生物学の知識をすっかり忘れてしまっているから、心室とか大静脈とか言われても、具体的なイメージを伴って理解できないわけである。
【9】 さて、『方法序説』がさほど大きくもない分量の中で扱う問題のうち、現代人にとって最も重要かつ興味深いのは、いうまでもなく形而上学を扱った第四部であろう。しかしながら、魂と神の存在証明について論じたこの部分は相当に抽象的で難解であるので、この点についてはデカルトの言いたいことを上記要約のとおり理解した、というところで満足しておいて、私としては第三部について考察しておきたい。
第四部の前提をなしていて案外軽視されやすいのではないかと思われる第三部は、道徳について扱っている。といっても、それは未だ道徳や倫理学の基礎と呼ぶにはあまりにも未成熟なもので、実際には、デカルト自身が哲学的探求を行っている間に従うよう心がけた日常生活の準則、という程度のものでしかない。おそらくデカルトの本心は、形而上学上の懐疑論を突きつめるにあたって、その懐疑的立場の実践という難しい問題を回避したいという点、つまり現実問題としてスコラ哲学やキリスト教道徳との衝突を避けたかったというところにあるのであろう。そのため、デカルトが掲げる三つの準則はいずれもきわめて穏便で、現状追認的な要素を有している。デカルトはその後も、道徳に関してこれ以上の探求を行っていないから、要するにあまり関心がなかったものと思われる。
しかし私が興味深いと思うのは、ここで「当座の道徳」という発想が現れていることである。デカルトは形而上学の規則については根源的な懐疑を要求するが、ここから社会改革を展望することはしない。その動機は上記のとおり、単に道徳を深く探求する意欲をあまり持たなかったので、この甚だ不十分な格率で満足できたという点にあるのであろうから、もし問われればデカルト自身は、自分には関心がないだけで、道徳のこれ以上の探求が不必要なわけではないと言ったかもしれない。デカルトもまた宗教的な迫害を恐れたのであるから、社会の改革の必要を多少なりとも感じていなかったはずはないだろう。デカルトが「当座の」道徳というとき、それはやがて「真の」道徳によって克服されるべきである、というニュアンスを含んでいる。従って、もし道徳の本質について明晰かつ判明に理解できれば、それに基づいて社会を改革することも許容するという可能性に、デカルトの態度はつながっていくのであろう。討論のうまい弁護士が必ずしも良い裁判官になるわけではないという第六部の主張(91ページ)もまた、このことを裏付けているように思える。
だが、私がここであえて「当座の道徳」という考えを強調したいのは、それは「真の道徳」の主張にむしろ優るのではないかと思っているからだ。
【10】 もはや『方法序説』の問題を大きく逸脱することになるのだが、道徳とは結局いつでも、その時代・その社会における人々の間の対立利益を相互に調整し社会の紐帯を維持するための当座のものにすぎず、またそれで十分なのではないだろうか。道徳とは現に生きている人々の間に「折り合いをつける技術」にほかならず、そこには厳密な意味での「真なる道徳」・「偽なる道徳」といったものはないのではなかろうか。これは目指すべき道徳がないとか、現状が維持されればよいとかいうことではない。ドグマからの演繹によってよりも、私たちの日常的利益の相互調整によってこそ、私たちはより巧みな(真の、ではなく)道徳の諸準則に到達しうる、という方法論の主張である。価値相対主義とは、絶対的価値が失われたのちの思想の抜け殻なのではない。それは、いつ終わるとも知れぬイデオローグたちの論争の支配から私たちの生き方を解放しようとする、ひとつの生活の技術(art)として理解すべきなのだ。価値相対主義に基礎をおく民主政治において、討論、という手続がとりわけ重要性を持ってくるのは、討論が真理到達のための手段だからというよりも、討論という手続を通じてこそ私たちの利害をお互いに納得のいく形で調整できるからなのである。
【11】 道徳について、より強い興味を示したデカルト以後の近代哲学者たちは、ある意味ではデカルト的立場の延長線上にあることではあるが、真理に到達したという自信のため、道徳に関してデカルトのような慎重さを失っていったように見える。たとえばカントの道徳論は、「たとえ明日世界が滅ぶとしても、刑罰は執行されるべし」との毅然たる命題に到達した。だが、この断定的な調子のもつ魅惑的な響きから少し距離をおいて、落ち着いて考えてみると、現代社会においてこのような格率は明らかにunacceptableであると私は思う。
このように考えると、デカルトの本心に沿った理解ではないかもしれないが、道徳論に関して当座の格率で満足することを述べた第三部には、ある意味でデカルトの健全な態度が現れていて、支持に値する。むろん、デカルトが実際に挙げた三つの格率は、現代社会の道徳の規準としては甚だ不十分であり、しかもこれをどれほど精緻化したとしても真の道徳にたどりつくわけではない。だが、ともかくも道徳を真理探究と区別するという態度を採用した点で、結論においてデカルトを評価することは可能であると、私は考えるのである。
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