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不平等の再検討

潜在能力アプローチによって社会的不平等の評価と解決に挑む刺激的考察。
Amartya Sen "Inequality Reexamined", 1992
アマルティア・セン『不平等の再検討』(池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳岩波書店1999年)


紹介
【1】 本書は、1998年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センが、正義(公正)をめぐるその考察を一般読者向けに簡単に要約したものである。翻訳にしてわずか200ページあまりの論考であるが、その着眼の鋭さと視野の広さは、本書の記述の易しさのために、かえって読者に強い印象を与える。ときとして意外なほど明快な断定がなされている箇所もあるが、原注などを丁寧に読み込んでいくと、その断定の背後にもセンの膨大な実証的研究が横たわっていることを窺うことができ、読者は深く納得させられるのである。
 センが本書で扱っているのは、1970年代にロールズによって提起された配分的正義の問題である。厚生経済学に比重をおいてはいるものの、その問題はロールズが提起するものと基本的に同型である。

潜在能力アプローチ
【2】 まず、本書を貫く最重要概念ともいえる「潜在能力(capability)」および「潜在能力アプローチ」についてまとめておこう。
 端的にいえば配分的正義の理論とは、社会を構成する人々の間に存在する不平等を指摘し、その是正と解消の方策を探ろうとする思想上の努力であると言うことができよう。しかしながら、まさにこの「不平等(不正義)」の存在をどのように確定し評価するのか、つまり「何が不平等なのか」の認識・評価基準をめぐって議論が生ずるのであり、採用された基準しだいで、ある現実が不平等とされるのか否か、またそれがどう是正されるべきなのか、の結論が異なってくることになる。「機会の平等」か「結果の平等」か、という議論が(非常に粗っぽくではあるが)示しているのはこのことである。つまり「何についての平等か」が問われなければならないのだ。
 センの「潜在能力アプローチ」とは、ほかならぬこの点に対するセンの態度を表明している。すなわち、センによれば、人々が潜在能力において平等であるべきである (潜在能力についての平等)、ということなのである。
 よく指摘されるように、capabilityに対する「潜在能力」の訳語ではセンの主張を直感的に理解しにくく、誤解に陥るおそれがある。この訳語がすでに定着しつつあり、他に適切な語もないようなので仕方がないが、用語だけを鵜呑みにして、センの主張していることの実質を見失わないように特に注意する必要があろう。私としては、capabilityとの対応に特にこだわらなければ、これを「潜在的達成可能性」という言葉で置き換えると理解しやすいように思う。

「なぜ平等でなければならないか」
【3】 ところで、「何についての平等か」を問う前に、「なぜ平等でなければならないか」を問題にする必要はないのであろうか。センはこの問いにも意義を認めながらも、「何についての平等か」に比べればこれは中心的な論点ではないと考える。というのは、「時の試練に耐えて生き延びてきた社会制度に関するいかなる規範的理論も、その理論が特に重要であると見なしている何かに関する平等を要求している」 (17-18ページ)点ではみな一致しているからである。
 たとえば自由競争を通じた財配分の不平等を擁護するノージックのようなリバタリアンの考え方は、権利の平等の主張であると見なすことができるし、効用の最大化をめざす功利主義でさえも、功利主義的目的関数上での各人の効用の増分に対する平等なウェイトづけを要求していると考えれば、平等を求める主張とみることができる。つまり、これまでまがりなりにも説得力を持ってきた平等をめぐる諸思想は、すべて何らかの意味での平等の主張であると見なすことができるのであり、そこで人間の多様性を前提として、各人に属する「何が」平等であるべきかが中心的問題となる。そして問題となっている基準(センはこれを焦点変数(focal variable)と呼ぶ)についての平等が他の面での不平等を正当化するということが、すべての平等論に共通の構造になっているのである。

成果と自由
【4】 さて、社会における人の立場が平等であるかどうかを評価するには、大きく分けて二つの視点がありうる。達成度(成果)と、達成するための自由である。ある人において達成された福祉、たとえば効用や豊かさや生活の質といったものの、成果としての「福祉の水準」を問題にするのが前者の視点であり、これに対して、効用への自由、豊かさへの自由、生活の質への自由といった具合に、それらの福祉を達成するための「自由の水準」を問題にするのが後者の視点である。功利主義や古典的な社会的厚生関数は、もっぱら成果に重点を置いて平等を理解するものであった。これに対し、「基本財の分配」を問題にするロールズや「資源の分配」を問うドゥオーキンの主張は、成果を達成する手段のほうに重点をおいており、達成するための自由により配慮したものとなっている。
 センの「潜在能力アプローチ」は、達成するための自由を重要視するロールズの考え方を基本的に踏襲しつつ、これを発展させたものと位置づけられる。センは、他の財のもととなる基本財(たとえば所得)に平等論の焦点を合わせるロールズの考え方の妥当性を原則として認めながら、それだけでは不十分であると主張する。なぜならここでは、基本財を他の財に転換するための、個人の変換能力の差が考慮に入れられていないからである。人間は多様な存在であり、それゆえ基本財を他の財に変換する能力にも差がある。たとえば二人の個人が同一の所得を持っているとしても、それぞれの代謝率、性別、妊娠しているかどうか、生活している場所の気候環境等には差があり、このために当該所得によって達成可能な自由の水準には格差が生ずるであろう。基本財の配分量が平等であっても、変換能力に差があるならば、達成するための自由が平等に配分されていることにはならないのである。
 このように、転換能力をも考慮に入れて、その人が達成可能な成果の(潜在的)集合を、人々の平等度を比較する際の焦点変数とするのがセンの「潜在能力アプローチ」である。つまり、成果を達成するための手段に加えて変換能力の差異をも視野に入れることで、センは「自由の手段」ではなく、「自由そのもの」を問題にしようとしているのだと言えよう。この点、センの用いている「機能」と「潜在能力」という言葉を使って、もう少し敷衍しておく。

機能と潜在能力
【5】 個人が達成している個々の成果、たとえば「適切な栄養を得ていること」、「健康状態にあること」、「幸福であること」、「自尊心をもっていること」等を、センは「機能」と呼ぶ。ある人が社会で置かれている立場は、その人が保有している機能の集合として理解することができる。つまりこの機能集合が、その人が全体として達成している成果であると言うことができる。ところでセンの平等論においては、ある人と他の人との間に不平等が存在するかどうかを評価しようとする場合、それぞれの人が現に保有している機能集合の優劣を直接比較するのではない。「ある人がその時点で選択可能な種々の機能集合の集合」が、センにおいては、個人間の平等を評価する基準となる。機能集合の集合とは、その人がいま現に実現・所有している財のセット (機能集合)だけではなく、その人が実現・所有しうる財のセット(機能集合)の種々の組み合わせの(潜在的な)総体のことである。たとえば個人Xと個人Yがおり、いずれも財のセットP(a,b,c)を所有しているとする(a,b,cは個々の機能)。このような場合でも、もし個人Xが他に財のセットQ(a,c,d)や財のセットR(b,d,e)を選択することも可能であったのに対して、個人Yには財のセットP(a,b,c)しか選択する余地がなかったとすれば、両者の間には不平等が存在することになるのである。すなわち、ここでは「選択の余地がある」ということに固有の価値が与えられていることがわかる。平易な言い方をすれば、押しつけられた幸福には、はたして自由に勝ち獲られた同じ内容の幸福と同じだけの価値があるのか、という問題が提起されているのである。そして「自由というものは、善き社会構造にとっては手段としてだけでなく、本質的に重要なものと見なされるべきである」(61ページ)というのが、センの答えなのである。

その他の論点
【6】 センのこのような考え方は非常に刺激的であり、正義をめぐる従来の議論に新しい光をあてるものと言えるだろう。特に、厚生経済学の諸概念を正義論に応用して、機能の重要性についての部分優越順序を作ることを擁護した第3章の議論などは、もっぱら法学の側面からこの問題を考えていた私には非常に新鮮なものであった。本書は一般の読者向けのものであり、用いられている経済学の概念は決して難しくないのだが、それだけにいっそう、基本的な考え方を高度な仕方で応用するセンの手腕が際立っているのだといえよう。
 また、いわゆる実力主義、「より優れた技能を持った人が影響力のある地位や公職につく」ことの正当性を論じた第9章も重要である。センは実力主義を単純に受け容れるのではなく、もし実力主義が正当化されるとするなら、それはなぜ正当化されるのか、を問う。「その理由は、能力の高い人々が(……)他の人々より本質的に優れているからということではない。実力に応じて公職を担う人や影響力のある地位に就く人を選ぶ利点は、究極的にはそうしたシステムの効率性にある」(230ページ)。つまり、能力のある人を影響力のある地位につけるのは、そうすることによって社会の運営がより効率的になされうることが期待されているからであって、「能力がある」ことと「影響力のある地位につく」ことが必然的に結びついているのではないのである。「もし公職や影響力のある地位が、開かれた競争で上手に競り勝つ人によって占められるという仕組みができ、それがまたあまり効率的でもなければ、(……)正当化はもはや成り立たなくなるだろう」(232ページ)

ノート
字数:4100
初稿:2001/07/24
初掲:2001/07/25
リンク
岩波書店
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

  1. ウォルツァー『正義の領分』(而立書房、1998年)
    コミュニタリアニズムの立場から、本書と同じ配分的正義の問題を議論する。

関連事項

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