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愛の一ページ

パリを見下ろす静かな街での母娘の愛の一挿話を描いた双書第8巻。
Émile Zola "Une Page d'amour", 1878
ゾラ『禁断の愛』(山口年臣訳角川文庫1959年)


目次

  • I 序論
    • あらすじ
  • II エレーヌについて
    • 基本的な対比――貞淑なエレーヌと情熱的なエレーヌ
    • 情熱の欠如の二つの類型
    • 魅力的な未亡人と母の義務
  • III ジャンヌについて
  • IV 結論
  • 補足1:パリについて
  • 補足2:結語について


I 序論

【1】 ルーゴン・マッカール双書第8巻にあたり「休息と気晴らし」の一冊とされる本作では、単純ながら力強い描写で読者を興奮の渦に巻き込んでゆく普段のゾラとは異なり、外面的にはほとんど大きな事件の起こらない静かな郊外の街で、少数の登場人物の感情の絡み合いが主題に据えられている。この点で本作は双書中異色のものと言って差し支えないが、そのいっぽうでジャンヌの臨終の場面のように、死を描くときの迫力においてゾラ本来の特質を発揮している面もあることを見逃すべきではないだろう。

あらすじ
【2】 若くして夫を失った未亡人エレーヌ(30)は、病弱な神経症の娘ジャンヌ(11)とともに、パリを見下ろすトロカデロの高台で、わずかな友人とだけつき合う静かな生活を送っていた。パリのすぐ近くに住みながらパリを訪れることもほとんどなく、夢想と慈善活動のなかに、穏やかな日々が流れていく。
 ある日ジャンヌの病気を通じて知り合った隣家の医師アンリ・ドゥベルルは、エレーヌの若さと落ち着きに魅せられる。ドゥベルル家と親しい交際を始めたエレーヌの中にもアンリへの好意が生じ、抑えてきた情熱が再び芽生えるのを感じる。ドゥベルル家の仮装舞踏会の夜、興奮したアンリはエレーヌに愛を告白する。
 貞淑の観念にとらわれたエレーヌはアンリへの愛に苦しむが、ある日急病で死に瀕したジャンヌを救おうとするアンリの献身的な努力に感動して、自らも愛を告白する。アンリの妻ジュリエットにはすべてを秘したまま、二人は愛を育んでいく。だがエレーヌのこの変化を見つめる冷ややかな懐疑の眼があった。それはこれまで母の愛情を独占してきた娘のジャンヌであった。
 ある日エレーヌはジュリエットが愛人と密会しようとしていることを知り、匿名の手紙でアンリにその日時を知らせる。しかし当日になってこの行為を後悔した彼女は密会の場所へ駆けつけ、ジュリエットと愛人を逃がす。折しもそこを訪れたアンリはエレーヌが密会のために呼び出したものと早合点し、二人はそのまま情事をもつ。いっぽう、その日理由もわからずエレーヌとの同行を拒まれたジャンヌは、孤独感に打ちしずみ、窓際で雨に打たれながら、帰らぬ母を待っていた。
 雨に濡れたことが原因でジャンヌの病状は再び悪化する。母の愛情を独占してきたジャンヌは、もはやアンリのことばかり考えて自分を顧みない母を激しく憎む。ジャンヌがついに血を吐いて倒れたとき、エレーヌとアンリはようやく我に返るが、病はもう手の施しようがなく、ジャンヌは生命と愛に焦がれつつ息絶える。二年後、別の男性と再婚し平穏な生活を取り戻したエレーヌは、悔悛の情とともに、パリを見下ろすジャンヌの墓を訪れる。

II エレーヌについて

【3】 さて、本作の中心的なテーマが、穏やかで満たされた生活を送っていた貞淑な寡婦エレーヌのうちに恋の情熱が目覚めていく過程であることは間違いない。夫グランジャンの死後、決して信仰深いとはいえないが静かで満ちたりた毎日を、エレーヌは娘とともに送っている。彼女と娘が住むのはパリを遠景に見下ろす郊外の高台にある小さな街で、エレーヌは毎日のようにパリを見ながら、その市中にはまだ数回しか行ったことがない。(エレーヌは帽子職人ムーレとユルシュール・マッカールとの長女で、マルセイユでグランジャンと結婚し、パリに居を移そうとして到着したその日に夫が急死した。)夫の友人であったジューヴ神父とランボー氏がお膳立てしてくれた住居で、毎火曜日の彼らとの晩餐だけをアクセントとしながら、彼女の関心はただ神経症ぎみの娘ジャンヌの世話をすることだけで占められていた。エレーヌはジューヴ神父が勧めるランボー氏との再婚話にも乗り気ではない。
 その「半睡状態」のような生活のなかに娘の医者として入り込んできた隣人アンリ・ドゥベルルが、眠っていたエレーヌの情熱を目覚めさせていく。妻とは違った落ち着きを見せる若く魅力的なエレーヌ(このとき30歳)に惹かれ、自宅の仮装舞踏会の興奮のさなかで告白するアンリ。そして娘の急態を救ってくれたアンリへの感謝と感動の入り混じった気分から「愛しています」と洩らすエレーヌ。その過程でエレーヌはこれまでの生活を「欺瞞的」だと断罪し、「私は生きたい」と心中で宣言するにいたる。

ああ! なんという欺瞞だろう、さまざまの敬虔な実を結ばぬ楽しみの中に閉じこめるこの厳しさ、この細心さは! いいえ、いいえ、もうたくさん、私は生きたい! (……)彼女の反抗心はこの止み難い欲望に達した。ああ! 強い抱擁の中に沈んで、これまでになかった一瞬に生きるのだ!
(第2部第5章、142-143ページ)

基本的な対比――貞淑なエレーヌと情熱的なエレーヌ
【4】 貞淑な寡婦から情熱的な女へと変わってゆくこのエレーヌの変貌が、本作における基調的な主題である。ここには、双書第5巻『ムーレ神父の罪』でゾラが扱い、第12巻『生きる喜び』でも取りあげることになる、生と死の対立、愛と信仰や道徳や義務との相克という構図が、同じように横たわっていると見ることができる。それはゾラにおいて双書の全作品に共通する関心だったと言ってもいい。「休息と気晴らし」たる本作では、その対立は『ごった煮』のように辛辣でもなければ『獣人』のように壮絶でもないけれども、エレーヌのこの内的な変化、貞淑なエレーヌと情熱的なエレーヌとの際立った対比の中に、たしかに看取できるのである。
 生命と活力への熱望は、エレーヌがまだ貞淑な寡婦としての外面をまったく崩すことのなかった時期においてさえ、作中でしばしば暗示されている。そのひとつは、エレーヌがドゥベルル家のぶらんこに乗って高く空中に浮かび上がる場面の躍動的な描写だ。

 だがエレーヌは空中にいる。木々は突風にあったかのように曲り、鳴っている。嵐の音とともに鳴るスカートの渦しかもう見えなかった。腕をひろげ、胸をつきだして下へおりると、頭をすこしあげ、一瞬滑走する。ついで、飛躍が彼女を運び去る。そして頭を後ろにそらし、眼をとじて、絶えいるようにまた下りてくる。この眩暈をあたえる昇降が、彼女の喜びだった。高く上がっては太陽へ、黄金の塵のように降る二月の金色の太陽へ入る。琥珀色に反射する栗色の髪は火がついたように輝く。まるで全身が燃えるようであり、いっぽう赤紫色の絹のリボンは火花のように、白っぽい服の上に輝いている。彼女のまわりに春が訪れ、紫の芽は青空に繊細な漆器の調子をつけている。
(第1部第5章、61ページ)

 エレーヌの中にひそかに息づくこの生命への欲望が、やがてアンリの告白を受けて目ざめ始める。再婚さえ考えたことのなかった彼女は、妻子のある隣人の医師への、ふいに燃え上がった情熱に当初は当惑し、怖れおののく。だがその恐怖は、そもそものはじめから、愛することへのロマンティックな感傷と区別のつかないほどのものである。

「なにもありません、ほんとうです……なに一つ隠してはいません……理由もなく泣いたのです、息がつまり、涙がしぜんに溢れてきたからなのです……私の生活はごぞんじのとおりです。私には悲しみも、不足も、後悔もありません……私はぞんじません、ぞんじません……」
 彼女の声は消えた。すると神父はゆっくりと次の言葉をもらした。
「あなたは愛してるんですね」
(第3部第5章、224ページ)

「もう、私は力がつきかけているのです……でも、お願いです、私の心の奥に起っていることをおっしゃってください。私はとても穏やかで、幸福でした。雷に打たれたのです。どうして私へでしょう、どうして他の人ではないのでしょう? 私はそのためになにもしませんでしたし、私は充分まもられているものと思っていましたのに……ああ、私はもう自分がわからないのです……助けてください、助けてください!」
(第3部第5章、226ページ)

【5】 妻子のある男性との恋愛という観念に対するエレーヌの抵抗は、しかしそれほど強くはない。彼女は、娘の急病をあやうく救ってもらったことへの感謝と感動という、ほんらい愛とは異なる感情の高ぶりのなかで、アンリに愛を告白した。ここでは、エレーヌに愛されるべきアンリの魅力といったものはほとんど問題となっていない。ただひたすら、感情の燃え上がりを熱望し、些細なきっかけをも掴んでその突発的な湧出を実現しようと待ちかまえていたエレーヌの内心のドラマが、二人の関係を進展させたのである。
 この内発性は、エレーヌとアンリの最初の逢い引きの実現の場面に、よりはっきりと現れている。二人の逢い引きは愛人たちが計画して作った機会ではなく、ほとんど偶然と成り行きによって実現したことだったのだが、それでもこれは逢い引きとして成就してしまったからである。
 ジュリエットがマリニョンと密会の約束をしているのを洩れ聞いたエレーヌは、アンリへの同情から、当初さりげなくジュリエットをひきとめようと画策する。それに失敗したため、エレーヌは密会の場所へアンリを呼び出すあいまいな匿名の手紙を出すのだが、当日になってこの振る舞いを恥じ、ジュリエットとマリニョンを逃がすためにその場所へ駆けつける。二人を逃がしたところへアンリが訪れ、手紙はエレーヌが逢い引きの段取りをしたものだと勘違いする。エレーヌは真相を語ることもできず、なし崩しにアンリの求めに応じてしまうのである。
 道徳的に誠実であろうとする気持ちから出た行為が、かえってアンリとの密会をお膳立てすることになるという展開は皮肉であり、この場面は本作の小説としての見せ場でもある。しかし、このようなアイロニーを際立たせるところにゾラの意図はない。エレーヌは偶然のなしたこのはからいにたやすく屈し、アンリの妻が密会のために使っていたその場所で、そのままアンリとの初めての逢い引きに陥ってゆくのである。
 この逢い引きの後で、彼女がもはやそれを後悔しても怖れてもいないことは明らかだ。ここにおいてエレーヌの中の情熱が完全な勝利を占め、麻痺状態にあった彼女のそれまでの生活を、愛をもとめる激しい力で押し流すのである。

が、激しい情熱が身内に湧きおこった。彼女を無気力にしていたあの半睡状態が激しい生命の波に融けて、その奔流が彼女を燃えたたせた。これまで覚えたことのない肉感に身をふるわせた。(……)ああ、あのひとを愛しているのだ、あの人が欲しい、この次もあのように自分を忘れて夢中になれたら。
(第5部第1章、325ページ)

 こうしてエレーヌの中で大きな変貌が起こる。彼女は貞淑と平穏に包まれた寡婦から、愛と情熱に身を捧げる女へと変わる。しかし実は、それをもって本作の主題が汲み尽くされるわけではないのである。生命と愛との最終的な勝利を謳うのが本作の結論ではないのだ。そのことを見るためには、エレーヌの変化という中心軸に付随する、他の二つの対比の存在を検討しなければならない。

情熱の欠如の二つの類型
【6】 本作における付随的な対比のひとつは、貞淑なエレーヌと、アンリの妻ジュリエットとの間に存在する。それらは、愛と生命への情熱を欠いた女の二つの類型として、好対照をなしているのだ。
 アンリの妻ジュリエットは、やたらと社交友だちがおり、移り気で、飽きっぽい女として描かれている。形式的な性道徳を深く考えもせずそこそこに受け入れ、演劇から政治まで社交界の流行になっている話題にはみな表面的に参加してひとかどの者めいた発言をする。彼女は夫を愛していないわけではないが、そこには気紛れが、「とつぜん飛躍する愛情」がある。彼女はマリニョンに促されるままに彼と密通しようとするのだが、それも、夫を愛していないからとか、マリニョンに魅せられたからというわけではなく、一種の好奇心にすぎないのである。

その日まで、彼女はまわりの女友達のしているようなことはほとんどのこらずなした、が彼女には情熱が欠けていた、好奇心と、ほかのものたちと同じようであろうとする欲求とに押されていたのだった。
(第4部第4章、286ページ)

 つまりジュリエットは、いっけん社交的・活動的に見えながら、そのじつ根底において真剣な情熱は欠いている、そういう女として描かれているのである。このような人物類型が、サビーヌ伯爵夫人(『ナナ』)、ジョスラン母娘(『ごった煮』)、サンドルフ男爵夫人(『金銭』)などのように、その後のゾラの作品において繰り返し姿を現していることに私たちはすぐ気がつかされるだろう。
 これに対して、アンリを愛する前のエレーヌの人間像は、亡夫への愛情、病弱な娘の世話という名目のもとに、対人関係をできるだけ限定し、小さな街でひそやかに生活しようとしている寡婦のそれである。彼女は「いつも永遠を夢みている穏やかな寛い心」をもった貞淑な女で、刺激の少ない単純な生活に充足している。ジューヴ神父が提案するランボー氏との穏当な再婚でさえも、この時の彼女にとっては負担が大きすぎる。ジュリエットがそうであるのとは別の仕方においてではあるが、彼女もまたやはり情熱を欠いているのだ。というより、しいて言うならばそれはなにか現世的でないものへの静かな情熱であり、その反面としての、現世への無関心なのである。こうした敬虔な性格が、のちに『夢』のアンジェリックなどに受け継がれていることは明らかだろう。
 このようにして本作はまた、その後のゾラの作品に姿を変えて登場する二種類の女性像を、明瞭な対比でもって浮かび上がらせていることに注目すべきである。双書の本流から離れたこの小品においてゾラは性格追究の側面を発揮しているわけであり、それは、他の作品においてゾラの描く人物を性格の面から検討する際に、参照に値するものとなっているのである。

魅力的な未亡人と母の義務
【7】 エレーヌの変貌という基本的な対比に付随するもう一つの、そして重要な対比は、アンリへの愛に目覚めたエレーヌの情熱と、娘ジャンヌに対する母としての愛情との相克である。すなわち、自由な恋愛のできる魅力的な未亡人としての情熱と、病弱な娘をもった母の義務との対立が、本作の主題に悲劇的な深みを与え、また複雑にもしているのである。
 エレーヌはアンリに対する愛情の目覚めによって、それまでの麻痺したような生活から解放されようとした。だがここには、アンリが妻子持ちであるということを別にしても、一つの障害がある。それが病弱な娘ジャンヌの存在だ。エレーヌは女としては自由であっても、母として自由であることはできない。とりわけ、病弱なジャンヌはほかの子ども以上に母の献身的な愛情を必要としているのである。
 しかし、アンリへの愛情と、ジャンヌに対する母としての愛情とは、はたして両立できないものなのであろうか? このように問うとき、ジャンヌがエレーヌに要求する献身の特殊な性格が明らかになってくる。アンリとの関係に夢中になっているとはいえ、エレーヌは決してジャンヌを放置するようになったわけではない。そもそも、アンリと会うための口実としてもジャンヌの病気は「好都合」なのである。だがそれにもかかわらず、エレーヌの恋愛はジャンヌの要求をないがしろにするものとなる。それは、ジャンヌのエレーヌに対する要求のなかに、単に現実的な必要以上のもの、心理的なものが含まれているからなのだ。そこに、本作が愛の物語として錯綜してくる所以があり、また本作のもうひとりの主人公とも言うべきジャンヌの重要性が浮かび上がってくるのである。

III ジャンヌについて

【8】 実際のところ、ジャンヌという少女はつねにそれほど重病人であるわけではない。病気にはかかりやすいし、一旦かかれば死に瀕することもあるとはいえ、比較的長期にわたって健康を保っていることもあるし、そのようなときには外出も、仮装舞踏会に出席することもできるのである。ジャンヌの世話のためにエレーヌはロザリーという女中も雇っているのであり、ジャンヌの病状は、必ずしも母のつきっきりの介護を必要とするものではない。しかし他方、ジャンヌの病状では普通の健康な生活を送ることは難しいのもたしかである。ジャンヌの発作はいつ起こるかわからないものであり、その意味ではつねに他者の配慮を必要としている。
 おそらくジャンヌにあっては、生命の喜びからの疎外が生命への強い憧れを生んでいたにちがいない。そして、病気のゆえに決して満たされることのないこの憧れは、健康な人々が自分を見捨てて行ってしまうという恐怖に転じ、母に対する、さらには彼女を取り巻く人々に対する排他的な愛情要求を生じさせていたのだろう。彼女が自由に愛せないなら、彼女以外の者が、彼女を置き去りにして愛しあうことが、どうして許せようか。
 この暴君的な愛情要求は、ランボー氏のエレーヌへの求婚に対するジャンヌの一連の反応によく現れている。母の友人であるランボー氏によくなついていたジャンヌは、彼が母との再婚の望みをほのめかすと激しい拒絶を示す。このことの原因は、彼女に対して愛情と関心を注いでいた母とランボー氏が、「自分たちの関係」と新しい喜びとを築くことによって彼女を置き去りにするのではないかという予感への怯え以外には考えられない。とりわけ、病の代償として母の愛情を一身に受けて育ってきたジャンヌは母の愛を独占していることに情緒的な安定をかけており、その独占を奪われることは彼女にとって生命からの完全な遮断を意味するように思われていたはずである。

【9】 実際には、エレーヌに対するジャンヌの要求は、ジャンヌの内面のこのような限りない切望の表現という意味をもっている。だからジャンヌは、現実の病状とは必ずしも関係なく、エレーヌの排他的な関心と愛情とを要求しつづけようとするのだ。母がおのれの喜びを見出し、もはや彼女をそれほど気にかけなくなってしまうことが彼女にとっては脅威なのである。彼女は自分と離れたところで母が喜びを得ること自体を妨げようとする。これがエレーヌに対していかなる妥協をも容認しない態度であることは明らかだろう。
 この目的のためなら、ジャンヌは十二歳の子どもに可能なあらゆる手段を用いようとする。病弱であるがゆえに精神的に成熟した一面をもっているジャンヌは、ここで、ほとんど成熟した女としての嫉妬のあらわれであるかのような振る舞いを見せる。エレーヌの愛情が、自分から離れてランボー氏ではなくアンリの上に注がれていることに、ジャンヌはすでにエレーヌの告白の直後に気づいている。

しかし少女は、しだいにぐあいが悪くなったようであった。ちらりと二人に眼を向けて、それからもうなにも喰べずにうつむいた。その額には怒りと不信の蔭が浮んでいた。
(第3部第2章、186ページ)

 アンリによって命を救われた直後、心から安心したように自分を見つめるアンリとエレーヌの姿に、ジャンヌは敏感にも自分への関心以外のものを見出しているのである。その後のランボー氏に対する態度の急変は印象的だ。

いまでは、おおげさな愛情で彼〔=ランボー。引用者注〕に甘えかかる、とくに医師がいるときにはそうだった。そして母のほうにきらめく視線を流し、自分がほかの人にこのような愛情をしめすのに母が悩んでいるかどうかをうかがう。
(第3部第3章、194ページ)

 しかしこのような他者への操作的な振る舞いにもかかわらず、その動機は正確に言えば嫉妬とは呼べない。少なくともジャンヌは、母を奪ったアンリに嫉妬しているわけでも、アンリに愛情を注ぐエレーヌに嫉妬しているわけでもない。彼女を動かすのはもっと原始的で単純なものだ。しいて言うならば、それは彼女の失望させられた生命力であり、裏切られた生命への愛なのである。

【10】 自分の世界、自分の生、自分の愛を築きあげてゆくことを妨げられたジャンヌは、母の献身的な愛情を独占することによってしか生命との結びつきを求めるしかなかった。母へのその依存はたしかに、自分を置いて生命の喜びを享受しようとする人々へのねたましさに転じたかもしれない。だがその底にあるのは、じゅうぶんに満たされることのない彼女自身の生命への愛であり、喜びへの渇望であった。物語後半で強調されてくるジャンヌの「見捨てられ」感が、生命の希求と死の恐怖のさなかで苦悶するジャンヌの姿を浮き彫りにしている。

ふいに、母は自分よりなおも愛している人たちのところへ、私をあんなにひどく突きとばして駈けつけたのだ、と考えついて思わず両の手で胸を抱いた。もうよくわかったわ。ママは私を裏切ったのだ。
(第4部第5章、305ページ)

眠っているジャーヌは咳いった、しかしもう眼は開かず、頭は組んだ腕にころがり、目をさますことなく笛のように咳いった。もうなにもなく、彼女は悲しみのうちに眠り、手を引っこめもせずに、その赤くなった指は、窓の下に大きく穿たれた空間に一滴一滴落ちる雫が流れるにまかせている。それはまた何時間もつづいた。灰色の雨はあいかわらず、執拗に降りそそいでいた。
(第4部第5章結語、309ページ)

子供は瞼をとじて、眠っているようにみえた。しかし、母親が安心して背を向けると、大きな眼を開いた。その黒い眼は母が居間にもどるまでじっと見送っていた。ジャーヌはまだ眠っていなかった。眠らされたくなかった。新たな咳の発作に咽喉をひきさかれそうだったので、布団にもぐって、咳をおし殺した。もう死んでもいいのだわ。ママは気がつきゃしないわ。彼女は闇の中に眼を見開いていた、あたかもよく考えぬいたかのようにすべてを知り、そしてそのために、嘆きもなく死にそうになっていた。
(第5部第1章、326ページ)

【11】 そして自分を突き飛ばしてアンリのもとへ行ってしまったエレーヌの帰りを待ちこがれているとき、ジャンヌはふいに、愛の永遠でないことを悟るのだ。

いつもかわいがるものがつぎつぎと変っていった。それらは破損したり、無くなってしまったりした。結局、悪いのはそれらだった。いったいどうしてなんだろう? 私は変らないのに、私は。私がいったん好きになったら、一生のあいだつづくのに。ジャーヌには打ち棄てるということが理解できなかった。胸底にしだいに目覚めてきた、混乱したさまざまな思いに身を慄わした。では、みんないつかは離ればなれになり、思い思いのほうへ行ってしまって、もう会わなくなり、そしてまた愛しあうのだわ。そして巨大な憂愁にとざされたパリの街に眼を止めて、彼女の十二歳の情熱が見抜いた生存の残酷さを思い知って寒む寒むとしていた。
(第4部第5章、299ページ)

 「また愛しあう」ことの許されない彼女にとっては、離ればなれになることはそのまま致命的な終焉を意味している。それは寒々とした残酷さ以外のものではないだろう。人々はみな、母でさえも自分の愛の一ページを綴ってそれからまた「思い思いのほうへ行」くのに、彼女の愛はいつも一ページきりだ。だから彼女の欲する愛は「いったん好きになったら、一生のあいだつづく」ものでなければならないのだ。将来を約束した健康な恋人同士であるロザリーとゼフィランを死の直前の枕元に招いて、ジャンヌは泣き出す。それは、当然あってしかるべきだった彼女の愛の一ページへの、悲痛な愛惜の嘆きにほかならなかったのである。

IV 結論

【12】 こうして、本作では、眠っていた情熱の目ざめとともに愛に生きようとするエレーヌの変貌と、死に怯えながら生を渇望するジャンヌの苦しみとが交差しつつ、一編の愛の物語を作り上げていることを見てきた。ゾラの基本的な志向が情熱と生命との肯定にあることは確かだとしても、本作において、それは単純な形では現れていない。母の愛と娘の愛が相克し、せめぎあいながら互いに解放をもとめているのであり、その解決は決して自明のことがらではないからだ。その複雑さがまた、本作に悲劇的な深みを与えてもいる。ジャンヌが母を離れ自分の愛の一ページを綴るべきときに、病床にひとり残されなければならないところにそもそもの原因があったとすれば、彼女の病気がアデライードからの隔世遺伝として、医学によっても不可変の条件とされているところにこの悲劇の本質があったことになるだろう。そのように考えれば、本作は、アデライードに始まる一家族の「自然的歴史」でもあるルーゴン・マッカール双書のひとつの必然的な帰結として、第1巻『ルーゴン家の繁栄』において蒔かれた種の悲劇的な果実であると言ってもいいのではないだろうか。

補足1:パリについて

【13】 本稿ではあえて重点的に扱わなかったが、本作の大きな特徴として、その随所に現れる遠景のパリの描写の美しさがある。登場人物の感情に合わせるかのように、夕陽に輝くパリ、幻想的な夜のパリ、驟雨の下でうなだれるパリ、荒ぶる嵐のパリが次々と現れ、エレーヌやジャンヌの夢想の間に挿入される。高台から見下ろすパリを大海や麦畑になぞらえるその詳細な描写の数々は本作に叙情的な風情を与えることに寄与している。

 積み重った建物の際限のない谷。目立たぬ線の斜面の上に、屋根の堆積が浮き出ていて、遠く大地の襞のむこう、もう視線もとどかぬ野面のうちに、家々の波濤が寄せているのが感じられる。それは際限もなく、つぎつぎに新しい波のよせる大海である。パリは空のように大きくひろがっている。この輝かしい朝の下に、太陽に黄色く染められた街は、よく熟れた麦畑のようである。そしてその広大な画面には、ただ二つの調子、大気の薄い青さと屋根の黄金色の反射だけの、単純さがある。
(第1部第5章、70ページ)

補足2:結語について

【14】 本作の結末は次のようである。

ランボー氏は時計を見た。駅へ行く途中で、まだ釣竿を買うことができよう。日傘も買うことにしよう。そこで彼は墓地を横切って、足を踏みかためながら彼女をつれていった。草地には人気はなく、もう雪の上には二人の足跡しかなかった。死んだジャーヌはただ一人、永遠にパリの真向いにいる。
(結語、第5部第5章、384ページ)

 ジャンヌの死から二年後、すでにランボー夫人となりマルセイユに住んでいるエレーヌは、雪の積もる12月にジャンヌの墓を訪れる。原文の結語は「永遠に(à jamais)」であり、死んでしまったジャンヌを指示しているが、その直前に時計、釣竿、日傘など、およそ永遠なるものとは無縁な日常品の名前が連発され、エレーヌの取り戻した穏やかな現実生活を対置しているものと見てよいだろう。

ノート
字数:11000
初稿:2002/09/16
初掲:2002/09/18
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DATA:ゾラ
DATA:『愛の一ページ』
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