パリを見下ろす静かな街での母娘の愛の一挿話を描いた双書第8巻。
"Une Page d'amour", 1878
『禁断の愛』(山口年臣訳、角川文庫、1959年)
目次
I 序論 【1】 ルーゴン・マッカール双書第8巻にあたり「休息と気晴らし」の一冊とされる本作では、単純ながら力強い描写で読者を興奮の渦に巻き込んでゆく普段のゾラとは異なり、外面的にはほとんど大きな事件の起こらない静かな郊外の街で、少数の登場人物の感情の絡み合いが主題に据えられている。この点で本作は双書中異色のものと言って差し支えないが、そのいっぽうでジャンヌの臨終の場面のように、死を描くときの迫力においてゾラ本来の特質を発揮している面もあることを見逃すべきではないだろう。 あらすじ II エレーヌについて 【3】 さて、本作の中心的なテーマが、穏やかで満たされた生活を送っていた貞淑な寡婦エレーヌのうちに恋の情熱が目覚めていく過程であることは間違いない。夫グランジャンの死後、決して信仰深いとはいえないが静かで満ちたりた毎日を、エレーヌは娘とともに送っている。彼女と娘が住むのはパリを遠景に見下ろす郊外の高台にある小さな街で、エレーヌは毎日のようにパリを見ながら、その市中にはまだ数回しか行ったことがない。(エレーヌは帽子職人ムーレとユルシュール・マッカールとの長女で、マルセイユでグランジャンと結婚し、パリに居を移そうとして到着したその日に夫が急死した。)夫の友人であったジューヴ神父とランボー氏がお膳立てしてくれた住居で、毎火曜日の彼らとの晩餐だけをアクセントとしながら、彼女の関心はただ神経症ぎみの娘ジャンヌの世話をすることだけで占められていた。エレーヌはジューヴ神父が勧めるランボー氏との再婚話にも乗り気ではない。 ああ! なんという欺瞞だろう、さまざまの敬虔な実を結ばぬ楽しみの中に閉じこめるこの厳しさ、この細心さは! いいえ、いいえ、もうたくさん、私は生きたい! (……)彼女の反抗心はこの止み難い欲望に達した。ああ! 強い抱擁の中に沈んで、これまでになかった一瞬に生きるのだ! 基本的な対比――貞淑なエレーヌと情熱的なエレーヌ だがエレーヌは空中にいる。木々は突風にあったかのように曲り、鳴っている。嵐の音とともに鳴るスカートの渦しかもう見えなかった。腕をひろげ、胸をつきだして下へおりると、頭をすこしあげ、一瞬滑走する。ついで、飛躍が彼女を運び去る。そして頭を後ろにそらし、眼をとじて、絶えいるようにまた下りてくる。この眩暈をあたえる昇降が、彼女の喜びだった。高く上がっては太陽へ、黄金の塵のように降る二月の金色の太陽へ入る。琥珀色に反射する栗色の髪は火がついたように輝く。まるで全身が燃えるようであり、いっぽう赤紫色の絹のリボンは火花のように、白っぽい服の上に輝いている。彼女のまわりに春が訪れ、紫の芽は青空に繊細な漆器の調子をつけている。 エレーヌの中にひそかに息づくこの生命への欲望が、やがてアンリの告白を受けて目ざめ始める。再婚さえ考えたことのなかった彼女は、妻子のある隣人の医師への、ふいに燃え上がった情熱に当初は当惑し、怖れおののく。だがその恐怖は、そもそものはじめから、愛することへのロマンティックな感傷と区別のつかないほどのものである。 「なにもありません、ほんとうです……なに一つ隠してはいません……理由もなく泣いたのです、息がつまり、涙がしぜんに溢れてきたからなのです……私の生活はごぞんじのとおりです。私には悲しみも、不足も、後悔もありません……私はぞんじません、ぞんじません……」 「もう、私は力がつきかけているのです……でも、お願いです、私の心の奥に起っていることをおっしゃってください。私はとても穏やかで、幸福でした。雷に打たれたのです。どうして私へでしょう、どうして他の人ではないのでしょう? 私はそのためになにもしませんでしたし、私は充分まもられているものと思っていましたのに……ああ、私はもう自分がわからないのです……助けてください、助けてください!」 【5】 妻子のある男性との恋愛という観念に対するエレーヌの抵抗は、しかしそれほど強くはない。彼女は、娘の急病をあやうく救ってもらったことへの感謝と感動という、ほんらい愛とは異なる感情の高ぶりのなかで、アンリに愛を告白した。ここでは、エレーヌに愛されるべきアンリの魅力といったものはほとんど問題となっていない。ただひたすら、感情の燃え上がりを熱望し、些細なきっかけをも掴んでその突発的な湧出を実現しようと待ちかまえていたエレーヌの内心のドラマが、二人の関係を進展させたのである。 が、激しい情熱が身内に湧きおこった。彼女を無気力にしていたあの半睡状態が激しい生命の波に融けて、その奔流が彼女を燃えたたせた。これまで覚えたことのない肉感に身をふるわせた。(……)ああ、あのひとを愛しているのだ、あの人が欲しい、この次もあのように自分を忘れて夢中になれたら。 こうしてエレーヌの中で大きな変貌が起こる。彼女は貞淑と平穏に包まれた寡婦から、愛と情熱に身を捧げる女へと変わる。しかし実は、それをもって本作の主題が汲み尽くされるわけではないのである。生命と愛との最終的な勝利を謳うのが本作の結論ではないのだ。そのことを見るためには、エレーヌの変化という中心軸に付随する、他の二つの対比の存在を検討しなければならない。 情熱の欠如の二つの類型 その日まで、彼女はまわりの女友達のしているようなことはほとんどのこらずなした、が彼女には情熱が欠けていた、好奇心と、ほかのものたちと同じようであろうとする欲求とに押されていたのだった。 つまりジュリエットは、いっけん社交的・活動的に見えながら、そのじつ根底において真剣な情熱は欠いている、そういう女として描かれているのである。このような人物類型が、サビーヌ伯爵夫人(『ナナ』)、ジョスラン母娘(『ごった煮』)、サンドルフ男爵夫人(『金銭』)などのように、その後のゾラの作品において繰り返し姿を現していることに私たちはすぐ気がつかされるだろう。 魅力的な未亡人と母の義務 III ジャンヌについて 【8】 実際のところ、ジャンヌという少女はつねにそれほど重病人であるわけではない。病気にはかかりやすいし、一旦かかれば死に瀕することもあるとはいえ、比較的長期にわたって健康を保っていることもあるし、そのようなときには外出も、仮装舞踏会に出席することもできるのである。ジャンヌの世話のためにエレーヌはロザリーという女中も雇っているのであり、ジャンヌの病状は、必ずしも母のつきっきりの介護を必要とするものではない。しかし他方、ジャンヌの病状では普通の健康な生活を送ることは難しいのもたしかである。ジャンヌの発作はいつ起こるかわからないものであり、その意味ではつねに他者の配慮を必要としている。 【9】 実際には、エレーヌに対するジャンヌの要求は、ジャンヌの内面のこのような限りない切望の表現という意味をもっている。だからジャンヌは、現実の病状とは必ずしも関係なく、エレーヌの排他的な関心と愛情とを要求しつづけようとするのだ。母がおのれの喜びを見出し、もはや彼女をそれほど気にかけなくなってしまうことが彼女にとっては脅威なのである。彼女は自分と離れたところで母が喜びを得ること自体を妨げようとする。これがエレーヌに対していかなる妥協をも容認しない態度であることは明らかだろう。 しかし少女は、しだいにぐあいが悪くなったようであった。ちらりと二人に眼を向けて、それからもうなにも喰べずにうつむいた。その額には怒りと不信の蔭が浮んでいた。 アンリによって命を救われた直後、心から安心したように自分を見つめるアンリとエレーヌの姿に、ジャンヌは敏感にも自分への関心以外のものを見出しているのである。その後のランボー氏に対する態度の急変は印象的だ。 いまでは、おおげさな愛情で彼〔=ランボー。引用者注〕に甘えかかる、とくに医師がいるときにはそうだった。そして母のほうにきらめく視線を流し、自分がほかの人にこのような愛情をしめすのに母が悩んでいるかどうかをうかがう。 しかしこのような他者への操作的な振る舞いにもかかわらず、その動機は正確に言えば嫉妬とは呼べない。少なくともジャンヌは、母を奪ったアンリに嫉妬しているわけでも、アンリに愛情を注ぐエレーヌに嫉妬しているわけでもない。彼女を動かすのはもっと原始的で単純なものだ。しいて言うならば、それは彼女の失望させられた生命力であり、裏切られた生命への愛なのである。 【10】 自分の世界、自分の生、自分の愛を築きあげてゆくことを妨げられたジャンヌは、母の献身的な愛情を独占することによってしか生命との結びつきを求めるしかなかった。母へのその依存はたしかに、自分を置いて生命の喜びを享受しようとする人々へのねたましさに転じたかもしれない。だがその底にあるのは、じゅうぶんに満たされることのない彼女自身の生命への愛であり、喜びへの渇望であった。物語後半で強調されてくるジャンヌの「見捨てられ」感が、生命の希求と死の恐怖のさなかで苦悶するジャンヌの姿を浮き彫りにしている。 ふいに、母は自分よりなおも愛している人たちのところへ、私をあんなにひどく突きとばして駈けつけたのだ、と考えついて思わず両の手で胸を抱いた。もうよくわかったわ。ママは私を裏切ったのだ。 眠っているジャーヌは咳いった、しかしもう眼は開かず、頭は組んだ腕にころがり、目をさますことなく笛のように咳いった。もうなにもなく、彼女は悲しみのうちに眠り、手を引っこめもせずに、その赤くなった指は、窓の下に大きく穿たれた空間に一滴一滴落ちる雫が流れるにまかせている。それはまた何時間もつづいた。灰色の雨はあいかわらず、執拗に降りそそいでいた。 子供は瞼をとじて、眠っているようにみえた。しかし、母親が安心して背を向けると、大きな眼を開いた。その黒い眼は母が居間にもどるまでじっと見送っていた。ジャーヌはまだ眠っていなかった。眠らされたくなかった。新たな咳の発作に咽喉をひきさかれそうだったので、布団にもぐって、咳をおし殺した。もう死んでもいいのだわ。ママは気がつきゃしないわ。彼女は闇の中に眼を見開いていた、あたかもよく考えぬいたかのようにすべてを知り、そしてそのために、嘆きもなく死にそうになっていた。 【11】 そして自分を突き飛ばしてアンリのもとへ行ってしまったエレーヌの帰りを待ちこがれているとき、ジャンヌはふいに、愛の永遠でないことを悟るのだ。 いつもかわいがるものがつぎつぎと変っていった。それらは破損したり、無くなってしまったりした。結局、悪いのはそれらだった。いったいどうしてなんだろう? 私は変らないのに、私は。私がいったん好きになったら、一生のあいだつづくのに。ジャーヌには打ち棄てるということが理解できなかった。胸底にしだいに目覚めてきた、混乱したさまざまな思いに身を慄わした。では、みんないつかは離ればなれになり、思い思いのほうへ行ってしまって、もう会わなくなり、そしてまた愛しあうのだわ。そして巨大な憂愁にとざされたパリの街に眼を止めて、彼女の十二歳の情熱が見抜いた生存の残酷さを思い知って寒む寒むとしていた。 「また愛しあう」ことの許されない彼女にとっては、離ればなれになることはそのまま致命的な終焉を意味している。それは寒々とした残酷さ以外のものではないだろう。人々はみな、母でさえも自分の愛の一ページを綴ってそれからまた「思い思いのほうへ行」くのに、彼女の愛はいつも一ページきりだ。だから彼女の欲する愛は「いったん好きになったら、一生のあいだつづく」ものでなければならないのだ。将来を約束した健康な恋人同士であるロザリーとゼフィランを死の直前の枕元に招いて、ジャンヌは泣き出す。それは、当然あってしかるべきだった彼女の愛の一ページへの、悲痛な愛惜の嘆きにほかならなかったのである。 IV 結論 【12】 こうして、本作では、眠っていた情熱の目ざめとともに愛に生きようとするエレーヌの変貌と、死に怯えながら生を渇望するジャンヌの苦しみとが交差しつつ、一編の愛の物語を作り上げていることを見てきた。ゾラの基本的な志向が情熱と生命との肯定にあることは確かだとしても、本作において、それは単純な形では現れていない。母の愛と娘の愛が相克し、せめぎあいながら互いに解放をもとめているのであり、その解決は決して自明のことがらではないからだ。その複雑さがまた、本作に悲劇的な深みを与えてもいる。ジャンヌが母を離れ自分の愛の一ページを綴るべきときに、病床にひとり残されなければならないところにそもそもの原因があったとすれば、彼女の病気がアデライードからの隔世遺伝として、医学によっても不可変の条件とされているところにこの悲劇の本質があったことになるだろう。そのように考えれば、本作は、アデライードに始まる一家族の「自然的歴史」でもあるルーゴン・マッカール双書のひとつの必然的な帰結として、第1巻『ルーゴン家の繁栄』において蒔かれた種の悲劇的な果実であると言ってもいいのではないだろうか。 補足1:パリについて 【13】 本稿ではあえて重点的に扱わなかったが、本作の大きな特徴として、その随所に現れる遠景のパリの描写の美しさがある。登場人物の感情に合わせるかのように、夕陽に輝くパリ、幻想的な夜のパリ、驟雨の下でうなだれるパリ、荒ぶる嵐のパリが次々と現れ、エレーヌやジャンヌの夢想の間に挿入される。高台から見下ろすパリを大海や麦畑になぞらえるその詳細な描写の数々は本作に叙情的な風情を与えることに寄与している。 積み重った建物の際限のない谷。目立たぬ線の斜面の上に、屋根の堆積が浮き出ていて、遠く大地の襞のむこう、もう視線もとどかぬ野面のうちに、家々の波濤が寄せているのが感じられる。それは際限もなく、つぎつぎに新しい波のよせる大海である。パリは空のように大きくひろがっている。この輝かしい朝の下に、太陽に黄色く染められた街は、よく熟れた麦畑のようである。そしてその広大な画面には、ただ二つの調子、大気の薄い青さと屋根の黄金色の反射だけの、単純さがある。 補足2:結語について 【14】 本作の結末は次のようである。 ランボー氏は時計を見た。駅へ行く途中で、まだ釣竿を買うことができよう。日傘も買うことにしよう。そこで彼は墓地を横切って、足を踏みかためながら彼女をつれていった。草地には人気はなく、もう雪の上には二人の足跡しかなかった。死んだジャーヌはただ一人、永遠にパリの真向いにいる。 ジャンヌの死から二年後、すでにランボー夫人となりマルセイユに住んでいるエレーヌは、雪の積もる12月にジャンヌの墓を訪れる。原文の結語は「永遠に(à jamais)」であり、死んでしまったジャンヌを指示しているが、その直前に時計、釣竿、日傘など、およそ永遠なるものとは無縁な日常品の名前が連発され、エレーヌの取り戻した穏やかな現実生活を対置しているものと見てよいだろう。 |
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