SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

アルトナの幽閉者

希望なき状況に「幽閉」された人々の閉塞感を描くサルトル後期の劇作。
Jean-Paul Sartre "Les Séquestrés d'Altona", 1959
サルトル『サルトル全集第二十四巻 アルトナの幽閉者』(永戸多喜雄訳人文書院1961年)


あらすじ
【1】 1959年のドイツ、造船業を営むフォン・ゲルラッハ家において、喉頭癌であと六か月の命と宣告された当主(「父親」)は、後継者を決めるために家族会議を開く。参加したのは次男ウェルナーとその妻ヨハンナ、そして末の妹のレーニ。父親はウェルナーに会社を継がせ邸に住まわせようとするが、父親の強引な意向と課せられる束縛にヨハンナが反発する。紛糾する一同の心に暗黙のうちに重くのしかかっているのは、死んだことになっているが実は邸の二階に13年にわたって幽閉されている長男フランツの存在であった。
 第二次大戦中、父親の対ナチス協力に反発しながらもその支配と影響から抜け出すことのできないでいた心の繊細なフランツは、ロシア戦線への従軍と復員の翌年に起こした傷害事件をきっかけに邸の二階に閉じこもり、レーニの世話のもと狂気の生活を送っていた。フランツを愛する父親は、最後の対面と、弟妹によるフランツの今後の世話を望んでいたのである。ゲルラッハ家からの自由を求めるヨハンナは、もとの生活に戻るようフランツを説得することを父親に約束する。
 フランツは、戦争の罪のため虐殺されるドイツ人を、被告側証人として「蟹たち」と称する30世紀の裁判官に向かって弁護するという妄想を抱えており、妹レーニと近親姦の関係にあった。二階の部屋に立ち入ってフランツと対話したヨハンナは、フランツの妄想のなかに、かつて女優として美に憑かれ、客たちの賛嘆の中で自分を正当化していた自分自身との共通点を見出す。ヨハンナとの対話によりやがて戦線でのフランツの経験が明らかにされ、「無力に対して運命づけられた」フランツの矛盾と苦悩が浮き彫りにされる。
 13年ぶりに対面を果たした父親とフランツは連れだって自殺へと赴き、残されたレーニはフランツの部屋に閉じこもる。フランツが残した録音機から、無力な20世紀を弁護しようとする熱にうかされたフランツの演説が流れる。

幽閉者たち
【2】 1959年に初演された本作はサルトルの後期の劇作に属し、前作『ネクラソフ』からしばらくの沈黙期間を経たのちに発表されたサルトルの久しぶりの大作として注目を浴びた。「幽閉者」という含みのある語のなかに、縛られ、繋ぎとめられている人々の無力感と閉塞感とを仮託し、自由へと向かう反抗の困難さとその可能性とを探るこの劇は、終始、中心人物となるフランツの狂気の内容をめぐって展開し、そこに、もうひとりの重要人物ヨハンナの立場が重なりあうことによって、フランツの置かれた「幽閉」状況の意義が明らかになってゆくという構造になっている。
 本来、幽閉とは「閉じ込めること」であり、幽閉者とは「閉じ込められた者」のことである。その意味では、表面的な事実だけについて言えばフランツは幽閉者ではない。フランツはその狂気と妄想のため、みずから邸に「閉じ込もった」のだからだ。しかし、やがてヨハンナとの対話を通じて、その妄想をもたらした原因は特殊な状況によるフランツの「閉じ込め」にほかならなかったこと、そしてまた、同様の状況はじつは他の家族たちにも共有されており、その意味で本作の登場人物たちはみな幽閉者であることが理解されていくのである。本作における「幽閉者」の原語Séquestrésが複数形になっているのは、そのことを意味している。

二つの事件
【3】 本作においてもっとも直接的な意味で「幽閉者」であるフランツの狂気の発端となったのは、自分の無力感に対する絶望であった。その無力感を支えているのは、ユダヤ教牧師の脱走事件と前線での捕虜解放事件という、フランツの大戦中の二つの経験である。
 第二次大戦中の1941年、ナチスの捕虜収容所用の地所をヒムラーに提供する見返りに事業を拡大しようとする造船会社経営の父親に対し、後継者である長男フランツは強く反発するが、事業のためにはナチスをも利用することをはばからない父親はまったく取り合わない。良心と父親への反発から、折しも収容所を脱走してきたポーランド人のユダヤ教牧師をフランツは邸にかくまうが、ナチ党員であった雇人にそれを密告されたため、法規違背に問われることとなる。父親がゲッペルスに口を利いたため、フランツは従軍を条件として釈放されるものの、ユダヤ教牧師はナチスに引き渡されてしまう。
 中尉として前線に赴いたフランツは、敵兵の疑いのある二人の農民を捕らえる。部下のうち、処刑を主張するナチ党員のハインリッヒ曹長に対して、牧師の息子で理想主義者であったクラーゲス中尉は捕虜の解放をもとめるが、フランツはクラーゲスの意見を容れて二人を解放する。やがてドイツは敗れ、逃げ延びる途中に立ち寄った廃墟の町で、弟を戦死させたドイツの女から、フランツは味方を救うためにできるすべてのことをしなかったと難詰される。フランツが解放した二人のパルチザンは戦後アルトナを訪れ、フランツの不忠行為についての口止め料を要求する。これを支払ったのは父親だった。
 家に戻ったフランツは、復員の翌年(1947年)、妹レーニを手込めにしようとしたアメリカ兵を傷害するという事件を起こす。ふたたび父親が奔走し、フランツのアルゼンチン行きと引き替えに事件をもみ消すが、フランツはもはや父親と対面しようとはせず、妄想を抱いて邸の二階に閉じこもってしまう。父親はフランツの死亡証明書を偽造し、フランツは死んだことにされたまま、こうして13年もの歳月が過ぎていったのである。

反抗の不成立
【4】 フランツを絶望に追いやったこの二つの事件には強い共通点のあることが見て取れるだろう。それは、良心に基づいてなした権威に対する反抗が、ことごとく無効化され、それどころか反抗しようとした当のものの中に調和的に回収されていくという事態への、深い失望である。
 フランツの良心は責任を自覚する。それは脱走したユダヤ教牧師に対する責任、敵ではないかもしれない捕虜に対する責任だ。だがその責任を果たすためには、どう行為するべきなのだろうか? 良心に従って行為するならば、ユダヤ教牧師をかくまい、捕虜を解放するのがフランツの方針になるはずである――単純に言えば。だが実際には、それらの行為はいたずらにフランツの窮地を招き寄せたばかりでなく、拒もうとしていた当の権威(ナチスやアメリカに協力した父親)によって、その窮地を救われるという結果をしかもたらしはしなかった。ここでは反抗は、めざす成功を収め得なかっただけでなく、そもそも反抗すべき状況の力を減殺することさえできずに、状況の中で空転し、踊らされている。権威に対する反抗が実らなかっただけでなく、反抗を結実させ得なかったという無力さに対する答責性すらも、当の相手によって免除されているのである。反抗は失敗したのではない。反抗の試みがそもそも成立していないのだ。
【5】 ここにフランツの絶望の深さの真因がある。現実に有意に関与する機会を喪失した人間の無力感と絶望は、関与したが失敗した人間のそれとは、根本的に異なる、致命的なものである。服従と反抗のいずれを選んでも良心の命ずる責任を果たすことができず、それでもなお良心を抱き続けようとすれば、狂気へ逃げ込む以外に道はないだろう。反抗すら可能でないという閉塞した状況のなかで、妄想を抱いて部屋に閉じこもることは、フランツにとって良心の破綻を隠蔽するための最後の方法だったのである。

「狂気はぼくの隠れ家だったが、明るみに出たぼくはどうなるのだろうか?」
(フランツ、第4幕第2景、110ページ)

フランツの妄想
【6】 従ってフランツの抱く妄想は、解決の方法を与えられぬまま責任の自覚を背負わされたことの苦悩と呵責とをなんとかして隠蔽しようという、この基本的な要請に対応している。戦争の責任のためドイツ人が虐殺されているという妄想のもとに、フランツは未来(30世紀)へ向けて現在(20世紀)を弁護する。戦後ドイツがむしろ急速な復興をとげ、利にさとい父親は今度はアメリカの保護のもとで順調に事業を拡大しているという事実は、フランツには直視することはできない。なぜなら、戦争について有罪であるゆえに虐殺されるドイツ人を有罪のままに弁護すること(できること)が、フランツにとっては、無力な自分を無力なままに弁護することに連動しているからである。フランツの言う「ドイツ国民に、押しつけられた目もあてられない苦しみ」(第2幕第5景、74ページ)とは、責任を自覚しながら、その責任を果たす方法を与えられなかった無力な自分の、無力な20世紀の、苦しみのことなのだ。
 しかし、フランツがそれに対して20世紀を擁護しようとする30世紀の裁判官とは、いったい何ものなのであろうか。ここに、「蟹たち」と称する奇妙な存在が現れる。フランツの部屋の天井に住んでいるらしいその裁判官たちは、かさかさと奇妙な物音をたてる、およそ理解不能な存在である。フランツがどれほど熱弁をふるってみても、この奇妙な存在との間に、そもそもまともなコミュニケーションが成り立つことは決してないだろう。だから未来へ向けて現在を弁護することは、フランツにとって永久に空しい試みである。しかし永久にみのることのないその空虚な弁論をむなしく続けることが、フランツの内閉的生活を維持してゆく理由をかろうじて作り出しているのである。

ヨハンナ
【7】 良心、責任の自覚、偉大さへの憧れに執着し続けたがゆえに、それらの理想に達する手段を奪われ徹底的な無力さの中に「幽閉」されたとき、破綻を隠蔽するためには狂気に閉じこもるしかなかった、というのがフランツの立場であった。だとすれば、この「幽閉=閉じこもり」状況は、かつて女優であったヨハンナにも、実は共有されている。フランツに対して深い理解を示すという事実、そして作中で切れ切れに言及されるヨハンナの過去とをつなぎ合わせるとき、美に憑かれ、観客の賛辞のなかで自己を正当化してきた以前のヨハンナの姿が浮かび上がってくるだろう。おそらくヨハンナもまた「もうひとりのフランツ」だったのである。
 だが、ヨハンナは廃業とウェルナーとの結婚によって自由への模索を始めたらしいことが、作中わずかに示唆されている。その点でヨハンナはフランツと最も深い部分で共振するが、同時に、決定的に異なる道を進んでもいるのだ。基本的にフランツの狂気の共犯者となっている父親、レーニ、ウェルナーらとの関係よりも、「幽閉者の閉塞感」を共有しながらも微妙に立場の異なるヨハンナとの関係において、フランツの内面の実相がよりあらわになってくるのは、そのためである。
 無力さを有罪と認めつつ弁護しようとするフランツとは対照的に、ヨハンナはまったく異なる判断をくだす。

「わたしは無罪を宣告するわ」
(ヨハンナ、第4幕第7景、124ページ)

 責任があり、それを果たせなかったがゆえに有罪と考えるフランツとも、また責任そのものを認めない父親とも異なる、第三の立場がここに示されている。責任があっても、それを果たす手段が与えられていなければ無罪という、それは宣言なのである。

結論
【8】 フランツの矛盾を心中理解しながらも、責任を限定し良心を切り捨てることに自身では矛盾を感じていない父親、責任とは権威への服従以上のものを意味してはいないようなウェルナー、そして責任にも良心にも無関心であるかのようなレーニ、これらの家族をも含めて登場人物のいずれもが、結局のところ、出口(=明確な行動指針)の見えない状況に置かれた「幽閉者たち」だというのが、最初に触れたように、本作の含意であろう。本作の結末において、登場人物たちはそれぞれの方法によってこの閉塞を打破しようとするが、そのいずれの道も、決定的な解決を示してはいない。閉塞のなかに閉じこめられた人間を擁護しようとするフランツの最後の弁論はたしかに情熱的だ。しかし、それがまさに狂気の中でしかなされえず、再び「明るみに出た」フランツが死を選ぶしかなかったという事実の中に、閉塞と無力の状況におかれた人々の絶望は、依然として解決されずに残っているのである。

ノート
字数:5000
初稿:2002/06/12
初掲:2002/06/13
リンク
DATA:サルトル
DATA:『アルトナの幽閉者』
人文書院
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。