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キリストの殺害

大衆心理学・精神医学の観点からイエスの実像に迫る。
Wilhelm Reich "The Murder of Christ", 1953
W・ライヒ『ライヒ著作集4 キリストの殺害』(片桐ユズル・中山容訳太平出版社1979年)


【1】 本書は、20世紀前半に活躍した精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒの、最晩年の著作である。ライヒは本書において、かれの精神分析理論の立場から聖書の解釈を試み、キリスト教の歴史、また人間の歴史が、キリストの殺害の歴史にほかならなかったことを、詩的な表現によって訴える。「キリスト=神」とはライヒにとって、すべての人間が生まれたときから自分の中に持っている自然で素朴な愛情のことである。この神=キリストを殺害し抑圧することによってキリスト「教」が成立し、その後それは抑圧した生命エネルギーを直視しないで済ますために、キリストの殺害を絶えず繰り返してゆく――というのが、本書におけるライヒの考えの要約である。
 しかし本書のうちで私が最も興味をもって読んだのは、イエスを売り渡したユダの心理に関する、ライヒ流の解釈である。ライヒによると、イエスの教えと、イエスに対するユダの感情とは次のようなものであった。

【2】 イエスは類まれなエネルギーにあふれた人間だった。かれはただ生気に満ち、自分の肉体と結びついた健康なひとりの人間として、周囲の人々にかれの愛情を惜しみなく与えた。イエスの教え、というか伝えようとしたことは、自分自身を愛し、生き生きとし、自信を持ち、そしてひとを愛せ、ということにすぎなかった。それは奇跡・神秘・神がかりの予言者といった要素とはまったく関係がなかった。神とは強いて言えば一人ひとりの人間の中に宿っている宇宙的エネルギーのことであった。
 だがイエスの弟子たち、なかんずくユダは、このような伸びやかな愛を自分自身では持っていなかった。かれらは、多かれ少なかれ自分の中の自然な愛情を押し殺し、そのため自分の性格のかたくなさ、頑固さに苦しんでいた。それゆえにこそかれらは、イエスの天真爛漫な、太陽のように素朴な愛情に強く憧れ、その恩恵を渇望し、イエスの周囲に群がった。
 イエスは、かれらに愛情を注ぐことによって、いつかかれらも自信を身につけ、豊かな与え手になってゆくであろうことを期待した。イエスの教えは簡単なことだった。それは、自分の命、自分の生き方に自分で責任をもちなさい、ということだ。だが、弟子たちはそれを理解しなかった。かれらはいつまでも、イエスの光を浴び、イエスのエネルギーを吸い取りつづけるばかりだった。かれら自身は依然として、自ら光を放とうとはしなかった。

【3】 自分自身の生命に対するかれらの無責任さが、やがてイエスに対する崇拝を生む。かれらは、イエスの素朴な愛情、イエスの豊かな信頼に耐えられなかった。それはかれらにはあまりに熱すぎ、眩しすぎた。かれらは自分自身で自然な愛情を持つ代わりに、無限にエネルギーを供給し続けてくれる超越的な存在としてイエスを讃えあげることを選んだ。
 このかたくなさとあきらめこそが、イエスの受難の元凶である。「イエスは全能の神の子でなくてはならない。かれは奇跡を起こし、人々の不幸と悲惨とを一挙に解決してみせることができるはずだ。われわれはその証拠がほしい。もしかれが専制者によって迫害され、傷つけられ、死に瀕せしめられれば、そのとき必ず、かれの圧倒的な力が、神秘的な奇跡となって現れるにちがいない……。」
 だから、ユダはイエスを売ったのである。かれの欲求とは、イエスを、かれが盲目的に従うことのできる専制的指示者に仕立て上げることだった。自分の愛情を心から締め出してしまった臆病な小心者のユダは、イエスに「すべてを指図してくれる偉大な指導者」であってもらわねばならなかった。イエスがただ健康なだけの一人の人間にすぎないこと、そしてユダ自身も同じようになることを求められているということを、閉ざされてしまったユダの心は認めることができなかった。ユダはこうして、健康で自律的な人間であるというかれ自身の責任を放棄し、裏切り者となったのである。
「わたしは、あなたの愛にたえられない。」だから、「わたしはかれに、ついにかれじしんがほんとの神の子であることを明かすようにしむけなければならない。」(第八章、158-159ページ)。これこそが、ユダがイエスを裏切った動機だ。
 事情は、ほかの弟子たちの場合にもそれほど違わなかった。イエスが十字架の上で苦しんでいるとき、かれらはイエスを助けようとはしなかった。弟子たちはイエスの痛みを黙殺し、そうしてイエスがついに死んでしまった後で、イエスは「奇跡」を起こしたのだと叫んで、イエスを崇拝した。かれらはイエスの教えを曲解し、生命に対する自分自身の責任を免れるために利用した。そして、自分の中の神を救い出し素朴な愛情によって人々を照らしだすことの代わりに、かれらのやったことはといえば、人々を脅し命令する教会をつくることだけだった。

【4】 イエスについてのライヒのこのような理解は、20世紀の文明社会によってもたらされた神経症患者の飛躍的増大に取り組みその原因と治療法とを探求しつづけたライヒの、長年の経験を背景として構成されたものであるだろう。同時にそれは、かれがそれまで行ってきたファシズムの精神病理についての考察に、詩的な表現を与えたものだとも言える。こうした解釈に神学がどのような評価を下すのか、私にはわからない。しかしこれを社会理論として評価するならば、そして現代の先進国での新興宗教の隆盛を顧みるとき、ライヒのこの解釈は、現在もなお重要な示唆を与えるものと見なしてよいと思う。ライヒのどの著作にも、多かれ少なかれ必ず現れている重要な考えが、ここでもまた非常に明瞭に述べられている。それは、専制者を登場させる真の最終的な原因はいつでも、専制者の側にあるのではなく、自分自身で決定を下す自由と責任とを免れ、支配と命令とを求めて強力な指導者の登場を渇望する、大衆の無責任と無気力にあるのだ、ということである。

ノート
字数:2300
初稿:2000/10/15
初掲:2000/10/16
リンク
太平出版社
参考文献・関連事項
コメント
 
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参考文献

  1. ルナン『イエスの生涯』(人文書院、2000年)
    宗教史家ルナンの代表作。ライヒは本書においてルナンの思想を高く評価している。

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