【1】 19世紀フランスのナチュラリスト、エミール・ゾラの初期の作品。
私はゾラの作品は、ずっと以前に『ナナ』と『居酒屋』を読んだことがあるだけだった。そのときは、実はあまり面白くなくて、その後ゾラというと少し敬遠したい気分に何となくなってしまっていた。今度この『テレーズ・ラカン』を読む気になったのは、ようやく喉元すぎて熱さを忘れたからでもあるが、この作品じたい短くて、気軽に読めそうな気がしたからでもあった。
あらすじ
アフリカ人の血を引く神経質な娘テレーズは、育ての親ラカン夫人の一人息子で、病弱な青年カミーユと、周囲に勧められるまま結婚してしまう。夫婦とラカン夫人の三人の生活は、パリの薄暗い小路に面した小間物屋で陰気に営まれてゆくことになる。カミーユの幼なじみとしてかれの病床でおとなしく成長したテレーズは、しかし、その内面に強いやりきれなさと欲求不満を隠し持っていた。
ところが、ある日夫が会社から連れ帰った友人、画家くずれのローランは、たくましく血の気の多い身体と荒っぽい性格を持った、農家出身の男だった。ローランを見たテレーズの胸のうちには情欲の炎が燃えあがる。やがて夫の目を盗んで逢い引きを重ねるようになったテレーズとローランは、次第にカミーユの存在を邪魔に思うようになり、ひそかにカミーユを殺害する計画を立てる……。
【2】 まず、テレーズとローランがカミーユ殺害を決意するに至るまでの心理の動きが、圧倒的な迫力で描写されていて、思わずうならされる。情事のために夫を殺そうとするのであるから、それ自体は目を背けたくなるようなおぞましい心理なのだが、その一方で、人間とはたしかにこういう醜い一面をも持っているのだ、ということを、否応なしに納得させられてしまう。
「あの人が死んでくれたらね…」と、テレーズもしみじみとくりかえしていった。
(中略)
女はたちあがっている。青ざめた顔で、暗いまなざしをして、男をみつめている。胸のときめきで、唇がわなわなとふるえている。やがてつぶやくように、
「人間って死ぬこともあるわ。でも、生き残るものには危険だわ」
ローランは答えなかった。
(中略)
「(略)…毎日事故は起こる、足を滑らすこともあろうし、瓦が落ちてくることもあろうと思ってたんだ。…いいかい、瓦の場合は、罪があるのは風ばかりさ」(九、70ページ)
これは、二人がカミーユ殺害を決意する場面である。ラストシーンと並んで、私がこの作品中で最も印象的だったところである。
【3】 さて、カミーユ殺害が首尾良くいったところで話の前半は終わる。カミーユの死は完全に事故に偽装され、テレーズにもローランにも疑いはかからない。二人はゆっくりと時間をかけ、不自然でないように、テレーズとローランの再婚のほうへ話をすすめてゆく。やがて二人は待望した結婚の夜を迎える。だが、その後のかれらを待ち受けていたのは、身も凍るような破滅の日々だった……。
テレーズとローランは、自分たちがもはや以前のように情事に熱中できなくなっていることに気づく。かれら二人を、なにかが執拗に追いつめてくるのだ。二人を追いつめるそれには、実体がない。それは、カミーユの幻覚でもあり、残されたラカン夫人でもあり、飼い猫フランソワでもあり、またかれら自身の性格でもある。それは決して、罪の意識というような単純なものではない。だからこそテレーズは、怯えるあまりほかならぬその「罪の意識」へと逃げようとするのだ。そしてカミーユ殺しの共犯者であるテレーズとローランは、とうとう、お互いの存在さえをも、邪魔なものに思うようになる。
こうして、この二人の生活はあまりにも陰惨な最後を迎える。このラストシーンもまた、ぞっとするくらい鬼気迫るものがあるので、ぜひとも自分で読んでみていただきたい。ここでばらすにはあまりにも惜しい場面である。
このように、人間心理の退廃的な側面を冷徹に暴いてみせる手腕は、たしかにゾラの面目躍如たるものがある。話の結末は決して後味のいいものではないが、その描写の冷徹さ、正確さには、脱帽するしかない。
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