フランス文学セリーヌ|夜の果てへの旅

夜の果てへの旅

セリーヌ [長編小説] Le Voyage au bout de la nuit, 1932

翻訳(訳年の新しい順)
編訳者 訳年 注記 文献
生田耕作中公新装版訳 生田耕作 2021 中公文庫(全2巻) 上巻 下巻
生田耕作2003年訳 生田耕作 2003 中公文庫(全2巻) 上巻 下巻
生田耕作1978年訳
訳題「夜の果ての旅」
生田耕作 1978 中公文庫(全2巻) 上巻 下巻
生田・大槻訳
訳題「夜の果ての旅」
生田耕作
大槻鉄男
1964 中央公論社『世界の文学42 セリーヌ』

引用

 本作は、全編を通じての退廃的な雰囲気と、俗語を散りばめた独特の語り口とが特徴的である。「夜」や「夜の果て」をめぐる印象的な部分を引用しておく。

 こんなふうに夜の中へ追い出されてばかりいれば、それでもいつかはどっかへたどりつくにちがいないさ、と僕は考えるのだった。そいつがせめてもの慰めだ。(勇気を出すんだ、フェルディナン)気持を支えるために、僕はくりかえし自分に言って聞かせた。(いたるところでつまみ出されているうちに、おまえはきっと最後には奴らを、こういうろくでなしどもを一人残らず震え上がらせるこつを見つけるだろうぜ、この連中はすでに夜の果てにたどりついたのにちがいない。連中がそこへ、夜の果てへ出かけて行かないのは、そのためなんだ!)

〈生田耕作1978年訳〉上巻pp.310-311

 僕にはわかった。もしモリーがいなくなるようなことになれば、僕もまた夜の仕事に雇われに出かけねばならないだろう。
 夜の果てる日などありはしないのだ。

〈生田耕作1978年訳〉上巻pp.330-331

 彼もまた行き着く果てまで来てしまったのだ。もう何も言うべき言葉もなかった。わが身に起こりうる一切の事柄の果てに到達したときに完全に孤独になる瞬間があるものだ。この世の果てだ。悲しみまでが、自分の悲しみまでが、もはや何ひとつ自分に答えてはくれない、そうなればもう一度、引っ返さなくちゃならない、だれでもいい、人間たちの中へ。そのときは気むずかしいことは言っちゃおれない、なぜなら、泣くためにも、もう一度、振り出しに、人間たちのあいだにもどらねばならないからだ。

〈生田耕作1978年訳〉下巻pp.129-130

 自分の生活に二度と直面せぬために、姿をくらます努力を試みてみたが、無駄だった、いたるところでたやすくそいつに出くわすのだ。自分に戻るのだ。僕の放浪(さすらい)、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ! 果てまで来ちまったのだ、僕たちは! 縁日といっしょだ!

〈生田耕作1978年訳〉下巻p.365

 印象に残るその他の記述。

 完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ、そして人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。

〈生田耕作1978年訳〉上巻p.33

 軍人というものは人殺し以外のことにかけては、赤子も同然だ。軍人をまるめ込むぐらいわけはない。ものを考える習慣がないから、相手に話されると、それを理解するのにとてつもない努力を強いられるのだ。

〈生田耕作1978年訳〉上巻p.171

 僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。

〈生田耕作1978年訳〉上巻p.334

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