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ごった煮

上京した田舎青年の見るパリ・ブルジョワの赤裸々な生態。
Émile Zola "Pot-Bouille", 1882
ゾラ『ごった煮(上・下)』(田辺貞之助訳角川文庫1958年)


目次

  • I 総論
    • あらすじ
    • 主人公オクターヴ・ムーレ
    • 双書における位置づけ(1)――第11巻との関係
    • 双書における位置づけ(2)――第9巻との関係
    • 双書における位置づけ(3)――遺伝・群衆
  • II オクターヴの性格
    • 女好きオクターヴ
    • 女好きの実相
    • 小括


I 総論

【1】 『ごった煮』はルーゴン・マッカール双書の第10巻、双書の折り返し点に位置する作品である。世俗的成功を夢見てパリへ上京してきた青年オクターヴ・ムーレの眼を通して、パリの中流階級の生態を明らかにする風刺的な小説となっている。
 20世紀の作家アンドレ・ジッドは、『ルーゴン・マッカール双書』のうち第13巻『ジェルミナール』を最も愛好し、次いでこの『ごった煮』が好きだったというが、その好みには私も共鳴できる。ゾラの最高傑作である(と私は信じている)『ジェルミナール』は別格としても、『ごった煮』の小説としての出来はかなり良く、純粋に物語の「面白さ」を考えた場合、双書中でもかなり高い水準に達しているように思えるからだ。ゾラの作品のうち、あれこれの注釈抜きで薦められるものを挙げるとすれば、そのひとつは確実に『ごった煮』になるであろう。
 『ごった煮』の魅力の原因のひとつは、私が見たところ、ストーリーの凝集力の高さにある。本作は双書のなかでもやや長めの部類に属するが、にもかかわらず、舞台はパリのアパルトマンの約二年間に限られ、物語の時間的・空間的広がりは相当に狭い。空間と時間が限定されているため読者の注意は拡散せず、しかもこの限定された舞台で人々の姦通事件が次々と生起するように仕組まれているため、読んでいて飽きることがないのである。また登場人物は比較的多めだが、形式上の主人公のオクターヴを含め、特別に個性的なキャラクターというのはいない。しかしその代わり、皆がそれぞれに個性的で、いってみればこの多様な人々を含んだブルジョワというひとつの「階級」が主人公になっているとも言える。要するに、虚実紛々たるこのブルジョワの奇怪な人間関係そのものが、「ごった煮(Pot-Bouille)」に比せられて、小説の中心的な題材となっているわけである。

あらすじ
【2】 美貌と才能に恵まれたプラッサンの青年オクターヴ・ムーレ(22)は成功を夢見てパリへ上り、両親の友人カンパルドン一家が住むショワズール街のアパルトマンに身を寄せる。中流ブルジョワたちが住むこのヴァブル館で暮らしながら、オクターヴは近代的な服飾店「ボヌール・デ・ダーム」に就職し、成功のステップとしてブルジョワ婦人たちの愛顧を得ようとする。
 しかし夜会の華やかな社交の裏にオクターヴが見出したのは、厳格で貞淑ぶった道徳の陰で虚栄心と財産への執着とが渦巻く、ブルジョワたちのおどろな生態であった。オクターヴはなかば嫌悪を抱きながらも幻惑され、翻弄されるようにしてこの奇妙な世界に巻き込まれていく。他方、これらの人々の実態を間近に知り尽くしている各家庭の下男や女中たちも、偽善的な主人たちへの悪罵と嘲笑をひそかに交換しながら、放埒な関係をとり結んでいるのだった。
 カンパルドン家の上の階に住むジョスラン一家には二人の娘がいた。虚栄心の権化であるジョスラン夫人は、会計係をしている夫のわずかな給料を切りつめて娘たちにめいっぱいの贅沢をさせ、有利な結婚のために奔走する。詐欺まがいの策略を弄したあげく、下の娘ベルト(21)をヴァブル家の長男オーギュストと結婚させるが、吝嗇な商人の夫と贅沢に慣れた妻とは、最初から気性が合わなかった。
 平凡な夫に退屈したベルトは、オクターヴとの情事に走る。ベルトの贅沢心を満足させるためにさんざん散財させられた後、オクターヴはようやくベルトとの逢い引きにこぎつけるが、女中を買収しておくことを忘れたため、密会の現場を夫に踏み込まれて騒動を起こしてしまう。
 この経験に懲りたオクターヴは商業で身を立てようと決意し、ボヌール・デ・ダームの発展のために力を尽くす。やがて店の女主人のエドゥアン夫人に認められたオクターヴは彼女の再婚相手となり、ボヌール・デ・ダームを手中に収める。

主人公オクターヴ・ムーレ
【3】 いちおう本作の主人公であるオクターヴ・ムーレは、ムーレ家系第四世代に属する。アデライードからユルシュール、フランソワを経由して生まれた三人兄弟の長男であり、第5巻『ムーレ神父の罪』に登場したセルジュ・ムーレとデジレ・ムーレの兄にあたる。また第11巻『ボヌール・デ・ダーム百貨店』ではデパートの経営者として成功を収め、幸福な結婚をして舞台から去ることになる。オクターヴは双書全体を通じて登場回数が多く、マッカール家のリザ・クニューが死んだときには親戚としてクロード・ランチエとともに親族会議に顔を出したり(第12巻『生きる喜び』)、そのクロードが死んだ時も親族代表として葬儀を主催したりしている(第14巻『制作』)。登場する巻数だけを数えるとオクターヴが一族の中で最も多い。
 ところでオクターヴは1840年生まれという設定になっており、これはゾラの生年と同じである。ルーゴン・マッカール一族のなかでオクターヴが最も成功した生涯を送ること、また彼の妻の名はドゥニーズで、ゾラの娘の名もドゥニーズであることなどを考え合わせると、ついオクターヴとゾラを重ね合わせたくなってしまうところだが、この点はどうやら無理にこじつけない方がいいようだ。オクターヴとゾラの類似点は形式的なものにすぎず、じっさい美貌と商才を武器にパリで出世するオクターヴの性格は、ゾラの性格とはかけ離れている。かといって、それならゾラとオクターヴは正反対かというとそうでもなく、オクターヴにも田舎者らしい野暮ったさがあちこちに残っていて、ゾラの心情を代弁しているかのようでもある。要するに、オクターヴは作家ゾラが造形した一人物である、と素直に読んでおけばよいのであろう。

双書における位置づけ(1)――第11巻との関係
【4】 双書における『ごった煮』の位置づけに関して、まず次の第11巻『ボヌール・デ・ダーム百貨店』との関係をみておきたい。『ボヌール・デ・ダーム百貨店』もまたオクターヴを主人公としており、作中の時間もこの順で連続しているため、この二冊を続き物と見るのが普通である。しかし、この点もあまり強調しすぎないほうがいいと私は思う。第10巻と第11巻の連続性というのも形式的なものが多く、内容に着目するならば、むしろほとんど連続性がないと言ってもいいくらいだからだ。
 両作に共通して登場する要素としては、(1)主人公オクターヴ、(2)パリの服飾店「ボヌール・デ・ダーム」、そして(3)その主人エドゥアン夫人がある。しかし、実はそれだけなのである。両作が、同じくパリでのオクターヴの生活を描き、時間的にもほとんど間隔がない(『ごった煮』は1864年12月まで、『百貨店』は1865年10月から)ことを考慮に入れれば、これはむしろ異例なまでに相互連関がないと言うべきだろう。『百貨店』のほうを先に読んでいた私は、当然、この両作の関連性に注意しながら読みすすめたのだが、オクターヴとエドゥアン夫人を除けば、双方に共通する登場人物は存在しなかった。
 そのうえ、この共通要素にしても、二つの作品を連結する鎖としてはほとんど機能していない。既述のようにオクターヴは本作ではそれほど中心的な活躍をせず、次の『百貨店』ではじめて大きな存在感を示すわけだし、彼が勤めることになる服飾店「ボヌール・デ・ダーム」も、『ごった煮』では「エドゥアン夫人がいる職場」という限りで簡単に触れられているだけで、『百貨店』の主題となる、店の規模や業務内容への言及はほとんどない。エドゥアン夫人に至っては、『ごった煮』でやや影が薄いながら脇役を務め、オクターヴと再婚などするものの、『百貨店』の開始時にはすでに死んでいて名前しか出てこないという有様なのである。彼女は29歳前後で死んでしまったことになるが、『百貨店』を読んでもその理由はよくわからない。主人公の妻にしては、ずいぶんとぞんざいな扱いと言える。

双書における位置づけ(2)――第9巻との関係
【5】 それゆえ、10巻と11巻の関係についてはあまり気にせずに読んでも差し支えないだろう。それよりもむしろ留意しておきたいのは第9巻『ナナ』との関連性である。『ナナ』と『ごった煮』の共通点は、性風俗を筋の中心に据えている点にある。『ナナ』が扱ったのがパリの娼婦と上層階級の性的関係であったのに対し、『ごった煮』では中流ブルジョワ階級の性と結婚を扱っており、これによってパリの主な諸階層の性生活・結婚生活が、ひととおりカバーされるようになっているのである。第9巻『ナナ』と第10巻『ごった煮』を合わせて「パリの性風俗誌(二巻)」とでもするのが、本作の位置づけとしては理解しやすいところかもしれない。「性と出産」はルーゴン・マッカール双書を貫く共通テーマのひとつであるが、この二巻に加えて第13巻『ジェルミナール』では炭鉱労働者の性が、第15巻『大地』では農民の性が取り上げられている。これらの作品を、性という側面から横断的に比較することは、おそらく意義深い作業になるであろう。
 しかしながら、同じく性を扱うと言っても『ナナ』と『ごった煮』では観察の対象としている階層が異なるわけであり、テーマの扱い方にもおのずと差が生じる。簡単に言っておくと、『ナナ』における性が上流階級と娼婦の性、つまり社会の上端と下端の性であり、性的放縦と性的悲惨との極致を描き出していたのに対し、『ごった煮』における性は中流階級のそれであること、この点が、『ナナ』との比較においても、本作それ自体の特質としても、きわめて重要な意味をもっているのである。つまり、愛人を囲うほどの経済力はないが、肉体を売る娼婦や簡単に性交渉をもつ庶民たちからも遠い、これら中流ブルジョワ階級にとっては、性は結婚と不可分に結びついたものとなる。ここから、性道徳・結婚倫理の問題が生じるのであり、これを前提としてこそ、「奥様方の情事」が主題になりうるのである。

双書における位置づけ(3)――遺伝・群衆
【6】 第三に、双書全体の基本的テーマである遺伝や、ゾラの小説の特徴である群衆描写などの点からみると、本作はやや周辺的な作品に属する。本作には熱狂的群衆は登場せず、遺伝の影響力もまったくと言っていいほど登場しない。前巻『ナナ』で噴き出した双書の大きな転回の兆し(その内容については『ナナ』の書評で論じておいた)は、この第10巻ではいっとき姿をひそめているようである。むしろ作品の雰囲気や作家の表現姿勢としては、本作には第7巻『居酒屋』に似たものが感じられる。

II オクターヴの性格

【7】 上で要約したように、成功を夢見てパリへ出てきたオクターヴがブルジョワ婦人たちとの情事を重ねながらこの階級の内幕を見聞してゆく、というのが本作のあらすじであり、「オクターヴの立身」と「ブルジョワ風俗の解剖」の二つのエピソードが並行し関連しつつ展開していくというのが、物語の基本的な流れになっている。とはいえ、この両者に対する比重の置かれかたは明らかに平等ではなく、後者、つまり中流階級の実態の暴露のほうに重点が置かれていることは一読すれば疑うべくもない。詳細に追跡されていくブルジョワたちの情事に比べると、オクターヴの行動は時たま現れるだけであり、しかも物語の展開にとって、それほど重要な意味をもってはいない。主人公であるはずのオクターヴは、パリへ上京してきてブルジョワ社交界に紛れ込んだ田舎の青年として読者に観察者の視点を提供するものの、ブルジョワたちの世界にあって特に主体的な活躍をするわけではなく、作品にとってはむしろ周辺的な位置にいる。
 オクターヴ自身の性格や心理について言えば、そもそも記述自体が相当少ないうえに、その実質も平板なものであって、特に興味を呼ぶものではない。オクターヴはひとことで言うと女たらしだが、それもごく類型的・表面的な意味のそれであり、要するに若く美貌であるというだけのことである。オクターヴは精神的にあまり深い人間ではなく、本作においても、彼の個性が物語を引っ張っていくというより、むしろ彼自身が周囲に翻弄されている印象が強い。つまり本作におけるオクターヴはあくまで、ブルジョワ世界への闖入者であり、彼らの狂態を眼を丸くして見つめる観察者なのである。
 そこで、オクターヴの性格に関して、ここでまず独立して考察しておくことにしよう。作品を論ずるにあたって彼の存在はさすがに無視できないとはいえ、それは作中の個々のエピソードといちいち密接に関わっているわけではないので、別個に見ておくほうが便宜だからである。

女好きオクターヴ
【8】 小説家が主人公の性格を表現するための最も効果的な方法のひとつは、その人物の性格がよく現れている象徴的な事件を、作中で提示してみせることだろう。ところが、いま述べたようにゾラはオクターヴの性格を重要な作中要素としては扱っておらず、具体的なエピソードを通じた彼の性格描写は、数少ないうえに、ほとんど表面的解説の域を出ていない。オクターヴの最も重要な性格設定ともいうべき「女好き」についても、それが明らかになるのはどちらかといえば作者ゾラによる意識的・解説的な二、三の記述によってであり、彼が作中で繰り広げる情事は、彼の性格の例証や展開よりもむしろこの説明を補足している「パターン化されたエピソード」のようなものでしかないのである。それゆえ、以下でオクターヴの性格を見るについても、私はこうした解説的記述だけを主な手がかりとしていることを断っておきたい。
 彼の経歴とともに簡単に紹介されるところによると、オクターヴは、「女中のはしくれでも女と名のつくものがそばにいれば、気が遠くなるほどうれしい性分」(上16ページ)であった。これは簡潔で要を得ていると同時に、本作でこの点に関するほとんど唯一の直接的な言及である。オクターヴの幼少期と彼の両親の生涯を描いた、双書第4巻『プラッサンの征服』を私はまだ未読であるので、彼のこの性格が何に由来するのか(たとえば親からの遺伝でないのかどうか)については確言できないのだが、少なくとも本作の中にはそれをうかがわせる記述は皆無と言っていい。本作の始まりにおいて、すでにオクターヴは完成された(?)女たらしとして舞台に登場し、しかもそれが当然のごとく前提とされているのであり、他の巻の主人公たちに対してはゾラが多少なりともおこなっている遺伝と環境の両面からの特徴づけが、オクターヴの場合にはまったくと言っていいほど見られないのである。「家系樹」を参照しても、体つきの遺伝について簡単な記述があるのみで、手がかりは得られない。双書の中での登場回数の多さにもかかわらず、オクターヴの性格について底の浅い印象を払拭しきれないのは、おそらくここに原因がある。
【9】 さて、このようなオクターヴの性格は、情事の相手マリー・ピションに対する彼の省察の中にうかがうことができる。

ああいう女はとても便利だ。ほしいときには手をのばせばいいのだし、一文も金がかからない。別の女を待つあいだの暇つぶしとしては、まったく願ってもない女だ。(6章、上149ページ)

彼女は非常に便利で、金もかからなかったが、打ちのめされた犬のような忠実さで、いずれはうるさくなるかもしれなかった。だから、退屈な晩には彼女を抱きながらも、すでに彼はどういうふうにして関係を断とうかと考えていた。(中略)しかし、彼は女なしになると困るので、少し待つことにした。(9章、上254ページ)

 人妻を誘惑して抱きながら、それを金のかからない暇つぶしの娯楽のように考え、その一方で、相手の忠実さをうっとおしく感じて、厄介払いの方法を思いめぐらす。こういう思考回路はたしかに典型的な女たらしのそれであろう。それは、オクターヴの性格に関する先の簡単な説明と、なるほど照合しているようにも見える。  しかしながら、このような短絡的な理解に満足するのは、それがあまりにも型にはまりすぎているために却って躊躇させるものがあるようにも思われる。じっさい、本作を通読すれば、オクターヴの印象は必ずしも女たらしのイメージで一貫していないことが気づかれるのだ。
 それがわかるのは、女との情事を楽しみのように言いながら、明らかにオクターヴはこれらの楽しみを至上のもの、最終的な目標と考えてはいない、という点である。相手の女は次々と乗り換えても(というより乗り換えることによって)、さまざまな女との情事そのものを延々と楽しみ続けようとするのが女たらし、ないし女好きというものだとすれば、オクターヴは厳密にはこれに当てはまらないのではないだろうか。というのは彼はその軽薄な外見とは裏腹に、恋愛至上主義者でも、快楽至上主義者でもなく、実は一人の立身出世主義者、世俗的野心家にほかならないからだ。彼の情事には、情事とは別の打算が混入しているのである。
【10】 オクターヴにとって、婦人たちとの情事はパリでの仕事に成功するための「手段」である。彼は女が好きだから誘惑するのではなく、パリで成功するために必要(必然)だから誘惑する。なぜ婦人たちとの関係が仕事の成功のために必要なのか? それはむろん、社交界への人脈や資金源を得るといった意味もあるが、それ以上に彼の仕事の内容、つまり高級婦人服の販売という点に関わっている。

「その商売、つまり女のぜいたくをあきなう商売は彼を夢中にさせた。この商売は彼を夢中にさせた。この商売には美しくかざった言葉と媚びをふくんだ眼とで女をたらしこむような、ゆっくりと女を所有するような面白味があった」(1章、上18ページ)

 オクターヴにとっては、婦人たち相手に贅沢を商う商売を成功させることが、女をたらしこみ所有することと類比されているのだ。要するにここでは、商売の成功と性的誘惑とが、擬似的に等価なのである。そしてこののちのオクターヴの行動によって明らかになるように、彼の情熱の実体は、どちらかといえば商売に対するそれの方にある。大事なのは成功することであって、情事の成立ではない。婦人たちとの情事は、それが商売の成功の条件となるか、または「商売上の成功=女の征服」という類比が成立する限りにおいてオクターヴの興味をひいているにすぎない。その証拠に、オクターヴが誘惑の相手に選ぶのは、ボヌール・デ・ダームの女主人エドゥアン夫人であったり、謎めいた美人ヴァレリーであったりして、要するに情事が「成功」や「征服」のイメージを伴うことになったり、あるいは端的に利益につながる女たちである。エドゥアン夫人のことを、オクターヴはさいしょ不美人だと考えているにもかかわらず、征服欲をもつ。そのいっぽう、彼がマリーとの情事に飽きるのは、マリーの性的魅力が色褪せたからではなく、彼女との関係が成功のイメージをあまり提供しないからなのだ。女性としてのマリーには、オクターヴはむしろ満足しているのである。
 つまるところ彼を動かしているのは「成功と征服」への情熱であり、その成功「のために」、または成功「として」、彼は婦人たちを誘惑する。つまり「女がそばにがいればうれしい性分」がオクターヴにあるとしても、ここでは成功への情熱がむしろそれを制約し、彼の情事に打算性という不純物を混入させているという関係を指摘できるのではないだろうか。

女好きの実相
【11】 そうとするなら、このような打算性はその帰結として、情事に対するオクターヴの姿勢に、別のいくつかの傾向を生じさせているように思われる。本作におけるオクターヴの行動には、このような、単純な女好きとして割り切れない諸傾向が現れている例があり、このためにオクターヴを単純に女たらしとみなすことができないと私は考えるのである。私は、まずそれらの傾向を「臆病・無我夢中・軽蔑」の三つに整理したい。そのうえで、これらの派生的諸傾向をも読み込みつつ、以下に、オクターヴの性格をより細かく再構成することを試みることにする。
【12】 第一に、オクターヴの意外な一面として、情事に対する臆病さを指摘できる。「女によって出世」しようとしてパリへ出てきたとされるオクターヴだが、じっさいのところ、それほど無鉄砲に、また自分の魅力だけを信じて上京してきたわけではない。本作で言及された経歴によると、オクターヴは故郷プラッサンでバシュリエ(大学入学資格)を取得したのち、まずマルセイユへ出ている。そこでインド更紗の会社に勤め、三年間働いて5000フランをもうけてから、成功を夢見てパリへ出てきたのである。オクターヴの本当の関心が情事よりも商売のほうにあることはすでに言及しておいたが、ここでも、オクターヴは明らかに自分の商業上の成功を構想しており、しかもなかなかに慎重である。そしてその慎重さは、オクターヴの情事に対する姿勢にも、やはり同様に現れているのである。
 たとえばヴァレリー夫人に見込みありと見て誘惑をしかけて拒まれてしまったときには、ひどく自尊心を傷つけられ、失敗の理由もわからないまま、二度と同じ試みをしようとはしない。またエドゥアン夫人に対してもやんわりと拒絶されて落ち込み、かといってなにか劇的な行動を起こすでもなく、「商売上の友情」のままずるずると続いたりしている。彼が姦通を試みるのはヴァレリー夫人、マリー、エドゥアン夫人、ベルトの四人だが、端的に結果だけ見れば一勝二敗一未遂であって、たいして成功しているわけではない。唯一の成功はマリーとの関係だが、これも当初こそオクターヴが誘惑したものの、その後はマリーの献身的な愛情によってオクターヴが癒しを得るような関係になっている。だから正確にいうと、オクターヴが自分の成功のために女を利用したというような例は、本作ではひとつもないのである。オクターヴが女たらしであるという設定は、作中の説明によって、あるいはオクターヴの自覚として述べられてはいるものの、客観的に見れば、だいぶ修正の必要があることがわかる。
【13】 第二に、これは情事への臆病さと盾の両面なのだが、オクターヴにとっては情事が商業上の成功に従属する関心事でしかないために、実際には情事への免疫が弱く、ひとたび「本当の情事」に巻き込まれると、意外と手もなくのめり込んでしまうところである。彼にとって情事は成功のための手段のはずなのだが、そうやって自分の情欲を甘く見ているものだから、いったん情欲に捕まってしまうとかえって感情のコントロールがきかなくなってしまうのである。
 本作ではベルトとの情事がこの傾向の例証となる。オーギュストと結婚したベルトは小さな絹織物店の女主人となるが、商売上の成功を求めてボヌール・デ・ダームに就職したオクターヴにとっては、本来このような小さな店の女主人などは野心の対象とならず、むしろボヌール・デ・ダームの競争相手でさえあるはずである。ところが彼はこの若い女主人の魅力に捕らわれ、成功の野心などそっちのけで彼女との情事に夢中になってしまうのである。そしてついには、貯えを取り崩してまでベルトの機嫌を取り結ぼうと努めることになる。

はじめ彼は前からの誘惑の計画にしたがい、女によって出世しようとする意志の実行にかかったのだが、今はベルトを単に店の女主人と見て、彼女を手に入れれば店が思いどおりになると考えるだけでなく、マルセイユでは一度も味わったことのないこのパリジェンヌが、贅沢で優雅なこの美女がほしくてたまらなくなった。(12章、下55ページ)

涙を流して哀願し、パリはあまりにも苦しすぎるから故郷へ帰ってしまうといい、激流のようにしゃべりたてて、彼女を混乱させ、へとへとに疲れさせた。(13章、下93ページ)

 ここではもう女たらしの狡猾さも成功への野心も問題でなくなっている。こうして、欲望に流されるままに彼はずさんな逢引の計画を立て、ベルトとの情事というあまり利益にもならない行動のために騒動を起こしてしまうことになるのである。
【14】 第三に、こうした臆病さと無我夢中さとは、当然のことながら、情事を楽しむのとはほど遠い状況へとオクターヴを導く。すでに明らかなように、彼の女好きは天性のものではなく一種の虚勢に近いのであり、このようなみせかけの女好きから帰結するのは、女への愛着ではなく、むしろ女に対する隠された軽蔑と憎しみである。これが彼の性格の一側面として、作中で何度か言及されている。

彼は表は恋しげに甘えながらも、心の底では女を軽蔑しきっていたのだ。(12章、71ページ)

 だからこの軽蔑を、色男が女に対して抱くそれとも混同してはならないだろう。彼が女に対して軽蔑を抱くのは、情事の成功のゆえではなく、失敗への不安と怯えのゆえである。彼の憎しみは、女たらしであることを突き抜けた人間のそれではなく、女たらしであろうとしてありえない人間の、ごく素朴なそれなのだ。同じ誘惑者にしても、『赤と黒』のジュリアン・ソレルなどと比べてオクターヴの心理がいかにも平板で、冷酷さに欠けるのは、このことの反映であろう。オクターヴは恋愛においては、ジュリアンのはるか手前にいる男だからである。
【15】 こうしてオクターヴの性格を彩る三つの側面を考え合わせると、そこに浮かび上がってくるのは、女たらしを気取りながら冷酷な女たらしに徹することのできない、少々の虚栄心と傷つきやすい自尊心とを持った田舎青年の姿である。これがオクターヴという人間の実相であると私は思う。本作を通読して得られるオクターヴの印象は、むしろ、実直で朴訥な側面――それはおそらくパリにおけるゾラの性格の側面でもあった――をもち、それを女好きの仮面の下に隠そうと躍起になっている、不器用な青年のそれなのである。
 この見せかけの虚勢を抱えたオクターヴはやがてボヌール・デ・ダームを手中にして大成功を収める。商業上の成功によって自信をつけたオクターヴは、この虚勢をより巧妙に隠しおおせることができるだろう。彼は自分の店の女店員や客の貴婦人を誘惑し、もっとスマートに、女好きを演出してみせるようになる。その虚勢を崩壊させ、オクターヴに本当の愛の経験を与えることになるのが、ボヌール・デ・ダームの貧しい新人女店員ドゥニーズ・ボーデュなのだが、それは次巻『ボヌール・デ・ダーム百貨店』のテーマである。

小括
【16】 以上、少ない手がかりからオクターヴの性格を検討してみた。要するに、オクターヴは作者がそう思わせようとしているほどには女たらしではない、というのが本稿の結論である。

(後注)
 本稿はオクターヴの性格に論点を絞ったが、本来『ごった煮』をめぐっては、その主要なテーマをなしているブルジョワ道徳に関して論ずるべきことが多い。これについては機会を改めて別論したい。

ノート
字数:10000
初稿:2003/01/08
初掲:2003/01/10
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DATA:ゾラ
DATA:『ごった煮』
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角川書店
参考文献・関連事項
コメント
 この作品を読むにあたり、ウェブサイト「バルザックの部屋」管理人のCorentinさんに上掲の翻訳書を貸していただきました。記して感謝いたします。
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

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