SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

侯爵サド

女性の視点からサド侯爵の実像に新しい光を当てる画期的な試み。
藤本ひとみ『侯爵サド』(文春文庫2000年)


【1】 藤本ひとみは面白い、という情報を私は今まで少なからぬ方面から得ていたが、実際に読んでみたのは本書が初めてである。このような作家を知らずにいたとは何ともったいないことをしていたのか、というのが最初の読後感であった。

 シャラントン精神病院に収容された68歳の老侯爵サドを、悪徳の持ち主として監獄へ移送するか、それともこのまま病人として治療を続けるかをめぐって、審問が行われることになる。監獄への移送を企む院長コラールの背後には警視総監フーシェの力があった。いっぽう、シャラントンにおける侯爵の最大の理解者ドゥ・クルミエ理事長は、侯爵を病人として治療し続けることを主張し孤軍奮闘する。侯爵の性的な行跡が審問の場で次々と明らかにされ、その解釈をめぐりコラール、ドゥ・クルミエ、そしてサド侯爵が三者三様の主張を展開する。だが、審問の場にいた侯爵の娘、ダニエル・サブロニエールの介入により、事態は思いもかけない結末を迎える……。

 『ジュスティーヌ』『閨房哲学』などで有名な革命期フランスの作家マルキ・ド・サド(Donatien-Alphonse François, marquis de Sade, 1740-1814)については詳細な解説を要しないであろう。男色・放蕩にふけり、反社会的であるとして終生迫害され続けた異端の作家である。本書は一種の法廷小説の形式をとりながら、このサド侯爵の人間像に迫る。

「臆病者なら、罪は犯さない。手足がなえているからだ。それが善良な証拠といえるか、愚か者。よいか、あらゆる悪をなしうる意志と力を持つ者こそが、善をなしうるに値する者なのだ」――サド(94ページ)

三者三様の主張
【2】 サド侯爵はこのような論法を駆使して自分の悪徳の意義を強調しようとする。「あらゆる悪をなしうる意志と力を持つ者」として自分をネガティブな英雄に仕立てあげようとするサド侯爵のこの意図は、少なくとも表面的には、サドを救いがたい悪徳の持ち主として弾劾するコラールの主張と一致する。だが、悪の英雄として振る舞うことによってしか自分を防衛できなかった侯爵の身の上を洞察している理事長ドゥ・クルミエは、この隠された共犯関係に楔を打ち込み、サドが病人であることを示そうとする。
 しかし明らかに、これは困難をきわめる闘いだ。治療が必要な、また可能な一人の病人であるということは、常識で理解可能な要因によって形成された人格であるということである。言い換えれば、サド侯爵とは不遇な生い立ちのゆえに常軌を逸してしまった一個の凡人にほかならないということなのだ。「脅威的な天才であるがゆえに迫害された自分」という自己像に拠って立つサド侯爵にとって、この考えは受け容れがたいに違いない。ドゥ・クルミエの主張は、擁護されるべき侯爵その人によって、拒絶されるだろう。ドゥ・クルミエの主張が通るか否かは、かれがどれだけ侯爵を深く理解し、侯爵の同意を取りつけられるかにかかっている。いや、たとえそれができたとしても、侯爵を守るためにはさらに審問官を説得しなければならない――。
 アルクイユの鞭打ち、マルセイユの乱交、ラ・コストの少女饗宴、などを含む四つの事件を巡る審問の舞台で、ドゥ・クルミエは、侯爵の異常な性行動が虐げられ傷つけられた人間の防衛反応であり、理解可能かつ治療可能な病気にほかならないことを強調していく。その弁論は情熱にあふれ、圧巻である。だが結末から言うならば、ドゥ・クルミエは驚異的な奮闘によりあと一歩のところまでたどり着きながら、力及ばない。侯爵はドゥ・クルミエを最大の理解者と認めながら、自分が病気であることを認めるのを拒否するのである。
 しかしながら、このときドゥ・クルミエの前に新たな課題が現れる。ダニエル・サブロニエール。審問に出席してサドの行跡を知り、自分の不遇を父に投影して自らも虐待者への道を歩みつつあるこの女性の存在に気づいたドゥ・クルミエは、独創的作家というサドの仮面を剥ぐことで、ダニエルの幻想を打ち砕こうと試みる。そしてその試みが成功したかに見えたとき、父に見捨てられたダニエルの怒りが解放され、予想外の事態を迎える……。

急転回
【3】 ダニエルが父侯爵を激しくののしるこの場面は、本書の最大の山場であり、最も重要なところである。審問の場で弾劾されることでますます尊大になり、悪の英雄として傲然と構えていた侯爵の態度は、この女性の告発の前で無残にも崩壊する。そこには、自分が拠り所としている作家としての価値を、血を受けた娘によって徹底的に否定され、返すべき言葉すら持たない無力な老人サドの姿が浮かび上がる。コラール、ドゥ・クルミエ、サド侯爵の三者が作り上げてきたそれまでの世界は、見捨てられた娘の怒りの前で、一挙に覆されるのである。
 コラールはもちろん、ドゥ・クルミエでさえ届かなかった侯爵の核心を、ダニエルは一息で貫き通す。結局のところ侯爵が求めてやまなかったものは、激しい感情を伴った強い人間的な関与だったのであり、それが怒りのような敵対感情であれ、問うところではなかったのであろう。侯爵に対してそういうものを本気で投げつけることのできるのは、娘であるダニエルしかいなかった、ということなのだ。対決の後、ダニエルと侯爵がそれぞれ微笑を浮かべて別れる場面が、穏やかで解放された印象を与えるのは、思えば当然のことである。父と娘は、このときようやく互いを理解したのだからだ。

【4】 ところで、サド侯爵をめぐるこうした描写に密接に関連しつつも、そこから離れてなかば独立のテーマを形造りつつあるものとして、サド侯爵夫人ルネ・ペラジーの心理分析がある。本書においてはドゥ・クルミエがその手記を読み上げるという形で、結末近い第11章においてその要点が述べられるが、この告白こそコラールの弁論よりもはるかに圧巻であり、深い示唆に富む。ルネの献身は、夫を絶対視することを手段として母という別の絶対者を無効化するための苦闘だったのであって、その闘いの末に彼女が母から独立しえた時、彼女は侯爵を必要としなくなり、おそらくは愛と共感さえをも抱いて、侯爵から離れていったのである。ルネのこの変化は、共依存の病理が解消する過程で通過しなければならない「愛するがゆえの突き放し」をまさに想起させる。
 本書においてサド侯爵の独善を相対化する役割を担うのは、かれの娘ダニエルだけではなく、妻ルネもまたそうであるのだ。自分を絶対化し、女を客体として扱い続けたサドは、妻と娘という二人の女によって相対化される。そしてそのことは、侯爵にとってもまた快感であり、救いなのである。これはたしかに興味深い視点であり、追究する価値のあるものだろう。著者が本書とは別に『侯爵サド夫人』という一巻を著しているのも(私は現時点ではまだ読んでいないが)、うなずけるというものである。

【5】 しかし、おそらく本書については、本当はそうした注釈や分析も不要なのかもしれない。というのも、一切の論評を抜きにして、本書は小説として抜群に面白いからであり、思想と思想のぶつかり合いを追跡していくその叙述の迫力だけで、十分すぎるほどに読者をひきつけるからだ。サドについて予備知識がなくても、というより、予備知識がない場合こそ、本書によりサド侯爵の人間像を知るのがよい。本書は、サド侯爵という人間像の生き生きとした描写であり、人間心理の興味深い洞察でもあり、同時にまた、何も知らずに読んでも楽しめる、類まれな娯楽小説でもあるのである。

ノート
字数:3000
初稿:2001/02/02
初掲:2001/02/02
リンク
文藝春秋
DATA:サド
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。