SYUGO.COMカテゴリマップ
前の書評 リスト 次の書評
特集 書評トップへ 講読ノート データベース

愛と死との戯れ

フランス革命期を舞台に愛と死、理想と現実の相克を描き出す。
Romain Rolland "Le Jeu de L'Amour et de La Mort", 1925
ロマン・ロラン『愛と死との戯れ』(片山敏彦訳岩波文庫1927年)


あらすじ
【1】 1794年、第一共和政下のフランス。革命議会員ジェローム・ド・クールヴォアジエの妻ソフィーは、凄惨な粛清が続くパリで、不安な日々を送っていた。そこへ、かつての恋人で逃亡中のジロンド党員、クロード・ヴァレーが身を寄せてくる。ソフィーは、ヴァレーへの思慕を甦らせて彼をかくまう。だが、革命議会でダントンの処刑に反対したジェロームにもまた、反逆の嫌疑により逮捕の手が伸びようとしていた。
 ヴァレーの窮地を知り、妻の心情を察したジェロームは、友人カルノーが用意してくれた二枚の旅券をソフィーに渡し、旅行を装ってヴァレーとともに国外へ脱出することを勧める。しかし、ジェロームが逮捕を覚悟していることを知ったソフィーは自分の旅券を捨て、ジェロームとともに残ることを決意する。ジェロームとソフィーはヴァレーを送り出し、保安委員会が家宅捜索にやってくるのを静かに待つ。

【2】 1925年に書かれたこの戯曲は、『七月十四日』『ダントン』『狼』『理性の勝利』と続く「フランス革命劇連作」のうちの一つである。舞台にフランス革命を選んではいるものの、そこには、第一次大戦期を生きた人道主義者・平和主義者ロマン・ロランの、経験に根ざした思想を、はっきりとうかがうことができる。

 この戯曲の基調をなす「愛」と「死」との対立は、ソフィーにとっては、ヴァレーとともに国外へ逃れるか、それとも夫ジェロームのもとにとどまって死を受け入れるか、という形で現れる。彼女は最後にジェロームとともに残ることを選ぶ(それは死を暗示する)が、それはヴァレーへの愛が敗北したことを意味するのではない。「今ほどあなたを愛していることはない」(107ページ)というソフィーの告白は、ヴァレーを一人で行かせることを決断した瞬間の言葉であるからこそ、疑いようもなく真実の響きをもって迫ってくるのである。
 いっぽう、ジェロームにとっての「愛」と「死」の対立とは、革命のもたらした悲惨、俗に言えば「革命の行きすぎ」に、同調するか拒絶するかの問題である。人間の解放をめざしたはずの革命が、やがてジャコバン派の独裁を生み、際限のないギロチンの濫用をもたらしたとき、革命を擁護するためにその害に目をつぶるのか、それとも、革命のためといえども人間性を蹂躙することを許容しないという立場をとるのか、その決断をジェロームは迫られたのであった。
 「人間が自由であるためには、まず人間を奴隷にする者に対して人間を護らなければならない」、そしてそれをするのが革命だ、だから「現在を未来のために犠牲にしよう」(90ページ)というのが、公安維持委員会会員カルノーの立場である。しかし、ジェロームはこれに同意しない。かれは、共和国のため、人間の権利のため、どのような名目のためであれ、そのために個人を国家権力の犠牲にするなら、それは欺瞞であると宣告する。

「真理や愛や、あらゆる人間らしい徳性や自尊心を未来のために犠牲にするということは、とりも直さず未来そのものを犠牲にし亡ぼすことだ。正義は罪に汚れた地面からは生えはしない。」 ――ジェローム(90ページ)

 これは、かつてなされたうちでも最も美しく、力強く、そして見事な、理想主義的立場の表明のひとつであろう。そこには政治的妥協はない。論理はきわめて単純で、明晰である。

【3】 しかし、ジェロームはまたこの思想のために、革命議会を追われ、死に追いやられることを甘んじなければならないのである。愛を選ぶことが同時に死を選ぶことにならざるを得ない矛盾を、ジェロームは受け入れるのだ。愛と真理のために妥協をしない者(ジェローム)が死にゆくかたわらで、幾多の死屍をあえて踏み越えていこうとする者(カルノー)が生き延び、新しい時代、愛と真理とが守られるかもしれない次の世代を準備する。ここにおいて「愛」と「死」の当初の対立は奇妙にも解消され、やや不可解な和解もしくは融合状態におちこむ。
 実際には私も、ジェロームの立場に共感する一方で、カルノーの言い分もわからないではない、という感想を払拭しきれない。守らねばならないものがあるなら、それは、是が非でも、現実に守られねばならない、と言ってはならないのだろうか? 守るべき未来のために現在の不正義が必要なとき、あえてその不正義に手を染めることを、誰がすればいいのか? それは、いつかは誰かが、やらなければならないことではないのか?
 だが、ここで再び逆接すれば、そのような考えは往々にして「いま、ここ」での正義と真理とを犠牲にし、非人間的な破壊と殺戮に陥るということ、少なくともそうした傾向に対して十分なブレーキとなり得ないということもまた、事実なのである。

【4】 おそらくたしかなことは、ロランは自分の生きた第一次大戦の混乱の中で、人間の愛情や誠実さが息を吹き返すことを願ってやまなかったであろうし、かれの置かれたその状況が、フランス革命を舞台としたこの戯曲における「愛」と「死」との対立にも投影されているだろうということだ。ソフィーやジェロームが直面した矛盾は、ロラン自身が直面した矛盾でもあったはずだ。そしてロラン自身は、おそらく、この対立に対する二とおりの対処のいずれにも理解を示しながら、両者のいずれもが結局のところ帰着するところの、平和と人間性との保護を追求しつづけたのだと、私は思う。ソフィーとジェロームは、愛と真理のために妥協せず、死を選んだ。しかしその一方で、妥協をしたカルノーやヴァレーは現実を担って生き続け、次の時代の愛と真理のために戦うだろう。
 私たちは、巨大な社会変動に際してどう対処するべきなのか? 大きな目的のためならば微悪を見過ごすべきなのか、それとも、些細な過程や手段にこそ命が宿ると考えるべきなのか? それは人間にとって、古くて新しい問いである。究極の解答は、たぶん、存在しない。しかしそのとき、私たちは、問題の立て方がおかしいのだ、と考えてみてもいいのではないか? なぜなら、私たちがそれぞれ志したものは、本当は、それほど相互に異なっていたわけではなかったはずだからだ。

 革命の将来に、ということはつまりかれ自身の時代の将来にも、ということだが、ロランが人間の将来に強い信頼を抱いていたことをうかがわせる言葉をひいて、その例証としよう。

 山々を越えた向うの土地と、うねり流れる河とを――「人間精神の進歩」を、大きい想像力の中に抱きしめることができるには十分なだけ高い場所に登る力をあなたは持っていらっしゃる。その進展の道筋をたどるためには二年三年の月日で十分だなどとあなたは一度だってお信じになったことはないではございませんか。いくつもの障害やいくつもの後もどりをするいく世紀の姿を、あなたは前もって見通していらっしゃる。いいえ、いいえ、私たちは「約束された国」を自分の目で見ることはありますまい。けれど、どこにその国があるかということを知り、そこへ行く道を示すだけで十分ではございませんか? 他の人たちが来るでしょう。もっと若い、もっと強い人たちが来るでしょう。その人たちは、中絶された道を、新しい力をもって歩きつづけて行くでしょう。 ――ソフィー(67ページ)

ノート
字数:2900
初稿:2000/09/13
初掲:2000/09/13
リンク
DATA:ロマン・ロラン
DATA:『愛と死との戯れ』
岩波書店
参考文献・関連事項
コメント
 
本文=黒字 ・ 要約=赤字引用=青字

参考文献

関連事項

…サイト内へリンク …サイト外へリンク
ホーム書評 [ 前の書評 | リスト | 次の書評 ]ページプロパティ
ページの一番上に戻ります。 ひとつ上の階層に戻ります。