フランス革命期を舞台に愛と死、理想と現実の相克を描き出す。
"Le Jeu de L'Amour et de La Mort", 1925
『愛と死との戯れ』(片山敏彦訳、岩波文庫、1927年)
あらすじ 【2】 1925年に書かれたこの戯曲は、『七月十四日』『ダントン』『狼』『理性の勝利』と続く「フランス革命劇連作」のうちの一つである。舞台にフランス革命を選んではいるものの、そこには、第一次大戦期を生きた人道主義者・平和主義者ロマン・ロランの、経験に根ざした思想を、はっきりとうかがうことができる。 この戯曲の基調をなす「愛」と「死」との対立は、ソフィーにとっては、ヴァレーとともに国外へ逃れるか、それとも夫ジェロームのもとにとどまって死を受け入れるか、という形で現れる。彼女は最後にジェロームとともに残ることを選ぶ(それは死を暗示する)が、それはヴァレーへの愛が敗北したことを意味するのではない。「今ほどあなたを愛していることはない」(107ページ)というソフィーの告白は、ヴァレーを一人で行かせることを決断した瞬間の言葉であるからこそ、疑いようもなく真実の響きをもって迫ってくるのである。 「真理や愛や、あらゆる人間らしい徳性や自尊心を未来のために犠牲にするということは、とりも直さず未来そのものを犠牲にし亡ぼすことだ。正義は罪に汚れた地面からは生えはしない。」 ――ジェローム(90ページ) これは、かつてなされたうちでも最も美しく、力強く、そして見事な、理想主義的立場の表明のひとつであろう。そこには政治的妥協はない。論理はきわめて単純で、明晰である。 【3】 しかし、ジェロームはまたこの思想のために、革命議会を追われ、死に追いやられることを甘んじなければならないのである。愛を選ぶことが同時に死を選ぶことにならざるを得ない矛盾を、ジェロームは受け入れるのだ。愛と真理のために妥協をしない者(ジェローム)が死にゆくかたわらで、幾多の死屍をあえて踏み越えていこうとする者(カルノー)が生き延び、新しい時代、愛と真理とが守られるかもしれない次の世代を準備する。ここにおいて「愛」と「死」の当初の対立は奇妙にも解消され、やや不可解な和解もしくは融合状態におちこむ。 【4】 おそらくたしかなことは、ロランは自分の生きた第一次大戦の混乱の中で、人間の愛情や誠実さが息を吹き返すことを願ってやまなかったであろうし、かれの置かれたその状況が、フランス革命を舞台としたこの戯曲における「愛」と「死」との対立にも投影されているだろうということだ。ソフィーやジェロームが直面した矛盾は、ロラン自身が直面した矛盾でもあったはずだ。そしてロラン自身は、おそらく、この対立に対する二とおりの対処のいずれにも理解を示しながら、両者のいずれもが結局のところ帰着するところの、平和と人間性との保護を追求しつづけたのだと、私は思う。ソフィーとジェロームは、愛と真理のために妥協せず、死を選んだ。しかしその一方で、妥協をしたカルノーやヴァレーは現実を担って生き続け、次の時代の愛と真理のために戦うだろう。 革命の将来に、ということはつまりかれ自身の時代の将来にも、ということだが、ロランが人間の将来に強い信頼を抱いていたことをうかがわせる言葉をひいて、その例証としよう。 山々を越えた向うの土地と、うねり流れる河とを――「人間精神の進歩」を、大きい想像力の中に抱きしめることができるには十分なだけ高い場所に登る力をあなたは持っていらっしゃる。その進展の道筋をたどるためには二年三年の月日で十分だなどとあなたは一度だってお信じになったことはないではございませんか。いくつもの障害やいくつもの後もどりをするいく世紀の姿を、あなたは前もって見通していらっしゃる。いいえ、いいえ、私たちは「約束された国」を自分の目で見ることはありますまい。けれど、どこにその国があるかということを知り、そこへ行く道を示すだけで十分ではございませんか? 他の人たちが来るでしょう。もっと若い、もっと強い人たちが来るでしょう。その人たちは、中絶された道を、新しい力をもって歩きつづけて行くでしょう。 ――ソフィー(67ページ) |
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