【1】 私が小学校時代に読んだ本のうちで、現在もなお題名や内容が強い印象をもって記憶に残っているという意味で、最も影響を受けた本を挙げるとすれば、それは二冊ある。ひとつは『消えた二ページ』、もうひとつは『木曜日のとなり』である。
本書『消えた二ページ』は小学校低学年のころに読んで、よく理解できないままだったのだが、こんど、寺村輝夫全童話に収録されているのを知って、おそらく17、8年ぶりに再読した。
この物語は寺村輝夫の「王さまシリーズ」の一冊で、筋そのものや文章は決して難しくはないのだが、内容はかなり哲学的である。子どもの頃の私は、この物語の言わんとすることがさっぱり理解できず、それでも、わけもわからず強烈な印象を受けたことだけを、はっきりと覚えている。主人公の友太が王様に捕まって逆さ吊りにされる場面の陰惨な光景などが、鮮明に記憶に残っているのだ。
今度あらためて読み返してみて、こんな話が十歳になるならずの子どもに十分に理解できるはずもなかった、と思った。たしかに物語の道具立ては、小学校やお城といった童話向けのものである。けれどもここでは、私たち大人でも立ち止まって考えてみずにはいられないような、非常に深く、大切なことがらが扱われている。この物語の本当の意味を理解するには、大人になってから読んでみることが必要だし、大人にもぜひ読んでもらいたいと思う。もっとも、それでも十歳くらいの子どもにも読んでもらいたい本であることに変わりはないのだが。
あらすじ
【2】 お母さんにおこられてばかりいる小学四年生の友太は、学級会で、家でいちばん忙しいのは自分だという発言をしたが、誰にも賛成してもらえない。その日の放課後、「にげだせ王さま」という童話を妹のカオリに読んでやった友太は、その本の29ページと30ページの2ページ分が切り取られてなくなっているのに気づく。その本は、大臣や博士にうるさく説教されたわがままな王さまが、大臣たちを牢屋に入れて城を抜け出して「ぼくは、自由だ!」と叫んだ後、なくなったページをはさんで、王さまが自分の城に戻ってくるところへつながっていた。
翌日、友太は六年生の図書委員の松前ゆり子と白目の少年に呼び出されて、図書館のページを切り取っただろうと濡れ衣を着せられる。図書館の「にげだせ王さま」も、29ページと30ページが切り取られていたのだ。そればかりか、友だちの田山くんの弟の同じ本も、本屋に置いてある同じ本も、29ページと30ページが切り取られていた。そして、図書委員の白目の少年は友太の行く先々に現れ、友太を犯人扱いして「かくごはいいか。」と不気味な警告をする。
消えた2ページに何が書いてあったのか気になる友太は、王さまと同じように、自分も逃げだそうと考える。翌日、学校が終わったあと、友太は白目の少年の追跡を逃れて、川のほとりのがけにある横穴へもぐり込む。友太は王さまと同じように解放感を感じ、「ぼくは自由だ!」と叫ぶ。
そのとき、「いや、自由ではないぞ」という声がして、友太は暗がりに引きずり込まれる。気がつくと、そこはお城の牢屋で、眼の前には王さまに閉じこめられた大臣や博士たちがいた。牢屋に入れられた大臣たちは、<わがままをやめさせる会>を作って、王さまを真似する子どもが出てこないように、「にげだせ王さま」の29ページと30ページをすべて切り取ってしまったのだという。友太は床屋、隊長、コック、博士たちに、嫌いなことを無理やりさせられた後、思ったことと反対のことをしなければならない、という「はんたい学」を覚えさせられる。
ふと気づいた友太は夢から覚めて歩いていた。家に帰りたくないと思った友太は「はんたい学」に従って家に戻る。うがいをしたくないと思った友太はすすんでうがいをしてお母さんに褒められる。やりたいことの反対をする度に、友太は見違えるようにいい子になっていった。
【3】 学校へ行った友太は、白目の少年(その名前は王野くんだった)が転校してしまったことを知った。作文の時間に、友太は「にげだせ王さま」の消えた2ページを想像して書いてみる。そこでは、<わがままをやめさせる会>の大臣たちが逃げた王さまを先回りして王さまの邪魔をし、とうとう王さまにわがままをやめさせる、という結末になっていた。その作文を褒められた友太は、自分がやりたいことの反対をやると褒められることに気がつく。
友太は「はんたい学」をすっかり信じ込む。もう家出なんかしたくないと思った友太は、「はんたい学」に従って再び家出する。海に行こうと思った友太は、「はんたい学」に従って山に行くことにする。電車で行こうとした友太は、駅員に促されるまま、駅に止まってもいないのに客が減っていく不思議な電車に乗った。そして気がつくと、隣の席にはあの白目の王野少年が座っていた。友太がもう一度王野少年を見ると、王野少年は本に出てくる王さまに変わっていた。
友太は再びお城の牢屋にいた。王さまに捕らえられて、牢屋の天井からぶら下げられていたのだ。そこには、大臣たち<わがままをやめさせる会>の五人も同じようにぶら下げられていた。王さまは大臣たちや「はんたい学」を嘲笑い、わがままになることを友太に約束させる。王さまは大臣たちが切り取った2ページに火をつけて燃やしてしまう。すると燃えたページから活字が火の粉になって、お城の窓から外へ飛び出していった。
目が覚めた友太は自分の家にいた。お城の出来事を思い出してカオリの持っている「にげだせ王さま」を調べてみると、白紙の29ページと、たった二行だけ書かれた30ページが戻っていた。
――わがまま、はんたい。はんたい学で、ほめられる、子どもになれ。
――わがまま、いたずらで、ママや、先生のいうことをきくのを、やめよう。
【4】 王さまとの約束を思い出した友太は、いたずらを始める。カオリの教科書をこっそり隠した友太は、カオリが騒ぎ出した後、自分が探し出してやったようなふりをしてまた褒められる。水道に細工をしたり、学校をずる休みしたり、小さな子どもからチューインガムを取りあげたりするが、誰も友太を疑わず、かえって友太の評判は良くなる。友太は、病院で田山くんの弟の持っている「にげだせ王さま」を見て、その29ページと30ページが戻っているのを知る。そこでは、お城を抜け出した王さまは、川や山や海へ行ったものの、色々な障害にあう。海へ行ってヨットに乗ろうとするが、風が吹かない。そうして、結局なにも楽しいこともなく、王さまはお城へ戻ってきていたのだった。
図書館の「にげだせ王さま」にも田山くんの弟の本と同じ文章の消えた2ページが戻ってきていた。同時に、友太が以前書いた作文が評判になり、友太は読書クラブで発表することになる。友太の作文が読み上げられると、上級生や先生は作文の結末を賞賛し、大臣たちが王さまにわがままをやめさせる友太の結末のほうが正しいという解釈を披露する。だが、そのとき、友太は思わず「ちがうよっ。」と叫んでいた。
――「ぼく、おかしいと思うんだ。いい子は、わるいことをしてもいいけど、わるい子と思われちゃったら、なにをしても、けっしてほめられないじゃないか。」
けれども友太の発言は、チャイムの音に遮られてしまう。友太は無力感に襲われながらも、「この本は、うその本だ。」と考える。そしてカオリの本に戻っていたたった2行だけのページのことを思い出す。
――友太には、この二行の文章の、どっちをえらぶかがもんだいなのだ。
――「この本だけ読んだって、わかりゃしないのさ。」
――この本で正しいのは、ざんねんそうに海をながめている、この王さまだけだ。
気がつくと、友太はヨットの上にいた。ヨットは海を走っていた。風が吹いている。そして友太は言った、「さあ、出発だ。」。
【5】 本の2ページが消える――この物語の中心的な動因となっているその不可思議な現象は、結論からいえば、お母さんや先生に叱られてばかりいる小学生・友太に対する、根源的な問題提起である。消えた2ページには、何が書いてあったのか? 自由になりたくてお城を逃げ出した王さまは、その後、どうなったのか? 空白になったその部分を、友太自身が埋めることを、友太は要求されているのだ。そしてその問題は、実は、あとで気がつくように、友太自身が現実の中で置かれた状況に、対応しているのである。
消えた2ページの行方を追っていくうちに友太は不思議な体験を重ね、それと同時に日常生活の中で友太の置かれた立場も、三つの段階をとって順に変わってゆく。変遷してゆく友太のその立場を、友太がいい子とみなされているかわるい子とみなされているかという軸、および友太がいいことをするかわるいことをするかという軸とを交差させた、二次元のマトリックスを使って分析してみよう(表参照)。
表
| いいことをする | わるいことをする |
わるい子 | 叱られる…(1) |
いい子 | ほめられる…(2) | ほめられる…(3) |
【6】 最初、友太はちょっとおちこぼれた、だめな子どもだと思われている。友太に正しい言い分があるときでも、お母さんや先生はちゃんと耳を傾けようとはしない。友太は王さまのように自分も逃げ出したいと思っている(表の(1))。
しかし、実際に家出をした友太は、王さまと対立する<わがままをやめさせる会>の大臣たちの手に落ちて、わがままを懲らしめられ、「はんたい学」を教えられて現実に戻される。現実の世界で「はんたい学」を実践した友太は、それだけで自分がいい子になり、褒められるのに気づく(表の(2))。
だが、ふとしたきっかけで今度は王さまに捕らえられた友太は、わがままにふるまうことを約束させられ、現実にもどってそれを実践する。だが、その結果は、わるいことをしても叱られない、ということだった(表の(3))。
こうして、いい子であることとわるい子であることとを両方とも経験した友太は、「いいことをすると褒められて、わるいことをすると叱られる」、あるいは、「言いつけをよく守るのがいい子で、わがままなのがわるい子だ」という、先生やお母さんが掲げる命題が、実は欺瞞であることを見抜かずにはいない。なぜなら、わるい子であることの中に不合理が内在している(正しいときでもわかってもらえない)とともに、いい子であることの中にも同様な不合理が存在する(いたずらをしても叱られない)ことを友太は知ってしまったからだ。それはたとえば、かつて優等生の妹カオリに対して抱いたいらだちと、騙されているのに素直に謝るカオリへの憐憫を含んだ戸惑いという、二つの対照的な感情経験によって得られた認識でもある。
【7】 このようにして、「いい子=いいことをする=褒められる(だからいい子になれ)」「わるい子=わるいことをする=叱られる(だからわるい子にはなるな)」という単純な図式は解体し、友太を、新しい根源的な地平へ導いていく。わるい子として、本当は正しいときでも理解してもらえなかった友太は、その境遇に不満を抱き、そこから逃げ出して自由になりたいと思った。けれども、いい子であっても、実はその不合理から逃れることはできないし、自由になることもできなかったのだ。というのは、正しいことをしても叱られることと同様、いたずらをしても叱られないこともまた、友太の行為に対する裏切りであり、友太の自由の否定であるに違いないからだ。
「にげだせ王さま」が消えた2ページという問題提起によって友太を導いていった新たな地平、それは端的に言えば、自由を獲得することや不自由でなくなることの微妙で複雑な難しさ、という問題にほかならない。城を逃げ出して自由になったと思った王さまは、風が吹かないので動かすことのできないヨットの前で途方に暮れる。王さまは本当に自由になれたのか? もしそうでないとすると、それでは、やはり、わがままを言わずに我慢するのが正しかったのだろうか? 友太は、しかし、以前自分がはんたい学に従って書いた作文の結末を、自ら否定する。それは、お母さんや先生が提供する単純な図式の欺瞞を拒否することにほかならなかった。大臣の言葉と、王さまの言葉の、どちらを選ぶのか。「この本だけ読んだって、わかりゃしないのさ」と言い放ったとき、友太ははじめて、かれを縛っていた問題の率直な真相に到達したのだ。自由になろうと思ってなれなかった王さまの残念さを、自分でそのまま引き受けることを承認した友太は、そのとき、自由と主体性への困難な道程の入口を自らの手でおし開いたのである。ついに風が吹き、友太のヨットは動き始めたのだ。
【8】 友太が海へこぎ出していく場面をもって物語は終わる。この物語のメッセージはそれで十分に伝達されうると私としては考えるが、子ども向けの話であるためか、この物語にはさらに、最後に解説めいた結語が付されており、要を得ている。
しかしきみたちは、そんなとき、自分の考えをハッキリいわなくてはならない。なにをいわれても、なにをきかれても、
「わかんない。」
というのが一ばんいけない。まちがったっていいじゃないか。自分の考えをいってみるんだ。きょういえなかったら、あしたいえばいい。あしたがだめなら、あさってまでに自分の考えをまとめる。いそぐことはない。いけないのは「わかんない」まま考えをやめてしまったり、「わかってくれないんだ」といって考えをやめてしまうことだ。
この物語には、終わりがない。友太はヨットで海へのりだした。そのあとどうなったか――。おそらくは、自分の考えをハッキリさせるために、こわい、おそろしいかもしれない海へでかけていったのだろう。
友太はきっとかえってくる。自分の心とのたたかいにまけようとするきみの中に。
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