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ゲド戦記

成熟、愛、生と死。深い思索に裏打ちされたファンタジーの傑作。
Ursula K. Le Guin "Earthsea Quartet", 1968-1990
ル=グウィン『ゲド戦記(I-IV)』(清水真砂子訳岩波書店1999年)


【1】 以前から名前だけは聞いたことがあって、読みたいと思っていた作品だった。岩波書店から「物語コレクション」の一部として刊行された機会に入手した。
 まだ中学生だったころ、ファンタジー小説がとても好きで、あれこれと読み漁っていた時期がある。この作品を読んでいたら、その頃に戻れたような、なつかしい気分になった。竜と魔法と迷宮、そして素朴な人間たちがつつましく暮らす世界、神話と伝説がまだ息づいており、ひとが自然から十分に独立せずにいた時代、そうした背景のもとで繰り広げられる主人公の冒険の旅、登場人物たちの行動を通じてさりげなく語られる人の世の摂理。『ゲド戦記』は、そうしたファンタジー小説の要素を余すところなく備えた、伝統的なファンタジー作品である。

第一部『影との戦い』
(A Wizard of Earthsea, 1968)

【2】 自分の才に溺れる若き魔法使いゲドが、その思い上がりから誤って呼び出してしまった「影」と対決し、それにうち勝つまでの物語。その「影」の真の名を知ることが、「影」に勝つためのキーポイントになるのだが……。「影」の正体を知ったとき、ゲドの師・オジオンの次の言葉の含蓄の深さに打たれずにはいられない。

「人は自分の行きつくところをできるものなら知りたいと思う。だが、一度は振り返り、向きなおって、源までさかのぼり、そこを自分の中にとりこまなくては、人は自分の行きつくところを知ることはできんのじゃ。」――オジオン(213ページ)

第二部『こわれた腕環』
(The Tombs of Atuan, 1971)

【3】 なにをおいてもまず、本書もファンタジーとして十分に楽しめる作品となっている。たとえば本書の舞台となるアチュアンの墓所の迷宮の地図が巻頭に掲げられているのだが、物語中に出てくる迷宮の記述がこの地図と逐一符合していて、登場人物の移動経路を正確にたどることができるのなどは、子どものころ地図を描くのが好きだった私にはかなり楽しめた。また、描写される風景の美しさも第一部をしのぐ。丘の上から見下ろした夕闇迫る神殿の光景が、強く私の印象に残っている。

 さて、この第二部で重要な意味をもっているのは「迷宮」と「腕環」である。「名なき者たち」を祀るアチュアンの迷宮は複雑に入り組み、そこに立ち入った者を迷わせ、命を奪う。人はそこで迷い、さすらって、運が悪ければその虜となり、正気を失ったり命を落としたりもする(コシルのように)。神殿の地下に広がるこの複雑怪奇な洞窟の網の目は、まぎれもなく、人のこころの暗喩であろう。
 その暗黒の迷宮の奥に隠された宝は、エレス・アクベの腕環のこわれた片割れである。見た目にはたいした値打ち物とも見えないその腕環は、二つの破片が合わさったとき、世界に平和をもたらすとされている。第二部において、ゲドは、すでに腕環の片方を手に入れ、残る他方を得て腕環を完成させるためにアチュアンの迷宮に立ち入る侵入者として登場する。

【4】 迷宮の主として宝を守る巫女の少女テナーは、「彼女の迷宮」に侵入した勇者ゲドによって心を乱されながらも、自分の知らなかった世界に対して開かれてゆく。他者・異性へのおびえと不安、好奇心、そしておずおずとした歩み寄り。やがて二人の間に信頼が芽生え、ゲドがテナーに対して自分のまことの名さえ明かすとき、ゲドの持っていた片割れとテナーの守っていたそれとが合わさって完全な腕環となり、テナーを迷宮に縛りつけていた闇の力を鎮めるのである。それぞれの片割れを合わせて全き物となったエレス・アクベの腕環は、ゲドとテナーの間に成立した確かな信頼を体現する。それはまたテナーにとって、他者の受容、そして心の闇からの再生と解放の瞬間をも意味していた。

「生まれ変わるためには、人は死ななきゃならないんだ。しかし、それは、別の見方をもってすれば、さほど、むずかしいことではない。」――ゲド(194ページ)

 少女は彼の手からそれを受けとると、他の半分が下がった銀の鎖を自分の首からはずして鎖をぬきとり、てのひらで注意深く両者を合わせた。完全だった。
 「いっしょに行きます。」少女はうつむいたまま言った。(195ページ)

 テナーが解放されようとするとき、彼女の身辺にいたほとんど唯一の異性であり、彼女の父親代わりだったとも言えるマナンを、一種の事故とはいえ、殺さねばならなかったことは重要である。人はひとりで歩き出すためには、いつかは象徴的な親殺しを経験しなければならないのである。また、平和と信頼をもたらす宝が腕「環」である点も意味深い。元来、円、円環は「完全」を暗示するものとされてきた。私たちは誰しも、自分の心の中にこわれた環の片割れを守りながら、それと合わさることで完全になるもう一方の片割れを求めて、迷宮をさまよっている旅人なのかもしれない。

 テナーは両腕に顔をうずめて泣きだした。その頬が塩辛くぬれた。彼女は悪の奴隷となっていたずらに費やした歳月を悔やんで泣き、自由ゆえの苦しみに泣いた。
 彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。(242-243ページ)

第三部『さいはての島へ』
(The Farthest Shore, 1972)

【5】 ゲドの生涯を描いた四部作の第一部が「自己の発見」を、第二部が「他者との出会い」を扱ったとすれば、この第三部で語られるのは「死すべき運命の受容」である。第一部と第二部が、人が大人になり世界に向き合ってゆくための戦いの物語であったのに対して、第三部と第四部は、大人が、この世界と和解し、そこを正しく去ってゆくための知恵の物語なのである。

 大賢人ゲドは、ハブナーの王になるものと見込んだ若き王子レバンネンを伴い、死を回避することで永遠の生を得ようとする悪しき魔法使いの企みを阻止するために、さいはての島へ向かう。不安に負け、大きすぎる望みを持ち、そのゆえに言葉を失い、心を蝕まれてゆく人々の中を旅しながら、ゲドは死を直視すること、何もかもを望んだりすべきではないことを、新しい王となるであろうレバンネンに伝える。それは、古い指導者ゲドから新しい指導者レバンネンへの仕事の継承の儀式であり、同時に、ゲド自身が死を受容していくための手続、そして若者レバンネンが新たに生きることの苦しみを引き受けるための手続でもあった。
【6】 死を思いながら生きること、それは人間の分を越えるほど多くを望まぬことを学ぶことである。私たちは誰もが、この束の間の生を生き、やがて死んでゆく。私たちの喜びも悲しみも、すべてはそのとき再び死の世界に包まれ、もと来たところへ還ってゆく。もし、そのような運命を受容する力を持たないならば、そのとき人は不安の奴隷となって道を誤り、「永遠に生き」ようとして、つまり自己の影響力を後々まで残そうとして、醜いふるまいに陥っていくだろう。そのようなふるまいがどれほど世界を狂わせ、人間の心を損なってゆくかを、私たちは、私たちの生きているこの現実の世界に引きつけながら、本書の中に読み取ることができる。

「しかし、ただ生きたいと思うだけではなくて、さらにその上に別の力、たとえば、限りない富とか、絶対の安全とか、不死とか、そういうものを求めるようになったら、その時、人間の願望は欲望に変わるのだ。そして、もしも知識がその欲望と手を結んだら、その時こそ、邪なるものが立ちあがる。そうなると、この世の均衡はゆるぎ、破滅へと大きく傾いていくのだよ。」――ゲド(67ページ)

「よいか、この世に安全などというものはないし、完全な終わりというものもない。ことばを聞くには静寂がいる。星を見るには闇がいる。踊りというものはいつもがらんどうの穴の上で、底知れぬ恐ろしい割れ目の上で踊られるものさ。」――ゲド(221ページ)

「わしにとって、すべては終わろうとしている。ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け容れる力だ。」――ゲド(250ページ)

 私たちは永遠に生きることはできないのである。その単純な事実を見据えることを恐れて、人は遺産を築き、他人を操作しようとし、自分のその根源的な無力を糊塗しようと試みる。だが、それはしょせん空しい努力でしかない。大切なのは死すべき運命を受容する勇気であり、私たちの根源的無力を直視する勇気である。そして本当は、そうして私たちが一人ひとり誠実に死に向き合うことによってこそ、その正しいふるまいが新しい世代に残り、受け継がれ、そのようなあり方においてのみ、おそらく唯一の可能な意味における「永遠」が、実現していくのではないのだろうか。

第四部『帰還』
(Tehanu, 1990)

「ただね、わたしたちって、ちがいをあげつらっては、ぐちってるような気がするの。」――テナー(168ページ)

 起きてしまった不条理はのりこえていくしかないことくらい、このわたしにだってわかっていたのに。(180ページ)

 どうしていつも男たちはこの世界を仮面舞踏会に変え、女たちもどうしてこう、いともたやすくそこで踊りたがるようになるのか、そのことに驚かないではいられなかった。(233ページ)

「それで、わたし、考えたの。人が力を持つためにはまずその力をとりこむだけの余地がなければならないって。満たすべき空白がまずなくてはって。そして、その空白が大きければ大きいほど、より大きな力がそこには入りこめるんだって。でも、もしも力が得られなくても、あるいはいったんそこを満たした力がよそにとられるか、捨て去られるかしても、それはまだそこにあるのかしら?」――テナー(328ページ)

ノート
字数:4100
初稿:1999/12頃
初掲:1999/12/18
追加:2000/01/11
追加:2000/02/27
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