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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

資本主義的精神の成立を分析した社会学の古典。
Max Weber "Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus", 1920
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳岩波文庫1989年)


【1】 中世ヨーロッパにおいて圧倒的に優位な権力を握っていたカトリック教会は、15世紀から16世紀にかけて、腐敗の極みに達していた。人々に救済を保証するはずのキリスト教はカトリック教会によって管理される世俗宗教となり、人間が救われるためには教会を媒介とした神の恩恵に浴しなければならないとの教えが、免罪符の発行を正当化して教会の財源に貢献していたのである。喜捨をはじめとする行為は神の恩恵の存在根拠とされ、これら行為の代償に恩恵を与えられるとする取引的信仰観が世俗の人間たちを支配していた。
 免罪符の批判を通じてこうした傾向を結果的に根本から転換したのが、マルティン・ルターであった。一人ひとりの人間がただ信仰のみによって神との神秘的合一を果たすことにで、その恩恵を蒙ることができるとするルターの思想、すなわち「信仰のみ」と「万人司祭主義」とは、恩恵の存在根拠であった行為をその認識根拠へと転換する役割を担った。そして、ここにいう信仰に現世の隣人愛が含められていた点において、宗教改革はすでにのちの現世肯定の原型をなしていたと言いうるのである。

【2】 しかしルターにおいて依然として静寂主義的であったその宗教改革思想は、カルヴァンにおいてより現世的な倫理へと変貌を遂げる。カルヴァンは神の超越性を強調し、ある人間が救済されるか否かはあらかじめ予定されていて、現世での人間の行為によっては変更することができないと説いた(救済予定説)。いっけん宿命論的で、人々に無力感を抱かせるかのようなこの思想は、しかし、日常生活の倫理的問題から人々を解放するとともに、「救われるべく定められていることの確証はその人間の現世での栄光として現れる」という別の教えを伴うことによって、人々を世俗内的禁欲へと巧みに振り向けることに成功した。なぜなら、救済への不安を抱き、自分は神に選ばれていると信じたい人々は、その確証を求めて現世での職業生活にエネルギーを傾注していったからである。

【3】 こうして宗教改革は皮肉にも、教会への奉仕から人々を解放し、現世における組織的・合理的な禁欲的職業生活への従事へと人々を駆りたてた。ここにおいて、禁欲の概念は、修道院の中で追求される修道士のそれから、世俗社会一般に拡大された職業的なそれへと変化していったのである。これこそが、まさに、資本主義の登場にとって欠くことのできぬ前提であった。
 世俗的禁欲の拡大は、まず精神面において、禁欲の手段としての労働を要求した。ここから、金銭上の利益を組織的・合理的に追求しようとする資本主義的人間の精神が形成されるに至る。いっぽう、こうした禁欲的労働はしばしば商業上の成功に結びつきながら、ほかならぬ禁欲の精神そのものによって、獲得された金銭の享楽的浪費は忌むべきものとされる。こうして、世界史上はじめて、蓄積されながら消費されることのない大量の金銭が姿を現してくるのである。すなわち、資本の登場である。

【4】 資本主義的精神の形成と資本の登場、この二つの要因によって(しかしヴェーバーは前者が主要な要素であることを強調した)、資本主義は発展・勝利し、近代社会の推進力となった。やがて、ここから宗教的支柱だけが脱落し、いまや機械文明を特徴とする高度資本主義を人類は迎えようとしているのである――というのが、本書刊行時におけるヴェーバーの結論であった。

ノート
字数:1300
初稿:1999/12頃
初掲:1999/12/06
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