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ルーゴン・マッカール双書 第17巻 章立て 登場人物 二つの殺人
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抜粋集 - 第17巻『獣人』

ジャックの「病気」

作中で重要な役割を果たすのがジャックの「病気」と呼ばれるものである。女を見ると殺人欲求がおこるという、まったく不合理で不可解な衝動に悩まされ続けるジャックが、殺人現場の目撃、束の間の愛情の時期を経てついに発作に至るまでの過程が、この作品を貫く一つのテーマになっている。

そこで彼は息をはずませながら、闘いをやめ、彼女をわが物とするかわりにじっと見据えた。熱狂的な怒りにとりつかれたかのようで、兇暴な気持にかられてあたりを見まわし、刃物か石か、要するになにか彼女をぶち殺すものをさがした。
(第2章、280ページ)

フロールをものにしようとして揉み合い、押し倒した直後。ここで初めて、読者にジャックの病気の正体がはっきりと明らかになる。

だしぬけに彼はあの娘を殺そうとした! 女を殺せ、女を殺せ! という叫びが、情欲がしだいに高まり熱狂的になるとともに、彼の若さの奥底から湧きおこって、耳もとで鳴りひびいた。他の若者たちが思春期の目ざめによって女の肉体を所有することを夢みるときに、彼は女を殺そうと考えてたけり狂っていたのだ。女のあたたかな白い肌身や胸をみると、自分をごまかすことができず、たしかにたちまち鋏をとってその肉身にぶちこもうとしたからだ。しかもそれは彼女が抵抗したからではない、否! 快楽のためだったのだ、もしも彼が草の根にしがみついていなかったら、彼女の喉をかき切って殺すために大急ぎで駆けもどったろうと思えるほどに快楽への強いあこがれをもったからなのだ。
(第2章、281ページ)

ジャックの病気の解説。

ほかの人と比べて、いったい自分はどこがちがうのか? あのプラサンで、若いころにすでにたびたび自問した。なるほど母のジェルヴェーズはまだ十五歳半という非常な若さで彼を生んだ。だが次男として生れたのであり、母が長男のクロードを生んだときには、ようやく十四歳にかかったばかりだった。しかも二人の兄弟のどちらも、つまりクロードも、後日生れたエチエンヌも、それほど幼い母親や、彼女とかわらずいたずらっ子の父親(たしかに母ジェルヴェーズはこの美男のランチエの意地まがりのためにうんと泣かされたにはちがいないが)のことで悩むようにはみえなかった。だがたぶんこの兄弟たちも打ち明けていわない疾患をそれぞれもっていたのだろう、自分の天分になかば夢中になっているといわれたほど熱狂的に画家になりたがってもだえていた兄のほうが特にそうだった。この一家はあまり健康ではなく、多くの者がいくらか気が変だった。彼自身にしても、おりにふれてたしかにこの遺伝的な精神の異常を感じた。
(第2章、281ページ)

ジャックの病気の遺伝的起源?

ではそれははるかに遠い昔から、女たちが彼の家系にあたえた害悪から、洞窟の奥での最初の裏切り以来男から男へと積もりつもった恨みから、きているのだろうか? 彼はまた発作のなかで、女を征服し支配するための戦いの必要を、殺した女をほかの男たちから永久に奪いとった獲物のように肩にひっかつぎたいとの変態的な欲求をおぼえた。
(第2章、282ページ)

ジャックの病気は原始人からの(遺伝的)継承だというのがゾラの説明だが、ここらへんはもう少し別の解釈の余地もありそうである。

そして事実、この機関車を運転するようになった四年前から、まるで恋するようにこれを愛した。彼は素直なのや強情なの、勇敢なのやものぐさなのなど、いろいろな機関車を手がけたことがあり、それぞれが特有の性格をもったが、多くは、世の常の女についていわれるように、たいしたものではないことを知らなくはなかった。そこで特にこの機関車を愛したのは、たしかにこれが気質のいい女の珍しい長所をそなえていたからだ。彼女はおとなしく、素直で、辷りだしがよく、気化が良好なので進行が規則正しく順調だった。
(第5章、333ページ)

ジャックは女を愛さない代わりに、機関車を女性名で呼んで愛する。

つとめて眠ろうとしてやっとまどろみかけるのだが、そのたびにひとつの強迫観念がくりかえし浮んできて、さまざまな映像が次から次と続き、おなじ感覚を目覚めさせるのだった。じっと見すえた大きく見開かれた彼の目に見えるものといったら一面の闇しかないのだが、このようにして機械のような正確さで彼の網膜の上にくりひろげられるのは、こまごまとした殺人の情景だった。いつまでもその情景が脳裡に蘇り、心中に踏み入り、狂おしく心をかきたてるのだった。ナイフが鋭い音をたてて喉に突きささり、全身に三度長い痙攣がはしり、生命がなまあたたかい血潮となって流れ出て、赤い潮が手の上を流れるのを感じた。二十ぺん、三十ぺん、ナイフが突きささり、全身がのたうった。その感覚はしだいにふくれあがり、彼を息づまらせ、あふれ出て、夜の闇を輝かせた。ああ! こんなふうにナイフを突きたて、昔からのあの欲望を満たし、どんな気持がするか知ることができたらなあ! 全生涯も比べものにならぬほど生命感にあふれたこの一瞬を一度味わってみたいものだ。
(第8章、380-381ページ)

ここまでくるとかなりやばい。セヴリーヌからグランモラン殺害の様子を聞かされて、ジャックの欲望はいっそう具体的なイメージに支えられるようになってくる。

耳のうしろが焼けるようにあつくなり、頭をえぐられ、腕から足にかけて業火に焼かれるような熱さを感じた。なにか自分でない、獣のようなものが、彼の内部に踏みこみ、彼自身の身体から、彼を追い出してしまった。彼の手は、女の裸体に酔いしれて、もう自分のものではなくなろうとしていた。着物の上からあらわな乳房をおしつけられ、白いしなやかな首をさしだされて、もうどうにも誘惑に勝てそうになかった。そして、とうとう、あたたかい、強烈な、圧倒的な女の体臭が、おそるべきめまい、はてしない動揺の中に彼を投げいれた。そして、しだいに意志の力がうばわれ、うすれ、消えていった。
(第11章、437ページ)

ルーボー殺害を期して息をひそめているこの夜、ジャックの中で獣が目覚める。

ジャックは、ふりむかずに、右手で背後をさぐり、ナイフをとった。そして、しばらくそのまま握りしめていた。それは、正確な記憶は失われてしまった遠い昔の侮辱に対する復讐心、洞穴の奥で最初に女にだまされて以来、男から男へと蓄積されてきたあの怨みつらみであったろうか? 彼は、狂った目をじっとセヴリーヌの上にすえて、ほかのものから獲物を奪うときのように、彼女を仰向けにうちたおすことしか考えていなかった。おそろしい扉が、この真暗な性の深淵にむかってひらかれた。死の中にまで愛を求め、もっと所有したいばかりに、殺してしまうのだ。
(第11章、437ページ)

ふたたびジャックの欲望の意味と起源。

この一年間、この避けがたい目標に向かって歩かなかったことは、一時間もなかった。接吻しているときにも、この女の首もとで、彼のひそかな営みが、完成されつつあったのだ。つまり、このふたつの殺人は、ひとつに結びついていたのであり、ひとつは他の論理的帰結ではなかったろうか?
(第11章、438ページ)

グランモラン殺害からセヴリーヌ殺害へと至る糸。グランモラン殺害の目撃によって、彼の中の獣は目覚めてしまったのだろうか?

損得の勘定を忘れて、彼は、昔、原始林の中で獣をたたき殺したころの激しさ、殺意に負けてしまったのだ。どうして理屈で人が殺せよう! むかしの格闘のなごりである血と神経の衝動、生きるための必要、強いということのよろこびがあって、はじめて人が殺せるのだ。
(第11章、438ページ)

ジャックの欲望の意味と起源。

獣たち

「獣人」がジャックに内在する衝動を指していることは明らかだが、本作では、ジャックのほかにもさまざまなものが獣性の担い手とみなされている。ルーボー、グランモラン、セヴリーヌ、ミザール、フロール、そして機関車ラ・リゾン。誰もが獣の一面をもってうごめいている。

「たしかに、けっこうな発明さ、それにゃなにも文句はないよ。こんなに速くいけるんだもの、人間が利口になってるんだよ……だけど野蛮なけだものはいつだって野蛮なけだものだよ、もっとよい機械を発明しても無駄で、その下にはやっぱり野蛮なけだものがいるにちがいないよ」
――ファジー
(第2章、275ページ)

ここでは、ファジーおばさんは機関車のなかに獣の存在を見ている。

他の人々のこと、ひっきりなしのこの人波のことは、フロールはすこしも考えてみなかった。それは彼女にとって、何人でもなかった。彼女の知りもしないひとたちだった。そして、列車をひっくりかえしてやろう、多くの人命を犠牲にすることもやむを得ないというこの考えが、執念のようにかたときも彼女の頭をはなれず、涙にふくれあがった彼女の心を洗い清めるに足る結末としては、これしかないように思われた。人間の血と苦悶からなるたいした結末だった。
(第10章、407-408ページ)

この作品でもっとも強烈な意志の持ち主、フロール。その断固たる意志のなかにも、明らかに一匹の「獣」が存在する。

そして、通夜をしているこの陰気な部屋で、死の雰囲気につつまれていると、なにもかも根だやしにしたいという欲望がいよいよ高まった。自分を愛してくれる人はもうひとりもいないのだから、みんなおっかさんといっしょに死んでしまえばいいのだ。死者はもっともっとつづくだろう。死はひと息に皆をさらっていくだろう。妹も死んだ。母も死んだ。自分の愛も死んだ。どうしよう。
(第10章、409ページ)

こうして、フロールはジャックとセヴリーヌを殺害するためラ・リゾンに事故を起こさせることを決意する。

そして、いっさいの束縛から解放された機関車は、走りに走りつづけた。気まぐれですねものの機関車は、まだ馴らされてない牝馬が、馬丁の手をはなれたときのように、若気にまかせて、たいらな野原を駆けていった。(…中略…)ぎっしり積めこまれて、酔いがまわった兵士たちは、この猛烈なスピードにたちまちはしゃぎだし、いっそう大声で歌った。信号が近づいても、駅を通過するときでももう汽笛は鳴らなかった。それは、もうまっしぐらの驀進だった。獣が頭をさげて無言のまま障害物の中につっこんで行くのと同じだ。自分のはきだす鋭い音にますます狂ったようになって、機関車はとめどなく走りつづけた。
(第12章、457ページ)

機関士と火夫の両方を失い、獣のように暴走する機関車。圧倒的で盲目なエネルギーの極致である。

ひた走る列車

蒸気機関車という物体を、これほど美しく、愛情込めて描き出した作品は珍しいと言われる。まるでフランスの血液のように、人々を乗せて走り抜ける列車と、それを先導する漆黒の機関車の姿に、ゾラは一種の超人的人格を見出している。

それは、頭をパリにおき、椎骨を全線にわたってのばし、四肢を支線とともにひろげ、足と手とをル・アーヴルやその他の終点の町々において、大地に長々と横たわる大きな人体、巨大な存在のようであった。それは勝ち誇って、機械的に次々と通り、両側の沿線にかくれて根強く生きつづける人間の残りの部分を、不滅の情熱や不滅の犯罪を、わざと無視して、数学的な確かさで未来にむかって進んだ。
(第2章、277ページ)

未来へ向かってひた走る機関車のイメージ、その1。

列車はさらに次々と通りすぎ、もう一本のパリ行きが長い尾をひいてやってきた。どれもこれもみんな、冷酷な機械の力で飛びちがい、どこかの男に惨殺されたこの男のなかば裁ち切られた頭のことなど気にもしないで、そばをかすめて通りぬけ、それぞれのはるかな目的にむかい、未来にむかって突っ走った。
(第2章、288ページ)

未来へ向かってひた走る機関車のイメージ、その2。人間の業を踏み越えて盲目的に突き進む不可解なエネルギーとして機関車が捉えられている。

列車は、一定の間隔をおいて通りすぎ、上り下りがすれちがった。上下線とも完全に開通したところだった。列車は、こうした悲劇も犯罪も知らぬふりで、情け容赦もなく、無遠慮に、全速力で走りすぎた。途中で汽車から投げ出され車輪の下におしつぶされた見知らぬ人間どものことなぞ、どうでもいいのだ! 死体は片づけられ、血は洗われ、人々はふたたび、彼方へ、未来へと向って出発した。
(第10章結語、423ページ)

未来へ向かってひた走る機関車のイメージ、その3。繰り返し語られる「無情な機械」の姿。

機関車が途中でふみつぶしていった犠牲者なぞなんであろう! 列車はとびちる血潮など意に介さず、未来へと向ってしゃにむに進んでいたのではないか? 機関士も乗せずに、闇の中を、死の中にはなたれた目もみえず耳もきこえぬ獣のように、もう疲れきって呆然としながら、酔いにまかせてがなりたてている兵士という肉弾を積んで、列車は果てしなく走りつづけた。
(第12章、457ページ)

結語。暴走列車は、死を賭けた戦闘に赴く兵士たちを載せている。未知の、おそらくは残酷で破滅的な未来へ向けて突進する機関車はここで、崩壊を間近にした第二帝政の将来に重ね合わせられているかのようでもある。

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