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私訳『プラッサンの征服』
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プラッサンの征服

La Conquête de Plassans
par Émile Zola, 1874
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第1章

【1】 デジレは手を叩いた。14歳の少女で、年相応に丈夫だが、5歳の女の子のように笑った。
「ママ、ママ、あたしのお人形を見て!」 彼女は叫んだ。
 彼女は母親のほうにぼろ切れを掲げて見せた。15分前から、それを丸めたり、糸くずを使って切れっ端で絞りあげたりして、人形を作ることに夢中になっていたのだ。マルトは、刺繍の繊細なところを繕うために伏せていた眼をあげて、デジレに微笑んだ。
「それじゃ赤ちゃん人形じゃないの」 彼女は言った。
「ほら、一人前のお人形さんにしなさいな。奥さまみたいにスカートをつけなきゃいけないでしょ」
 彼女は裁縫台の中で見つけたインド布の裁ちくずを娘に与えた。それからまた下を向いて念入りに仕事を続けた。二人はともに狭いテラスの一隅で座っていて、娘のほうは母の足もとの腰かけに腰をおろしていた。沈みかけた、まだ暑い九月の太陽が、二人を穏やかな光に浸していた。そのいっぽうで、彼女たちの目の前では、庭がすでに灰色の陰の中にあって眠りについていた。家の外では、街のこのひとけのない一隅には、物音ひとつしていなかった。
 そうして、彼女たちはたっぷり10分ものあいだ黙ったまま仕事を続けた。デジレは人形にスカートをつけようとして延々と苦労していた。時おりマルトは頭を上げて、少し悲しげな愛情を込めて娘を見つめた。娘がひどく困っているように見えたので、彼女はまた言った。
「待ちなさい。わたしが腕を押さえといてあげるわ」
【2】 彼女は人形を取りあげた。そのとき、17歳と18歳になる二人の少年が外階段を降りてきた。二人はマルトを抱擁しに来た。
「僕らを叱らないでよ、母さん」 オクターヴが陽気に言った。
「セルジュを演奏会に連れて行ったのは僕なんだ。ソーヴェール通りはすごい人出だったよ!」
「わたしはあんたたちが中学校に残ってるんだと思ってたわ」 母親はつぶやいた。
「そうでなかったのなら、もっと心配したでしょうに」
 ところでデジレは、もう人形のことは気にかけず、叫びながらセルジュに抱きついた。
「鳥が飛んでいってしまったの、お兄ちゃんがあたしにくれた、あの青いやつよ」
 彼女はおおいに泣きたい気分だった。この苦しみはもう忘れられたと思っていた母親は、彼女に人形を見せたが無駄だった。彼女は兄の腕をつかんで、庭のほうへ連れて行きながら、見に来て、と繰り返していた。
 セルジュは妹を慰めようという穏やかな優しさで、後についていった。デジレは兄を小さな温室の前に連れて行ったが、その足もとには鳥かごが置いてあった。彼女が別の鳥と喧嘩するのをやめさせようとして扉を開けた瞬間に、その鳥は逃げて行ってしまったのだと彼女は説明した。
「そりゃそうさ、あたりまえじゃないか!」 テラスの手すりの上に座っていたオクターヴが叫んだ。
「あいつはいつも鳥をいじくって、どんなふうにできているかとか、鳴くために喉の中に何かあるんじゃないかとか、そんなことを調べてるんだ。いつだったか、あいつは午後のあいだじゅう鳥をポケットに入れて連れ歩いてたんだぜ、暖めてやるためだって言ってね」
「オクターヴ!」 マルトは叱るように言った。
「あの子をいじめるんじゃありません、可哀そうに」
 デジレは聞いていなかった。彼女は鳥がどんなふうに飛んでいってしまったかを、長々と詳しくセルジュに語って聞かせていた。
「見て、鳥はこんなふうに飛んで、近くにとまったの。ラストワールさんの大きな梨の木のところよ。そこから今度はスモモの木の上に飛び移ったの。それからまたあたしの頭の上を通り過ぎて、郡庁の大きな木の中に入っていったの。そこでもうあたしには見えなくって、あとはもうどこを見てもいなくなっちゃったの」
 デジレの眼の端に涙があふれた。
「きっと戻ってくるよ」 セルジュは思い切って言った。
「そうかしら……? あたし他の鳥を木箱に移して、鳥かごの扉を一晩中開けておくわ」
 オクターヴはこらえきれずに笑い出した。このときマルトはデジレを呼び戻した。
「おいで、ほら、見てごらんなさい」
 彼女は娘に人形を差し出した。人形はみごとになっていた。ごわごわしたスカートをつけ、布地を詰め物にした頭と、肩のところに縫いつけられたへり地でできた腕とを持っていた。デジレの顔は突然の喜びに輝いた。彼女はまた腰かけに座って、もう鳥のことは考えず、小さな子どものように無邪気に人形を手の中で揺すりながら、それに口づけをした。
【3】 セルジュは兄のそばへきて、手すりに肘をついた。マルトはまた下を向いた。
「それじゃ、演奏会があったのね」 彼女は尋ねた。
「毎週木曜日にあるんだ」 オクターヴが答えた。
「母さんが来ないなんて、どうかしてるよ。街中の人が来てるんだぜ、ラストワールさんのお嬢さんがたに、コンダマンの奥さん、パロックさん、市長の奥さんと娘さん……なぜ母さんは来ないのさ?」
 マルトは眼を伏せたまま、繕いを仕上げながら、低い声で言った。
「ねえ、知ってるでしょう、わたしが外出するのを好きじゃないってこと。わたしはここにいるのがとても安心なの。それにデジレの傍に誰かがいてやらなくちゃ」
 オクターヴは口を開いたが、妹を見て黙った。彼は穏やかに口笛を吹き、郡庁の木々がそこにとまっている雀のたてる物音で満たされているのを見上げて、ラストワール氏の梨の木を眺め回しながら、そこにとどまっていた。太陽はそれらの梨の木の後ろに沈んでいた。セルジュはポケットから本を一冊出して念入りに読んでいた。テラスの上でしだいに弱まってゆく金色のみごとな光の中に、無言の愛情でぬくめられた、瞑想的な沈黙が漂っていた。この夕暮れの平和の真ん中で、マルトは三人の子どもたちをじっと見守りながら、大きく規則的な動作で針仕事を続けた。
「それじゃ今日はみんな遅れるのかしら」 ちょっとして彼女はまた言った。
「そろそろ6時になるのに、お父さんは帰ってこないわ……たしかチュレットのほうまで行ったはずなのだけど」
「なんだ!」 オクターヴは言った。
「それなら無理もないさ、チュレットの百姓たちは父さんをつかまえたらもう放そうとしないんだから……父さんは葡萄酒を買い付けに行ったのかい?」
「わからないわ」 マルトは答えた。
「お父さんは仕事のことを話したがらないから」
【4】 ふたたび沈黙がおちた。テラスに面して大きく窓の開いた食堂では、すこし前から、婆やのローズが、皿だの銀器だののけたたましい物音をたてながら食卓を準備していた。彼女はひどいかんしゃくを起こしていて、調度を乱暴に押しやり、ぶつぶつと途切れとぎれの悪態をついていた。それから彼女は通りに面した門のところへ行ってじっと立ち尽くし、首を伸ばして、遠く郡庁の広場を見つめていた。何分か待ってから、外階段のところへ来て叫んだ。
「じゃ、ムーレさんは夕食にはお戻りにならんのですか」
「いいえ、待っていてちょうだいな、ローズ」 マルトは温和に答えた。
「まったく、なにもかもだいなしですよ。常識なんかありゃしないんだから。だんな様があちこち寄り道するんなら、先にそう言っておくべきでしょうに……まあ、どっちにしても私にとっちゃ同じですがね。夕食は食べられなくなってるでしょうよ」
「そうかね、ローズ?」 彼女の後ろで静かな声が言った。
「わしらはそれでも夕食を食べるだろうさ、おまえの作ったやつをな」
 ムーレが帰ってきたのだった。ローズはまさにかんしゃくを破裂させようとして、振り向いて正面から主人を見た。だが、俗っぽいからかいの調子を浮かべたそのきっぱりと落ち着き払った表情を見て、彼女は言葉を失って、そのまま行ってしまった。ムーレはテラスに下りてきて、立ったままもじもじしていた。そして、笑いかけているデジレの頬を軽くやさしく叩くだけにした。マルトは眼を上げて夫を見つめ、それから繕い物を裁縫台に片づけ始めた。
「疲れてないかい?」 埃で真っ白になった父の靴を見てオクターヴが尋ねた。
「ああ、少しな」
 ムーレは答えて、歩いてきたばかりの長い行程についてはそれ以上なにも言わなかった。
 ところが彼は、子どもたちが置き忘れたにちがいない鋤と熊手が庭の真ん中に転がっているのに気づいた。
「なんだって道具をもとのところへ戻しておかないんだ?」 彼は大声で叫んだ。
「わしは何遍も言ったじゃないか。もし雨が降ってきたら錆びついてしまうぞ」
 彼はそれ以上腹を立ててはいなかった。庭に下りて自分自身で鋤と熊手を取りにいき、それらを小さな温室の奥にていねいに掛けて、それから戻ってきた。テラスにのぼってくるときに彼は、すべてのものがちゃんと定まったところにあるかどうか、通路の隅々まで詮索した。
 まだ本を読んでいたセルジュの脇を通るとき、彼は息子に尋ねた。
「学課の勉強をしているのか、え?」
「違うよ、お父さん」 息子は答えた。
「これはブーレット神父が貸してくれた本で、『中国における布教』という旅行記なんだ」
【5】 ムーレは妻の前でとつぜん立ち止まった。
「それはそうと、誰か来なかったかね?」
「いいえ、誰も、あなた」 マルトは驚いたように言った。
 ムーレは続けて何か言おうとしたが、考え直したようだった。何も言わずに、なおも少しの間うろうろしていたが、やがて外階段のほうへ歩いていった。
「おおい、ローズ! 夕食はもう駄目になっちまったかい?」
「そうですとも!」
廊下の奥から、かんかんになったローズの声が叫んだ。
「今はもう何も準備できてませんよ、ぜんぶ冷めちまいましたからね。お待ちいただきますよ、だんな様」
 ムーレは声をたてずに笑って、妻と子どもたちに向かって左眼でウインクした。ローズの憤慨が彼にはひどくおかしかったのだ。そのあとで、彼は隣家の果樹園のみごとな光景に見入った。
「たいしたもんだな」 彼はつぶやいた。
「ラストワールさんのところでは今年はみごとな梨がとれるぞ」
 マルトは訊きたくてたまらないことがあって、ついさっきからやきもきしていたのだったが、決心しておずおずと言った。
「きょう、誰かを待ってらっしゃるの、あなた?」
「ああ、うん、いや」 ムーレは答えて、そこらじゅうを行ったり来たりしはじめた。
「きっと三階の部屋を人に貸したのでしょう?」
「まあ、そうだ。貸した」
 そして気まずい沈黙ができたので、彼は弱々しい声でつづけた。
「けさチュレットに発つ前に、ブーレット神父のところへ伺ったのさ。そしたら、神父様がとてもうるさくせがむものだから、たしかに、わしは決めてしまったのだ……。おまえがそれに反対だってことはよく知ってるさ。ただ、少し考えてもごらん、おまえの言ってることは道理じゃないよ。三階の部屋はわしらの役には立たないで、荒れ果てていたじゃないか。あそこに保存しておいた果物は湿気を持って、その湿気で紙がはがれてしまっただろ……。そういうわけだから、明日にも果物を運び出させることを忘れるなよ、間借人はすぐにも着くかもしれんからな」
「でもわたしたち、家の中でだけはくつろいでいられたのに!」
 マルトは思わず低い声を洩らした。
「なあに! 司祭様なんだ、なにも厄介なことはないさ」 ムーレは言いつのった。
「向こうは向こう、こっちはこっちでやるだろうよ。黒衣の人たちってもんは、水一杯飲むのにもこっそりやるもんだ……。このわしがあの人たちを愛しているものかどうか、おまえよく知ってるじゃないか。たいがいは怠け者でさ……。ええい、だからだ、そのわしが部屋を貸すことに決心したというのは、貸してもいい司祭様が見つかったっていうことなのだ。あの人たちなら金の面の心配は何もないし、彼らが錠前に鍵を差し込む音さえ聞こえないよ」
【6】 マルトはそれでも悲しみにくれていた。彼女は周囲を、影のますます濃くなってきた庭を太陽の残光に浸している、彼女の好もしい家を見つめた。それからまた彼女は子どもたちを見つめ、この場所、この狭い一隅に保たれている彼女のまどろむような幸福を見た。
「それで、あなたはその司祭様のことをご存知なの?」 彼女は尋ねた。
「いいや。だがブーレット神父がご自分の名義で借りることにしたのだ。それで十分だよ、ブーレット神父は実直な人だから……。わかってるのは、わしらのところに来る間借人がフォージャという名前だってことだ、フォージャ神父という、ブザンソン司教区から来た人だ。きっと主任司祭と仲違いしたんだろう、というのもこのサン=サチュルナンの助任司祭に任命されたみたいだから。きっとルースロ司教猊下のことをご存知だよ。要するに、わしらには関係のないことさ、そうだろ……ともあれ、わしはブーレット神父を信頼しているよ」
 しかしながらマルトは安心しなかった。めったにないことだが、彼女は夫に反対した。
「それはそうですわ、神父様は立派な方ですもの」 短い沈黙のあとで彼女は言った。
「でもわたしが憶えていますのは、あの方はアパルトマンを訪ねて来たとき、ご自分の名義で肩代わりして部屋を借りてやるような相手は、誰もいないとおっしゃったんですよ。これはどこの街でも司祭様たちの間でさかんに交わされている委託仲介の一種ですわ……。わたしの思うには、ブザンソンに手紙で問い合わせて、どんな人を家に入れようとしているのか、確認することもできたでしょうに」
 ムーレはぜんぜん腹を立てようとしなかった。彼は親しみを込めて笑った。
「まさか悪魔でもないだろうさ……。まったくもって怖がりだな、おまえがそんなに迷信家だとは知らなかったよ。いくらなんでも、よく言われてたみたいに、司祭が不幸を運んでくるなどとは思ってないだろうね。彼らはもう幸福を運んでは来ない、そりゃそのとおりだ。彼らはほかの人間といっしょなんだよ……。ああ、ほんとに、神父様が来たら、その聖衣がわしをどれだけ怖がらせるものか、見ててごらん!」
「わたしは迷信から言ってるのじゃありませんわ、ご存知でしょうに」 マルトは低い声で言った。
「わたしはひどく心配なの、それだけなのよ」
 ムーレは妻の前に立ち止まって、荒々しい身振りで彼女の言うことを遮った。
「それだけで十分だ、そうだろう?」 彼は言った。
「わしはもう貸してしまったんだ。もうそのことを話すのはよそうじゃないか」
 そして彼は、うまい取引をやり遂げたと考えているブルジョワのふざけた調子で付け加えた。
「いちばん確かなのは、わしが部屋を150フランで貸したということだ。毎年うちに入ってくる家賃が150フランだぞ」
 マルトはもはや頭を下げ、瞼いっぱいに溢れてくる涙をこぼれさせまいとするかのようにそっと眼を閉じて、両手をあいまいに揺すりながら抗議するだけだった。彼女は子どもたちにひそやかな視線を投げた。彼らは、ムーレの皮肉っぽい口調がひとりで楽しんでいるこういった場面には慣れっこになってしまっているようで、彼女が父親から説明を聞かされているあいだ、聞いてもいないようだった。
【7】 ローズが外階段の上へ出てきて、むっつりとした声で言った。
「お食事がしたいんでしたら、いらしてくださいよ」
「だ、そうだ。子どもたち、夕食にしよう!」
 いやな気分を少しも含んでいないような陽気さで、ムーレは叫んだ。
 一家は立ち上がった。知恵遅れの少女の厳粛さを保っていたデジレは、そのときみんなが動いたのを見て、苦痛がよみがえったようだった。彼女は父親に抱きついて口ごもった。
「パパ、あたしの鳥が逃げちゃったの」
「鳥だって、嬢ちゃん? ではわしらでもう一度捕まえような」
 彼は娘を撫でた。彼は非常な甘やかし屋になった。それでも、彼もまた鳥かごを見に行かなければならなかった。彼が娘を連れて戻ってきたとき、マルトと二人の息子はもう食堂にいた。沈みつつある太陽の光が窓を通して入ってきていて、磁器の皿も、子どもたちの金属杯も、白いテーブルクロスも、すべてを陽気に見せていた。緑がかった庭の奥まりで、部屋は暖かく瞑想的だった。
 この平和な雰囲気に和らいで、マルトがほほ笑みながらスープ鉢のふたをとった時、廊下で物音がした。面食らったようなローズが入ってきて、おずおずと言った。
「フォージャ神父がお見えです」

第2章

【8】 ムーレは身ぶりでいらだちを表した。じっさい彼は、早くともあさってにならなければ間借人が来ないだろうと思っていたのだ。フォージャ神父が戸口のところの廊下に現れたとき、ムーレはすばやく立ち上がっていた。神父は大柄のたくましい男で、大きな角ばった輪郭の土気色の顔をしていた。その後ろで、神父の影に隠れて、神父に驚くほどよく似ているがもっと小柄でがさつな感じの老女が立っていた。用意の整った食卓を見て、彼ら二人はためらったような身振りをし、わずかにそっと後ずさりした。背の高い神父の黒い姿が、石灰で白くされた壁の明るさの上に喪のような染みをつくった。
「お邪魔してすみません。私たちはブーレット神父のところから来たのです。神父があらかじめお知らせしていたはずですが……」とフォージャ神父はムーレに言った。
「いや、とんでもない!」とムーレは叫んだ。
「あの方はそんなことは全く知らせてしませんでしたよ。あの方はいつも楽園から降りてきたような様子をしていますからね。今朝までは、神父さま、あなたがまだ二日間はお着きにならないだろうなどと、あの方ははっきりおっしゃっていたのですよ……。しかし、ともかく部屋を用意しないといけませんな……」
 フォージャ神父は詫びを言った。神父の声は低く、語尾で非常になめらかになるのだった。まったくもって、このような時に到着したことで神父は困惑してしまっていた。神父が念入りに言葉を選びながら口数少なく恐縮の気持ちを表していると、赤帽がトランクを運んできたので、彼は料金を支払うため振り向いた。がっしりとした大きな手で、その鉄の環だけしか見えない程度に、神父は僧衣の折り返しから財布を引き出した。用心深く、頭を下げて、指先でまさぐりながら神父は財布の中をしばしかき回して、それから、赤帽を立ち去らせたが、硬貨を渡したところは誰にも見えなかった。神父は丁寧な声でまた言った。
「ご主人、申し訳ありません、食卓にお戻りください。お宅の女中さんが部屋を教えてくれるでしょうから……。部屋に上がるのも手伝ってくれるでしょう」
 トランクの取っ手をつかむために、神父は早くもかがみこんでいた。それはくさび形の止め具と鉄のバンドで補強された小さな木製のトランクで、側面の一方を樅の横木を使って補修してあるようだった。ムーレは意外に思って神父の他の荷物を眼で捜した。しかし彼が見出したのは、神父のうしろの老女が、疲れているのにあくまで床に降ろすまいとして、スカートの前で両手に持っている大きな籠だけだった。その籠の持ち上がったふたの下では、布類の間に、紙で包まれた櫛の端と、きちんと栓をしていない一リットル瓶の首とがはみ出ていた。
「いやいや、そのままで結構ですよ」とムーレはトランクを軽く押さえながら言った。「これは重くないはずですから、ローズが一人で持って上がるでしょう」
 神父は、この言葉に含まれたひそかな軽蔑には気づかなかったようだった。老女は黒い眼でじっとムーレを見つめていたが、やがて食堂に、用意の整った食卓に視線を戻した。彼女はそこに着いたときからそれらを眺め回していたのだ。唇をきゅっとひき結んで、一言も発しないで彼女は一つのものから他のものへと視線を移した。いっぽうフォージャ神父はトランクを預けることを納得していた。庭に面した扉から入ってくる太陽の黄色いかすかな残光の中で、神父のすり切れた僧衣はまったくもって赤茶けて見えた。そのふちは刺繍でもって繕われており、非常に清潔ではあったが、ひどく薄くて不格好だったので、それまで控え目な遠慮から座ったままでいたマルトが今度は立ち上がる番だった。神父はマルトに素早い一瞥を投げただけですぐに目をそらし、全然そんなふりは見せずに、彼女が椅子を離れるのを見ていた。
【9】「どうも恐縮です。どうか席をお立ちにならないでください。夕食のお邪魔をして申し訳なく思っています」と神父はくりかえした。
「それじゃ、まあ」と、腹のへっていたムーレは言った。
「ローズがご案内するでしょうから。必要なものはすべてあれに言ってください……どうぞくつろいでおやすみくださいよ」
 フォージャ神父は挨拶をしてもう階段のほうへ向かっていたが、そのときマルトが夫に近寄って囁いた。
「でもあなた、忘れてらっしゃるわ……」
「えっ、何をだい」と、妻の戸惑った様子を見てムーレは尋ねた。
「ほら、果物が」
「なんてこった、そうだった! 果物を置いてあるんだった」と彼はいま気づいたように言った。
 そしてフォージャ神父が戻ってきて問いたげな目つきで見ているので、言った。
「いやまったく実に困りました、神父さま。ブーレット神父はもちろん立派なお方ですが、あなたの件をあの方にお任せになったのは失敗ですな。あの方はほんの小銭の扱いさえ注意してできないんですからな。神父さまが今晩いらっしゃることをあらかじめ知っておりましたら、わしらもすべて用意しておいたのですが。しかし今あそこには、どかさなければならないものが置いてあるのです。ご存知でしょうが、わしらは今までその部屋を使っておりましたのでね。あそこには床の上に、いちじくやら、りんごやら、ぶどうやら、私たちの収穫した果物がぜんぶ積み上げてあるのですよ」
 神父はこの話を聞いてびっくりしてしまい、さすがの礼儀正しさをもってしても、もはやそれを隠しきれなかった。
「ああ、でも長くはかかりませんよ。十分ばかりお待ちになっていただけたら、ローズが部屋を片づけますので」とムーレは続けた。
 神父の土気色の顔にはげしい不安がふくれ上がった。
「部屋は家具付きなんでしょうね?」と彼は尋ねた。
「いえ、家具は一つもありませんよ。わしらはそこで暮らしたことがありませんから」
 すると神父は落ち着きを失った。その灰色の眼にひらめきが走った。
「なんだって! 私は手紙の中ではっきりと、家具付きの住居を借りるよう頼んだじゃないか。まさか家具をトランクに入れて持ってこれるわけじゃあるまいし」
「そら、だから言ったでしょう?」ムーレは声を高くして言った。
「ブーレットなんてとんでもない奴だって。いいですか、あの人はここへ来て、りんごがあるのを確かに見たんですよ。だってそのひとつを自分で手に取って、こんなに出来のいいりんごはめったに見たことがないと言ったんですから。そしてあの人は、何もかもが実に具合がいいようだ、肝心なのはそのことだ、と言って借りていったんですよ」
 フォージャ神父はもう聞いていなかった。怒りの潮がその頬にのぼってきた。彼は振り向いて、不安そうな声でぼそぼそと言った。
「おふくろ、聞いたかい? 家具がないんだ」
 黒い薄いショールの中で窮屈そうにしていた老女は、籠を持ったまま小さくひそやかな足取りで一階を巡ってきたところだった。彼女は台所の入口まで進んで、その四方の壁をじろじろ眺め、それから戻ってきて、視線でもってゆっくりと庭を吟味していた。しかし食堂がとりわけ彼女の興味をひいた。彼女は用意の整った食卓のほうを向いて、スープが湯気を立てるのを見つめながら再びそこに立っていたのだが、そのとき息子にまた声をかけられた。
「聞いたかい、おふくろ? ホテルへ行かなくちゃならんだろうよ」
 彼女はそれには答えないで顔を上げた。その顔全体で、彼女がもう隅々まで知りつくしてしまったこの家を離れたくないと言っていた。彼女はわずかに肩をすくめて、漠とした眼差しを台所から庭へ、そこからさらに食堂へと運んでいた。
【10】 その間、ムーレはいらいらとしていた。母も息子もこの場所を立ち去る決心をしかねているようなのを見てとって、彼はまた言った。
「残念ですが、たしかにベッドはありません……。しかし屋根裏部屋に簡易寝台がありますから、お母さまのほうは、それでどうにか明日までお休みいただけるでしょう。ただ神父さまがお休みになれるものがありませんが」
 そのときフォージャ夫人がようやく口を開いた。少ししわがれた呼び鈴のようにきっぱりとした声だった。
「息子のほうが簡易寝台を使います。わたくしは隅のほうの床にマットレスを敷けば十分ですから」
 神父は頭を動かしてこの取り決めに同意のしるしを与えた。ムーレはさからって別な提案をしようとしたものの、この新しい間借人たちがそれで満足そうな様子なので、驚いた視線を妻と交わすだけにして、黙ってしまった。
「明日の朝になれば、お聞きになっているとおり家具を入れることができるでしょう」とムーレはブルジョワっぽく皮肉めかして言った。
「ローズが果物を運び出して寝台を整えるためにあがりますので、テラスで少しばかりお待ちいただけますか……。ほら、子どもたち、椅子を二つ出しておあげ」
 子どもたちは神父とその母が着いたときから、テーブルの前に座って静かにしていた。彼らは興味津々で訪問者たちを見つめていた。神父は彼らに気づいてもいないようだったが、フォージャ夫人は彼らの一人ひとりにしばし目を止め、その若々しい頭の中を一挙に理解してしまおうとするかのように、彼らの顔をしげしげと眺めていた。父親の言葉を聞いて、三人が一緒になって椅子を出してきた。
 老女は腰をおろさなかった。ムーレが振り向いたとき彼女はもうそこにはおらず、細めに開いた居間の窓のひとつの前でじっとしているのが見えた。彼女は首を伸ばし、売り家を訪れた人のような静かな落ち着いた態度で、家の視察を終えていた。ローズが小さなトランクを持ち上げたとき、彼女は玄関に戻ってきていて、そっけなく言った。
「わたくしも手伝います」
 そして彼女は女中のうしろについて上がっていった。神父は顔も向けなかった。彼の前に立ったままでいた三人の子どもたちに微笑みかけていたからだ。神父はいかめしい額をして口にはごわごわした皺が寄っていたが、そうしようと思ったときには、その顔は非常に穏やかな表情にもなるのだった。
【11】「これでご家族全員ですか、奥さん?」と彼は近づいてきたマルトに訊ねた。
「そうですわ、神父さま」と、彼女の上にじっと注がれている明晰な視線に戸惑いながらマルトは答えた。
 神父はまた子どもたちに視線を移して、つづけた。
「じきに大人になろうという大きな息子さんが二人いるんですね……君はもう学校を終えたのかい?」
 神父はセルジュに話しかけた。すると息子に向けられたこの言葉をムーレが遮った。
「この子の方はもう終えたんですよ、下の子だというのにね。終えたというのは、つまりバカロレアに通ったってことで、いまは哲学級へ行くので中学に戻っているんですがね。この子はわが家の博士なんですよ……。もういっぽうの年上のほうは、ばかもので、もう大したものじゃありませんよ、ええまったく。これまでバカロレアに二度も失敗していて、しじゅう上の空で、ふざけてばかりいるろくでなしです」
 セルジュがこの讃辞に対して頭を下げていたのに、オクターヴはにやにや笑いながら叱責を聞いていた。フォージャはなお少しのあいだ黙って二人を観察していたが、それから、優しげな雰囲気を取りもどして、デジレのほうにうつった。
「お嬢さん、私と友だちになってくれますか?」
 デジレは答えず、ほとんどおびえたようになって母親の肩に顔をうずめてしまった。母親はその頭を引き離すことはせずに、娘の胴に腕をまわしてより強く抱きしめるのだった。
「ごめんなさいね」と彼女は少し悲しげに言った。
「この子は頭が強くなくて、まだ小さな女の子のままなんですわ……知恵遅れなんです。あれこれうるさく言ってものを習わせようとはしておりませんの。この子はもう十四歳なんですが、まだ生き物を可愛がることしかできません」
 母親に撫でられてデジレは安心した。彼女はうずめていた顔を振り向けて、にっこり笑うと、大胆な口調で言った。
「あなたはあたしのお友達になってもよくってよ……。でも、蝿にひどいことをしてはだめよ、いい?」
 そして周囲で皆が陽気になっていたので、彼女は重々しくつづけた。
「オクターヴったら、蝿をつぶしちゃうのよ。とてもいけないことだわ」
【12】 フォージャ神父は座っていた。神父は非常に疲れているようで、庭の上や、隣の敷地の木々にゆったりと視線を泳がせながら、このテラスの暖かい平和にひととき身を委ねていた。この大いなる静寂、小さな町の人けのないこの片隅は、彼に一種の驚きを与えた。その顔には黒い染みのように影が落ちていた。
「まったくもって都合がいい」と彼はつぶやいた。
 それから、何かに心を奪われて夢中になったかのように神父は黙りこくった。ムーレが笑いながら次のように話しかけたとき、神父はちょっとハッとしたようになった。
「もし差し支えなければ、神父さま、わしらはそろそろ食事を始めようと思うのですが」
 そして妻の眼を感じながらムーレは言った。
「あなたがたもわしらとご一緒して、スープを召し上がってはいかがです? そうすればホテルまで夕食をしに行かなくても済むでしょう……どうぞ、遠慮なさることはありませんから」
「かさねがさね、ありがとうございます。でも私たちには何も要りませんので」と神父は非常に丁寧に答えたので、ムーレはそれ以上あえて誘うのがためらわれてしまった。
 そこでムーレ家の人々は食堂に戻って食卓についた。マルトがスープをよそうと、すぐにスプーンのにぎやかな物音が生じ、子どもたちはペチャクチャとしゃべった。デジレはやっと食卓につけたのが嬉しくて、父親の語る話を聞きながらほがらかに笑っていた。その間、忘れ去られたフォージャ神父はテラスに座ったまま、沈む夕陽を浴びてじっと動かずにいた。彼は振り向きもせず、何も聞いていないようだった。陽が消えようとしていたので、きっと彼は息がつまるように感じていたのだろう。窓の前に座っていたマルトには、神父の大きな頭のむき出しになったこめかみのほうで、半白の短い髪だけが残っているのがわかった。入陽の最後の赤い微光がこの兵士のようにいかつい頭に光を投げかけ、剃髪をまるで棍棒で殴られた傷跡のように見せていたが、やがてその光も消えて、影の中に没した神父の姿は、もはや薄闇のくすんだ灰色に映った黒い輪郭といったものになってしまった。
【13】 ローズを呼びたくなかったのでマルトは自分でランプを探しに行って、それから最初の料理を出した。台所から戻るときマルトは階段の下のところで一人の女性に出くわしたが、それが誰だか最初わからなかった。それはフォージャ夫人であった。フォージャ夫人は布の縁なし帽をかぶり、黄色い肩掛けを胴の後ろで結んだ窮屈そうなコルサージュ(胴着)の上に綿の服を着ていて、まるで女中そっくりの姿をしていた。そして手首をむき出しにし、今終えてきたばかりの仕事のせいでまだ息切れしながら、廊下の板石の上で大きな紐靴をはたいていた。
「大変でしたでしょう、奥さま?」とマルトは夫人に微笑んで言った。
「なに、どうということもございませんよ。手っ取り早く片づけましたからね」と夫人は答えた。
 夫人は外付き階段を降りると、声を和らげて言った。
「さあ息子や、部屋へ上がりましょう。用意はできていますよ」
 息子をその夢想から引き出すために、夫人はその肩に触れなければならなかった。空気は冷えきっていた。神父は身震いすると、何も言わずに母親について行った。食堂の戸口の前を通ると、中はランプの煌々とした光で明るく照らされ、子どもたちのおしゃべりで沸きかえっていた。神父は頭を下げて、柔らかい声で言った。
「どうもありがとうございました。お邪魔してしまったことをお許しください……実に恐縮です」
「いやいや、とんでもない! 今晩たいしたおもてなしもできずに申し訳なかったのはわしらのほうです」とムーレは叫んだ。
 神父は挨拶をした。マルトは再び神父の明晰な視線にぶつかった。それは鷲のような鋭い眼つきで、マルトを動揺させた。あたかも眼の底のふだんは陰気な灰色をしているその奥に、一つの炎が、まるで眠りについた家々の中で人々が持ち歩くランプの光のように、突如として通り過ぎたとでもいうみたいだった。
「あの神父、眼つきは冷たい感じじゃないな」と、母子がいなくなってからムーレはからかい気味に言った。
「あの方たち、あまり幸せではないんだと思うわ」とマルトはつぶやいた。
「そりゃまあ、たしかに、トランクの中に財宝を持って来てはいないだろうさ……。重いぞ、あのトランクは! きっと小指の先っぽでなければ持ち上がらないだろうよ」
【14】 だがムーレのおしゃべりはローズの登場で中断された。ローズは、いま見てきた驚くべき光景を語って聞かせるため、階段を駈け降りてきたのだ。
「ああ、ほんとに!」とローズは主人たちが食事をとっているテーブルの前に立ち尽くして言った。
「たいした女傑ですよ! あのご婦人は少なくとも六十五歳にはなろうというのに、そんなふうにはほとんど見えませんね、まったく。あの方は馬のように働いて、だんな様がたをけちらしてしまいますよ」
「あの人は果物を運び出すのを手伝ってくれたんだろ?」とムーレは好奇心に駆られて訊いた。
「それ以上ですよ、だんな様。あの方はこんなふうに、前掛けの中に入れて果物を運んだんですが、それはもう目一杯に積み込むんでございます。あれでは間違いなく服が破れてしまうだろうとわたくしは思ったんですが、そんなことは全然ありません。頑丈な生地で、わたくし自身を乗せて運べるくらいのものですよ。わたくしとあの方は十回以上も往復したはずですが、わたくしは腕がくたくたに疲れてしまったのに、あの方は、順調にいかないだとか言いながら、ぶつぶつ不平をこぼしてたんですよ。こう申しちゃなんですが、あの方がののしりを吐くのも聞きましたと思いますよ」
 ムーレは非常に気を引かれたようだった。
「それで、寝台は?」と彼は言った。
「寝台ね、それを用意したのもあの方ですとも。あの方がマットレスを裏返すところは見ものですよ。たしかにマットレスは重くはありません。でもあの人はそれを端を掴んで持つと、まるで羽根のように空中に翻させるんです……こんなふうに、本当に念入りにね。あの方は簡易寝台を子供用のベッドをつくるように用意しましたが、幼子イエスを寝かせるためのベッドを用意するときだって、あれ以上の信心をもってシーツを伸ばしたりはしないでしょうに。四枚の毛布があったんですが、あの方はそのうちの三枚を簡易寝台に掛けました。そして残りは枕に使うんです。要するにあの方は、自分のためには何も取らなかったんです。どっちも息子さんのほうが使うんですよ」
「じゃ、あの人は床で寝ようっていうのかい?」
「部屋の隅で、まるで犬みたいにね。あの方は別の部屋の床の上にマットレスを投げ出して、これで楽園にいるよりも気分よく眠れるでしょうなんて言ってましたよ。もっとまともな寝床をつくるようにあの方を納得させることは出来ませんでした。あの方は、決して寒くはないし、自分の頭は頑丈なので床板など気にすることはないと言い張るのです……。それとお二人に水と砂糖を差し上げましたよ、ご婦人のほうがぜひとおっしゃるので。……そんなことより、とにかく妙な方たちですよ」
【15】 ローズは夕食の給仕を終えた。ムーレ家の人々はその日の夜は食事を長びかせて、新しい間借人について長々としゃべった。時計のように規則正しい一家の生活の中では、外部からきたこの二人の人物の登場は一大事件であった。まるで破局がやって来たかのように一家は二人について話し、その微細にわたる内容が、田舎の夜のつれづれをつぶす助けになるのだった。とりわけムーレは狭い町の世間話をするのが気に入っていた。デザートの時間になると、ムーレは食堂のぬくもりの中で、テーブルに肘をついて、幸福な人間特有の満ちたりた様子で、幾度となく繰り返して言うのだった。
「ブザンソンがプラッサンに送ってよこしたのはあんまり素敵なプレゼントじゃないな……神父が向き直ったときに僧衣の後ろ側を見たかい? 信心深い連中があの後ろについて歩くとすれば全くもって驚きだね。だってそういう連中はきれいな司祭を好むというのに、あの僧衣ときたら相当に擦り切れてるんだから」
「でも優しい声をしてらっしゃるわ」と寛大なマルトは言った。
「腹を立てていない、ふつうの時にはな」とムーレは言い返した。
「部屋に家具が置いてないと知ったときの、あの怒った声を聞かなかったとでも言うのかい? ありゃがさつな男だよ、告解室の中ではのらくらしてるに違いないさ、まったく。明日どうやって部屋に家具を入れるか知りたいもんだね。まあ少なくとも家賃だけは払ってくれるとよいが。仕方ない、ブーレット神父に問い合わせてみることにしよう、わしはあの人について知らないのだから」
 一家はほとんど信仰深くなかった。子どもたちはというと、神父とその母を笑いものにしていた。部屋の奥を見通すために首を伸ばしたときの老夫人の格好をオクターヴが真似してみせて、デジレを笑わせていた。
 セルジュはそれより真面目だったので、この「まずしい人々」を弁護した。ムーレは普段、トランプでピケ遊びをしない日は十時きっかりに燭台を持って寝に行ってしまうのだったが、この晩は十一時になってもまだ眠気に抗っていた。デジレはとうとうマルトの膝に頭をのせて眠り込んでしまっていた。二人の少年は自分の部屋に上がっていった。ムーレは今では妻だけを相手にして、たえずしゃべり続けていた。
【16】「何歳くらいだと思う?」と彼はとつぜん訊いた。
「どちらがですの?」と、マルトは自分もうとうとし始めていたのだが、言った。
「神父のほうさ、もちろん。ふむ……四十から四十五の間だよな。まったくたくましい男さ。あれが僧衣なんかを着てるのは無駄ってもんじゃないのかねえ! あれなら立派な歩兵にもなるだろうに」
 それからちょっと黙って考え込むと、その内容を高い声で、ひとりまた話しつづけた。
「二人は六時四十五分の列車で着いたのだ。するとブーレット神父のところに寄ってからここへ来るだけの時間しかなかったわけだ……。誓ってもいいが、二人は夕食を食べなかったはずだ。間違いない。すると二人がホテルへ行くために外出するのが見えたはずなんだが……。ああ、二人がどこで食事したのかだけでも、わかるといいんだがなあ」
 ローズは、主人たちが寝に行くのを待って扉や窓を閉めてまわるために、少し前から食堂の中をうろうろしていた。
「お二人がどこで食事をしたか、知っておりますよ」
 するとムーレが勢いよく振り向いたので、彼女は言った。
「ええ、わたくしは、何か足りないものでもないかと思って、また上がって行ったのでございます。でも部屋から物音ひとつしないので、ノックするのも気がひけて、鍵穴から中を覗いたんでございますよ」
「よくないわ、そんなことをしてはだめじゃないの」とマルトが厳しく遮った。
「言ったでしょう、ローズ、わたしはそういうやり方は好きじゃないって」
「まあ、まあ、いいじゃないか」と、それどころではなかったムーレは、この好奇心の強い女中に向かってかっとなった。
「それで鍵穴から中を見たんだな?」
「はい、だんな様。悪気があったわけじゃございませんよ」
「そうだろうとも……それで二人は何をしていた?」
「それなんですがね、だんな様! 食事をしていたんでございますよ……簡易寝台の端に腰かけて、食事をとっているのが見えたんです。年とったご婦人がナプキンを広げていました。あの方たちはワインを注ぐたびに、一リットル瓶に栓をして枕に横たえていましたよ」
「でもいったい何を食べてたんだろう?」
「それははっきりとはわかりませんでした、だんな様。わたくしには新聞にくるまれたパテの残りみたいに見えましたがね。それとりんごもありましたよ、まったく取るに足らない小さなりんごですけど」
「二人は何かしゃべっていたんだろうね? 何を話しているのか聞こえたかね?」
「いいえ、だんな様、お二人は何もしゃべっておりませんでした……わたくしはたっぷり十五分ほども見ていたんですが、何も話しません、何もです、ほんとに! 食べて、食べて、食べるだけ!」
【17】 マルトはデジレを起こして立ち上がり、上にあがっていくそぶりをした。実のところ、彼女は夫の好奇心に嫌気がさしていたのだ。夫のほうもとうとう同じように立ち上がることにしたが、しかし信心家のローズは声を低めてさらに続けた。
「あのお気の毒な神父さまはかなりお腹がすいていたに違いありません。神父さまのお母さまはとても大きな切れはしをお渡しになって、神父さまがうれしそうに食べるのをじっと見ておいででした。そしてようやく、神父さまは真っ白なシーツの中にお休みに行きました。まあ果物の臭いが気にならなければの話ですがね。あの部屋の臭いはいいものじゃございませんでしょう、ほら、あの洋梨とりんごの酸っぱい匂いですからね。それに家具もなければ、隅の一つの寝台のほかには何もございませんし。あら、でもこんな話をしてたら一晩中灯りをつけておかなくちゃなりませんわね」
 ムーレは燭台を手にとった。彼はなお一瞬ローズの前に立ち止まって、平素の考えから引き出された俗物じみた言葉でもって、この一夜を要約してみせた。
「奇天烈な話さ」
 それから階段の下の部屋の妻のところへ戻った。彼女は横になってすでに眠り込んでいたが、彼のほうは、上の階から聞こえてくる軽い物音になお耳を澄ましていた。神父の部屋は彼の部屋のちょうど真上だったのだ。ムーレは神父が静かに窓を開ける音を聞いた。しかしこれは彼を不思議がらせた。彼は枕から頭を上げて、神父がどのくらいのあいだ窓を開けたままでいるのかを知りたいと思って、必死に眠気とたたかった。しかし眠気は非常に強く、イスパニア錠のきしむかすかな音を再び捉えるよりも前に、ムーレはぐっすりと眠り込んでいびきをかいていた。
【18】 上の階では、窓の前で頭をむき出しにして、フォージャ神父が暗い夜を見つめていた。神父はようやく一人になれた嬉しさから長いことそこにとどまって、想念に没頭していたが、それが彼の額にいかめしさを与えていた。階下には、数時間前から滞在しているこの家の静かな眠りが感じられた。子どもたちの無邪気な寝息、マルトのおとなしい息づかい、ムーレの大きく規則正しい呼吸が。そして彼は遠く、眠りについた小さな町の底までをも見通そうとするかのように頭を上げていたのだが、闘士のようにいかつい首をぴんと立てたその姿には、ある軽蔑といったものがひそんでいた。郡庁の庭の大きな木々はかたまった影をつくり出し、ラストワール氏の洋梨の木々はそのゆがんだ貧弱な枝を伸ばしていた。そうして、あとはもう暗い闇の海原が、虚空が広がっているばかりで、そこからは物音ひとつ聞こえてはこなかった。町は、揺りかごの中の幼女のように無垢な姿でそこにあった。
 フォージャ神父は皮肉な挑戦的なしぐさで両の腕を突き出した。まるで、プラッサンをつかまえ、それを彼のたくましい胸に押しつけて窒息させてしまいたいとでもいうかのように。
「おれが今晩通りを横切るのを見てにやにやしていた、あのばかな奴らめ!」と、神父はつぶやいた。

第3章

【19】 翌日ムーレは午前中いっぱいを新しい間借人をこっそり観察することに費やした。彼がいつも家で細かいことに気を配ったり、散らばっているものを片づけたり、妻や子どもたちに対する口論の種を探したりして費やしている空虚な時間を、このスパイ行為は埋めてくれそうであった。今や彼は毎日の生活から彼を引き出してくれる一つの仕事、一つの娯楽を持っているのだ。自分でも言っているようにムーレは司祭というものを好きではなかったが、彼の日常に現れたこの最初の司祭は、その奇妙さという点で彼の興味を引いたのだった。神秘的な匂い、ほとんど不安を抱かせるような未知のものを、この司祭は彼のもとへ持ってきた。ムーレは無神論者で、ヴォルテール主義者だと公言していたけれども、神父と対面するときには、非常な驚きとブルジョワ的な身震いとを感じるのであって、そこにはたくましい好奇心の一端が姿を見せているのだった。
 三階からは物音ひとつ聞こえてこなかった。ムーレは階段のところで注意深く耳を澄まし、屋根裏部屋に上がって行きさえした。廊下に沿って歩きながら歩調をゆるめたとき、室内ばきの軽くふれる音が扉のうしろで聞こえたように思って、彼はひどく動揺した。はっきりしたことをなにも嗅ぎつけられなかったので、彼は庭に降りて、その奥の緑の園亭の下をぶらつきながら、目を上げて部屋の中で起こっていることを窓越しに見ようとした。しかし神父の影さえ見分けることはできなかった。フォージャ夫人は、たぶんカーテンをまだ持っていなかったからであろうが、それまでの間、ガラスの後ろにシーツを張り広げていたからだ。
【20】 昼食のときムーレはひどく気を悪くしている様子だった。
「上の二人は死に絶えてるのか?」と、子どもたちにパンを切ってやりながらムーレは言った。
「あの人たちが身動きする音をおまえは聞いたかい、マルト?」
「いいえ、あなた。わたしはよく注意してなかったもの」
 するとローズが台所から叫んだ。
「あの方たちがいなくなってからだいぶ経ちますよ。ずっと先を急いでいたとしたら、もう遠くまで行ってるでしょうね」
 ムーレは女中を呼んで細かく尋ねだした。
「あの方たちはお出かけになったんですよ、だんな様。まずお母さまのほうが、それから続いて神父さまのほうがね。あの方たちはとても静かに歩いたので、扉を開けるときにわたくしのいた台所の窓ガラスの上を影がよぎらなかったら、わたくしにも見えなかったくらいですよ……。よく見ようとして通りを見てみましたが、あの方たちはぎこちない感じで、急いで行ってしまいました、間違いありませんよ」
「そいつは驚きだな……わしはその時どこにいたんだろう?」
「だんな様はたしか庭の奥にいて、園亭のぶどうを見てらっしゃいましたよ」
 このことでムーレは最悪の気分になった。彼は司祭というものをののしった。なんとつまらない隠し立てをする連中だ。悪魔でも見破れないような術策をあれこれ弄しているのだ。奴らはばかげた謹厳さを装っているので、司祭が身繕いするところを誰も決して見たことがないほどじゃないか。そしてムーレはとうとう、よく知りもしない神父に部屋を貸したことを後悔しだした。
「おまえもいけないんだぞ!」とムーレはテーブルから立ち上がりながら妻に言った。
 マルトは昨日の口論を夫に思い出させて弁解しようとしたが、目を上げて夫を見つめるだけで何も言わなかった。そのあいだ夫のほうは、いつもするように外出する決心がつかないでいた。彼は食堂から庭へ行ったり来たりし、あれこれ詮索して、すべてが散らかっている、まるで略奪に遭った家のようだなどと断言していた。それから、セルジュとオクターヴが三十分も早く中学校へ行ってしまったなどと言って腹を立てていた。
「パパは出かけないの? 家にいたら、きっとあたしたちに文句を言うわよ」とデジレは母の耳元で訊ねた。
 マルトは娘を黙らせた。ムーレはとうとう、昼のうちに終わらせなければならない仕事のことを話し出した。その必要を感じたときには、ムーレには一刻の猶予もなく、家で一日の休養をとることもできないのだった。家にいられないことに苛立ちながらムーレはいそいそと出発した。
【21】 晩になって戻ってきたとき、ムーレは全身に好奇心の熱をみなぎらせていた。
「で、神父は?」と、帽子を脱ぎもしないうちに彼は尋ねた。
 マルトはテラスのいつもの場所で仕事をしていた。
「神父さま?」と、ちょっと驚いたようにマルトは繰り返した。
「ああ、神父さまのことね……。わたしは見なかったけれど、たしか部屋に落ち着いていらっしゃるはずよ。家具を運び込んだって、ローズが言っていたから」
「わしが心配していたのはそれだ」とムーレは叫んだ。
「家具を運び込むところに立ち会いたかったんだがなあ。だって、結局その家具の代金はわしが払うことになるんだから……。お前はその椅子から一歩も動かなかったろうってことはわかってたさ。お前は考えの浅い女だものな……。ローズ、ローズ!」
 そして女中がやって来ると、尋ねた。
「三階の人たちのところに家具が運び込まれたんだって?」
「はい、だんな様、小さな二輪馬車で持ってまいりましたよ。市場の古物商のベルガスさんのところの二輪馬車でしたがね。ええまったく、重いものは何もありませんでした。お母さまのフォージャさんが後からついて歩いていて、バランド街を上ってくるときには、馬車を押している人の手伝いまでしていましたよ」
「せめて、家具は見たんだろう? どのくらいのものだったかね?」
「ええ見ましたよ、だんな様。わたくしは門のところにおりましたからね。家具は全部わたくしの前を通って行きました、フォージャの奥さまにとってはそれは嬉しくないみたいでしたがね。お待ちくださいよ、ええと……鉄製のベッドがまず上がっていきました。それから整理ダンスに、テーブルが二台、四脚の椅子……。たしかに、それで全部でございます……。そして家具は中古です。三十エキュにもなりませんでしょうね」
「だが夫人には注意しておかなくちゃならん。そんな条件では部屋は貸せないからな……。すぐにブーレット神父のところに説明しに行こう」
【22】 彼は腹を立てて、外に出ていたが、そのときマルトが次のように言ってとつぜん彼を引き止めた。
「そうそう、忘れてたわ……。六か月分の家賃を先払いで置いていったの」
「なに、払ったって?」と怒ったような調子でムーレは口ごもった。
「ええ、年とったご婦人のほうが降りてきて、これを預けていったわ」
 マルトは裁縫台を探って、新聞の切れ端で丁寧に包まれた七十五フラン分の百スー貨を夫に手渡した。ムーレはぶつぶつ言いながら金を数えた。
「ちゃんと払うんなら、別に文句はないんだが……。なんにしても奇妙な連中だよ。皆が裕福なわけじゃないのは確かさ、でも、お金がないんだったら、先払いなんていう怪しいふるまいをする理由はないはずじゃないか」
「もうひとつ言っておきたいことがあるの」と、夫が和んだのを見てマルトはまた言った。
「お母さまのほうが、簡易寝台をあの人に売るつもりだったのかと聞くので、全然そんなつもりはありません、好きなだけ使っていて結構ですって、わたし答えておいたわ」
「それでいいさ、親切はしなくちゃいけないからな……。お前にも言ったけれど、このわしが司祭どもと一緒にいて我慢がならないのは、連中が何を考えているかも何をしているのかもさっぱりわからないという、そのことなのだ。それを別にすれば、奴らの中にも非常に尊敬すべき人々はしばしばいるわけだからな」
 金銭がムーレの心を和らげたようであった。彼はふざけて、そのときセルジュが読んでいた『中国における布教』の報告のことで、息子にしつこくつきまとった。夕食のあいだムーレはもはや三階の住人に関心を持っていないようなふうを装っていたが、フォージャ神父が司教館から出てくるのを見たという話をオクターヴがすると、もうそれ以上落ち着いてはいられなかった。デザートのときにムーレは昨日の話題を蒸し返して、少しばかり恥じ入った。彼は引退した商人らしい野暮ったさの奥に繊細な心を持っていた。とりわけ偉大な良識や正直な判断力といったものが彼にはあって、それが田舎の世間話の最中にあっても、非常にしばしば、公正な言葉を彼に見つけさせるのだった。
「要するに、他人のことに首を突っ込むのは良くないってことだ……。神父さまは自分のやりたいことをやる権利がある。あの人たちのことを話してばかりいるのは退屈だ。わしはもう手を引くよ」と寝に行く際にムーレは言った。
【23】 八日たった。ムーレは普段の仕事に戻っていた。彼は家の中をぶらぶらし、子どもたちとおしゃべりし、午後の時間を戸外で過ごして、今まで一度も話したことのないような話題に適当に落ちをつけて、どんな種類の衝撃も驚きもない緩やかな坂道を下るような生活を送っている人間として、食べ、そして眠った。家は再び死んだように穏やかになった。マルトはテラスの上で小さな裁縫台の前のいつもの場所にいた。デジレはその傍らで遊んでいた。二人の少年は同じ時間に同じような騒々しさを携えて帰って来た。そして女中のローズは皆に対して腹を立て、がみがみ言っていたが、その間、庭も食堂もその眠るような平和を守り続けていた。
「こう言っちゃなんだが、三階を人に貸すことがわしらの生活を乱すとお前が考えていたのは間違っていたわけだな。わしらは以前よりももっと静かに暮らしているし、家はもっとこぢんまりと、幸せになっているじゃないか」とムーレは妻に向かって繰り返した。
 そしてムーレは時おり三階の窓のほうへ目を上げるのだった。そこはフォージャ夫人が、二日目から、ぶ厚い綿のカーテンを取り付けてしまっていた。カーテンのひだ一つ動くことはなかった。それらは穏やかな外観をし、厳格で冷たい聖具室の慎み深さを保っていて、その後ろでは沈黙と修道院の静謐とが濃さを増していた。ときおり窓が少し開かれてカーテンの白さの間に高い天井の影を垣間見せていることがあった。しかしムーレがどれだけ注意していても、手がそれらを開けたり閉めたりするのに気づくことは決してなく、イスパニア錠のきしむ音すらも聞こえないのであった。部屋からは人がいることを示すようななんの物音も聞こえてこなかった。
【24】 最初の週が過ぎるまでムーレはフォージャ神父に一度も再会しなかった。彼のすぐそばで暮らしているこの人物は、その影さえもムーレに見せることがなかったので、とうとうムーレに一種の神経症的な不安を起こさせることになった。無関心を装おうとする努力もむなしく、ムーレは再び疑問にとりつかれて詮索を開始した。
「ねえお前、神父さまを見かけることはなかったかい?」とムーレは妻に聞いた。
「昨日あの方が戻って来たときに、見かけたと思うけれど。でもよく見てなかったわ……。あの方のお母さまはいつも黒い服を着ているから、きっとそうだったと思うけれど」
 そしてムーレが質問攻めにしたので、マルトは知っていたことを夫に話した。
「ローズが言うするには、神父さまは毎日出かけるそうですわ。長いこと外にいらっしゃるのよ……。お母さまのほうは時計のように規則正しくて、朝七時にもなると買物に行くために降りてくるの。いつもふたの閉まっている大きな籠を持って、石炭も、パンも、ワインも、食料も、すべてその中に入れて持って帰ってくるにちがいないわ。というのも、出入りの商人があの方たちのところへ来ているのを誰も見たことがないから……。その上あの方たちはとても丁寧で、会うといつも挨拶してくれるってローズが言ってるわ。でも、あの方たちが階段を降りる音さえローズに聞こえないことがしょっちゅうあるの」
「あの二人は上で変な料理を作っているにちがいない」と、この情報から何も得られなかったムーレはつぶやいた。
【25】 別のある晩には、フォージャ神父がサン=サチュルナン教会に入って行くのを見たとオクターヴが言ったので、父親は、神父がどんな格好をしていたか、通行人にはどう見られていたか、教会には何をしに行かねばならなかったのか、などと息子に尋ねた。
「ほんとに、知りたがり屋だなあ!」と若者は笑いながら叫んだ。
「僧衣が赤茶けてしまって、陽にあたるとあんまり見栄えがよくなかったね。僕の知ってるのはそれだけさ。よく見ていたら神父は家々の並びに沿って、僧衣がより黒く見えるからというので、細い影の中を歩いていたよ。まあ高慢そうな様子はしていないね、頭を下げて、早足で歩いて……。神父が広場を横切ったとき、娘が二人笑い出したんだ。神父は頭を上げてとても優しく彼女たちを見つめていたよ。そうだよな、セルジュ?」
 今度はセルジュが話す番だった。セルジュは中学校から戻るときに何度も、サン=サチュルナンから戻るフォージャ神父と一緒に遠くから歩いて来たことがあったのだ。神父は誰にも話しかけることなく通りを渡っていったよ。というのも神父は誰のことも知らないみたいだったし、自分の周りを囲んでいるひそかな嘲笑に、少し恥ずかしい思いをしているみたいだったから。
「だが町では神父さまについて話してるのかね?」と興味の極みにあってムーレは訊いた。
「僕は神父さんについて誰からも話しかけられなかったよ」とオクターヴが答えた。
「いや」とセルジュが言い返した。
「しゃべってるよ。ブーレット神父の甥御さんはぼくに、神父さんは教会ではあまり良く思われていないって言ってた。遠くから来た司祭はあまり好かれないんだって。それから、神父さんがとても不幸な様子をしている、とか……。そのうち神父さんを見慣れるようになれば、この貧しい人をそってしておくようになるだろう、最初のうちは、まず顔見知りにならなきゃいけないって」
 そのときマルトは二人の少年に向かって、外で神父の経済状態について訊かれても答えないようにと命じた。
「なに、答えたっていいじゃないか! わしらが知っていることを話したって神父さまを危うくするわけでもあるまいし」とムーレは叫んだ。
【26】 この時から、信仰深くまた悪に気兼ねすることもなしに、彼は子どもたちを神父の後をつけるスパイに仕立て上げたのだった。オクターヴとセルジュは町で言われていることすべてを父に復唱してみせ、また神父に出会った時にはその後をつけるように命じられた。しかしこの情報源はたちまち干上がってしまった。異邦の助任司祭がこの司教区にやって来たことによって引き起こされたひそやかなざわめきは、やがて静まってしまったからだった。町はこの「貧しい人」、町の路地の影の中にすべり込むこの擦り切れた僧衣のおかげで、話題を手に入れたかに見えた。ところが町は神父に対して大きな軽蔑だけしか抱いてはいなかった。そのうえ司祭はまっすくに聖堂に入って行って、いつも同じ通りを通ってそこから戻ってくるのだった。神父は舗石をけちってるんだと言ってオクターヴは笑った。
 家では、決して外出することのないデジレを利用しようとムーレは思った。晩になるとムーレは娘を庭の奥へ連れて行って、昼のうちに彼女がしたことや見たことをしゃべるのを聞くのだったが、彼は娘の話を三階に住んでいる人たちの話題のほうへ向けようと努めた。
「いいかい、明日、窓が開いているときに部屋の中にボールを投げこんでごらん。そしてそれを返してもらうために上がって行くんだ」と、ある日彼は娘に言った。
 翌日、デジレはボールを投げ込んだ。しかし、ボールは誰の姿も見せずに投げ返されてきてテラスの上に跳ね返ったので、彼女は外階段にまでもたどり着けなかった。最初の日以来断絶したままの関係を結び直すために娘のかわいらしさを利用しようと当てにしていた父親は、この計画に失望してしまった。彼は明らかに、自分の部屋を防護しておこうという神父の非常に明瞭な意志につき当たっていたのだ。この闘争はムーレの好奇心をより強烈なものにしただけだった。彼はついに隅のほうで女中とうわさ話をするようになったが、これはマルトをひどく不愉快にさせるものだった。彼女は夫の品位のなさを非難したが、ムーレはかっとなって嘘をついた。自分が間違ったことをしていると感じていたので、ムーレはもうフォージャ母子のことをローズと話すときにはただ隠れてするばかりになっていた。
【27】 ある日、ローズが彼に台所までついてくるよう合図をした。
「ああ、だんな様! だんな様が部屋から降りて来るのをわたくしは一時間以上も前から待ちこがれていたんでございますよ」とローズは扉を閉めるなり言った。
「何か気づいたことでもあったのかい?」
「まあお聞きくださいよ……昨日の晩、わたくしはフォージャの奥さまと一時間以上もしゃべったんですよ」
 ムーレは喜びに打ち震えた。彼は布巾や前日の料理ごみに囲まれて、わらの抜けた椅子に腰をおろした。
「それで? それで?」と彼は口ごもった。
「それがですね」と女中は答えた。
「わたくしはラストワールさんのところの女中に晩のあいさつをするので、通りに面した門のところにおりましたんですよ。するとそのときフォージャの奥さまが、バケツに入った汚水をどぶに空けるために降りて来たんです。いつもならそのあと振り向きもせずにすぐに上がって行ってしまうんですが、そうせずに少しの間そこに留まってわたくしの方を見つめていたんですよ。そこで、あの方がおしゃべりをしたいんだなとわたくしにはわかりましたので、今日の昼はいい天気でしたねとか、いいワインができるでしょうかなどと話しかけてみたんでございます。あの方は話を急ぐふうもなく『ええ、ええ』と答えるばかりで、地に足のつかない、そんなことには全然興味がない人のような無関心な声をしておりました。それなのにバケツを地面に置いて、いっこうに上がって行かないのです。それどころかわたくしの隣で、壁にもたれかかって……」
「で、あの人はお前に何を話したんだ?」と、じりじりとなってムーレは尋ねた。
「申しておきますが、わたくしはあの方に質問を浴びせるほどばか者じゃありませんでしたよ。そんなことをしたらあの方は逃げ去ってしまったでしょうからね……。わたくしはそんな気配は見せずに、あの方に関係のある事のほうへ話を持っていったのでございますよ。サン=サチュルナン教会の主任司祭、あの立派なコンパンさんがたまたま通りかかったので、司祭さまが重い病気だってことをわたくしはあの方に教えて、司祭さまももう長くはない、聖堂では代わりの人を見つけるのも難しかろう、などと言ったのです。あの方は耳をそばだてて聞いておりましたよ、たしかに。コンパン神父さまは何の病気なのか、なんてことまでわたくしに訊ねましたからね。それから話題が転々として、司教さまのこともあの方に話しましたよ。ルースロ猊下という非常に実直な方だってね。あの方は司教さまの歳を知らないようでした。司教さまは六十歳で、これまたとても過敏な方で、少しばかり人の言いなりになっているんだと申しておきました。司教区をぜんぶ取り仕切っているあの偉大な助任司祭のフェニルさんのことはもう皆が知っていますものね。あのお婆さんは心を奪われたように聞き入っておりましたよ。次の日の朝まで通りに立ったままでいるんじゃないかと思うくらいでしたね」
【28】 ムーレは失望のしぐさを見せた。
「それは全部、お前一人がしゃべってたことだけじゃないか。あの人のほうは、お前にいったい何を言ったんだい?」とムーレは叫んだ。
「まあ、最後までお聞きくださいましよ」とローズは静かにつづけた。
「これからが肝心なところなんですから……。あの方に話をする気を起こさせるために、わたくしはとうとう自分たちのことまで話したんでございますよ。だんな様はフランソワ・ムーレという、もとマルセイユの卸売商で、十五年かけてワインや油やアーモンドの商いで一財産築いたんですってお話しました。それに加えて、奥さまのご両親が住んでいらっしゃるこの静かなプラッサンの町で金利暮らしをしに来るほうを選んだってこともですね。そのうえわたくしはうまく話を運んで奥さまがだんな様の従妹だってことも教えたんですよ。お二人が四十歳と三十七歳だってこと、とても仲のよろしいご夫婦だっていうこと、そのうえ、お二人はソーヴェール通りには行かないってことも。結局、だんな様方の話をぜんぶしました……。あの方はとても関心をひかれていたようでしたよ。いつも、急かすことなしに、『ええ、ええ』と答えていましたから。わたくしが話を止めると、あの方は、こんなふうに頭で合図をして聞いていることを示して、わたくしが話を続けられるように促すのです……。そして夜が来るまで、こんなふうにしてわたくしたちは良い友だち同士のように壁にもたれておしゃべりしていたんでございます」
 ムーレは怒りにとりつかれて立ち上がった。
「なんだって! それで全部か!……あの人は一時間ものあいだお前におしゃべりさせて、自分では何も言わなかったのか!」とムーレは叫んだ。
「おっしゃいましたよ。夜になったときに、『冷えてきましたね』って。そしてあの方はバケツを取り上げて、上にまたあがっていったんです……」
「ちぇっ! おまえはばか者だよ! あの婆さんのほうがお前なんかより十倍もうわてじゃないか。ああ、まったく、奴らはわしらについて知りたかったことを全部知って、今ごろ笑っているにちがいないさ……。いいか、ローズ、お前はただのばか者だよ!」
 年取った女中は我慢強くなかった。彼女はポワロン(片手鍋)やキャセロール(シチュー鍋)をひっくり返したり布巾を丸めて放り投げたりしながら、荒々しく歩き始めた。
「いいですか、だんな様、台所に入って来たのがわたくしに大きな口をきくためなんでしたら、それには及びませんよ。どうぞ出て行って結構ですとも。わたくしがした事ってのは、ただだんな様を喜ばせるためにだけしたことなんですからね。奥さまはこんなことをするためにわたくしどもがここで一緒にいるのを見つけたらきっと文句をおっしゃるでしょうが、それももっともなわけですよ、だってこんなのはよくないことですからね……。とにかく、わたくしはあのご婦人の口から言葉を引き出すことはできませんでしたとも。わたくしは誰もがやるようにやったんですよ。おしゃべりして、だんな様のことを話しました。あの方が同じようになさらなかったのは残念でございましたね。そんなに気になるんでしたら、行ってあの方に尋ねてみたらいかがです? たぶんだんな様はわたくしほどばか者じゃないんでしょうから……」
 ローズは声を高めた。ムーレは退散したほうが賢明だと思って、妻に聞かれないように台所の扉を閉めて出た。しかしローズは彼の背後で戸を開けて玄関に出てきて、彼に叫んだ。
「よろしいですか、わたくしはもう何もお引き受けしませんよ。だんな様のその見苦しい用事は、だれかお好きな相手にやらせたらいいでしょうよ」
【29】 ムーレはやり込められてしまった。彼はこの敗北によっていくらか苦渋を味わった。恨みがましい気持ちから、三階の連中なんかたいして重要ではないのだなどと言ってみた。町全体のものになっている一つの意見が次第にムーレの知識の間にも染みとおってきた。フォージャ神父は才能も何の野心もない、司教区のたくらみからはまったく外れてしまっている司祭だと見なされていた。神父は自分の貧しさを恥じ、聖堂の劣悪な仕事に甘んじ、気に入っているらしい影の中でできる限り身をひそめているように思われた。ただ一つ依然として興味を引いていたのは、なぜ神父がブザンソンからプラッサンへやって来たのかということだった。いくつかのまことしやかな話が広まっていたが、推測は不確かなようだった。ムーレ自身はというと、カードや球戯をするときのように、単に時間をつぶすためだけに楽しみでこの間借人の偵察をしていたのだが、もう司祭に部屋を貸しているということを忘れ始めていた。しかしそのとき新たな事件があって、再び彼の生活を占領することになった。
【30】 ある日の午後、家へ戻ろうとしている時にムーレは前方でフォージャ神父がバランド通りの坂をのぼっていくのに気づいた。ムーレは歩みをゆるめて心ゆくまで神父を検分した。司祭が彼の家に住むようになってからのひと月で、日中こうして司祭の姿をとらえたのはこれが初めてであった。神父はいつものように古ぼけた僧衣を着てトリコルヌ(三角帽)を手に持ち、風が強いというのに頭をむき出しにして、ゆっくりと歩いていた。きつい上り坂になっているその通りには人影もなく、よろい戸の閉まった飾りのない大きな家々が並んでいた。ムーレは足を早め、しまいには司祭が彼に気づいて行ってしまわないかと恐れて爪先で歩いた。だがこの二人がラストワール氏の家の前に近づいたとき、一群の人々が郡庁の広場から出てきてその家の中へ入って行った。フォージャ神父はこの人々をよけるために少し脇へ寄って、扉が閉まるのを見つめていた。それから、とつぜん立ち止まって、すぐそばまで来ていた家主のほうへ振り返った。
「こんなところでお会いできるなんて願ってもおりませんでした。今晩、お手間をとって頂いてもよろしいでしょうか……? この前の雨の日に、私どもの部屋の天井に水漏れが現れまして、それをお見せしたいのですが」と神父は非常に慇懃に言った。
 ムーレは言いよどみ、おっしゃるとおりにいたしますなどと言いながら、神父の前に立ち尽くしていた。そして一緒に家まで戻ったとき、ムーレはとうとう、いつ天井を見に伺えばいいでしょうかと神父に尋ねるはめになった。
「では、すみませんがすぐにでも。特にお差し支えがなければで結構ですが」と神父は答えた。
 ムーレは息の詰まるような思いで神父の後ろについて上がって行った。いっぽう台所の敷居のところにいたローズは、驚きのあまり呆然となって、眼をきょろきょろさせながら二人の後を見送っていた。

第4章

(つづく)

底本:La Conquête de Plassans, Gallimard, 1990
訳:朝倉秀吾(2002年9月8日〜)


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