戦後フランスの実存主義を担った代表的論者のひとりボーヴォワールによる、女性論の古典。
本書はたしかに古典であるが、同時にもっとも「現代的」な古典のひとつである。それは、単に戦後の作品だからという意味ではなく、現代社会のもっとも先鋭的な論点のひとつに関わっているという意味においてである。本書はいまだ厳密な意味で歴史的なものとみなすことのできない著作であり、またその主張に対して、一人ひとりの読者が支持か不支持かを明確に問われるような、そういう著作である。私としては、基本的な考え方に関する限り本書をほぼ全面的に支持したい。半世紀前の著作であるから、こんにちの実状に照らせば細かい点でいろいろと問題があるだろうが、議論の大筋は現在もなお重要な論点をなしており、しかも、ボーヴォワールの結論は十分に妥当性をもつと思う。
第Ⅰ巻 事実と神話
本書の第一巻は、女が置かれた状況についての実証的・歴史的検証と、文学作品に現れた女の性質をめぐる分析にあてられている。
まず第一部「運命」において、ボーヴォワールは、女の本性を根拠づけると考えられてきた三つのもの、すなわち生物学的条件・精神分析・史的唯物論を順に検証しつつ、そのいずれも決定的な根拠にはなりえないことを明らかにする。さらに第二部「歴史」では、家父長制の成立がいかにして「女の神話」(女とは……なものである、という決めつけ)と不可分に結びついてきたかを、歴史的に考察していく。この二部は本書のうちでボーヴォワールの博識が最も際だっている部分であり、非常に読み応えがある。
たとえば次のような文章にはジェンダー論の基本的思想が明確に表現されており、こんにちでも(というより今後ますます)説得力を持つものと言えよう。
妻を夫に従属させるのは、妻が本質的に無能力であると判断されるからではない。財産管理に何の差しさわりもない場合には、女の能力は十分に認められているのだ。封建時代から現代にいたるまで、結婚した女は意図的に私有財産の犠牲にされてきた。この隷属状態は夫の所有する財産が莫大であればあるほど苛酷であるのは注目に値する。いつでも女の従属がいちばんはっきりしているのは有産階級である。今日でも、富裕な土地所有者層には家父長制家族が存続している。
(Ⅰ・204ページ)
こうしたすべての国で、「貞淑な妻」が家族に隷属した結果の一つが、売春の存在である。売春婦は偽善的に社会の周縁に押しやられながら、最も重要な役割の一つを社会で果たしている。キリスト教は彼女たちに軽蔑のことばを浴びせかけるが、彼女たちを必要悪として認めているのだ。
(Ⅰ・208ページ)
どうでもいいときには男が女を立てて一等席を譲るべきなのはおきまりのことだ。原始社会のように女に重い荷物を背負わせる代わりに、つらい仕事や心配事の一切を急いで女から取り除く。それは同時に、女を一切の責任から解放することである。こうして女は自分の立場の安易さにだまされ、心をそそられて、男が女を閉じ込めたがっている母や主婦の役割を受け入れるよう期待されるのだ。
(Ⅰ・240ページ)
誰もが今でも若い娘に、「すてきな王子さま」に幸運と幸福を期待する方が、一人でそれを手に入れようと困難で不確かな試みをするよりもいいとすすめている。とくに、娘は王子によって自分のカーストより上のカーストに上昇することも期待できる。それは彼女が一生働いても与えられない奇跡である。しかし、そういう望みは彼女の努力と利益を分離させてしまうので有害である。女にとって最も大きいハンディキャップは、おそらくこの分裂である。両親はいまでも娘を、その個性をのばすよりも、結婚させるために育てる。娘もその方が有利だと思って、自分からそれを望むほどだ。その結果、娘の大部分はその兄弟ほど専門技術を身につけず、しっかりした教育も受けず、自分の職業に全身全霊で打ち込むこともしない。そのためにいつまでも低い地位にあまんじることになる。そして悪循環が始まる。この劣等意識が夫を見つけたいという願望を強めるのだ。
(Ⅰ・289ページ)
もっとも、ここには色々と細かい知識が出てくるので、読者によっては最初にこの部分を読まされると退屈に感じるかもしれない。本書の真骨頂は第二巻であり、第二巻を読まずに挫折してしまうのはあまりに不幸であるから、そういう読者はこの第一巻第一部・第二部をとばして先を読むほうがいいかもしれない。
第一巻のなかで私にとって最も興味深かったのは第三部「神話」であった。ここでは、男が作りだした女の神話を、近代以降のフランス文学を題材にとって分析している。特に大きく扱われている作家は、モンテルラン、D・H・ロレンス、クローデル、ブルトン、スタンダールの五人であるが、それ以外にも、随所にフランス作家と作品についての言及があり、フランス文学史をひととおり学んだ後に読むと、ボーヴォワールの言わんとすることが逐一わかって実に興味深い。
重点的に論じられた上記の五人のうちでは、まずモンテルランがけちょんけちょんにやっつけられている。これに対して最も高く評価されているのがスタンダールである。ボーヴォワールはスタンダールの作品に登場する情熱的な女性たちを深く慈しむ。(これだけでも、ボーヴォワールの思想が教条的な男女同質論でないことくらい、わかりそうなものだが。)たとえば『リュシアン・ルーヴェン』のシャステレル夫人や『赤と黒』のマチルドについての分析には、私は深く納得してしまった。
高貴な魂はいつも自分自身にふさわしくありたいと願うのである。他人にほめられるより自分自身で納得するほうを重視し、それによって自己を一つの絶対として実現する。反響のないこうした孤独な問答は、政変より重大である。シャステレル夫人がリュシアン・ルーヴェンの愛に応えるべきかどうか自問するとき、彼女は自分自身のこと、世界のことを決めるのだ。他人を信頼してもいいだろうか。自分自身の心をあてにできるだろうか。恋愛の価値、人間の誓いの価値とは何だろう。信じたり、愛したりするのは馬鹿なのか、寛大なのか。こうした疑問は、人生の意味、一人ひとりの人生、そして万人の人生の意味そのものを問題にする。
いわゆる謹厳な男は、人生について出来合いの説明を受け入れているにすぎないから、実際は浅薄である。しかし情熱的で、深く考える女は、一瞬一瞬、既成の価値観を再検討し、支えのない自由の不断の緊張を味わう。そうしてわが身が危険にさらされているのをつねに感じている。
(Ⅰ・488-489ページ)
破滅するよりわが身を守るほうが、あるいは愛する人に抵抗するより屈服するほうが、高慢だろうか、偉大だろうか。彼女〔マチルド=引用者注〕もまた疑念のただなかにたった一人で、命より大切なプライドを賭ける。無知、偏見、欺瞞の闇をつきぬけ、ゆらめく熱い情熱の光のなかに本当の生きる理由を熱烈に探求すること、幸福か死か、栄誉か屈辱かという果てしない賭けに身をさらすこと、それこそが、女の生涯にロマネスクな栄光を授けるのである。
(中略)
マチルド・ド・ラ・モルが魅力的なのは、演じているうちに訳がわからなくなり、自分の心を制御しているつもりが、たいていはその餌食になっているからである。
(Ⅰ・490ページ)
第Ⅱ巻 体験
第一巻において女の神話が作られ維持されてきた過程に焦点をあてたボーヴォワールは、第二巻では、この神話が実際にどのように女のあり方を規定しているのかを、女の人生に沿って明らかにしてゆく。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(Ⅱ・12ページ)という有名な言葉はこの第二巻の第一部冒頭に掲げられたものであり、第一部「女はどう育てられるか」、第二部「女が生きる状況」において、いかにして女が「作られて」いるかが明らかにされる。合わせると第二巻の三分の二以上の分量となるこの二つの部では、女性作家の文学作品(特にコレット)と精神医療の文献から例をひきつつ、女の成長過程の各段階と、成人した後の女の置かれる状況のそれぞれに応じて、この影響力の仕組みが解き明かされる。叙述・引例ともに豊富なため読みごたえがあり、女の同性愛や高級娼婦、さらに老年期の女についてなど、女の置かれるあらゆる個別の状況に関してボーヴォワールが深い洞察をおこなっていたことを思い知らされる。男の読者にとっては、女の中で展開している問題が、いかに複雑で、男の単純な想像からかけ離れているかを再認識させられるものと言えよう。
さて、ここまでの分量は圧巻であるが、まだそれほど各主題が不可分に扱われてはいないので、興味のある章だけを読むのでもいいかもしれない。これに対して、第二部末尾の第十章と、第三部「自分を正当化する女たち」、第四部「解放に向かって」は、いわば本書の総括をなす部分であり、ぜひともまとめて読む必要がある。ボーヴォワールはここまでにも、本書の理論的要約めいた記述を各所に残してきているが、この最後の部分で、それらを包括的に再提示しているからである。
ボーヴォワールの論旨展開の概略はこうである。まず、「女の神話」に支えられた社会的状況がどのようにして女を内在性=非本質性に閉じこめているかを、これまでの章を受ける形で一般的に述べる(第二部第十章)。そしてこの状況に対する女自身の加担、すなわち内在の中で超越を達成しようとする悲壮な努力の姿を、「ナルシシストの女」(第三部第十一章)、「恋する女」(第十二章)、「神秘的信仰に生きる女」(第十三章)、として描き出す。ボーヴォワールの主張の核心は、これらが、女を内在性に閉じこめる「罠」になっているという点にある。母性や女らしさを否定しているのではなく、それらの概念が女を騙すために利用されていると言っているのである。いっぽう、男に対して女の解放を要求し、あれこれの理屈をつけて不平等を正当化しようとする主張に対抗する基本的な考え方は、「私たちの存在の正当性を証明しろと要求する前に、まず私たちを存在させてください」ということである(これは「野蛮なアメリカ」を非難するヨーロッパ人に、合衆国第三代大統領ジェファーソンが答えた論理であった)。つまり、結婚するほうが女にとって幸福かどうかといった「結果」を論じているのではなく、女が自分の可能性を開花させることを阻む状況そのものを問題にしているのである。
誠実に読み込めば、ボーヴォワールの論理はきわめて明快かつ強靱であり、強い説得力を持つことがわかる。ボーヴォワールの主張を誤解した上で、その誤解された考え方をおおいに否定することは可能であろうが(しかしその場合ボーヴォワールを論破したことには全然ならない)、そうでない限り、彼女の主張の基本部分を退けることは難しいだろう。私自身は特に第二巻第三部において、よく非難される女の夢想的・非現実的傾向について、ボーヴォワールが冷静に分析し、結果として女を見事に擁護していることに驚嘆した。表面的には女に対してかなり手厳しいことを言っているこの部分の存在することこそが、ボーヴォワールの主張に論理的一貫性を持たせ、女の状況改善を訴える本書に、恐るべき説得力を与えることになっているのである。
本書第二巻の第三部・第四部におけるボーヴォワールの主張を、以下に私自身の言葉で敷衍しておきたい。