序章 正義へのアプローチ
正義の複数的基礎
一般に、ある一つの結論が複数の根拠から導かれることがありうる。もし様々な根拠から同一の結論が導かれるなら、その結論を採用するにあたって、複数の根拠のうちの一つだけを選んだり、それぞれの根拠の間に優先順位をつけたりすることは必ずしも必要でない。このことは正義の判断においてもあてはまる。すなわち、あることがらが間違いであると様々な基準から評価されるのなら、それらの基準の間に相対的な優先順位がついていなくても、その結論を採用することに支障はない(注)。
(注)
「複数の異なった根拠を、それらの相対的な重要性に関する合意なしに用いるという手続き」(32ページ)は「複数的基礎」と呼ばれ、本書の後の方で検討される。
推論の必要性
正義の理論は、理性の働きによって正義と不正義を判断しようとする。それは一般的な不正義の感覚から特定の不正義の判断へ移り、さらに正義を促進する方法を分析する。ところで、不正義の行われていることが直感的に明瞭である場合には、正義と不正義を推論によって判別するよりも、現に行われている不正義に実際に抗議することの方が緊急で重要だと思うかもしれない。しかしながら、筋の通った正当化が可能かどうかを吟味する手続きを省略してはならない。あることが不正義であるか否かは、思っているほど直感的に明瞭ではないからである。「ある災難が不正義であるのは、それを予防することができたときであり、特に予防的行為を行なう立場にいた人がそうしなかった場合である。何らかの推論は、ある災難を知ることから不正義の判断に進むときに避けることはできない」(35ページ)。正当化の手続きを省略したがるのは、しばしば、正義の実現に性急である者よりは批判的な吟味を嫌う者である。
正義論の二つの伝統
社会正義に関する議論が急速な進展を見せた十八世紀から十九世紀の啓蒙運動の時代にかけて、正義の推論には二つの異なる考え方があった。一つは「先験的制度尊重主義」、もう一つは「実現ベースの比較」である。
先験的制度尊重主義 | 実現ベースの比較 | |
---|---|---|
問題設定 | 社会にとって公正な制度とは何か? 何が完全に平等な制度か? |
より不公正でない社会の基準は何か? どうすれば正義は促進されるか? |
提唱者 | ホッブズ、ルソー、カント、ロールズ、ドゥオーキン、デイヴィド・ゴティエ、ノージック | コンドルセ侯爵、スミス、ベンサム、メアリー・ウルストンクラフト、マルクス、ミル、本書 |
主旨 | 完全な正義を特定しようとする 理想的な制度に関心を集中 社会契約に基づいた制度選択 |
現実の明白な不公正を取り除こうとする |
方法 | 契約重視のアプローチ (先験的ルート・制度や規則に焦点) |
実現重視のアプローチ (比較のルート・実際に実現したことや行動規範に焦点) |
現代の政治哲学の主流はロールズをはじめとして、先験的制度尊重主義の側である。これに対して本書はもう一方の伝統、すなわち実現ベースの比較を探究する立場に立つ。先験主義か実現ベースかの二元的な出発点は、個々の思想家たちの考えが大きく異なっているとしても、根本的に重要である。先験主義には実現可能性と過剰性という問題点があり、これに対し実現ベースの比較は、実際に達成された結果をも正義の分析に含めようとする。
先験主義の難点
先験主義の難点1 実現可能性への疑い
不偏的な合意に基づく完全に平等な制度を先験的に特定することは可能なのか。すなわち、そのような制度がただ一つに特定されうるというのは本当か。
批判的な吟味に耐え、不偏的であることを主張しうる正義の原理はたしかに存在する。だが注目すべきは、そのような要件を満たす原理は複数存在し、しかも互いに深刻な相違をもって競合していることである。既得権益を排除した不偏的な合意は可能かもしれないが、それがたった一つしか存在しない(ただ一つに特定される)はずだという前提は正しいのだろうか。
たとえばロールズの「公正としての正義」では、原初状態(不偏的な合意が可能な状況)において「正義の二原理」が唯一の解として全員一致で選択されるとされている。正義の二原理が、完全に公正な制度に関するものであることは認めよう。だがここで問題なのは、なぜ他の代替案ではいけないのかという議論が欠けていることである。競合する代替案(それらもまた不偏的でありうる)を排除できるような説得的な議論が『正義論』においてはなされていない。後にロールズは『万民の法』において、正義の二原理は「一群の正義の政治的構想の一つ」にすぎないと譲歩したが、これはとりもなおさず『正義論』の一部撤回ではないのだろうか。
先験主義の難点2 過剰性
正義を実践するために、それに先立って完全に公正な社会的合意を特定しておくことまでは必要でない。そのうえ十分でもない。
競合する二つの政策(A案とB案)のどちらがより正義に適合するかを選ぼうとしている状況で、理想的な政策がC案であると特定してみせることに実践的意味はあるのだろうか。たしかに、C案が理想的であると特定できたなら、理想にどれだけ近いかによって最初の二案を順位づけし、より上位の案を選択すべきと結論できるように思うかもしれない。しかし理想に「近い」という判断はすでに価値評価を含むものであって、それほど客観的なことがらではない。赤ワインが好きな人にとって、「白ワイン」と「赤白のワインを混ぜた飲み物」とでは、後者の方が赤ワインに近く、したがってより好ましいと言えるのだろうか。
先験的理論は、その過程で比較の問題を取り扱うことがあるとしても、その関心はあくまで先験的選択肢の特定に向けられており、比較の問題に必ず解決を与えられるわけでもなければ、比較による評価と都合よく折衷できるようなものでもない。さしあたって必要なのは、実現可能な選択肢の順位づけに関する合意なのである。実現可能なA案とB案のどちらがより正義に適うのかが合意できるなら、理想的なC案なるものを探究することは必要ではない。本書は、その比較の問題に答えようとするのであって、それには社会的選択理論が大きな助けとなるだろう。
成果に基づく正義
どのような制度や規則を選択するかは、正義にとってむろん重要ではあるが、先験的に理想的な制度を探究することだけで正義の議論を終わらせるわけにはいかない。人々が生活の中で実際に何を達成できるのか、その成果に関心を寄せなければならない。そして人々の生活に関心を寄せていくなら、成果とは単に達成された結果のみならず、様々な可能性のうちから人々が選択しうるという自由そのものをも含むものとして捉えなければならない。成果に着目する立場は人々の効用や幸福を最大化しようとするベンサム流の功利主義を想起させるため、自己の福祉を顧みずに理想や義務を追及する人物を適切に評価し損なう懸念を生じさせるかもしれない。しかし成果とは、自分の生き方を考え選択する自由(したがって自分の福祉以外のものを追求する自由)をも含むものである。自由とは単に効用増大のための手段ではなく、それ自体が重要な達成の一つなのだ。人々が達成しうること(ケイパビリティ)までを評価に含めるアプローチは、「成果」と称されるものの内実を刷新するとともに、功利主義がとらえ損なった義務論的要求への回路を確保する。責任をもって義務を遂行する道を自由に選びうるということも、私たちのケイパビリティの重要な一部だからである。
過程と責任
サンスクリットで正義を意味する二つの語、ニーティとニヤーヤが、契約重視と実現重視の違いに対応しているように思われる。組織の適切さと行動の正しさを表すニーティは、たとえ世界が滅んでも正義を遂行しようとする厳格な主張に行きつく。いっぽう、実現された正義を包括的に表すニヤーヤは、弱肉強食のような明白な不正義を取り除くことに関心を寄せる。ところで正義の課題とは、完璧に公正な社会を達成すること(ニーティ)ではなく、明白な不正義を防ぐこと(ニヤーヤ)にあるはずである。私たちが奴隷制に反対するのは、それが明らかな不正義だからであって、あらかじめ合意された完璧に公正な社会に奴隷制が反するからではない。
たしかに義務論的な立場が帰結主義に対して抱く危惧と不信は理解できる。良い結果は必ずしも良い意図から生じるわけではないし、正しいことを目指した行動がつねに思わしい成果をあげられるわけではない。成果に注目する立場では正しさを目指す過程や努力が無視されて、「結果よければ」式のご都合主義に陥ると懸念されるのはもっともである。
しかしそれは取り越し苦労である。達成を重視する立場において、結果とはそこに至る過程を含めた「包括的結果」として捉える余地があるからである。「結果的に負けても正々堂々と戦うべきである」と考える人々は、「勝ちという結果のためなら手段を選ばない」という主張を受け入れることはあるまい。しかしながら、「結果」という語は単に「勝つ」こと(最終的結果)をいうのではなく、「正々堂々と勝つ」こと(包括的結果)を意味すると捉えることも可能である。結果をこのように過程を含めた包括的なものと捉えれば、結果を重視することはフェアプレイと矛盾しないし、不正な手段で勝ったことはそもそも結果とはみなされないことになろう(注)。
(注)
これはうまい説明だと思うが、だとすると、包括的結果に含めるべき「正しい過程」を決定するために義務論的考慮はどのみち必要になるわけである。
『バガヴァッド・ギーター』にみられるクリシュナとアルジュナの論争は、結果や達成を包括的にとらえるべきことの例証となる。戦争の結果に関わらず戦士としての義務を果たせと説く師クリシュナに対して、アルジュナは戦争の結果を恐れて戦うことを逡巡する。義務を神聖化する宗教的観点からみると議論に勝つのはクリシュナだが、ここで重要なのは、それにもかかわらずアルジュナの懊悩に容易にしりぞけ得ないものが感じられること、そしてその理由が、アルジュナの抱く憂慮の包括性に関わっていることである。アルジュナは勝てないことを恐れて戦いをためらったのではなく、同じ一族の者同士が殺し合う悲惨さと、そのような過程で得られた勝利の無価値さを思って悩んだのである。戦いの勝敗という単なる結果ではなく、そこに至る過程をも考慮の内に入れることで、アルジュナの苦悩は強い共感性を獲得するのだ。
興味深いことに、義務論者が「結果を気にせずフェアプレイを貫く」と宣言するときに私たちを惹きつける倫理性や高潔さは、ギーターの事例においては結果を思い悩むアルジュナのほうにより多く備わっているように感じられる。
グローバルな正義
先験主義の難点3 グローバルな正義の無視
正義の原理を適用するのに主権国家を必要とする前提に立つため、現に存在するグローバルな正義の諸問題に効果的な貢献をなしえない。
最後に、先験的制度尊重主義には、主権国家を超えたグローバルな正義に関してほとんど発言することができないという大きな制約がある。正義に適う一組の完全な制度を選択しようとするこの理論は、正義の原理を適用するのに主権国家の存在を必要とするが、グローバル社会には現時点でそのような政府が存在しないからである。その結果、国家間の不公正や国際的な改革の必要性について、これらの論者は人道主義的な最小限の行動原理といったものしか導くことができない。
しかし現実に多くの不公正が存在し、制度的改革についての提案がなされているときに、その適否の判定を正義の理論が提供しえないでもよいのだろうか。国家間の政治的交渉や最小限の人道主義を超えて、明白な不正義に対するより実効的な介入を行うのに、完全に不公正な世界社会を築くための制度の選択と主権の確立が、前もって必要だというのか? 私たちが望むのは、ただ、今より多少なりとも不公正でない社会を実現することだというのに?
先験的制度尊重主義と決別し、実現される結果を比較するアプローチへと移る必然性がここにある。本書の課題はそれである。
ロールズ『正義論』 | 本書と異なる立場の正義論として言及している。 |
---|---|
ロールズ『万民の法』 | 『正義論』の修正が必ずしも成功していないことを指摘している。 |
『バガヴァッド・ギーター』 | クリシュナとアルジュナの論争を、義務論と帰結主義の対立として引証している。 |
不偏的な複数の正義の存立可能性についてセンの挙げている「三人の子どもと笛」の例は示唆に富む。
アン、ボブ、カーラの三人が一本の笛を取り合って争っている。
アンだけが笛を吹けること、ボブが最も貧しいこと、カーラが笛を作ったこと、そして笛の所有が望ましいことであることについて、当事者に意見の相違はない。そして三つの理論はいずれも、誰と誰の立場が入れ替わったとしても適用可能であるから、不偏的である。以上の条件が揃っているにもかかわらず、この事例では紛争を解決できない。