マッツィーニ|人間の義務について

人間の義務について

ジュゼッペ・マッツィーニ
イタリアに共和制統一国家を樹立することを目指した革命家の訴え。

Giuseppe Mazzini "Dei doveri dell'uomo", 1860
『人間の義務について』 (齋藤ゆかり訳、岩波文庫、2010-06-16)

目次
一章 序文
二章
三章 掟=法
四章 人類に対する義務
五章 祖国に対する義務
六章 家族に対する義務
七章 自分に対する義務
八章 自由
九章 教育
十章 社会的結束、進歩
十一章 経済の問題
十二章 結論

一章 序文

 イタリアの労働者に向けて、私は各人が負う義務について語ろう。困窮している人々に向かって権利ではなく義務を語ろうとするのはなぜかといえば、権利や自由や幸福や豊かさを求める考えこそが、現今の人民の困窮をもたらしたものだったからである。啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちに唱導されたフランス革命は絶対主義体制を覆して自由と権利を獲得することに成功したが、それによって達成された豊かな生活は今や一部の富裕層に独占され、土地も信用も資本も教育ももたず生計のために労働を提供するしかない人民は、依然として困苦のなかに置き去りにされている。そしてそのような人民の苦しみを黙殺し、獲得された豊かさを自分だけのものとして防衛するために、権利や自由の考えが持ち出されている。権利の理屈がエゴイズムと貪欲を助長しているのであり、1830年の革命(フランス七月革命)の経緯は、まさにそのことを例証している。

 権利の思想だけをよりどころとする者は、ひとたび一身の自由を獲得した後は闘争を続ける動機を失う。不正と戦い、人類や祖国のために社会を発展向上させようとする実践行為に向けて人間が導かれるのは、義務の思想(それは教育を通じて築かれる)によってである。権利はもちろんあるが、それは目的ではなく手段として求められる。低賃金で長時間の労働が改善されるべきなのは、それによって人間的向上の義務(教育や政治参加)に振り向ける余地を生活のなかに確保するためなのだ。

 権利だけを主張する改革者をあてにしてはならない。エゴイズムの中に閉じこもる富裕な階級を目覚めさせるには、労働者たちが義務の信念にもとづいて人間的向上をめざし、犠牲を払い、行動を起こさなければならない。幸運にも教育に恵まれている者たちは、この考えを表現し、イタリアに国民国家を実現するために力を尽くしてほしい。

次の記述は議論の本筋からやや外れた箇所に出てくるものだが、含蓄が深かったので引用しておく。

(勇気をもって行動するよう聴き手たる人民に促した後で)「ただし怒りや反動、脅しには走らずに。どうしても必要な場合に最も強力な威嚇となるのは、断固たる態度であって怒りに満ちた口調ではありません。」(36ページ)

本書(一章)から参照
ラムネー『信者の言葉』 義務を重視する同時代の思想家として肯定的に言及している。

二章 神

 神は存在し、人民の義務が神に由来することには何の疑問もない。神の名を自分の都合のいいように利用しようとした専制君主や腐敗した聖職者が多く現れたため、それらに対する不信感から無神論が流行したこともたしかにあった。しかし太陽の光が霞で遮られているからといって、太陽が存在しないことにはならない。そして無神論は論外としても、神を崇めるにあたって戒めなければならない態度がなお二つある。神と神のなせる業とを切り離すところに共通点のあるこの二つは、いわば「神を愛さぬ者」と「神を知らぬ者」の態度である。

神を愛さぬ者 プロテスタント
神を知らぬ者 精神主義者

「神を愛さぬ者」への反論
 「神を愛さぬ者」は天上(宗教)と現世(政治)を切り離し、信仰を各人の自由に委ねて、神をこの世の問題に適用することを拒む。現世における人間の平等と自由を実現するために団結しようとするときに、宗教上の合意を前提にする必要はないと彼らは言う。しかし起源や運命についての信仰は社会制度と分かちがたく結びついている。社会の進歩に宗教信仰の進歩が伴っていなければ、無秩序な破壊しかもたらすことはできない。信仰を個人に委ねたプロテスタンティズムがもたらしたのは、自助能力の低い弱者を平然と見捨てて顧みない、エゴイズムの自由でしかなかったではないか。わたしたちが求めているのは「社会的結束」に基づいた国民国家の実現である。普通選挙はすばらしいものだが、共通の義務についての信条が皆に共有されていなければ、多数者による少数者の抑圧が普通選挙の名のもとに行われるだけになるだろう。

「神を知らぬ者」への反論
 いっぽう「神を知らぬ者」は、神の偉大さを崇めるあまり、現世の利益を過小に評価する。惨めではかないこの世の人生は、魂の不滅に比べれば取るに足りない、この世の苦しみは与えられた試練であり、世俗を蔑み神に祈ることで自分が向上していくのだと。だが、道とその行き着く先が切り離せないのと同様に、天上とこの世も一体のものではないのだろうか。この世の人生が天上の幸福に至るための準備であるならば、その段階の一つ一つを祝福することなしにどうして歩みを進められようか。人間の周囲に満ちている豊かな物質は神のしるしであり、それに働きかけることが人間の使命である。現世を蔑み隷従して生きることは、神を崇める正しい仕方ではない。「み旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」はいつも繰り返し唱えられてきた。人間の自由を信じるとは、自由を阻む障害を取り除くために尽力することにほかならない。

 こうして神を正しく信じる者は、そこから生じてくる義務(権利よりも先に)を銘記しなければならない。もし人間を超える不可侵の摂理によって義務づけられているのでなければ、わたしたちはただ、そのときどきの有力者によって支配されるだけとなり、抑圧や不平等に抗議するよりどころは、単なる実力や目先の利益だけになってしまうだろう。イタリアの統合が行われるのは権利主張に名を借りた政治的利害によってではなく、神に定められた義務の遂行としてであるべきだ。文人や腐敗した神父たちではなく、宗教的精神を失うことのなかったイタリア人民こそがその担い手となるだろう。

三章 掟=法

 万物が一定の法則に従って存在しているように、人類にもまたその存在を律する掟=法がある。神によって与えられたこの法を理解し、従うように努めることが人類の義務である。では、その法の内容はいかにして知ることができるのだろうか。なんらかの法典、個人の良心、人類の合意などのいずれかを選んでその拠り所とみなし、それだけで足りるとする考え方はいずれも誤っている。長い歳月のあいだに改廃をこうむらなかった規範は存在しない。また個人の良心だけを尊重することが宗派の分裂と信仰の無秩序を招いていることは、革命後のイギリスやフランスを見ても明らかである。しかし一方、合意の名のもとに個人の自由を犠牲にする社会は、必ずや専制政治を招いて停滞に陥るであろう。

個人の権利だけを尊重 自由競争→不平等と抑圧
社会の権利だけを尊重 共産主義→専制と沈滞

 神の法とそれに従うべき人間の義務の内容が、単に他害行為を行わない不作為を命ずるのではなく、人類の進歩に貢献する積極的な作為を要求する以上、その義務の内容を知るのに個人の良心だけでは不十分なことは明白である。良心は法への服従を教えはしても、その義務が人類の進歩に貢献するのかどうかを教えてはくれない。正しい法の内容が(徐々にではあっても)解き明かされ広まっていくのは、個人を超えて蓄積されてきた人類の知性のおかげである。人間は社会的結束(アッソチアツィオーネ)を深めることによって互いを教育し、神の法を学ばなければならない。個人の良心と人類の合意とが一致するところに神の法が見出されるのである。

四章 人類に対する義務

 いくつかの段階に分かれる人間の義務のうち、人類に対する義務は、それが人間としての属性からただちに由来するがゆえに、最も重要なものである。より狭い範囲で共に生きる人々(祖国や家族)に対する義務は、人類の進歩というより大きな目標に貢献するのでないなら、いかに道徳の外観を帯びていたとしても、偏狭なエゴイズムにすぎない。

 人間は理性と社会性をもち、社会的結束を通じて進歩する能力をもった被造物である。私たちが個人としての能力的・時間的な限界を超え、他の時代や他の国の人々をも包括して人類のために貢献するべきなのはこのためである。圧制からの独立をかけて戦う他国の見知らぬ人々、私たちとは異なる信念のために命をなげうった古代の勇敢な人々の振る舞いを聞き知って私たちが心を打たれるのは、それが、神の一体性のもとに人類を統合しようとする人類の進歩の一階梯として理解されるからである。

 個人の向上は、人類の向上と歩調をそろえなければうまく進めることができない。家族や自国の安全と利益だけを配慮する偏狭なエゴイズムに取り囲まれているとき、少数のずば抜けた例外は別として、人類のために立ち上がって行動する勇気をどうして個人が発揮できようか。大切なのは向上を共有することである。神のもとに人類はひとつであり、その目的は人類に共通である。皆がそのように行動したならば人類にとって害になるようなことを、家族愛や祖国愛の名のもとに許容してはいけない。たとえ何もできないところでも、自分自身の中で人類の進歩を信じ、人類への貢献を心がけることをやめてはいけない。

五章 祖国に対する義務

 人類に対する義務は第一にあるとしても、そのために行動する個人の力はあまりにも小さい。時おりの慈善行為にとどまらず、人類の道徳的向上に向けて確実にすすんでいくために必要なのは、社会的結束(アッソチアツィオーネ)すなわち言葉や習慣を共有する者たちによる共同事業である。これこそが国民国家(ナツィオーニ)である。大河と山脈で区分されたヨーロッパの地形を見れば、国民国家の存在も、またその国境線についても神意は明瞭である(現在は王家や特権階級に支配された各国政府の奪い合いによって歪められてはいるが)。アルプス山脈と地中海に囲まれた地域がイタリア語の話されている地域であり、これが祖国イタリアの領土となるべき地域である。

 人間は、統一した祖国をつくることによってはじめて、諸国民から同胞と認められることができる。物質的な繁栄は、資本と生産を増大させる祖国の活動を通じて可能となる。この順序を理解せず、目の前の狭い市場での利益ばかりを追求することが、現在のイタリアの分裂の原因である。諸邦の友愛団体にすぎない連邦国家ではなく、唯一の権力と唯一の政府をもった祖国イタリアを築かなければならない。

 イタリア人民は、祖国の建設という単一の目的のもとに団結しなければならない。そしてその団結がただの寄せ集めではなく、意志に基づく社会的結束であるためには、身分にかかわらない均一な権利が認められることが必要である。ある階級や一部の地域の利益だけを代表するのではなく、国民全体が立法者でなければならない。投票、教育、仕事が全員に保証されるまで祖国は確立しない。イタリアは、過去に二度にわたってヨーロッパ統合の理念を掲げたことのある(ローマ帝国と教皇庁において)輝かしい国である。今や第三の使命のために立ち上がるべき時なのだ。

六章 家族に対する義務

 家庭生活は苦しみを和らげ、女性はわたしたちに愛と信念を与えてくれる(注)ことで未来へと向かうエネルギーを生み出す。家庭は進歩に対して開かれたものでなければならない。それはエゴイズムや身分意識の温床であってはならないし、また現にしばしばそうであるからといって、家庭そのものをなくすべきだと考えてもいけない。祖国が人類に貢献する人間を育てるためにあるのと同様、家庭は祖国に貢献する市民を育てるためにある。一身の安全を願うあまりに父母が子に対して保身や蓄財ばかりを説くような時代は、自由な祖国の建設とともに終わりを告げるだろう。

(注)
 マッツィーニはここまで「イタリアの労働者のみなさん」に対して呼びかけながら「わたしたち」という語を使ってきているが、この章で女性が対象化されていることからすると、その「みなさん」は専ら男性を想定していたようである。とはいえマッツィーニが女性を軽視していないことは本章および十二章の内容から明らかである。

 女性が男性よりも劣っているという偏見を捨てなければならない。不平等な教育しか与えないでおきながら、女性の知性が劣っている(ように見える)ことを差別の口実にすることは、イタリア人には自由を享受する資格がないという理由で王家の圧制と弾圧を正当化するのと同じ理屈である。男と女の違いは優劣ではなく個人としての気質や才能の違いである。それらは異なる役割を果たしていても、ともに一つの理念のためにはたらく対等な両翼なのだ。

 また子どもたちに対する愛も、利己心ではなく道徳と義務を伝えるものでなくてはならない。富裕層の小心で浅はかな父母が快楽と豊かな生活の追求を子どもたちに植えつけたことで、現下の多くの犠牲が生じた。それに対し労働者たちは、貧しさや肉体労働の重荷のせいで教育の機会が限られているとしても、手本を示すというやり方で、この使命を果たすことができるはずだ。子どもたちの前で慎み深く振る舞い、不運に立ち向かった偉大な人物について語りなさい。祖国には、その努力を支援する義務がある。国民国家は、国民教育なくしてはありえないからである。

七章 自分に対する義務

前置き(注)

(注)
 七章冒頭に「前置き」なる見出しがあり、一見すると七章が前置き部分と本体部分に分かれているような印象を受けるが、実際には「前置き」として始まる文章が一度も途切れることなく本章が閉じられる。「自分に対する義務」として論ずるべき項目は「自由」「教育」「社会的結束、進歩」に分かれ、本章でそれらを概観したあと、つづく八章・九章・十章でそれらが各別に取り扱われる構成になっている。思うに、七章全体はそれら三章に対する前置きの役割を果たしている、という趣旨であろう。

 人間が従うべき存在の法は一つであり、その内容を知るには、個人の良心か人類の合意かのいずれかだけでは不十分であって、その両者の一致するところを確かめる必要があることはすでに触れた(三章)。過去半世紀にわたるすぐれた人々の功績によって、今やその存在の法のいくつかの特徴が明かされている。人間の自由、教育可能性、社会性、そして進歩がそれである。

自由
 人間は自由である。生命のへの愛着を振り切ってでも責任を果たすことを選び、義務のために命を捧げていった多くの殉教者たちの存在がそれを証している。みずから義務を選びとるこの道徳的自由から、政治的自由が生まれるのだ。

教育
 人間の肉体が食べ物なしには成長できないのと同様、人間の魂は教育なしに成長する事はできない。人類が幾世代にもわたって獲得してきた知恵を教育によって伝えることで、人類はひとつの共有関係を形成する。

社会的結束
 人類が教育を通じて集団的存在にまとまっていくために、人間の社会性がある。孤立した状態では他の動物よりも弱い人間という生き物が発展していけるのは、社会的結束によって力を合わせることができるからだ。

進歩
 これらの上に、存在の法の根本的な特徴である進歩がある。状況を受け入れることしか知らなかった古代の身分社会の人々と異なり、わたしたちは、神の絶え間ない啓示のもとに法を維持し、進歩していくことができることを知っている。古代人が無力な個人として神と相対しなければならなかったのに対して、わたしたちは神と個人を仲介する人類という存在を知っていることが、このことを可能にしたのだ。一人ひとりの人間は不完全でも、時代の流れの中で一つずつ明かされる天啓から着実に信仰と信念を築き上げることで、集団としての人類は向上していくことができる。現世は天上と対立する贖罪のための場ではなく、社会的結束と教育と通じて神意を現実のものにしていく場なのである。

八章 自由

 人間の存在を司る神意と法は必然的なものであり、ただわたしたちの知識が不十分にしか及ばないために偶然のように見えているにすぎない。わたしたちは力を合わせてその探究をすすめなければならないが、その進歩は漸進的なものであるから、短気に陥って堅実な努力を放棄したりしてはならない。そうして、この努力を可能とするために人間の自由がある。善悪のうちからすすんで善をえらびとる自由がなければ、責任も道徳もない。自由な個人どうしの間でなければ社会的結束はなく、せいぜい主人と奴隷の関係があるにすぎない。したがって、人間には自由を得る権利があり、圧制に抗して自由を勝ちとる義務がある。

 一部の者たちが当然にかつ恒久的に主権を授かるなどということはありえない。政府は人民の進歩を促進する目的で選挙を通じて選ばれ、人民の委任にそむいた場合は解任されるのでなくてはならない。すなわち、共和国だけが正当な政府の形態である。とはいえ、個人の生活の本質をなす自由は、人民から委託された正当な政府といえどもこれを奪うことはできない。そのような自由として、移動の自由、宗教的信仰の自由、信条の自由、出版と表現の自由、結社(アッソチアツィオーネ)の自由、労働の自由、自分の作ったものを流通させる自由などがある。

 ただし、これらの自由は、個人を超えたところにある人類の進歩という目的のためにあることも忘れないでほしい。自由が手段であることを忘れれば、それは不道徳なエゴイズムに堕し、結局は社会をアナーキーな状態に陥れるだろう。自由とは好き勝手に濫用するべきものではなく、「自分の特性を活かして人を幸せにするための手段を自由に選ぶ権利」(132ページ)にほかならないのである。

九章 教育

 個人が自由を獲得し、進歩の法に従って使命を果たすためには、教育によって魂を成長させる必要がある。こんにち行われているのは読み書き計算を中心とする「知育」にすぎず、道徳的な能力を養う「教育」ではない。知育を欠く教育は効率が悪いが、教育を欠く知育はエゴイズムと腐敗を招き、有害である。

 専制主義に対抗して解放を勝ちとろうとする立場のなかには、主権が個人にあると考えるものと、主権が社会にあると考えるものがある。前者は知育にしか注目せず、従って倫理の混乱をもたらす。フランスの純理派と呼ばれる人々がこれで、彼らは教育の自由のみを叫ぶことで富裕なブルジョワ階級の独占的統治を強化したにすぎなかった。いっぽう後者は「教育」に注目するものの、ともすれば自由の権利を忘れて多数派の独裁に陥る危険があり、現に、進歩を敵視する教派と権力がこの考えを振りかざしている。だが正しくは、少しずつ明らかになっていく神の摂理と果たすべき使命のうちに主権が存すると言うべきだ。個人も、また社会(多数派)も、この摂理にそむくときには主権をもたず、その実践者として統治する時にのみ正当化される。「教育」が善を指し示し、「知育」がその手段を保証するのであって、そのいずれかを欠くわけにはいかないのだ。

 原理と信仰、そして人類の進歩の過程を子どもたちに理解させることができるのは、ひとえに国民国家による教育を通してである。道徳教育が野放しにされている現今、父親に経済的余裕のない子どもは教育を受けることができず、いっぽう余裕のある家庭の子どもは選ばれた教師しだいであらゆる偏見にさらされうる。教育が運まかせと独断に委ねられ、道徳的な階級制度が再生産され定着する、そのような頽廃が個人の教育の自由の名のもとに放置されているのである。暴政に対して教育の自由を掲げることが解放のための武器であった時代はすでに乗り越えられた。今は国民国家の教育を通じて、人類の進歩という使命に向けて子どもたちを導いていく時だ。徐々に明らかになっていく神の摂理を理解し広めるという条件のもとでのみ、教育の自由は主張されることができる。そして、皆をそこに通わせることが義務づけられた無償の国民教育制度が設立されなければならない。

十章 社会的結束、進歩

 自由は善と悪の間で選択をする能力を与え、教育はその選択の仕方を教える。その選択を行為に変え、進歩という目的に向けて推進させていく力となるのが、社会的結束(結社、アッソチアツィオーネ)である。すべての人間が神の前に平等であるとするキリスト教の教えは、その後世俗権力と手を結んだ教会によって歪められ多くの宗教紛争を招いたとしても、依然として不変の真実である。神と人間の間に特権階級などなく、人間の魂は神において結びつく。それと同様に、人々が社会的に結束する権利と義務を妨げることのできるものはない。

 国民国家自体も一つの結社であるが、そこにあらわれているのは、その時代の人々に合意された原理の最大公約数でしかない。真理に対する知識は先進的な人々によって絶えず新たに発見され、社会を発展進歩させていく原動力となるのだから、新たな関心事を抱くに至った一部の人々が、それを共有し広めていくための、より小規模な結社の自由が必要であることは言うまでもない。そして国家の進歩の契機をなすというこの事情から、結社が服すべき条件も導かれる。結社は、すでに見出された真理にそむくような非合法な行為(窃盗や重婚)を説くものであってはならない。それは平和的で、公に開かれたものでなければならず、他者の権利を尊重するものでなければならない。

小括
 ここまでで、法の源泉たる神、人間が従うべき法、そこに示されたもののうち人類に対する義務、祖国に対する義務、家族に対する義務について説き、さらに自分に対する義務を、自由、教育、社会的結束に分けて説いてきた。私が語るべきことは以上で完結であるが、その義務を遂行するにあたり、なお一つの大きな現実的障害あると感じるかもしれない。進歩に向かって努力するのに必要な時間と教育と余裕ある生活を、どうやって確保すればいいのか? すなわち経済の問題を最後に取り上げておく必要がある。

十一章 経済の問題

 現在、大多数の労働者はあまりにも長時間の単純な肉体労働に従事しなければ生活を成り立たせることができず、わずかな余暇は休息と刺激の強い気晴らしだけに費やされてしまう。教育を受けて道徳的能力を発達させるにはある程度の物質的・時間的余裕が必要であり、労働の軽減と収入の増加をはかる必要があることは明らかである。「みんなの幸せのためにできる仕事をする用意のある者はみな、人生の主要な側面を発展させることが可能な収入を得るべき」(153ページ)なのだ。

 この理想に達するために、労働者の倹約と節制に訴えるしかすべを知らない者たちが篤志家(フィラントロープ)である。労働者のモラル向上が貧困解決のために不可欠だとしても、社会が果たすべき義務を閑却したまま労働者の節約だけを呼びかけるのはまったく十分とはいえない。また、流通の自由の確保や減税を通じて経済活動を支援し、各自の自由な活動に委ねることで経済的発展を達成できる(だから労働環境への介入は必要ない)と考えるのが経済学者(エコノミスト)である。しかし、自由放任によって達成できるのは富の生産の増大にすぎず、その平等な分配ではない。日々の稼ぎを蓄えにまわす余裕さえない労働者にとって、自由競争など画餅にすぎないことを彼らは見落としている。労働者の賃金は労働力の需給関係(すなわち労働者人口と資本の関係)によって決まり、労働者の自由にはならない。こうして、篤志家と経済学者はいずれも、悪気はないとはいえ問題の解決に失敗している。

 サンシモン主義やフーリエ主義、共産主義もまた、善意に発したものとはいえ問題の解決を遠ざけた原因である。それらは社会主義を標榜して所有を否定したために市民の不安と不信をかきたて、結果として共和主義陣営を分裂させてしまったのだ。所有もまた人間の存在を成り立たせる原理の一つである。所有のあり方は時代とともに変化し進歩していくとしても、所有そのものを廃止することはできない。旧時代の間違った所有のあり方を否定した革命運動が、勢い余って所有そのものを否定する誤りを犯すならば、結局は、旧時代の所有がそのままの形で復活する結果を招くことになるだろう。所有の原理に立ち返り、仕事のみが所有を生み出すようにすること、労働者も含めて平等に報酬が得られるようにすること、生活に必要な額には課税しないこと、そのために政治的特権を廃止して皆が立法に関与すること、必要なのはそれである。

 社会主義(共産主義)に従って個人の所有を廃止することは、個人の自由を放任することが道徳的頽廃をもたらすのとは逆に、社会を硬直化させるという弊害を生む。生産手段を集中管理する国家から仕事を割り当てられ、報酬を支払われるような制度のなかで、生産意欲や進歩への動機がどうして維持できようか。それに所有の廃止によって実現されると言われる平等についても、実現が不可能であることは明白である。仕事の性質、個人の体質や気性や能力、また肉体的な欲求や必要性が多種多様であるのに、仕事の、あるいは生産された物の分配が正しく計画的にできるはずがあろうか。共産主義の唯一の長所は人民を飢えから守ってくれることだが、その利益は、社会の進歩を停滞させ個人の自由を抹消しない限り達成できないようなものではない。

 共産主義のような作為的な制度を専断的に押しつけるのではなく、人類がこれまでに築いてきたものを引き継いでよりよいものへと変革することのうちに解決策はある。すなわち、資本と労働を統合すること、言いかえれば、「社会的な結束を伴う労働」(171ページ)「労働の成果もしくは生産物の売り上げ収益を労働者の間で行なった仕事とその価値に見合う割合で分配すること」(171ページ)が、労働者を解放するための方法である。皆が生産者であるとともに消費者であり、中間搾取が取り除かれて生産物が労働者の間で分配されているところではどこでも、貧困の減少とモラルの向上が達成されていることが知られている。

 信頼関係のある者たちの間で自発的な意志に基づいて結成され、共和的な友愛精神で運営される任意で小規模な協会(アッソチアツィオーネ)こそが、このような制度の担い手となる。これは、ある職業に従事するすべての個人を強制的に集約する単一のギルド的職業組合とちがって、独占価格の設定や少数派への専横的弾圧という悪弊をも免れている。それは生産を増大し、職場を適切に管理し、労働力の偏在を調整することができる。というのも、この協会は次のような基盤の上に作られたものだからである。

  • 退会の自由
  • 管理者(任期があり罷免が可能な)の選挙における平等な投票権
  • 創立後の事後的な加入が(徴収金を代償として)開放されていること
  • 共同資本の不可分性と恒久性
  • 生活の必要度に応じて全員に支払われる報酬
  • 各労働者の働きの量と質に応じた利潤の分配

 このような労働者協会の詳細についてはここでは書ききれないが、その設立は困難を伴うとしてもたしかに可能である。人類の進歩に貢献しているという自覚と信念に支えられた二十人の労働者が倹約してつくった少額の資金を出し合えば、独自の事業を手がける小規模の協会をスタートさせることは可能なはずだ。そして運よく富を手に入れた者のうちで共和的精神の持ち主である者は、労働者たちのそのような努力に援助の手を差し伸べてくれるはずだ。パリで政府の援助を受けて作られた1848年の労働者団体は取るに足らぬ成果しかあげられなかったが、労働者たちが自ら身銭を切って作った小規模の協会は、それよりもはるかに大きな成果をあげるに違いない。

十二章 結論

 国民国家成立への道は険しいものとなるだろうが、ひとたびそれが日の目を見た暁には、人民の政府は、その成立のために貢献した労働者の苦心に十分に報いるだけの大きな援助をもたらすものとなるだろう。協会に対する公認、流通網の改善、生産物買取り制度、公共事業の発注、裁判手続の簡略化、所有権法の整備、税制の一本化、最低所得額への非課税、そして国家財産を原資とする「国民基金」の設立と協会への資金貸付などが、その援助の手はじめとなるだろう。

 これこそがイタリアの労働者に約束された輝かしい未来の祖国の姿である。しかし、その成功は、たゆまざる道徳的向上と義務の遂行を通じて可能となることを忘れないでほしい。「権利に値する人間になってはじめて、それを行使できるようになる」(181ページ)のだ。豊かな生活や物質的幸福だけをめざした闘いは必ず挫折する。というのも、モラルの低い者たちは自分の豊かさを確保するや否や運動を裏切るからだ。「神や法意識、道徳心、犠牲の潜在的力に欠け、信念とも真実を尊ぶ心とも伝道者たる生き方とも無縁で、自分たちの制度に対する虚栄心だけしかもたぬ連中のあとにくっついていても、成功するはずが」(183ページ)ない。ルイ=ナポレオンのクーデタによって共和政をみすみす損なわれてしまったフランスの労働者たちのなんと痛ましいことか。

 伝統に立脚し、進歩への道を拓き、社会的結束を通じて自己と他者の道徳的向上をはかることが、社会変革の目標であることを私は示した。イタリアの労働者はその厳粛な使命を心に銘じて、祖国の建設に尽くしてほしい。そしてその際、ともに人類を構成しているもう半分の人々(すなわち女性)の解放もまた神聖な課題であることを忘れないでほしい(注)

(注)
 祖国の建設を訴える本書全体の結論の後で、それに劣らず重要な義務として女性の解放があらためて言及されている。


文献

準拠 『人間の義務について』 (齋藤ゆかり訳、岩波文庫、2010-06-16) ISBN978-4-00-340271-9

改訂履歴

最新版 2016-12-18 初掲。

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