イリイチ|コンヴィヴィアリティのための道具

コンヴィヴィアリティのための道具

イヴァン・イリイチ
過剰な効率性によって人間の自律性を喪失させる現代文明への鋭い批判。

Ivan Illich "Tools for Conviviality", 1973
『コンヴィヴィアリティのための道具』 (渡辺京二・渡辺梨佐訳、日本エディタースクール出版部、1989-03-10)

目次
二つの分水嶺
自立共生的な再構築
多元的な均衡
回復
政治における逆倒

 本書は『脱学校の社会』などで有名な思想家イヴァン・イリイチ(Ivan Illich, 1926-2002)の、前期思想の総括ともいうべき位置にある著作である。翻訳にして200ページあまりの小著ながら、理論的に簡潔に整備され、イリイチ思想の総論の役割を果たす重要な論考と言える。

(追記)この記事の掲載後、イヴァン・イリイチは2002年12月3日に死去した(76歳)。

Ⅰ 二つの分水嶺

 現代社会が直面している危機の実体とは何か。イリイチはまずそのように問題提起し、技術の発展と拡大における「二つの分水嶺」という考え方を、医療を例にとって説明する。

第一の分水嶺
 現代における医療や公衆衛生に関わる技術の進歩は、人々の健康と衛生に対して、次のような多くの改善をもたらした。

  • 水の浄化
  • 幼児死亡率の低下
  • ねずみの駆除によるペストの無力化
  • サルヴァルサンによるトレポネーマ療法
  • 梅毒予防
  • インシュリン自己服用による糖尿病への対処

 こうした展開の過程で、人々が呪医や民間医に代わって専門家としての医者から効果的な処置を受ける機会が50%を超えた時が、現代医療における第一の分水嶺であり、これは1913年ごろと考えられる。

 しかし同時に、この第一の分水嶺を超えることにより、人間と医療技術との関わり方は、ある根源的な変化を被ることになった。それは、何が病気で何が処置であるかを(人々自身ではなく)医学が定義するようになったことであり、また、医学の進歩によって定義された効果的な医療を要求する公衆が登場したことであった。この傾向は、公衆衛生・農業・商品販売・生活態度などの変化に媒介されて、やがて現代医療の顕著な特徴を形づくるに至る。すなわち、

  • 医師という専門職による医療手段の独占
  • 医師の訓練期間の長期化
  • 社会成員の医師への依存

といった傾向が強まってくるのである。

 これらの傾向は、それが社会の産業化に対しても間接的に利益をもたらすものであったために、さらに促進されることになった。すなわち、医療の発達は労働者の欠勤を減少させ、産業における能率要求を高めさせることを意味したのである。

第二の分水嶺
 このような医療への依存を背景として、やがて医学それ自身が作り出した新しい病気、すなわち医原病が登場する。薬剤に対して抗性をもつ細菌や、胎児期のX線照射による遺伝子損傷がそれである。これら医原病の出現が明らかになったとき、つまり1950年代半ばが、第二の分水嶺である。

 医原病は、二つの側面を伴って現れた。その第一は、患者にすぐれた健康を与えているのだという医師のうぬぼれである。社会計画立案者や医師により、「医療によってひきおこされた計りきれぬほどの被害をくいとめるために、巨額の金が費やされた」(4ページ)。新しい病気が定義・制度化され、専門職による医療の独占がすすむ。このことは医療サービスへの新たな需要を生み、新たな専門化をもたらす。

 いっぽう医原病は第二に、無抑制な人口の増加、高価で人工的な家畜化された生活にのみ適合する人間の育成を通じて、全社会成員への影響としても現れた。その結果は、医学的管理が増大するほど病苦が増大するということにほかならない。富める者は医原病に対して医療措置への依存をますます深め、貧しい者は単に医原病に苦しまねばならないのである。

本質
 つまり現代医療の危機の本質は、健康管理が制度化された点に存するのであって、このことは、医療技術の発展が第二の分水嶺を超えてしまったことに起因するのである。そして、教育・運輸・通信など、他のすべての産業主義的制度がこんにち抱えている危機は、まさに、この点において共通しているのである。

 これは一言でいえば、技術官僚的制度の弊害にほかならない。この点を正確にしないならば、往々にして、制度に対する不満の表明は、危機に対処するための資金の割当て要求、という間違った形をとることになる。そうなると技術的・官僚的対応の拡大強化はふたたび正当化され、危機をますます深めてゆく結果に終わるのである。

Ⅱ 自立共生的な再構築

 私たちが立ち向かわねばならないのは、こうした官僚制的制度からの脱却にほかならない。制度化された生活を解体し現代の危機を克服するための、そして新たな社会を再構築するための基本的方向とは、それではどのようなものであろうか。イリイチはここでかれの思想にとって基本的な重要性を持つひとつの理念、「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」を提唱する。この語コンヴィヴィアリティの意味合いは微妙なものがあって、日本語にはこれといった適訳が存在していないようである。「自律共働」「自立共生」「共愉」といったさまざまな訳語があてられており、上掲の訳書では「自立共生」とされているが、いずれにせよ、この理念が本書の、またイリイチ思想のキーをなす重要な概念であることには間違いがない。本書に限らずイリイチの文章はいっけん難解であるかに見えながら、実はその理解は、このコンヴィヴィアリティの理念を実感的に把握できるか否かにかかっているのである。

コンヴィヴィアルであるということ
 現代社会の危機、すなわち、技術の発展が第二の分水嶺を超えるのを社会が容認してきたことのひとつの原因は、機械が人間のために奴隷の代わりをすることができるという仮説にあった。もし産業主義的な生産性が絶対視されるならば、機械の効率性が向上することは無条件に肯定され、これに対する抑制は働く余地がない。機械の効率性の向上は、それだけますます人間を労働から解放するはずだからである。

 しかしながら、このような限りない効率性追求によって機械の主人として君臨することになるはずだった人間は、実際には、機械の操作者として不毛な労働に従事させられ、また機械が作り出した商品をただ受動的に供給されるだけの消費者になったにすぎなかった。機械が奴隷の代わりになるのではなく、機械が人間を奴隷化したのである。

 イリイチが描き出す「コンヴィヴィアリティ」のイメージは、このような産業社会の対極をなすものと考えることができる。それは自由な個人としての人間が、道具を用いて生き生きと働く姿に結びついている。本書の中からコンヴィヴィアリティの概念を端的に表現した個所を探すとすれば、「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由」(19ページ)というものがおそらくそれにあたるだろう。

 技術官僚の支配する産業主義的社会では、正義とは制度化された商品の平等な分配のことであり、生活の充足は、産業主義的商品の消費量によって測られる。しかしコンヴィヴィアルな社会では、これらはまったく異なった様相を呈するだろう。コンヴィヴィアルな社会とは、自分自身の未来のイメージを明らかにすることをあらゆる人々に許す社会のことであり、そのために、障害となる人工品を排除し、道具の活動を適切なレベルに制限する知恵をもっている社会のことである。そこでは、生存・公正・自律的な仕事が三つの基本的な価値になるのである。

本書の主題
 コンヴィヴィアリティの理念に基づいてイリイチが構想するこのような社会は、脱産業主義社会であると言うことができる。そして本書の特質は、このようなコンヴィヴィアルな社会が実現不可能なユートピアではないこと、さらにその実現のために人間が使う道具の構造を問題にしようとするところにある。イリイチは、本書が何を扱うかを明確にするために「本書が何を扱わないか」を列挙するが、そのリストがそのまま本書の位置づけを明確にする役割を果たしていると言えよう。

  • 第一に、本書はユートピアの記述ではない。コンヴィヴィアルな社会は実現可能であり、それは莫大な費用などなしに達成することができる。
  • 第二に、本書がめざすのは社会工学的なマニュアルづくりではない。むしろコンヴィヴィアルな社会とは、大多数の人々がふつうに備えている推察の力によって、形成されうるものなのだ。
  • 第三に、人々の性格構造ではなく、社会における道具の構造に焦点を合わせる。人間の性格を作り変えるのではなく、人間が使う道具に制限を課すべきなのである。
  • 第四に、コンヴィヴィアルな社会の実現のために特定の統治形態を選択する必要はない。共産主義が産業主義的でありうるのと同じように、国民国家間の協定がコンヴィヴィアルであることもできる。
  • 第五に、道具に対する制限の実際の水準にまでは、立ち入ることができない。本書は道具に対する抑制の必要があることを簡潔に明らかにするにとどまる。
  • 第六に、本書はコンヴィヴィアルな社会における経済学を扱うものではない。コンヴィヴィアルな社会に適用可能な経済学は、政治的に設定された限界設定基準から出発する。

 すなわち、本書におけるイリイチの議論の焦点は、コンヴィヴィアルな社会を可能にするために道具の効率性に対して課される限界を明らかにすることにある。人々がそれを使って生き生きと創造的な仕事をすることのできるような道具、人間をその道具に使われる奴隷にしてしまうような道具ではない道具、そのような道具の構造の探求が、本書の主題なのである。

イリイチにおける「道具」
 コンヴィヴィアルな社会における道具のことを、イリイチは、「それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具」(39ページ)と表現する。これに対して産業主義社会に蔓延するのは「破壊的な道具」「操作的に動かすことができるだけの道具」である。ここでイリイチのいう「道具」とは、ハンマーやナイフのような文字通りの道具だけに限らないことに注意を要する。イリイチは「ジェット機」や「義務教育」のような機械や制度も含めて「道具」と呼んでいるのである。

 道具には、ハンマーやポケットナイフ、歯医者のドリルのようなハンド・トゥール(人間の新陳代謝エネルギーを特定の仕事に応用するもの)と、牛、電動鋸、ジェット機のようなパワー・トゥール(人体のそとで転換されるエネルギーによって動かされるもの)の区別がある。道具がコンヴィヴィアルであるかどうかは、その道具の技術レベルとは関係がないが、他方、常に破壊的な道具というものが存在する。複車線の道路網、義務制の学校教育、周波帯の広い送信器などがそうである。高度な文化とはあたうかぎり最大量のエネルギーを使用する文化のことだという幻想が、これらの道具を無抑制に発展させてきた。

 これらの道具は、「まさにその性質からして、それを自律的に使用する自由をごく少数の者に制限してしまう」(81ページ)ことによって、不公正を拡大する。公正な社会とは「各人が物質的環境に自分の意味づけをほどこす権利」、「自分が選んだ未来へ向けて行動する能力」が守られているような社会であり、そのような社会の実現のためには、こうした道具の効率性を制限する(ないし、過剰に効率的でない道具を採用する)ことが必要なのである。

Ⅲ 多元的な均衡

 現代社会の危機の本質を指摘したのち再構築の方向として「コンヴィヴィアルな道具」という理念を提示したイリイチは、再び現代社会の批判的分析に戻り、より理論的な観点から道具の過剰成長が生みだした六つの脅威について考察する。本書のなかで最大の分量を有するこの「Ⅲ 多元的な均衡」は、社会批評家としてのイリイチの真骨頂を示す重要な章である。

生物学的退化
 イリイチが指摘する第一の脅威は、人間と生命界とのバランスの崩壊、すなわち環境危機である。これは三つの傾向が重なり合うことで起こってきた。人口過剰(限られた資源に依存する人々の増加)・豊かさの過剰(より多くのエネルギーを使うことの強制)・科学技術の欠陥(非効率的なやりかたによるエネルギーの劣化)、である。「環境危機の唯一の解決案は、もし自分らがともに仕事をしたがいに世話しあうことができるならば、自分たちは今より幸わせになるのだという洞察を、人々がわけもつこと」(93ページ)にほかならない。

根元的独占
 第二の脅威として指摘されるのは、根元的独占である。ここで独占というのは、ある企業による市場の独占のことではなくて、ある種の産業的製品が人々の生活の様式に独占的影響を及ぼすことである。イリイチはこれを「ひとつの産業の生産過程がさしせまった必要をみたす行為に対して排他的な支配を及ぼし、産業的でない活動を競争から締めだす」(97-98ページ)ことと表現する。たとえば車は、自分の姿に合わせて都市を形づくることによって徒歩や自転車での移動を締め出し、学校は、学ぶことを教育と定義し直すことによって学校の外で学んだ人に無教育のレッテルを貼ることになるのである。

 こうした根元的独占によって社会的環境が変形されてしまうと、人々の間に豊富に存在するはずの能力によっては基本的ニーズが満たされなくなってしまう。ふつうの人々はもともと歩くことができるし、お互いに教えたり教えられたりすることができるはずなのに、車で「輸送」され、学校で「教育」される以外の行動能力を奪われてしまうのである。こうして、商品のパッケージ化がすすみ、稀少な商品をどれだけ多く消費しているかが、その人の社会的地位を指し示す指標となるに至る。

計画化の過剰
 この自立的行動能力の萎縮に直面して、よりいっそうの計画化と管理を通じて人々を根元的独占から保護しようとする誤った対策がますます促進される。これが第三の脅威である。本来、知識とは、環境に対する人間の創造的な働きかけと、人工的に作りあげられた環境による人間の些末化との自主的なバランスの上に存在していた。しかし、ひとたびこのバランスが崩れ、教育への依存と学びの商品化が起こると、自立的に学ぼうとする能力の損失はどのような計画によっても補うことはできない。訓練の経費は産出量よりもすみやかな増加を見せ、そうなると、教育とは高い産業的生産のための手段とみなされるか、さもなくば贅沢品とみなされる。いずれの場合にも、人間の詩的能力(世界にそのひと個人の意味を与える能力)は決定的に麻痺してしまう。

分極化
 これらの脅威と相互に作用しながら、第四に、社会の分極化が進む。学びのバランスが崩れたことによって、人々は商品の根元的独占に対して盲目になってゆくだろう。また消費水準の格差が生んだ権力の格差は、この対立を調整しようとすることへの無力感を養うだろう。特権層は豊かさの面で成長を続け、自己の優位を防衛するためにさらなる生産に励む。いっぽう非特権層は数の面で成長(人口増加)し、有限な資源を多数で分かち合わねばならないため欲求不満をさらに増大させていく。こうして富者と貧者の懸隔はますます拡大し、「貧しさ」の水準は途方もなく上昇する。すなわち、貧困の現代化が起こるのである。

 貧困の現代化は、力が特権層に集中していることに原因がある。それゆえ、収入の平等化や分け前の要求を中心とする従来の少数者運動は、限界に直面する。

廃用化
 脅威の第五の側面は、廃用化である。根元的独占を行使するような生産物は、絶え間のない設備更新という変化にさらされる。このことは、新しいものを使うことが重要な特権なのだという考えに媒介されて、廃用化すなわち道具の価値の切り下げを引き起こす。流行遅れの商品をいつまでも使っていることは、その人の社会的地位が低いことを意味するようになる。こうして、市場化された商品のそれぞれは、それが満たしうる以上の欠如感をもたらすだけなのであり、「新型製品はたえず貧しさをよみがえらせる」(144ページ)のである。

 この廃用化の動きを「科学の進歩」の名のもとに擁護することはできない。というのも、科学の進歩は、研究と産業発展を同一視することによっても、まさしく鈍化するからである。また、変化が無制限な速度で起こることは、法に支えられたコミュニティを無意味化する点でも有害である。法は、過去に繰り返し起こり将来も繰り返し起こりそうなことに対する、社会構成員に共有された価値判断にその基礎を置いているからである。

欲求不満
 第六の脅威である欲求不満は、以上の五つとは次元が異なる。道具の効率が望ましい境界を超えて過剰になると、上記の五つの領域で生活のバランスが崩れはじめるだろう。しかし、道具の過剰効率が「望ましい境界」を超える少し前に、まだ耐えられる限度ではあるが道具の「最適な範囲」を逸脱する時期があるはずである。ここでは、道具のコストと見返りのバランスが崩れる可能性が、欲求不満として現れてくる。そこで、この欲求不満を敏感に察知し、道具によるバランス破壊の早期発見と最適な道具体系の案出とを使命とする、「管理に立ち向かう研究」が必要となる。欲求不満は、生活破壊の徴というより生活破壊の危険の徴であり、上記五つの脅威の発生を予防する措置を促すものである。

Ⅳ 回復

 これらの脅威を克服しコンヴィヴィアルな社会の実現に向けて生活のバランスを回復するために必要な、道具の過剰効率性に対する多元的な制限とは、具体的にどのような方法でなされるのであろうか。イリイチは

  • 科学の非神話化
  • 言葉の再発見
  • 法的手続の回復

という三つの指針を掲げる。なぜなら、科学的知識への過剰信頼、言葉の産業主義化、法的過程への信頼喪失が、コンヴィヴィアルな社会の実現を妨げる三つの障害になっているからである。

第一の障害の除去 科学の非神話化
 「世界についての情報は、有機体と世界との相互交渉を通じて、有機体のなかにつくりだされるものだ。(……中略……)本やコンピュータは世界の一部なのだ。読まれたり操作されたりしてはじめて、それは情報をもたらす」(166ページ)。しかし知識の制度化は、人々のなかに、情報となりうるものの伝達手段(本やコンピュータ)と、情報それ自体とを取り違えるという倒錯を作りだし、人間の外部に蓄積された情報としての「科学的知識」への過剰な信頼をもたらした。人々は、自ら読んだり操作したりする代わりに専門家の助言に依存する。その結果は人々の自己決定能力の低下と、成長の上限設定を専門家に任せきりにする態度の蔓延にほかならなかった。「だが、個人と社会の目標を制限するやりかたをきめることができるのは、日常に得られる証拠というはるかに複雑な基礎に立って行為する思慮深い大衆が、十分な情報にもとづいてくだす判断だけ」(169-170ページ)なのである。

第二の障害の除去 言葉の再発見
 「企業主義的生産様式は資源と道具に対してだけでなく、人々の想像力と動機づけの構造に対しても根元的独占をうちたてる」(171ページ)。このことが、言葉自体を産業主義化することによって、産業主義に対抗する信念を抱くことをますます難しくしているのである。人々は「学ぶ」代わりに「教育の所有」を求め、「歩く」代わりに「輸送手段の所有」を、「働く」代わりに「仕事の所有」を求める。人々は、創造的に活動することではなく、教育・輸送・仕事などの産業主義的商品の分配を受けることのほうを、権利だと勘違いするようになってしまう。コンヴィヴィアルな言葉の再発見は、産業主義化を逆転させるために不可欠の条件である。

第三の障害の除去 法的手続きの回復
 産業主義的な拡大に対して人々が異議を申し立てるための武器であったはずの政治的・法的過程(法律制定や裁判)は、かえってこの拡大を支え擁護するために用いられてきた。これらの過程を人々がふたたび共有できるためには、公的手続に関わっているという自覚を回復することが必要である。この点からすると、連続性や当事者的性格をもった慣習法が注目に値する。

Ⅴ 政治における逆倒

 もし管理ファシズムからの脱却を望むなら、私たちは道具の成長に限界を課し、個人が稀少な資源のうち請求できる分はどれだけかを決定する道を選ばなければならない。そしてこれがなされるのは政治的過程においてである。私たちがコンヴィヴィアルな社会を政治的に選び取ろうとするならば、必要になるのは次の三つの手順であろう。

  • 第一に、今日の危機の本質についていっそう多くの人々が啓発されること。
  • 第二に、質素でコンヴィヴィアルな生活を営む権利を要求する人々の集団に最大多数の人々を導き入れること。
  • 第三に、受容可能な道具の発展の限界を発見し、制限された道具の活用の方法を学ぶこと。

 これらの手順の履践のためには、いくつかの基本的な条件が整うことが必要である。それは、数の上の多数を政治的多数と同一視する政治的神話の解体、産業主義的独占を支える多様なシステムの連鎖的破綻、危機を普通の言葉で論証できる人々の登場、などである。しかしいずれにせよ、コンヴィヴィアルな社会は軍隊によっては防衛できない。「災厄の避けがたい暴威を、自立共生的な再構築へと革命的に転回させるいとなみに、大多数の人々を協同させることができるものは、弱きものとしての言葉あるのみなのだ」(212ページ)


論評

 現代産業化文明に対する根源的な批判をイリイチは、教育(『脱学校の社会』)・医療(『脱病院化社会』)・労働(『シャドウ・ワーク』)など個別の問題領域に即して展開してきた。それらの論考が注目に値する啓発的な洞察をそれぞれ示していることは各々の著作を読めば明らかであり、イリイチ思想に触れようとするなら、まずこれらの作品にあたらねばならない。しかしその一方、往々指摘されるようにイリイチの叙述のすすめ方には独特のものがあり、そのことがイリイチ思想の包括的理解を困難にしているという事情が存在する。

 イリイチは前提から始めて根拠を積み重ねながら結論に向かうのではなく、まず結論となる観念を提示する。そして鋭い洞察と分析によってその観念を様々な方向から照らし出し、また様々な文脈から表現を変えて繰り返しその観念に接近していく。このような論理のすすめ方がイリイチの特質であり、また読者に生き生きとした知的興奮を与える大きな魅力であることは疑いを容れないであろうが、反面、これがイリイチ思想を簡潔に要約する上で障害になっていることも事実であろう。

 本書『コンヴィヴィアリティのための道具』は、この点で、イリイチ思想の要点を凝縮した簡潔な総論といえる内容になっており、イリイチの思想を深く理解しようとする上で、非常に重要な作品である。とくに、教育や医療といった諸領域に現れている現代の危機の本質を六つの側面に要約して提示している「Ⅲ 多元的な均衡」の章は、イリイチ自身による産業主義批判の理論的総括とも言え、大きな興味を抱かせるものである。

 いくつかの点についてコメントしておきたい。

地球環境問題の予見
 本書に示されたイリイチの考えのうちで本当に驚くべきことのひとつは、イリイチが、1973年の時点でこんにちの地球環境問題の登場を的確に予見していたことにあるだろう。「Ⅲ 1 生物学的退化」は、人口過剰・エネルギー依存・エネルギーの劣化という環境危機の基本問題を正しく定式化している。また現代社会の第五の脅威として「廃用化」が挙げられていることも、このような結論を指し示すものである。次々と新製品を導入し短期間だけ消費して再び更新することが産業の発展(イコール人間の幸福)につながるのだという高度経済成長のレトリックは、1990年代以降に重要課題となってきた地球環境危機によって決定的に破綻したからである。

コンヴィヴィアルな道具としてのコンピュータ
 次に、本書の表題ともなっている「コンヴィヴィアリティ」(自立共生と訳される)の理念との関連でいえば、イリイチの提示したこの理念が、こんにちまさに、インターネット社会として実現しようとしていることに注目しなければならない。本書が示した「コンヴィヴィアリティ」の理念は、1970年代のアメリカにおいて「コンヴィヴィアルな道具」としてのコンピュータシステムの構築に向けて多大な動機づけを与えたのであり、このことが、インターネットの飛躍的普及の背景になっているのである(注)

(注)この点は古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書、1996年)に詳しい。

自己決定権について
 知識の商品化が人々の自己決定能力を損なうという指摘も、重大な意味を持っている。もし人々が自律的決定能力を失っているならば、たとえ自己決定権が保障されていたとしても、それは画餅に帰すからだ。自己決定権に対する本当の脅威は、直接それを侵害しようとする動きよりも、私たち自身の自己決定能力を不具化しようとする商業主義なのかもしれないということを、イリイチの論旨は示唆している。


本書への参照

古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書、1996年) 本書に言及し、コンヴィヴィアルな道具としてのインターネットについて論じている。
辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社、2001年) 加速化する現代社会に対し「遅さとしての文化」を提唱。イリイチの思想にも共鳴している。

文献

準拠 『コンヴィヴィアリティのための道具』 (渡辺京二・渡辺梨佐訳、日本エディタースクール出版部、1989-03-10) ISBN4-88888-148-0
『コンヴィヴィアリティのための道具』 (渡辺京二・渡辺梨佐訳、ちくま学芸文庫、2015-10-10) ISBN978-4-480-09688-3

改訂履歴

最新版 2015-10-18 4th Edition対応。字句・構成を改訂。
2001-03-09 3rd Editionにて初掲。

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