フーコー|知への意志

知への意志

ミシェル・フーコー
知・権力・快楽の関係からセクシュアリテの成立を追うフーコー哲学の到達点。

Michel Foucault "La Volonté de Savoir (Volume 1 de Histoire de la Sexualité)", 1976
『性の歴史Ⅰ 知への意志』 (渡辺守章訳、新潮社、1986-09-10)

目次
第一章 我らヴィクトリア朝の人間
第二章 抑圧の仮説
第三章 性の科学
第四章 性的欲望の装置
第五章 死に対する権利と生に対する権力

 『知への意志』は、当初全五巻に予定されていた『性の歴史』の第一巻をなすものであり、『性の歴史』全体の序論かつ総論として枢要な位置を占める著作である(注)。フーコーはここで知・権力・快楽の関係を構成するセクシュアリテの装置の出現条件と機能とを論じ、彼の考古学(アルケオロジー)の射程に「性」の問題を捕捉しようとしている。

(注)『性の歴史』はそののち構成に修正が加えられ、1984年に第二巻『快楽の活用』・第三巻『自己への配慮』が刊行された。

第一章 我らヴィクトリア朝の人間

第一章ポイント
  • 「性の抑圧の仮説」というものが存在するが、その妥当性は疑わしい。

 17世紀以来、性をめぐって近代西欧社会に起こったことを、人々は「性の近代的抑圧」の仮説によって理解しようとしているかのようだ。すなわち、生殖を目的とする夫婦間の性のみがその有用性・生産性ゆえに正当な性のありかたとされ、このように生殖へ向けて目的づけられていない性(子どもの性や性倒錯)は、禁止され、存在を拒否され、沈黙を課せられて、娼婦や精神病院にかろうじて生き延びているにすぎず、ここに権力による性の抑圧が存在するというのである。現実に、いくつかの事情がこの仮説の採用を支えているように見える。たとえば、近代における労働力搾取の主張は、性の抑圧の仮説のもとで「啓蒙と解放と増大する官能的快楽とを互いに結びつける」(14ページ)ことが可能となり、性の解放を語ることを権力の侵犯へと連動させてゆくことができるわけである。

 しかし、性の抑圧の仮説は本当に支持できるであろうか。ここに、抑圧の仮説に対する三つの疑いがある。

  • 性の抑圧は本当に歴史的に明らかなのか。
  • 権力の仕組みは、本質において抑圧の次元のものなのか。
  • 抑圧の時代と抑圧についての批判的分析の間には、本当に歴史的断絶があるのか。

 本書が提出するのは、「何故我々は抑圧されているのかではなく、何故我々が抑圧されていると言うのに、これほどの情熱を以て、また(……)これほど烈しい後悔の念を以てするのか」(16ページ)という問いである。というのは、性的快楽、性について語ろうとする知、そして権力は、抑圧の仮説が提示する図式とは異なった関係と結びつきを示しているように思われるからだ。つまり、「人間の性現象についての言説を我々において支えている〈権力=知=快楽〉という体制を、その機能と存在理由において決定すること」(19-20ページ)、それが本書の問題とするところである(注)

(注)この問題設定のより具体的な記述は第三章の末尾でなされる。

第二章 抑圧の仮説

第二章ポイント
  • 近代西洋において、性に関する言説は抑圧よりむしろ煽動されてきた。
  • 性が抑圧されたと言われる時期にこそ性倒錯が成立・定着した。
  • ゆえに抑圧の仮説は支持できない。

 性の抑圧の仮説に対しては二つの重要な反証が存在する。第一に、17世紀以来、性に関する言説は抑圧されるよりもむしろ煽動されてきているという事実、第二に、種々の性倒錯は、権力がまさに抑圧を強めてきたとされるその時代に確立し定着させられてきたという事実である。

(1)言説の煽動

 「性についての言説」がこの三世紀間にたどった歴史は、性が沈黙を強いられてきたとする抑圧の仮説の基礎を覆す。17世紀以来、性についての語彙が洗練されるとともに、性についての言説そのものはむしろ増大の一途をたどってきたことが認められるからである。たとえば宗教の領域では反宗教改革が、性行為のみならず欲望をも罪とみなすことにより、それを懺悔という形で言説化することを人々に命じた。「一つの至上命令が出されたのだ。掟に違反する行為を告白するだけではない、自分の欲望を、自分のすべての欲望を、言説にしようと努めるべしと」(29ページ)。性的な告白を徹底的に要求するこの命令は、性に沈黙を強いる(抑圧する)というより、性についての言説の生産を促すしくみにほかならないだろう。

 性についての言説を増大させようとするこのしくみはまた、近代の権力メカニズムと対立するものではなかった。近代社会の権力は、人口問題や子どもの性の管理に関連して、性を行政・監督の対象とする必要に迫られており、そこでは性について語ること(性の言説化)が本質的な要請となっていたからである。権力は性について語ることを禁じたのではなく、性に関する「公認された言説」を囲い込んだのである。権力が性に沈黙を強いるように見えるとすれば、そこに作用しているのは抑圧ではなく、公認された言説との関係において機能する沈黙(注)である。

(注)性に関する一部の言説が禁止されているという事実は、「公共の福祉のためならば、沈黙を破ってでも語らねばならない……」という理路を経て、性について語ることを公認し、正当化し、そそのかす。

 要するに医学・精神医学・刑事裁判などの場において、権力行使の手段として性についての言説を増大させる必然性があったのであり、権力の強化は、言説の増大と並行し相互に補強し合いながら展開してきたのである。権力が用いたのは性に関する言説の抑制ではなくて、性に関する言説への「調整された多形的な煽動」であった。「我らが過去三世紀を特徴づけるものは、性について語るために、性について語らせるために、性が自分自身について語るようにするために、性について言われることを聴き取り、記録し、書き写し、再配分するために、人々が発明した仕組みの多様性であり、その広範囲にわたる分散」(44-45ページ)だったのである。

(2)倒錯の確立

 18世紀末から19世紀初めにかけて、性に関する言説の急激な増大により、もうひとつの重要な変化が生じた。それを「性倒錯の確立」と呼ぶことができる。

 権力は18世紀末まで、宗規上の法・キリスト教司教要綱・民事法を通じた性的実践の規制という形式で性に関与していたが、そこで注目され語られ規制されるのはもっぱら正規の結婚関係における性のあり方であり、その他の性的実践(たとえば男色や子どもの性)に対する関心は相対的に低くその取り扱いにも曖昧なところが多かった。18世紀末からの変化はまず一夫一婦制に対する遠心的運動として現れ、夫婦関係における性を、性の正規のあり方を示す暗黙の規準として言説から遠ざける。一夫一婦制は語られざる正常態となったのだ。次にこれに代わって、少年期の性行動、狂人・犯罪者・同性愛者のそれ、性的な奇癖・偏執といった逸脱的性行動が権力の関心と言説との中心に浮かび上がってくる。人々は少年の自慰・早熟な少女・偏執狂的な夫・奇怪な衝動について語り始めたのだ。すなわち周縁的性現象の出現であり、このことは、「結婚道徳への違反=姦通」とは明確に区別された領域として「生殖機能からの逸脱=倒錯」が成立し言説の対象となったことを示している。

 こうした周縁的性現象の出現は何を意味するのか。この時代に性的犯罪に関する法規が緩和され性倒錯を扱う権限が法廷から医学へと委譲されたことは、権力による抑圧の緩和を意味するようにも見えるが、いっぽうこれら性倒錯に対する稠密な管理機関と監視方式とが同じ時代に確立されたことは、抑圧が強化されたことの根拠とも見なしうる。つまり抑圧の仮説の提示する単純な図式では事態を説明できない。むしろ「重要なことは(……)そこで行使される権力の形式にある」(53ページ)のであって、これら性倒錯を言説の中に出現させ生殖機能からの逸脱の諸類型として定着させていくとき、権力がそれとの関係で果たした機能とは、これら性倒錯に対する禁忌ではなくて、次の四つの機能であった。

  1. 侵入ラインの形成。すなわち性倒錯を明るみに出そうとする関心の伝播が「明るみに出されるべき性倒錯」の伝播を並行してもたらし、これを増大・細分化する役割を果たした。権力とその統制対象との同時的伝播を通じて権力は人々の性に介入する回路を獲得したのである。
  2. 倒錯というものの組み込みと個人の新しい特性別定義。倒錯は「行為としての倒錯」(たとえば「男色家」)から、個人に組み込まれ「内在する本性としての倒錯」(「同性愛者」)へと姿を変えた。人々はいまやどのような性行動をとったかによってではなく、どのような倒錯的欲望をもっているかによって分類されるようになる。露出狂、フェチシスト、動物愛好症、……等々。
  3. 権力と快楽の無限に繰り返される螺旋。監視する権力の強化は監視をくぐり抜ける快楽の強化をもたらし、それがさらに監視の再強化を促す。権力と快楽とは限りない相互的補強を繰り返しながら高められていった。
  4. 性的飽和の装置。新たに出現した性的欲望の多様な形態が配置される場として、家庭・学校・精神病院といった装置が成立する。家庭はもちろん正当な夫婦関係が配置される場であるが、同時に近親相姦や手淫といった多様な性的欲望を煽動する場でもある。

 権力と性倒錯とのこうした相互関係とは煽動と補強にほかならず、禁忌や抑圧でないことは明らかだ。「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している」(61ページ)のだ。権力の拡大と性的欲望の増殖は直接に結びついており、多様な性的現実は権力の具体的かつ的確な手続きに相関的に対応している。それゆえ、性に対して禁圧を課するという法的なモデルによる権力の理解と、それに基礎を置く「抑圧の仮説」は、放棄する必要がある。「法とは非常に異なる装置が、連鎖的なメカニズムの網の目によって、特殊な快楽の増殖と変種的な性的欲望の多様化を保証している」(63ページ)ことを認めなければならないのである。

第三章 性の科学

第三章ポイント
  • 性の問題を真偽の水準で扱おうとする「性の科学」をもっていることが西洋近代社会の特質である。
  • 性の科学は告白の強奪を通じて性に関する真理の産出を強制する。
  • 告白を性の科学へ統合するためにセクシュアリテなる形象が出現した。
  • セクシュアリテの出現条件と機能を研究することが本書の目的である。

 「性の言説の増大」と「性倒錯の定着」というこれら二つの現象は結局のところ何を示しているのだろうか。西洋近代が17世紀以来経験してきたのが性の抑圧でないとすればそれは何であったのか。重要なことは、「性が真理の賭金として成立させられるに至った」(74ページ)ことである。言い換えると、性が、その実践に対して課せられる法と禁止の問題としてよりも、真理とかかわるもの・真理を産出するものとして、また私たち自身についての真偽を司る問題として扱われるようになったことなのである。性を真偽の問題として扱う手続きを「性の科学(スキエンチア・セクスアリス)」と呼んで、性を実践と禁止の問題として扱う手続き=「性愛の術(アルス・エロチカ)」と対比することができるだろう。近代西洋文化の特殊性は、高度に発展した性の科学をもつところにあると言うことができる。

告白の重要性
 性の科学の手続きの中で、言説の増大と倒錯の成立とは告白を媒介として結びつく。告白は性の科学の中心部品であり、「そこから真理の産出が期待されている主要な儀式の一つ」(76ページ)だからである。人々は自分の性について告白しなければならない(と考えるに至った)。告白が要求される領域は告解の場だけでなく、裁判・医学・教育・家族関係・愛の関係へと拡大していく。同じ時期に文学の主題も英雄の試練から内面の告白へと変貌を遂げた(注1)。これらの諸領域において真理を産出するための重要な儀式と位置づけられたために、告白は告白者自身によって内的に強制される(=強い義務感を伴って遂行される)か、さもなくば外部から強いて奪い取られる。そしてそこにまつわる心理的障害が告白されたことの真理性に重みを与え(注2)、ふたたび告白の奪取を正当化する。

(注1)象徴的な転換点としてルソーの登場が想起される。

(注2)「語るのが難しかったけれどあえて語ったのだ。そして、そこまでして語ったのだからそれは真理に違いない……」。

 真理を表現しようとする試みの中に権力(=強制)が浸透しているというのはそのような事態のことである。近代西洋社会における権力の働きは、(抑圧の仮説の言うように)告白による性の真理の伝達を権力が抑制しているところにあるのではない。そうではなく、性の真理を伝達するのに告白をもってせよ、しかもあらゆる心理的障害を克服してでも告白せよ、という要請が私たちに強いられているところに権力の働きが存するのだ。そして「性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、(……)人々に性的な異形性の(……)真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭で、この装置〔告白によって真理を産出する装置、すなわち性の科学=引用者注〕のなかに有機的に連結されている」(80ページ)のであり、そのような意味において「真理の産出にはことごとく、権力の関係が貫いている」(78ページ)のである。性の真理を伝達するのに実践をもってする「性愛の術」を持つ文化というものもまた存在することを想起することで、性の科学のこの特殊性を相対化してみることができるだろう(下表参照)

  性愛の術 性の科学
真理の伝達 実践による 告白による
伝達の発端 師の至上の意志によって 内的または外的な強制によって
秘密にされる理由 伝達内容の価値・共有者の限定 薄暗く曖昧な親しさ
真理性の保証 師の権威と伝統 本質的帰属関係
関係の支配権 伝達する側(師) 伝達を受ける側(聴取者)
効果の発生地 伝達を受ける者(弟子) 伝達する者(告白者)

性的欲望(セクシュアリテ)の出現
 真理を産出する手続きとしての重要性を獲得することで、告白の使用は歴史的に拡大する傾向を示してきた。第一に、告白を引き出す社会的手続きの分散として(訊問・診察・自伝的記録・手紙)。第二に、その強制の働く地点の多様化として(子どもと親・生徒と教育者・患者と精神科医・犯人と鑑識人)。第三に、告白すべき領域の拡大として(思考・偏執・欲望)。これら増大する告白から引き出した真理を体系化された性の科学へと組織していくために、いまや新たな課題が生じる。告白を科学的言説に連結し、その中に定着させていく仕方を確立することがそれだ。宗教に起源をもつ「告白という古い要請を臨床的な聴取の方法へと接続」(89ページ)する適合のメカニズムが要請されたのであり、それは次のような方法によって企てられたのであった。

  1. 「語らせること」の臨床医学的コード化。つまり告白を表徴(シーニュ)と結びつけ、それを引き出すためのあらゆる手段を動員すること。
  2. 拡散した因果関係の措定。性は無尽蔵かつ多形的な〈原因となる力〉を担っているがゆえに、あらゆる因果関係の背後にそれを探し求めなければならない。
  3. 性現象の潜在性。性は告白者自身からも姿を隠す。従って告白主体が意識していないことをも探求の対象としなければならない。このことはまた告白の強奪が正当化される理由ともなる。
  4. 解釈という方法。真理は聴取者による告白の解釈をまってはじめて明らかになる。告白から真理を引き出すには聴取者が不可欠である。
  5. 告白の効果を医学的レベルに組み込む。告白は患者の診断上必要であり、告白が患者にもたらす効果は治療のうえでも効果的である。

 性の科学において告白を科学的言説に接合するためにとられたこれらの適合のメカニズムは、人々を駆動する内在的原因でありかつ告白によって明るみに出されるべき対象としての性的欲望(sexualité)の存在を想定する。これこそが、本書の中心的主題となる「性的欲望(セクシュアリテ)」なる概念の起源にほかならない。つまりあらかじめ実在する性的欲望をめぐって言説が展開されたのではなく、性についての言説の展開こそが性的欲望の概念を出現させたのだ。性的欲望の根本的性格は、性の科学という一つの特殊な言説の実践における言説の「生産・配分の構造」によって決定されている。それゆえ、性的欲望の歴史が書かれるとすれば、それは「まず、言説の歴史という観点から書かれなければならない」(90ページ)のである(注)

(注)「セクシュアリテ(sexualité)」は本書の最重要概念のひとつである。上掲訳書では「性的欲望」と訳されているが、以下本稿では原則として「セクシュアリテ」と表記する。

 ところでこのような性の言説化の展開が「主体の学」の成立を促したのだと想像できる。私たちが性を言説化し、性についての隠された真理を明るみに出すときに、性もまた私たちについての隠された真理を明るみに出すだろう。そのような期待のもとに主体についての知の企てが展開する。「主体の学の企てが、性の問題の周囲を回転し始めたのだ。主体における因果律、主体の無意識、それを知っている他者における主体の真理、彼自身が知らないことについての彼のなかにおける知、これらすべてが、性についての言説のなかに自らを繰り展げる手段を見出だしたのである」(92ページ)

 告白から真理を産出しようとする企てには権力の働きが貫通しており、告白を科学的言説に接合する過程で性の科学はセクシュアリテの概念を生みだした。しかしなぜ、権力はそうまでして性について知ることを命じ、また言説は性について知ろうとするのだろうか。おそらく性の科学には性を言説化することの快楽、つまり「快楽についての真実の言説というものに固有の快楽」(93ページ)というものが伴っているはずだ。ここにおいて、セクシュアリテをめぐって、知・権力・快楽が結びついていることが見出される。性の科学とは、知と権力と快楽からなる複雑な網の目を作動させる装置である。それは「告白の執拗な産出、そこから正当な知の一つの体系と、多岐多様な快楽の生産・配分構造を創設する過程」(94ページ)であり、「野性の無秩序な性(……)を、事物と身体の表面へと分散させ、それを刺戟し、それを顕現し、それに語らせ、それを現実の世界に樹立し、それに真理を語れと命ずるプロセス」(95ページ)にほかならない。

問題の再設定
 こうして私たちは、性について、抑圧の仮説とは非常に異なる見取図を手にするに至った。「人間の性現象についての言説を我々において支えている〈権力=知=快楽〉という体制を、その機能と存在理由において決定すること」(前掲19-20ページ)という本書の問題は、以上の考察を踏まえれば、それゆえ次のように表現しなおすことができるだろう。すなわち「知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズム(……)がどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が如何に分配されるのかを探究」(96ページ)すること。それはまた「知への意志に本来的に内在する権力の戦略というものを定義すること」(同)でもある。

第四章 性的欲望の装置

第四章ポイント
  • 権力を「法律的-言説的」表象によってではなく、力関係の網の目として把握しなければならない。
  • このことからセクシュアリテの装置を研究するための四つの規則が導出できる。
  • セクシュアリテの装置はヒステリー症の女・早熟な子ども・夫婦・性倒錯者という四つの作用点を通って侵入してくる。
  • セクシュアリテの装置は婚姻の装置と緊張関係を保ちつつ共存している。
  • セクシュアリテの装置の発展に関する新しい時代区分により、抑圧の仮説や精神分析が登場した文脈が理解可能となる。

 人間に内在するセクシュアリテを措定することによって近代西洋文明は性の科学を成立させ、性についての言説の増大を促していった。私たちが性を知ろうとし私たちについて性に語らせようとする、このような循環的関係を成立させる仕組みを、セクシュアリテの装置と呼ぼう。性(自然としての性ではなく意味としての性)はそこでは知の請願の中心に存在することになる。しかし、いったい何が私たちをこれほどまでの知の請願に駆りたてるのか。「我々がこれほど頑固に執着するというのは、そもそも性に対して、その可能な快楽を越えて、何を求めているのだろうか。性を秘密として、万能の原因として、隠された意味として、息つく暇もない恐怖として成立させるためのこの忍耐力、この貪婪さは何なのか」(105ページ)。本書の問題とは別言すれば、このセクシュアリテの装置についての分析と研究であると要約できる(注)

(注)この章の冒頭で、フーコーは本書の課題をディドロの『口軽な宝石』(邦訳『お喋りな宝石』)になぞらえて説明している。

(1)目的

 しかしこの研究の目的について次のような疑問が生ずるかもしれない。なるほど権力が性を抑圧しているわけでないことはわかった。だがそれが、権力が法を通じて欲望と欲望を成立させる欠如とを二つながら構成しているがゆえに人は権力から逃れることができないという事態のことを言っているのだとすれば、抑圧を否定してみたところでそれはそんなに新しい重要な発見だろうか、と。だがそのように解するのは権力の「法律的-言説的」表象を前提としているがゆえの誤解である。本書が分析しようとする権力はそのような捉え方をされているもののことではないのだ。

 「法律的-言説的」な権力表象とは「権力が性に対して否定的関係を保ち、統一的な装置により、言説を用いて、禁忌や検閲などの規律を課し服従を要求するものだ」という想定のことと特徴づけられる。権力についてのこのような捉え方が通用してきた理由は、第一に権力にとって、その重要な部分を偽装することが権力を人々に受け入れさせるための条件だったからであり、第二に人々にとって、権力を自由に対する単なる制限とみなしておくことが権力を受け入れられるための条件だったからである。さらに歴史的背景として「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた」(114ページ)ことも影響していた。

 しかし本書が着目するのは、このような法律的権利の表象には還元され得ない、様々な新しい権力メカニズムなのである。つまり「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」(116ページ)というものがあるはずだ。本書は「もはや法律的権利をモデルとも基準(コード)とも見なさないような権力の分析学」(117ページ)の企てであり、権力の作用形式と同時に、権力そのものの捉え方をも問い返そうとしているのである。ここでは、権力が性を抑圧していないという命題(「歴史の別の読解格子」)と、抑圧だけが権力の作用ではないという命題(「権力の別の捉え方」)とが循環的に参照し合っているという意味で「問題は二重」(118ページ)であることに留意しておく必要がある。

(2)方法

 本書でいう権力とは無数の力関係と、それらの力関係の相互的補強またはそれらの力関係の矛盾抵触の総体である。それは、教師と生徒、精神科医と患者といったように、人々の間にそのつど形づくられる局地的で不安定な力関係として遍在しているもののことだ。対象に向かってある反応の仕方を強制するための方策としてこの権力が参照するのは「戦略のモデルであって、法的権利というモデルではない」(132ページ)。つまり「権力とは、(……)特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称」(120-121ページ)なのである。国家機関・明文化された法・社会的支配権などこれまで権力に固有の本質と考えられていたものは、単にこのような権力の制度的結晶であり、要するに権力の現れ方の特殊な一形態にすぎない。私たちは法律的-言説的な権力表象を思考から注意深く除去するとともに、無数の力関係としてのこの権力の特質をよく理解しておく必要がある。

 まず(1)権力は人が保有したり手放したりできるようなものではない。それは他の形の関係に内在しているものである。権力を保持しているか否かによって「権力を行使する者」と「権力の作用を被る者」とが固定的に分別されるとか、権力を保有する権力者が他の人々に対して法的な権利行使をするところに権力のはたらきがあるとか考えてはならない。錯綜するそれぞれの力関係の中で当事者が特定の反応のしかたを(自覚すると否とにかかわらず)強いられるような仕組みが存在するとき、その戦略的状況のことを権力というのである。また、(2)権力はいわば「下から来る」。つまり個別の多様な力関係のほうが社会体を貫く大きな断層を支えているのであって、その逆ではない。さらに、(3)権力の関係は主体の決定に由来しない。それは「戦略的状況に与えられる名称」だからである。最後に、(4)権力には抵抗が内在している。抵抗は権力の外部からこれに対抗するのではなく、力関係(戦略的状況)としての権力という捉え方それ自体にすでに含意されているということだ。むろんこの意味での抵抗は局地的で不安定な無数の抵抗点として存在することになる。国家というものが権力関係の制度的統合のことだとすれば、抵抗点の戦略的コード化が革命だと言うことができる。

 このような権力表象を前提として、「権力による言説の煽動」の分析という本書の問題の意味を再確認することができるだろう。権力による言説の煽動というこの問いが意味するのは、「国家がいかにして知をつくりだしてきたのか」とか「言説の産出がいかなる総体的支配に奉仕してきたのか」ということではない。それは、性についての言説が産出されるそれぞれの場においてそれぞれどのような局地的権力が作用していたのか、またそれぞれの言説はそれぞれいかなる局地的権力を支えているのか、ということを明らかにすることなのである。

 以上の考察から、セクシュアリテの言説化を煽動する権力のはたらきを分析しようとするこの研究のために、四つの規則を導くことができる。

  1. 内在性の規則。セクシュアリテの認識と言説化は権力の関係を出発点とし、その逆も同じである。権力のはたらきがセクシュアリテの存在を要請することでこの言説化が始まったのだが、またセクシュアリテが言説化されない限りそれを対象とする権力が成立することもなかった。それゆえ、聴聞僧と告解者、教師と子どもといった〈知である権力〉の局地的中枢というべき関係に着目することが重要となる。
  2. 不断の変化という規則。力関係、したがってまたそこにはたらく権力が対象とするセクシュアリテは、つねに変化のプロセス上にある。知と権力の関係は静的ではないのであり、〈知である権力〉の局地的中枢はまた将来へ向けた変形の母型とも見なしうる。
  3. 二重の条件づけという規則。権力の個別的戦術と全体的戦略は相互に相手の条件をなしている。つまり性に関する統一的政策と個別の権力関係は、それぞれ互いのなかに支えを見出している。
  4. 言説の戦術的多義性という規則。言説はさまざまな仕方で知と権力を結びつけることができる。それは権力の強化としても抵抗の拠点としても作用しうる。ここから、ある言説に関して、「その言説がどのような仕方で知と権力を結びつけているか」、および「どのような力関係がその言説を必要としているのか」、という二つの論点が生じる。

(3)領域

 セクシュアリテの装置のメカニズムと機能を研究するために、知と権力の局地的中枢に着目することから出発できることを上において確認した。さて歴史的に見て近代西洋には、性についての知への請願が同時に権力の中枢をなすような、知と権力とのそうした関係が観察されうる領域が四つあった。その四つの領域のそれぞれにおいて、セクシュアリテを出現させ知と権力の装置を発展させる四つの戦略的集合が存在し、かつ各々の戦略的集合に対応して四つの性現象が知の対象=権力の対象とされてきたことが見出される(下表参照)

言説を煽動する戦略 〈知-権力〉の対象
女の身体のヒステリー化 ヒステリー症の女
子どもの性の教育化 手淫にふける子ども
生殖行為の社会的管理化 人口調整をする夫婦
倒錯的快楽の精神医学への組み込み 性倒錯の大人

 これらの性現象を言説化し知の対象とするために、医者と患者・教師と子ども・聴取者と告白者との間にはたらく権力(という戦略的状況)が採用した方法は、セクシュアリテそのものの産出にほかならなかった(抑圧・統御ではなく)ことをあらためて確認しておきたい。これらの対象を作用点としてセクシュアリテを産出するしくみのことをセクシュアリテの装置と呼んだのであった。

 ところで、この四つの対象はセクシュアリテの装置の独占的な適用領域というわけではない。どの社会においても、またセクシュアリテの出現する以前にも、性的関係そのものは存在したわけであり、そこに作用していたのは婚姻の装置つまり「親族関係の固定と展開の、名と財産の継承のシステム」(136ページ)であった。婚姻の装置は、規則のシステムのまわりに構築されることを特徴とする点で、権力の流動的技術に従って機能するセクシュアリテの装置とは対極の性格をもっている。それらはいずれも性的関係を適用領域としながら、その作用のしかたにおいては正反対であるのだ(下表参照)

  婚姻の装置 セクシュアリテの装置
主要目的 関係の再生産と法の維持 管理の恒常的拡大
機能的一貫性の所在 当事者を繋ぐ絆 快楽の刻印
経済との接点 富の継承 快楽を生産し消費する身体

 たとえば、もともと婚姻の装置の働く場であった家族という関係に、セクシュアリテの装置はどのような仕方で関与してきたのか。近代以後、婚姻の装置の重要性が著しく減少しているとはいえ、おそらくセクシュアリテの装置が婚姻の装置にとって代わったわけではない。セクシュアリテの装置はそもそも婚姻の装置の周辺に、それに依存する形で設定されることで家族の関係に作用していったのだが、次第に拡大し、いまや逆に婚姻の装置を覆うまでに至ったのである。家族という場には婚姻の装置とならんでセクシュアリテの装置が重複作用しているのであり、その意味で「家族は性的欲望と婚姻=結合の交換器」(139ページ)である。この認識は、次の二つの事実を説明する手がかりとなる。第一に、家族関係が置かれたこの条件ゆえに、性的欲望はまず近親相姦的なものとして生まれたということ。第二に、19世紀にみられた近親相姦のタブーへの強力な関心は、(よく言われるように)ある社会の文化状態への移行を標示する指標なのではないということ。むしろそれは、セクシュアリテの限りない拡大への危惧に基づいてそれを再び法律的権利の問題へと再編成しようとする試みであり、セクシュアリテの装置が極端に拡大した社会に特有の現象であるのだ。

 家族における婚姻の装置とセクシュアリテの装置の重複的適用は、しかしいうまでもなく、二つの装置の抵触と緊張をもたらさないわけにはいかない。性的逸脱者たちは「性的欲望の混乱を婚姻の次元へともち込む」(142ページ)からだ。セクシュアリテによって混乱させられた婚姻という事態を前にして、調整のためのなんらかの対処がとられなければならなかった。このためにたとえばシャルコ(19世紀の神経病理学者)は、セクシュアリテを婚姻から分別して精神医学の対象とすることで患者(性倒錯者)を「治療」し、再び婚姻のシステムに統合しようと試みたわけである。だが彼の弟子であったフロイトはより本質的な態度をとる。つまりセクシュアリテそのものを家族から切り離して徹底的に分析し、却ってそこから家族関係を問い返そうとしたのである。この意味で精神分析はセクシュアリテを分析しようとする試みとしてはるかに根源的な立場であり、セクシュアリテの分析を通じて婚姻の装置そのものを駆逐するかのように思われた。しかし精神分析は皮肉にも、この徹底的な分析の果てにセクシュアリテの根底にふたたび親子の関係を再発見することによって、むしろ婚姻の装置とセクシュアリテの装置とを共存させる役割を果たした。セクシュアリテを婚姻のシステムから切り離したのち「各人の性的欲望の底に、人は親と子という関係を再び見出すことになるという保証が、(……)性的欲望の装置を婚姻のシステムの上に重ねて留める企てを保持させた」(144ページ)のである。

 こうしてセクシュアリテの装置についての研究の対象とする領域が具体的に明らかとなった。それはヒステリー症の女・早熟な子ども・夫婦の生殖・性倒錯の大人が、家族という場を通じて性的欲望へ組み込まれていくその仕組みの展開のプロセスのことであり、性の歴史の各論は、この主題をめぐって展開されることになるだろう。ところでセクシュアリテへの組み込みが歴史的にどのように進行していったのかという問いは、いままた次のような課題を提起することになる。それは性的欲望の抑圧を労働力の搾取と相関させて時代区分しようという、抑圧の仮説と親和的であった考え方を放棄し、セクシュアリテへの組み込みの展開という観点から、性の歴史の時代区分を新たに再設定することである。

(4)時代区分

 抑圧の仮説によればセクシュアリテの歴史には大きな歴史的転換点が二つあるとされる。性に関する禁止事項が確立した17世紀と、その禁止が弛緩した20世紀である。しかし抑圧の仮説を離れてみると、このような時代区分もまた適切ではないことが明らかになる。問題を(1)性についての技術の発展のプロセスと、(2)その技術の普及・適用のプロセスとの二局面に分けて考えてみよう。

 第一に、性を管理しようとする技術は中世キリスト教の告解として古くから存在したが、16世紀以降、情欲の分析という方法が確立することによって社会に定着していった。この傾向は18世紀を通じて教育・医学・経済を仲介として世俗化しつつ、19世紀初頭に性倒錯の医学と優生学のプログラムが結びつくことで一つの頂点に達したのである。それゆえ性の技術の発展という局面においては、「十六世紀中葉に、良心の指導と検証の手続きが発達したこと、十九世紀初頭に、性についての医学的テクノロジーが出現したこと」(152ページ)の二つが重要な断絶をなしていると見なければならない。

 しかし第二に、これらの技術の確立と人々に対するその適用とは同時的ではない。技術の発展のプロセスとその技術の普及・適用のプロセスとは並行しないので、技術の確立に関するそれとは別に、その普及と適用に関する時代区分が必要となる。この観点からすると、セクシュアリテを問題視する態度はまず貴族・ブルジョワジーの家庭において見出されたことが指摘できる。その他の庶民階級にとっては、セクシュアリテへの注目と性の管理は18世紀末に出生率の問題として浮上し、1830年ころの貧民階級の教化を経て、性的倒錯の法的・医学的管理の拡大の時期(19世紀末)にようやく彼らがその中に組み込まれるという手順を踏んで浸透してくる性質のものだったのである。

 セクシュアリテの歴史は単純な禁止と緩和のサイクルとして捉えることはできないし、その浸透のプロセスもすべての階級において一様なわけではなかったことがわかった。このことの重要な帰結は、このような新しい時代区分を導入することでセクシュアリテの装置が確立するプロセスの「意味ならびにその存在理由が問題として浮かびあがってくる」(155-156ページ)ことである。

 セクシュアリテの装置が確立し浸透していった上記のプロセスを参照すると、抑圧の仮説と明らかに合致しない二つの事実を指摘できる。ひとつは、セクシュアリテの装置はブルジョワジーによりブルジョワジー自身に対してまず適用されたのであって、他者の快楽を制限・抑制するために導入されたのではなかったということ。もうひとつは、この装置の導入による性への限りない注目が目標としたのは性的禁欲主義ではなく、身体の濃密化・健康とその機能条件の問題化にほかならなかったということ。すなわちそれは「他の階級を隷属化する企てであるよりは、一つの階級自体の自己確認」(156ページ)だったのであり、「魂の最も秘密で最も決定的な要素を構成するのは性に他ならないと考えることで、性に己が魂を従属させ」(157ページ)ようとする意図をもっていたのである。

 ブルジョワジーがこのような仕方でセクシュアリテの装置を自らに適用しようとしていった理由は次のように考えられる。それはまず社会階級としての自らの区分を保持すること、かつて貴族が「血の正統性」によってそれをなしたと同じように、丈夫な身体と健康な性的欲望とを標識としてブルジョワという階級を他の階級から区別するという目的のためである。しかし単に区別するだけでなく、さらにそれは力と精力と健康と生とをブルジョワジーにおいて無際限に拡張させるためでもあった。要するにブルジョワに固有の階級意識こそがセクシュアリテの装置を導入する動機になったのであり、だからこそプロレタリアートが身体と性的欲望を備えたものとなるためには、様々な葛藤・経済的な要請・管理テクノロジーの設置という前提などを必要としたのである。プロレタリアートにとってはセクシュアリテはもともと自分たちに関係のないことがらだったのだ。

 しかし遅かれ早かれセクシュアリテの装置はその全般的拡大を見たわけであり、19世紀の末には庶民階級もまたセクシュアリテへと組み込まれていったことはすでに確認した。このことが、厳しい禁忌の導入によるブルジョワジーの性の再分離という帰結をもたらす。セクシュアリテへの注目がもはやブルジョワジーの特権ではなくなったのならば、ブルジョワジーは何によって他の階級から自分を区別すればよいのか? いまやそれは禁忌によってである。「ブルジョワジーは、十九世紀末には、自己の性的欲望の特殊性を他の階級の性的欲望との対比において再定義しようとし、自己の性的欲望なるものを差異として再び取り上げ、自己の身体を特殊なものに仕立てて保護するような分割線を引こうとする。この分割線は、もはや、性的欲望を成立させた線ではなく、反対にそれを阻止する線だ」(162ページ)。このような文脈において、ようやく性の禁圧が登場する。性の抑圧の仮説が参照していたのは、実はセクシュアリテの歴史の中のこの特殊な一局面のことだったのである。

 そしてちょうど同じ時期に、この厳しくなりすぎた禁忌を解除する技術、すなわち精神分析が成立する。それは抑圧された性を解放する手だてというよりは、厳しい禁忌の存在と、その抑圧の解除手段の専有可能性とを提供することによって、ブルジョワ階級の差異化に貢献する道具であった。「自己の性的欲望を心配するという独占的な特権を失った者たちは、爾後は、それを禁じるものを他の人々より強く感じ、かつその抑圧を取り除くことを可能にする方法も所有するという特権を持つに至ったのである」(165ページ)

 この段階に至ってはじめて、性的欲望の全体を抑圧という言葉で解釈し直すことの可能性がひらける。性の抑圧と支配・搾取の全般的メカニズムとを結びつける(ヴィルヘルム・ライヒ(注)のような)考え方はここから現れたわけであるが、それはあくまでもセクシュアリテの装置の展開の一側面をなしていたにすぎないがゆえに、この装置それ自体を読解することも解体することもできなかったのである。

(注)ウィルヘルム・ライヒの思想は『性の革命』(邦訳は角川文庫、1974年)に詳しい。ほかに『きけ 小人物よ!』、『キリストの殺害』など。

第五章 死に対する権利と生に対する権力

第五章ポイント
  • 近代以降の権力は「生命を管理・運営する権力」として機能した。
  • 生命を管理運営する権力は資本主義の発展・法の常態化・人種差別・精神分析の登場などの前提をなす。
  • セクシュアリテの核としての性などというものは実在しない。

 最後に、セクシュアリテの装置において結びついている知・権力・快楽が、法や政治や経済の水準でどのような機能を果たしてきたのかを概観しよう。ローマの家父長の権から絶対君主の権力に至るまで、権力は「死を命じうること」をその特徴としてきた。それは戦争や死刑執行によって血を流させる権力であり、血の象徴的機能を通じて語る権力であった。しかし19世紀以降の権力はむしろ生に対する権力であり、生命を経営・管理することを通じて作用するような権力である。それはセクシュアリテを対象とし、それを煽動しかつ統御しようする権力なのだ。私たちの社会において血の象徴論から性的欲望の分析学への移行が生じたのである。この移行が、すでに見た「法律的-言説的権力表象から力関係の網の目としての権力表象への転換」や「婚姻の装置からセクシュアリテの装置への転換」に対応していることは明らかだろう。

 権力が生命の管理運営を目標とするようになったことが、いくつかのことがらの説明を可能にする。まず、権力による死刑の執行が近代以降ますます困難になっているのは、人道的配慮のためというよりは生命を管理することにこそ権力の作用が存するからである。また19世紀末において自殺の研究が社会学的分析の最初のテーマとなった理由は、あくまで死に固執しようとするこの行動が、生命を管理する権力にとって一つの驚きだったからにほかならない。

 さて、生命を管理する権力(〈生-権力〉と呼ぶ)は具体的には身体の規律人口の調整という二つの形態をとって発展する。セクシュアリテの装置がこの二つの形態を統合するのだが、その統合のあり方は、権力が作用する四つの領域のそれぞれにおいて異なる。権力は、女のヒステリー化と子どもの性の教育化の領域においては、人口調整の必要性を根拠として身体を規律する効果を引き出し、生殖行為の管理と倒錯の医学への組み込みにおいては、逆に身体の規律を根拠として人口調整の効果を得ようとしたのである。

 このような〈生-権力〉の出現は、とりもなおさず資本主義が成立するための前提であった。というのも「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」(178ページ)だったからである。またこれと同時に、法が常態=基準として機能し、法律制度が調整機能をもつ機関の連続体に組み込まれていくプロセスが進行する。法による強制よりも、正常さへ向けた調整こそが権力のはたらきを構成するのである。権力の言語としての法の役割は退行し、繰り返し制定・改正される憲法と法律はむしろ権力の正常化機能を受け入れさせるための形式としての性格を帯びるようになっていく。

 セクシュアリテの装置が婚姻の装置を覆い尽くす過程において両者の緊張関係がみられたように、ここでも、「血と法への関心」が「性的欲望の管理・経営」へと移行する途上で双方の相互干渉の現象が生じた。ひとつは「血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員され」(188ページ)た結果としての人種差別、もうひとつは「性的欲望のテーマ系を、法と象徴的秩序と主権のシステムにもう一度書き込もうとする努力」(189ページ)としての精神分析である。

 こうして私たちは本書を通じて、多様な現象のなかにセクシュアリテの装置を媒介として〈知-権力-快楽〉が作用しているのを、つまり私たちの社会の至るところにセクシュアリテ(性的欲望)のはたらきが浸透しているのを見てきた。しかしこのことによって私たちは、「性的欲望が己れの作用をその周囲に分配する中心」(192ページ)としての(sexe)から離れすぎてはしまわなかっただろうか。あらゆる現象の中にセクシュアリテの装置のはたらきを見ようとすることは、セクシュアリテを性(性器)と切り離し、かえって分析を拡散させることにはならなかっただろうか。

 しかし、実は性とは「性的欲望の装置の内部で歴史的に形成された複雑な観念」(192ページ)にすぎない。セクシュアリテの中心に核としての性が実在しているわけではなく、「性的欲望の装置が、その様々な戦略において、このような「前提となる性」という考え方を設置」(194ページ)しただけなのだ。セクシュアリテがその中心として性の観念を想定することは、いくつかの点で有効であった。ひとつには解剖学的要素・生物学的機能・行動・感覚・快楽を人工的な統一原理に従って再編成するよすがとして。またセクシュアリテに関する知と生殖に関する生物科学とを隣接させるために。また「権力によって抑圧される性」の表象を可能にする前提として。さらに私たち自身にとっては、性が私たちの自己同一性の理解可能性を提供するがゆえに(第三章参照)。この理解可能性のゆえに私たちは「性は死を代償としても手に入れるに値する」(197ページ)ものと考えるに至ったのであった。いずれにせよ「性的欲望は極めて現実的な歴史的形象なのであって、それが、自己の機能に必要な思弁的要素として、性という概念を生み出したのである」(198ページ)

 おそらく現代ほどセクシュアリテが注目を集め、言説化され、また言説化することを強いられた社会はなかったであろう。セクシュアリテの装置が浸透したこの社会において人々は皮肉にも、セクシュアリテの限りない言説化こそが性を解放すると信じ込んでいるようだ。しかし身体と快楽についてまったく別の産出・配分構造を採用する社会は、私たちのことを驚きをもって見つめるに違いない。


文献

準拠 『性の歴史Ⅰ 知への意志』 (渡辺守章訳、新潮社、1986-09-10) ISBN4-10-506704-4
『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 (田村俶訳、新潮社、1986-10-30) ISBN4-10-506705-2
『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』 (田村俶訳、新潮社、1987-04-25) ISBN4-10-506706-0

改訂履歴

最新版 2015-10-25 4th Edition対応。字句・構成を改訂。
2002-12-26 3rd Editionにて初掲。

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