デカルト|方法序説

方法序説

ルネ・デカルト
近代科学の方法論を基礎づけ、多大な影響力を残した古典。

René Descartes "Discours de la Méthode", 1637
『方法序説』 (谷川多佳子訳、岩波文庫、1997-07-16)

目次
第一部 〔探求に至る経緯〕
第二部 〔理性を用いるための規則〕
第三部 〔探求している間の当座の格率〕
第四部 〔魂と神の存在証明〕
第五部 〔自然学概論〕
第六部 〔本書の刊行にいたる事情〕

第一部 〔探求に至る経緯〕

 理性はすべての人に備わっており、その用い方さえ正しければ、真理に到達することができる。しかし既存の学問(スコラ哲学)は「真らしく見えるにすぎないもの」を扱うだけであり、前例と習慣に拘束された思考にすぎず、わたしを満足させることはなかった。そこでわたしは、「世界という大きな書物」の探求にのりだした。

第二部 〔理性を用いるための規則〕

 真理について哲学者たちの見解は対立し、同一の事項に関し地域によっても意見が異なる。これはこれらの見解が習慣や実例による偏見に基づいている、不確実な知識だからである。「賛成の数が多いといっても何ひとつ価値ある証拠にはならない」(26ページ)。そこで既存の諸見解を一旦は放棄し、理性の導きに従って探求をすすめる必要がある。ただし、この懐疑は自分の思想の範囲内において行い、国家・社会の改革の問題には立ち入らないものとする。

 理性を正しく用いるための規則として、わたしは次の四つを確立した。

  1. 明証性の規則(「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」)。
  2. 分析の規則(「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」)。
  3. 総合の規則(「わたしの思考を順序にしたがって導くこと」)。
  4. 枚挙の規則(「すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること」)。

 この規則を数学に適用しようとする試みは、数的な順序と量を線として想定すること、およびこれらを記号で示すことを通じて、成功した。そこで次に、哲学に適用する番である。

第三部 〔探求している間の当座の格率〕

 しかしその前に、「理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、……当座に備えて、一つの道徳を定めた」(34ページ)。わたしは、第一に「わたしの国の法律と慣習に従う」(34ページ)。第二に「どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、……一貫して従う」(36ページ)。第三に「わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させる」(38ページ)。これらは真理の探求を継続するための一時的な方針であり、行為についての懐疑論を回避するための方策である。

第四部 〔魂と神の存在証明〕

 理性を正しく用いて世界を探求するにあたって、まず、少しでも疑わしい考えはすべて廃棄し、あたかもそれらが偽であるかのように取り扱わなければならない。感覚・幾何学・目覚めているときの思考といったものもその例外ではない。しかしながら、「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」(46ページ)。従って「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(46ページ)わたしの本性は考えることであり、その際、考えているわたしとは身体・物体に依存しない魂(精神)である。

 ところで、わたしが考える魂として存在することが真であるならば、ある命題についてわたしが明晰かつ判明に捉えるとき、その命題は真であると言える。わたしは感覚的対象たる物体について真なる考えをもつこともあり、偽なる考えをもつこともあるが、前者は私の精神に由来し、後者は無に由来する。ところが、わたしはまた完全性について考えるとき、わたしの持っている完全性についての考えをもつこともあり、わたしの持っていない完全性(全知・不死など)についての考えをもつこともある。このうち後者はわたしが持っていないのであるからわたしに由来していないし、ましてや無にも由来しない。それゆえ、わたしの考えるこれらの完全性の観念は、実際にこうした完全性をすべて所有している何ものかによって与えられ、わたしの精神において不完全に分有されているということになる。この完全性を有する存在が、である。以上のことをわたしは明晰かつ判明に理解する、ゆえに神は存在する(命題A)

 神が存在することによって、わたしの精神が明晰かつ判明に捉えたことが真であるというさきの条件が保証される(命題B)(注1)

(注1)命題Aと命題Bは相互に依存関係にあって循環論法に陥っている。これがいわゆるデカルトの循環である。

第五部 〔自然学概論〕

 世界の生成について、わたしたちの住む世界とそっくりな想像の空間を舞台として仮説を展開する(注2)。次に人体について、特に心臓の働きと血液の循環に関する説明。人間を精密な機械から区別するものは、言語と理性の使用である。

(注2)これは、スコラ哲学者との対立と宗教的な迫害を懸念してのものであろう。

第六部 〔本書の刊行にいたる事情〕

 わたしはかつて、自分の研究を公表することでその成果を他人に伝達し、共有できる利益があると思っていた。しかしその後、わたしはこの考えを翻すに至った。というのもわたしの経験は、他人の反論はわたしの利益にならないこと、わたしの研究もまた、他人に曲解されてその利益にならないことを示したからだ。わたしは反論に応えることによって平穏を乱されたくはない。

 それにもかかわらず、このたび本書(方法序説)を刊行するに至ったのは、もっぱら以下の理由による。第一に、自分の研究を隠している、という悪評を防ぐため。第二に、平穏な研究の時間を与えてくれるよう他人に知らしめるため。


文献

準拠 『方法序説』 (谷川多佳子訳、岩波文庫、1997-07-16) ISBN4-00-336131-8

改訂履歴

最新版 2016-05-02 4th Edition対応。字句・構成を改訂。
2000-11-04 3rd Editionにて初掲。

このページは最新版です。

要約ノート社会思想デカルト ≫ 方法序説