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ルーゴン・マッカール双書 第8巻 章立て 登場人物
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抜粋集 - 第8巻『愛の一ページ』

エレーヌの情熱

貞淑な寡婦から情熱的な女へと変貌するエレーヌの軌跡が、本作の主旋律をなす。

ああ! なんという欺瞞だろう、さまざまの敬虔な実を結ばぬ楽しみの中に閉じこめるこの厳しさ、この細心さは! いいえ、いいえ、もうたくさん、私は生きたい! (……)彼女の反抗心はこの止み難い欲望に達した。ああ! 強い抱擁の中に沈んで、これまでになかった一瞬に生きるのだ!
(第2部第5章、142-143ページ)

アンリに告白された直後のエレーヌの生命力のほとばしり。

が、激しい情熱が身内に湧きおこった。彼女を無気力にしていたあの半睡状態が激しい生命の波に融けて、その奔流が彼女を燃えたたせた。これまで覚えたことのない肉感に身をふるわせた。(……)ああ、あのひとを愛しているのだ、あの人が欲しい、この次もあのように自分を忘れて夢中になれたら。
(第5部第1章、325ページ)

アンリとの最初の逢い引きの後で。しかし、娘のジャンヌがこのとき死に至る病にかかっていることに、エレーヌはまだ気づいていなかった……。

ジャンヌの嫉妬

年不相応に成熟した面と、年不相応に未熟な面を併せ持つ少女ジャンヌ。そのアンバランスさの原因は、彼女がアデライードから受け継いだ神経症にあった。

しかし少女は、しだいにぐあいが悪くなったようであった。ちらりと二人に眼を向けて、それからもうなにも喰べずにうつむいた。その額には怒りと不信の蔭が浮んでいた。
(第3部第2章、186ページ)

アンリに命を救われた後のジャンヌ。ほっと安堵する母とアンリとの不自然な仲のよさのうちに、自分が仲間はずれにされようとしていることを感じたのであろうか。

いまでは、おおげさな愛情で彼〔=ランボー。引用者注〕に甘えかかる、とくに医師がいるときにはそうだった。そして母のほうにきらめく視線を流し、自分がほかの人にこのような愛情をしめすのに母が悩んでいるかどうかをうかがう。
(第3部第3章、194ページ)

「きらめく視線」ってのはちょっとコワいね。まだ12歳なのに……。

いつもかわいがるものがつぎつぎと変っていった。それらは破損したり、無くなってしまったりした。結局、悪いのはそれらだった。いったいどうしてなんだろう? 私は変らないのに、私は。私がいったん好きになったら、一生のあいだつづくのに。ジャーヌには打ち棄てるということが理解できなかった。胸底にしだいに目覚めてきた、混乱したさまざまな思いに身を慄わした。では、みんないつかは離ればなれになり、思い思いのほうへ行ってしまって、もう会わなくなり、そしてまた愛しあうのだわ。そして巨大な憂愁にとざされたパリの街に眼を止めて、彼女の十二歳の情熱が見抜いた生存の残酷さを思い知って寒む寒むとしていた。
(第4部第5章、299ページ)

その一方で、ジャンヌには母から離れて一人で歩いていくことのできない未熟なところもある。

ふいに、母は自分よりなおも愛している人たちのところへ、私をあんなにひどく突きとばして駈けつけたのだ、と考えついて思わず両の手で胸を抱いた。もうよくわかったわ。ママは私を裏切ったのだ。
(第4部第5章、305ページ)

ジャンヌの「見捨てられ」感、その1。

子供は瞼をとじて、眠っているようにみえた。しかし、母親が安心して背を向けると、大きな眼を開いた。その黒い眼は母が居間にもどるまでじっと見送っていた。ジャーヌはまだ眠っていなかった。眠らされたくなかった。新たな咳の発作に咽喉をひきさかれそうだったので、布団にもぐって、咳をおし殺した。もう死んでもいいのだわ。ママは気がつきゃしないわ。彼女は闇の中に眼を見開いていた、あたかもよく考えぬいたかのようにすべてを知り、そしてそのために、嘆きもなく死にそうになっていた。
(第5部第1章、326ページ)

ジャンヌの「見捨てられ」感、その2。

 アンリはかがみこんで、ジャーヌを診ようとした。少女は瞼をあげずに、熱にうかされ、ぐったりしていた。開かれたシュミーズから、ようやく女らしい形のきざしてきた子供の胸を見せていた。そして、すでに死に触れられているこの思春期の少女ほど純潔で悲痛なものはなかった。彼女は老医師の手にはすこしも抗わなかったが、アンリの指がちょっと触れるやいなや、ぶるっと身をふるわした。衰弱しきっている彼女に、激しい羞恥が目ざめた。ふいを襲われ、はずかしめを受けた若い女のような身振をし、胸の上に痩せて細い腕を組んで、震え声でつぶやいた、
「ママ……ママ……」
 そして眼をあけた。そこにいる男の姿を見たときは恐怖だった。彼女は裸なのを知ると、はげしく布団をひっぱって恥ずかしさに泣きだした。彼女は苦しんだため、とつぜん十歳ほども年齢(とし)とったようにみえた。そして死に近づいたため、十二歳の彼女の年齢は、その男が自分に触れてはならないことをさとるのに充分なほど成熟していた。
(第5部第3章、346ページ)

死に瀕するジャンヌ。

生命の希求

本作の基本テーマは「愛」であり、物語はけっきょく悲劇に終わるわけであるが、そこにも、ゾラの生命への信仰が顔を出していることを確認できる。

 だがエレーヌは空中にいる。木々は突風にあったかのように曲り、鳴っている。嵐の音とともに鳴るスカートの渦しかもう見えなかった。腕をひろげ、胸をつきだして下へおりると、頭をすこしあげ、一瞬滑走する。ついで、飛躍が彼女を運び去る。そして頭を後ろにそらし、眼をとじて、絶えいるようにまた下りてくる。この眩暈をあたえる昇降が、彼女の喜びだった。高く上がっては太陽へ、黄金の塵のように降る二月の金色の太陽へ入る。琥珀色に反射する栗色の髪は火がついたように輝く。まるで全身が燃えるようであり、いっぽう赤紫色の絹のリボンは火花のように、白っぽい服の上に輝いている。彼女のまわりに春が訪れ、紫の芽は青空に繊細な漆器の調子をつけている。
(第1部第5章、61ページ)

のちの生命力の解放を予感させるような、ぶらんこの楽しみ。

 積み重った建物の際限のない谷。目立たぬ線の斜面の上に、屋根の堆積が浮き出ていて、遠く大地の襞のむこう、もう視線もとどかぬ野面のうちに、家々の波濤が寄せているのが感じられる。それは際限もなく、つぎつぎに新しい波のよせる大海である。パリは空のように大きくひろがっている。この輝かしい朝の下に、太陽に黄色く染められた街は、よく熟れた麦畑のようである。そしてその広大な画面には、ただ二つの調子、大気の薄い青さと屋根の黄金色の反射だけの、単純さがある。
(第1部第5章、70ページ)

朝の光に輝く、大海のようなパリ。

眠っているジャーヌは咳いった、しかしもう眼は開かず、頭は組んだ腕にころがり、目をさますことなく笛のように咳いった。もうなにもなく、彼女は悲しみのうちに眠り、手を引っこめもせずに、その赤くなった指は、窓の下に大きく穿たれた空間に一滴一滴落ちる雫が流れるにまかせている。それはまた何時間もつづいた。灰色の雨はあいかわらず、執拗に降りそそいでいた。
(第4部第5章結語、309ページ)

こういう悲惨さの描写にかけては、『居酒屋』の作者の手腕がしっかり発揮されている。

ランボー氏は時計を見た。駅へ行く途中で、まだ釣竿を買うことができよう。日傘も買うことにしよう。そこで彼は墓地を横切って、足を踏みかためながら彼女をつれていった。草地には人気はなく、もう雪の上には二人の足跡しかなかった。死んだジャーヌはただ一人、永遠にパリの真向いにいる。
(結語、第5部第5章、384ページ)

釣竿や日傘のあるありふれた日常へ戻ってゆくエレーヌと、永遠にパリを見下ろす死せるジャンヌとの対比。

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