備忘録2026年|太田浩一訳『ボヴァリー夫人』を読む(1)

太田浩一訳『ボヴァリー夫人』を読む(1)

 太田浩一先生の訳になるフローベール『ボヴァリー夫人』が、2025年にとうとう刊行された。先生が幾年も前からこの訳業を期していたことを存じ上げる身としては感無量である。この作品は、私も二十代の頃に生島遼一訳で読んだはずなのだが、読書量を稼ぐことにばかり性急だった若輩者の情けなさで、今となってはろくに印象も残っていないばかりか、あらすじさえも忘却の彼方となっている。

 そこで、この機会にあらためて全編を読みなおしてみようとするわけだが、こんどは時間をかけて、気になったところはじっくりと立ち止まって考えながら読み進めたい。折しも、この「備忘録」機能(一種のブログ)をサイトに導入したところなので、いろいろと書き留めながら考察を蓄積するように努めよう。いつもながら読者への配慮の行き届いた達意の訳文からは、多くの発見があるだろうと期待しているが、分厚い訳書を前にして読み進むのが勿体ないような気分にもなっている。

(※2026年1月3日現在、第一部まで読了)

 なお、底本として用いるのは上記の文献であり、以後の記事で引照する際には、書名を逐一記載しないこととする。

「わたしたち」とは誰か

 腰を据えて読み始めたところ、いきなり冒頭の一文で面白い問題にひっかかる羽目になった。訳文でいえば本当に最初の一語、「わたしたち」という一人称の語り手の正体についてである。

 わたしたちが自習室にいると、校長が入ってきた。そのうしろには私服を着た新入生(傍点)と、大きな机をかかえた用務員の姿もある。
(第一部-1、p.10)

 物語の開幕、のちにエマの夫となるシャルル・ボヴァリーの登場場面である。このときはまだ高等中学校の生徒であり、本作ではまず、その人柄が少年時代にさかのぼって語られていこうとするわけである。

 ここでシャルルを観察する主体として導入される「わたしたち」という視点の存在は、初めは特に不自然に思えるわけではない。自習室にいるからには「わたしたち」も同じ学校の生徒なのだろうし、シャルルを迎えることになる同級生の誰かのことだろうと、読者はごく自然に想定できるからである。現に、「わたしたちの誰よりも背が高そう」(p.11)とか「教室に入るとき、わたしたちは」(p.11)といった記述もその後に現れるので、語り手である「わたしたち」がシャルルの同級生であると思うことに、当初はなんの疑問も抱かせない。

 ところが読み進めていっても、その「わたしたち」の実体がなかなか明らかにならないのである。固有名が出ないのはもちろん、描き出されるシャルルの学校生活に「わたしたち」が同級生として具体的に関わるわけでも、なんらかの会話が交わされるわけでもない。むしろ「わたしたち」はただ観察者として、シャルルの姿を描き出すことに徹している。そして第一部-1も後半にはいったころ、違和感がおもむろに顕在化してくる。両親の意向で高等中学校を退学して医学の勉強を始めたシャルルが、しだいに怠けるようになっていくという変化を語る場面である。

 しだいに投げやりな気持になって、かつてみずから固めた決意を、ついにはことごとく反故(ほご)にしてしまった。
(第一部-1、p.23)

 同級生の「わたしたち」になり代わってシャルルの人となりを観察してきた読者は、遅くともこの段階までに違和感を覚え始めるのではないだろうか。語り手である「わたしたち(=同級生)」に同化していたつもりだったのだが、いくらなんでも、シャルルが退学して医学の勉強を始めた後にまで、高等中学校の同級生がその暮らしぶりを見ているわけがない。まして「しだいに投げやりな気持に」なったなどという内面の動きまで、一介の同級生が知るはずもあるまい。

 いつの間にか、シャルルを見る視点は作中の同級生のそれではなく、客観的な作者の視点からのものに変化しているようなのである。文中の「シャルル」は同級生からの呼称ではなく、いつしか客観的な人物名として使われるようになっているのだ。

 そのことに気づいて本文を遡ってみると、「わたしたち」という一人称は、その少し前に登場したのを最後として姿を消していることがわかる。

 いまとなっては、わたしたちの誰ひとりとして彼のことを憶えている者はいないだろう。
(第一部-1、p.21)

 よく考えてみると不思議な文である。「いまとなっては」という表現で過ぎ去った過去を示唆しつつ、誰も彼のことを憶えていないと述懐する語り口は、たしかにシャルルと同時代を生きる作中人物の視点である。しかしそもそも、「わたしたちの誰ひとりとして(……)憶えている者はいない」と言いつつシャルルについて語っている「わたし」とは何者なのか。「わたしたち」なる語り手の正体は、ここでいっそう不明瞭になっているというほかない。しかも、この謎めいた箇所を最後にして「わたしたち」の存在はすっかり姿を消し、以後は物語の進行に応じて、シャルルやエマなど主要人物のそれぞれに視点を移していく自然な小説の形式が採用されているのである。

 物語の冒頭でことわりもなく突然現れ、その実体について奇妙な謎を残したまま消えていく「わたしたち」の存在は、作品中の時空に読者を一気に引っぱり込もうとする作者の仕掛けだったのだろうか。なるほど、「わたしたちが自習室にいると」という冒頭の一句によって、読者は、自分自身もいきなり自習室に放り込まれたかのような臨場感を覚える。ひょっとすると「わたしたち」とは、まさしく読者である私たち自身のことで、フローベールは、これから語ろうとするボヴァリー「夫妻」の物語を、私たち読者に(傍観者ではなく)同席者として経験するよう促しているのかもしれないと、そんな気もしてくる。

2026-01-03

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