血の島の地下迷宮攻略データベース|プレイ回想

プレイ回想

 2024年の秋、「ファイティング・ファンタジー」の新作として本国イギリスで刊行された本作『血の島の地下迷宮』(The Dungeon on Blood Island)を、プレイする機会を得た。新作のゲームブックを遊ぶのは三十数年ぶりの経験であったが、思いもかけず夢中になってしまった。今回は、作品の紹介を兼ねて、攻略しながらいろいろと考えたことを書く。

小説としての『血の島の地下迷宮』

 本作の雰囲気を特徴づけるのは、ほぼ全編にわたる不安で重苦しい雰囲気だ。これは地下迷宮を舞台とすることからすれば当然であり、『死のワナの地下迷宮』や『迷宮探検競技』にも共通する傾向である。競技予選が描かれる序盤では地上の屋外が舞台で、ユーモラスな展開もなくはないものの、迷宮に入る権利を得るために出場者どうしが競い合って死者さえ出る展開には開放感があるとは言い難い。そしてひとたび迷宮に入った後は、風景の基調をなすのは地下の通路と狭い部屋の連続であり、主人公は閉塞感の漂う地下で不安に満ちた危険な単独行を強いられる。戦闘の機会は多くなく、迷宮内が基本的に不気味な静寂に満たされていることも、この緊張感に度を加えている。否応なしにイベントに巻き込まれるわけではなく、自分から扉を開けて室内に踏み込まない限り、そこにあるはずの宝物(または罠)を知ることはできない。だから、どんな危険があるかわからなくても、あえてその不安の中に踏み込まなけれならない。その強いられたリスクとでもいうべきものが、とりわけ冒険前半の重苦しさを募らせている。

 迷宮を後半まで進むことができれば他の出場者との邂逅の機会が増え、迷宮競技の収束へと向けたドラマが動き始める。暗殺者、騎士、修道士――それぞれの事情と目的をもって競技に参加した競争相手たちは、あるときは味方、あるときは敵となって主人公と関わり、しかし苛酷な罠によって一人ずつ脱落していく。生き残りを賭けた戦いに勝ち抜いて最後の一人となったとき、主人公の手元には、今回の迷宮探検競技をめぐる誰も知らなかった重要な秘密が遺される。もはや、黄金宝珠を手に入れることだけが目的ではない。生きて迷宮を脱出し、カーナス卿に伝えるべき知らせがあるのだ。冒険は終盤に至って緊迫の度を増す。迷宮の最深部に立ちふさがる最後の関門、竜使いと三匹の魔神に、主人公は再び単身で立ち向かわなければならない。しかし今度は、志半ばで斃れた他の出場者たちから引き継いだ道具と情報が主人公の助けとなる。あたかも、出場者全員が力を合わせることで、はじめて迷宮が攻略可能になるのだとでも言うかのように。

ゲームとしての『血の島の地下迷宮』

 ゲームとしてみると、戦闘の機会が比較的少ないことが本作の特徴である。攻略のうえで回避不能な戦闘だけに絞ればおそらく十回程度に限られる(しかし個々の相手は強力である)。それに代わって迷宮探索行の中心的課題となるのは、多くのアイテムの収集である。本作に登場するアイテムの長大なリストは、作中では何の役にも立たない物品を、役に立つ物品に匹敵するほどの数で含んでいる。犠牲を払って手に入れたのにまったく使いみちのない物がある一方、重要な宝物が労なくして手に入ることもある。そして両者の区別は往々にして難しい。攻略のために真に必要なアイテムはどれなのか、プレイヤーは繰り返し冒険に挑むなかで、かなり緻密な情報管理を求められるだろう。決め手となるのは終盤の竜使いの試験だ。そこまでたどり着くことができれば、何を集めなければいけなかったかが明らかとなり、分かれ道で採るべきだったルートはおのずと一本に定まる。

 入手できても使う機会のないダミーの道具や、張られたまま回収されずに終わる伏線が存在しうることは、ゲームに複線性と不確実性を与えるための作為的な仕掛けであって、本作がゲームブックである以上、もとより非とすることではない。しかしさらに進んで、それがかえって物語としての含意をも深めている例を、物語序盤の印象的なエピソードの一つを引いて語っておきたい。

「吊り籠の虜」試論

 迷宮に入った直後、拙い人語を話すホブゴブリンが吊り籠に囚われているのを助けたときに、主人公は真鍮の鐘を譲り受けることになる。それは迷宮内のどこかにいて、善人の振りをして相手を欺く手品師ジャクを撃退するための道具だというのである。人助けがあり、お礼として受け取った品物と知識があって、いずれはそれを駆使して危険を打破し、目的への道を切り開く。そのような因果の歯車が一つ、ここで起動したようにプレイヤーは感じるし、だからこそ前途の冒険に向けて奮起する。しかしながら、その手品師ジャクと出会う機会があるのはかなり先である。多くのプレイヤーは、初めはそこにたどり着く前に斃れて冒険を終え、ジャクを退けるのに役立つはずだったアイテムは無為に帰する可能性が高い。予期していた因果の連鎖を中途で断ち切られ、備えてあった手段を適時に使用するという愉悦の瞬間を失ったことで、プレイヤーには欲求不満が残り、再プレイへと向かう動機が生まれる。ここには、ゲームだからやり直しがきくという点を別にすれば、プレイヤーである私たちのありふれた考え方やふるまい方の再現がある。何かを予想して事前に備えておいたとき、私たちは、希望か不安かはともかくなんらかの気がかりとともに、その予期が一定の帰結をみる(つまりフラグが回収される)ことを待ち受けずにはいられない。予想しただけで、まだ帰結をみていないことがある。それならば、どうなるかを知るまでは収まりがつかない。そのことが私たちに、道を先へ進む動機づけを与える。

 もしも首尾よく迷宮の深部まで進むことができたなら、主人公は手品師ジャクにまみえる機会があるだろう。そしてホブゴブリンの助言のとおり真鍮の鐘を振るって、潜んでいた危難を未然に防ぐことに成功する。少なくとも一つの伏線はこうして回収され、私たちは、ホブゴブリンを助けたという行動がこのようにして報われたと信じるかもしれない。しかし、その時点ではプレイヤーがまだ知らないことが一つある。それは、そもそも手品師ジャクと出会うルートは誤りのルートであり、ジャクに会っている時点で最終目的の失敗はすでに確定している、という事実なのである。ジャクに会う必要は初めからなかった。だから、もともと真鍮の鐘は不要だった。ゲーム攻略という観点からすればそれが「正解」ということになる。

 これをゲーム作者によって仕掛けられた意地悪な仕掛けの一つだと済ませてしまうのは簡単だ。しかし、善行がかならず利益によって報われるという無邪気な想定が幼稚であるのと同様に、その裏をかかれたことを「してやられた」的な枠組みでのみ捉えて、抜け目のない立ち回りに励もうとすることもまた、同じように皮相的な反応ではないだろうか。ここで次のように問いを立ててみよう。手品師ジャクに会うこと自体が「間違ったルート」で、真鍮の鐘は不要だったのだとすれば、そもそもホブゴブリンを助けることに意味はなかった、ということになるのだろうか?

 べつに、ゲームプレイの場に倫理的な議論をもちこもうとしているのではない。ここで言っておきたいことは一つである。報われたと思ったときに実は報われていなかったということがありうるのと同様に、報われなかったと思ったときに実は報われていることもありうるのだと、そしてそれは往々にして私たちが気づいていないだけに過ぎないのだということを、思い出してみてもいいのではないかということである。助けられた直後のホブゴブリンが「階段を昇ったほうがいいよ」とさりげなく言ったとき、どれだけのプレイヤーが、それに見合う注意をその発言に払っただろうか。「手品師ジャクに対抗するための真鍮の鐘」という明確で具体的な物品に比べれば、それを些細な情報として、多くのプレイヤーは聞き流しがちだったのではないだろうか。しかし、ゲームクリアまでたどり着いたプレイヤーならば、あのとき「吊り籠の間から階上へ上がれ」というのがどれほど重要な助言であったかを、理解できるはずである。そう、人語もおぼつかない哀れな生き物に対して私たちがほどこしたささやかな親切は、ほんとうは、とっくに報われていたのだ。

 私たちが周囲の環境と交渉するときのあり方を、これはそのまま反映していると思う。役に立たない無数のアイテム、無用に帰した事前の備え。作者が迷宮内に散りばめ、ことごとにプレイヤーの意表をついてくると見える罠や仕掛けの数々は、たしかにゲームを盛り立てるために仕込まれた巧妙な人為だ。しかしそれを、作者が恣意的なトリックで読者を翻弄しているというふうに捉える必要はない。それらは、世界というものがもつ豊饒な複雑性そのものである。いっけん取るに足らないと見えるものを疎かにしない。あるものが有益か否かを軽率に決めつけない。そんな当たり前の心掛けを、『血の島の地下迷宮』もまた読者に促してくる。ホブゴブリンを吊り籠から解放したときに、プレイヤーである私たち自身もまた、ありふれた思い込みから自分を解放しておくべきだったことを、このことは教えている。それは物語というものが読者にもたらす豊かな実りの一つだ。ゲームブックという特有の形式を透かしてみれば、本書もまた、あまたの物語がもつそうした恵みを、たしかに分けもっているのである。

迷宮の彼方へ

 ストーリーに分岐をつくることで読者を不完全情報のもとに置く。満たすべき条件を錯綜させ、サイコロという運の要素を導入することで企ての不確実性を演出し、それによって読者の挑戦意欲を喚起する。そこにゲームブックという形式の特質があるとするならば、本作は、ゲームブックとして高度な完成度を備えた充実作と評価できる。隅々まで調べてみると、本作の冒険の正解ルートはほぼ一本に確定する。だから、本作はいちど正解ルートを見つけたら再プレイする気が起こらないという指摘に、私はいちおう同意する。しかし、そのことをもって本作の欠点とする評価には、私は同意しない。むしろ、そのたった一つのルートを見つけ出し、陰鬱な迷宮探検競技の結末を見届けるまではプレイをあきらめる気にさせないところに、本書のもつ本来の力があると言うべきだ。

 率直にいうと私は、ストーンブリッジの村を再建したいと言っていたサンプが好きだった。迷宮探検競技の本選に彼も残ったことで、その末路はなかば予感していたにしても。だから、志半ばにして地下迷宮で斃れたサンプが死の間際に遺してくれたアイテム、それが確かに役に立ったのだとはっきり言えるまで、冒険を諦めることはできなかった。サンプがいてくれなければ黄金宝珠を手に入れることはできなかったと、そう断言できるところまでたどり着きたくて、何度も辞書を引きながら、英文を読むことに時間を忘れた。たしかにそれは、大勢でワイワイやるという意味での「ゲームを楽しんだ」経験ではなかった。しかし、極度の集中と充実した疲労感とを後に残したその読書体験を、「楽しんだ」と呼んでいけないことがどうしてあろうか。

 1987年、スティーブ・ジャクソン、イアン・リビングストン両氏が日本版「ウォーロック」誌の招きで来日した。東京に住む中学生だった私(当時13歳)もサイン会の会場に足を運んだ。日本人の少年がおそるおそる差し出した『モンスター事典』にサインをしてくれたリビングストン氏は温厚で優しそうな雰囲気で、隣のジャクソン氏の才気溢れる印象とは好対照だった。あるいはその印象は、それぞれの作品の傾向からの類推だったのかもしれない。でも、お二人が親友だということは納得できる気がした。あれから約四十年、ゲームブックは卒業したつもりでいたし、ゲームブック自体のブームも日本では去ったかに思われた。本国で新作刊行というニュースをたまたま知って原書を取り寄せてみたのも、懐かしさと好奇心からにすぎない。まさか、本が届いたその日から、往時と変わらぬ情熱でプレイに没頭することになるとは思ってもみなかった。

 金貨二万五千枚の価値だという黄金宝珠は、競技に優勝した主人公の手に委ねておこう。暗鬱な迷宮の最深部から再び陽光のもとへ戻ってこれた「項目400」の達成感と解放感。プレイヤーとしての私が受け取る報酬はそれだけで構わない。本当に楽しかった。

 リビングストンさん、どうもありがとう。

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(2024-11-12)

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