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【1】 『贋金つくり』はジッドの作品として、『狭き門』や『背徳者』に比べると日本ではやや知名度が低いようだが、実はジッド文学の集大成とも呼ばれる、重要な作品である。ジッドは彼独自の作品分類法に従い、自分の小説をレシ(récit)、ソチ(sotie)、ロマン(roman)の三種に分類した(注)が、『贋金つくり』はジッドが自らロマンと称した最初にして最後の作品となった。本作においてジッドは、小説に固有でない一切の要素を排した「純粋小説」を書こうとしたとされ、作家の分身とも見られる作中人物エドゥワールの内面を分析した日記と、多数の人物が繰り広げる網の目のように複雑な事件の描写とを通じて、人生を総体的に描き出そうとしたのである。
(注) レシ(物語)…話者の回想や手記によって進行する、伝統的な小説の形式。『背徳者』、『狭き門』、『イザベル』、『田園交響楽』、『女の学校』、『ロベール』、『ジュヌヴィエーヴ(未完の告白)』がこれに属する。 ソチ(茶番劇)…風刺性・戯画性を前面に押し出した、虚構性の強い作品。『パリュード』、『鎖を離れたプロメテ』、『法王庁の抜け穴』がこれに属する。
あらすじ
【2】 凡庸な予審判事の息子ベルナールは、自分が母の不倫の子であることを偶然知ったことから家出し、たまたま知り合った作家エドゥワールの秘書として働くことになる。エドゥワールはかつて想いを寄せ合っていたローラを窮地から救い出すためにロンドンからパリへ戻ってきたところであった。ローラは結婚後まもなく、療養のために滞在していた南仏で愛人をつくり妊娠してしまっていたのである。ローラの愛人は、エドゥワールの甥にあたるヴァンサンであった。
ヴァンサンの弟でベルナールの親友であるオリヴィエは、エドゥワールに対して個人的な崇拝の感情を抱いていたが、それを表現できないでいた。新しい文学雑誌の創刊をもくろんでいる人気作家パッサヴァン伯爵から編集長を依頼されたオリヴィエは、ベルナールとエドゥワールの新しい関係に嫉妬を感じつつ、この申し出を受ける。いっぽう、エドゥワールは友人の孫にあたるボリス少年をスイスから連れだし、ローラの両親が経営するヴデル・アザイス塾へ入れる。
パッサヴァンに影響されたオリヴィエは文学上の意見でベルナールと一致せず、疎外感を受ける。新雑誌創刊に先だつ文壇のパーティの席で乱闘騒ぎを演じたオリヴィエは自殺未遂を起こしてエドゥワールに保護され、パッサヴァンとの訣別を決意する。
ヴデル・アザイス塾には、オリヴィエの弟ジョルジュ、パッサヴァンの弟ゴントランなど、同世代の少年たちが集まっていた。そのうちのひとりゲリダニゾルは、パッサヴァンの友人であるストルーヴィルーによる贋金流通組織の尖兵として、有力な親をもつ少年たちを組織していた。彼らはボリスをいじめ、仲間に入るために勇気を見せることを要求して、実弾の入ったピストルを空だと偽って自殺させる。
複雑な筋
【3】 本作を読む上での第一の困難が、そのあらすじの煩雑さにあることはまずふれておいていいだろう。本作は、伝統的な小説のように特定の主人公を中心として時間の順に事件が展開するという構成をとらない。ふつうの意味で主人公と呼べるような人物は本作には存在せず、事件に関わる様々な人々の視点が、並列的に呈示され紡がれて、全体としてひとつの現実を作りあげていくという風変わりな仕組みを本作は持っている。作中の時間が一部前後するのもさることながら、同一の状況を多数の登場人物がそれぞれの視点から理解し、それぞれの思惑をもって行動する様子が、多面的に、かつ断片的に積み重ねられていくところに本作の際立った特徴があるのである。
この錯綜した物語展開はまさに本作の特質をなすものであり、ジッドの周到に意図したところであると言えようが、読者の側からいえば、この複雑な人間関係を理解しつつ作品を読みすすめることがまず必要になる。この作品の登場人物の相互関係の複雑さはもはや平均的な読者の記憶力でフォローできる範囲を超えており、メモをとるなり、図をつくるなり、なんらかの措置をとって読まなければ理解することもおぼつかないだろう。じっさい、私は以前に本作を第二部まで読んで、あまりの複雑さに記憶が追いつかずいったん放棄した経験がある。
技術的なアドバイスとしては、本作の人物関係とエピソードを大きく三つの系統に分けて憶えておくのが効率的ではないかと思われる。
- エドゥワール、ローラ、ベルナールをめぐる諸関係とエピソード。
- パッサヴァン、ヴァンサン、オリヴィエをめぐる諸関係とエピソード。
- ヴデル・アザイス家の家族構成と人間関係。
この三グループに分けたのは、作中、人物たちがこの組み合わせで登場することが比較的多いからである。しかし作中のエピソードや事件に注目するならば、エドゥワールとパッサヴァン、ローラとヴァンサン、ベルナールとオリヴィエといった組み合わせのほうがむしろ意味をもつのであり、この分け方もいずれ十分とは言えない。本作の人間関係は、それだけ入り組んでいるのである。
不明瞭な主題
【4】 事件が多くの人物の視点から様々なふうに語られるこの作品は、そこに含まれる内容に関しても、非常に捉え難く、掴みどころのない小説である。たしかに作中において、人間関係の複雑な網の目のなかでいくつかの象徴的な事件が起こり、その中で人々は各々の思想を表明したり、解決のために働いたりする。だが、小説を最後まで読み終えても、それらはついに何かの主題へと回収されることはない。いくつかの劇的な出来事は起こるものの、そこに明確な意味が与えられることは決してなく、事件はふたたびバラバラの事実となって日常性のなかへこぼれ落ちてゆく。本作においてジッドは、人々が生きて動いている現実を対象として扱いながら、その現実の複雑な様相を、その複雑さのままに、かつできる限り同時的なものとして、小説のなかに呈示してみせようと試みているかのようである。イベントフルではあるが、個々のイベントは重要な意味をもたない――私が本作から感じ取ったのはそういう世界観である。
それゆえ、そこにあるのは作品を貫く明確な統一主題というようなものではなく、せいぜい、さまざまな事件・事実のなかに繰り返し現れる、反復的要素というべきものである。本作の表題ともなっている「贋金」もまた、そうした反復的要素として理解すべきものだろう。
本作において、贋金は具体的には、ストルーヴィルーが少年たちを使って流通させる偽貨幣として登場する。この贋金のひとつはサアス=フェーで使われ、食料品屋からベルナールの手を経てローラの手に渡る。それはガラスに金をかぶせたもので、見た目は10フラン金貨だが、実際には2スーそこそこの値打ちしかない。作者の分身的な位置づけにあり作中で『贋金つくり』なる小説を構想しているエドゥワールが、サアス=フェーでの会話で語っているように(第二部三)、この「贋金」の存在は、現実と観念との不一致・闘争・緊張関係を象徴していると見てよいだろう。現実には2スーの価値しか持たない贋金が、観念上は10フランの金貨として通用する。エドゥワールはそこに、「現実が提供する事実」と、「作家がその事実を処理して作りあげようとする観念」との競合・闘争の関係を重ね合わせようとするのである。現実と観念との間に闘争・緊張関係を見出し、「現実の世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合」(上271ページ)こそが自分の作品の根本主題だと記すエドゥワールのこの考え方が、そのまま『贋金つくり』におけるジッドの文学上の試みを説明していると見なすのは、とりあえず納得のいく理解である。
作中人物の意見を通じた文学論
【5】 作中、パッサヴァン伯爵がオリヴィエに対して、象徴派の難点を指摘する場面がある。
「ねえ、君、象徴派の大きな弱点は、一つの美学しかもたらさなかったことだ。大きな流派は、いずれも、新しい文体とともに、新しい倫理や、新しい明細書や、新しい一覧表や、新しい物の見方や、新しい恋愛の考え方や、新しい処生法をもたらした。ところが、象徴派ときたら、至極簡単だ。人生に対決することもなければ、理解しようともしなかった。人生を否定して、それに背を向けていたのだ。ばかげているじゃないか、そう思わない? 彼らは、食欲もなければ、美食さえきらった。われわれとは違うな……え?」 (第一部十五、上187ページ)
これは、マラルメのもとで象徴主義の影響を受けながら、のちに象徴主義を離れていったジッド自身の立場の表明と見てもいいだろう。本作が、小説の筋書きとしては終始人々の人生を扱っていることからもそれは明らかである。
だが、人生(現実)を扱うとしても、それはどのようにしてであるのか。他方でジッドは、エドゥワールの口を借りて自然主義に対する批判を展開するのである。
「(……)自然主義者は、《人生の断片》ということを言った。この派の大きな欠点は、その断片を、常に同じ方向、つまり時間の方向に、縦に切っていることです。なぜ、横に、奥行に切らないのか? 僕は、全然切りたくないのです。解りますか、僕はその小説の中に、何もかも入れようと思うんです。」 (第二部三、上246-247ページ)
自然主義、あるいは広くレアリスム全般とは、今の文脈で言えば、「現実と観念を一致させようとする立場」あるいは「一致させうると信じる立場」のことであるだろう。レアリスムは、現実を、人生を描き出すと称する。しかしそこに描き出された現実とは、一人の主人公を中心に、時間の流れに沿って、いわば小説として「調理された現実」なのである。それを「現実」と称して安穏としていていいのであろうか。ジッドはここで、そういう問題を提起しているように思える。
【6】 現実が提供する事実を扱い、起こることのすべてを材料として小説を構成しようとするなら、特定の視点から人生を切ることはできない。設定された特定の主人公の立場から現実を切り取るのをやめて、そのとき同時に起こっていることを「何もかも入れよう」としなければならない。だが、私たちが神の視点を持たない以上、まして小説という、前から順に読まれる形式の中に人生を構成しようと試みる以上、現実から私たちが作りあげる表象=観念によってしか、それはなされ得ないだろう。それゆえ、現実が提供する事実と、私たちが現実にあてはめようとする観念の枠との間には、常に闘争関係が存在するほかはない。現実に対する私たちの表象は、現実が呈する複雑さとの絶え間ない緊張・闘争関係にあって、決して現実と一致することのないものなのである。だから、現実と観念とのこの終わりなき闘争を永遠の闘争として引き受け続けることの中にしか、小説を書くという営みは成立しえないのではないか。それが、エドゥワールの議論を介して表明されたジッドの立場ではないだろうか。
つまり、以上の文脈に沿って図式化すればこういうことだ。
- 現実から逃避して観念に閉じこもるのが象徴主義。
- 現実に向き合い、観念を現実に一致させようとするのが自然主義。
- 現実に向き合い、それと競合するものとして観念を対置するのがジッド。
イベントフルな本作において、個々のイベントが明確な意味を担っていないという私の印象が正しいとすれば、それは、ジッドがもはや現実と観念との素朴な一致を信じることができず、両者の相克について自覚的にならざるを得なかったからではないだろうか。現実と観念の対立に自覚的な者は、「観念=意味づけ」は現実の従属変数ではなく、現実を調理しようとする「闘争の企て」にほかならないこと、従って特定の解答などないことにも、意識的であったはずだからである。
贋金つくり
【7】 私たちは、そうと注意して読めば、本作のいたるところにこの「観念と現実の闘争」の図式が通底しているのに気がつくだろう。要するにそれは、「見かけと実質」、「体裁と実態」、「世評と実力」、という対立の図式なのである。自分の文学的価値を誇張するパッサヴァン伯爵、冷酷な愛人を演ずるヴァンサン、自分の不倫を隠すモリニエ、それに気づいていることを隠すポーリーヌ、叔父への愛情を表現できないオリヴィエ、偽悪的なアルマン、虚勢を張るジョルジュ。実相と異なる観念を通用させようとするこれらの人々は、その意味でみな「贋金つくり」なのである。自分の過失を夫に告白するローラと、父でない人の家を飛び出してきたベルナール、自立心を失わないサラといった人々が、かろうじて例外であるかに見えるが、ローラもベルナールも結局は自分の家へ戻る。このことはどう解釈すべきだろうか? 興味深い論点は尽きることがない。
さまざまな要素が錯綜し複雑に結びつきながら、雑然とした一つの現実を構成していく本作は、読者に対して各人なりの読み方を許すという豊かな可能性を含んだ、ジッドの代表作と呼ぶにふさわしい作品であると言えそうである。
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