ナチス支配下の精神病医たちの苦悩を描く。
『夜と霧の隅で』(新潮文庫、1963年)
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【1】 ナチス統治下、不治の精神病者に対する安楽死政策がすすむなかで、患者を殺させまいとして絶望的な抵抗を試みる医師たちの物語である。 「安楽死」の対象となる患者を選出するために病院を訪れたナチス将校に対して、穏健な医長フォン・ハラスが言った言葉が、強烈に私の印象に残っている。将校とハラスが連れ立って病院の中を歩いているときに、自分のことを総統(ヒトラー)だと思いこんでいる精神病者が、独房の中から総統の真似をしてわめきたてる場面である。「なんです、あれは?」と尋ねる将校に対して、ハラスは答えるのだ。 「総統です」と、ハラスが答えた。「本院には六名ほどの総統がおられます」(172ページ) 【2】 ハラスは、「総統だと思いこんでいる患者が六名ほどいる」と言ったのではなく、「六名の総統がおられる」と言ったのである。そこに、ハラスがこの発言に含ませようとした非常に重要な意味が示されている。自分を総統だと思っている患者たちは、たしかに心を病んでいるのかもしれない。しかし、それならば、安死の名目のもとに事実上の殺人を強行しようとしている総統は、そしてこの国は、病んでいないとでもいうのか。疑問を感じながらも結局は政府の命令に逆らうことのできない自分たち医師は、病んでいないと言えるのか。精神病者を合法的に殺すという総統の決定を正常と呼べるくらいなら、これらの患者たちだって十分に正常ではないか。患者を処分室へ送り込むことを止められない自分たちが正常であるなら、患者たちのいったどこが、異常だといえるだろう。総統と医師たちと、そして患者たちとの、一体どこに、えらぶところがあるのか。本当は、みんなたいして変わらないのではないか……。 |
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